第12話 観測者の末路(前段)
湾岸エリアの夜は、無機質な静寂に包まれていた。
三谷恒一は走っていた。息は上がり、高級なスーツは汗と泥で汚れている。
彼が逃げ込んだのは、再開発地区の複雑な路地裏だった。ここはまだ古い監視カメラが多く、最新の顔認証システム(スマート・アイ)の網の目も粗い。三谷の知識にある「デッドスペース(死角)」だ。
(逃げ切れる。俺はこの街のバックドアを知り尽くしている)
三谷は震える手で、緊急用のプリペイド携帯を取り出した。ミスター・ルールとの回線は切られたが、彼にはまだ海外へ逃亡するための「闇のルート」がある。
裏社会のブローカーに連絡を取り、偽造パスポートと現金を確保すれば――。
発信ボタンを押す。
だがコール音は鳴らなかった。
『お客様の端末は、現在利用停止措置が取られています』
「な……!?馬鹿な、これは使い捨てだぞ!契約者は架空の人物のはずだ!」
三谷は舌打ちをし、別の端末を取り出す。だが結果は同じだった。
画面に表示されたのは「圏外」の文字ではない。「Network Access Denied(接続拒否)」という、管理者権限による強制排除の通知だった。
その時、手の中の端末が勝手に震え、メッセージが表示された。
送信元は不明。
本文は一行だけ。
『校正対象:通信手段。……削除完了』
三谷は悲鳴を上げて端末を投げ捨てた。
織部だ。
奴は三谷を追跡しているのではない。
三谷という存在が持つ「機能」を、一つずつ削除しているのだ。
***
逃走資金が必要だ。
三谷はコンビニエンスストアのATMに駆け込み、キャッシュカードを挿入した。
正規の口座ではない。
数重にロンダリングされた、誰にも紐づかない隠し口座だ。
しかし、画面には無慈悲なメッセージが表示される。
『お取り扱いできません。このカードは無効です』
電子マネーも、クレジットカードも、交通系ICカードさえも。
三谷が財布から取り出すあらゆるカードが、プラスチックの板切れと化していた。
コンビニの自動ドアが開く音と共に、店内の防犯カメラが三谷の方へ「首」を向けた気がした。
店内放送のBGMが途切れ、合成音声が流れる。
『校正対象:経済活動。……凍結完了』
三谷は店を飛び出した。
恐怖が、怒りを上書きしていく。
これは「攻撃」ではない。
織部は三谷に対して、ハッキング攻撃など仕掛けていない。
ただ、都市システム上の三谷恒一というIDに紐づくすべての権限を、管理者として「整理」しているだけなのだ。
***
高層ビルのペントハウス。
ミスター・ルールは、眼下の夜景と手元のタブレットを交互に見比べ、感嘆の息を漏らしていた。
「美しいね。これは『狩り』ですらない」
画面上の地図には、赤いドット(三谷)と、それを取り囲むように点灯していく青いエリア(織部の支配領域)が表示されている。
織部は走ってすらいない。
ただ、三谷が逃げようとする先々の信号機を赤にし、街灯を消して闇を作り、自動改札を閉鎖している。
三谷は、織部という羊飼いに追われる羊のように、自分から「逃げ場のない場所」へと誘導されている。
「織部は、三谷君を倒そうとしていない。都市というプログラムから、バグを取り除こうとしているだけだ。感情などない。ただの事務作業だよ」
ルールはワインを傾ける。
彼は、眼下で繰り広げられる一方的なショーを、特等席で楽しむ観客として眺め続けていた。
まさかその「事務作業」の最終工程に、自分自身の処分が含まれているとは露ほども疑わずに。
***
三谷は、自分の足が限界に近いことを悟った。
これ以上、走れない。移動手段が必要だ。
目の前に、シェアサイクルのポート(駐輪場)が見えた。
三谷は縋るように駆け寄る。
自転車なら、電子制御さえ突破すれば物理的に動かせるはずだ。
彼はサドルを掴み、管理パネルに自分のスマホをかざした。
『認証エラー』
赤いランプが点滅し、車輪をロックする電磁錠は微動だにしない。
三谷は力任せに車体を引っ張るが、鋼鉄のロックは彼の焦燥をあざ笑うかのように、ガチャン、と重い音を立てて拒絶した。
「くそっ、動けよ!俺は……管理者だったはずだぞ!」
彼は自転車を蹴り飛ばし、歩道に置かれていた電動キックボードへターゲットを変えた。
だがそれも同じだった。
QRコードを読み込んでも、電源すら入らない。
三谷はキックボードを放り出し、最後の望みをかけて公衆電話ボックスへと飛び込んだ。
アナログ回線なら。硬貨を使ってタクシーを呼べば。
彼はポケットを探り、震える手で100円玉を投入口へねじ込む。
チャリン、と音がして、硬貨はそのまま返却口へと転がり落ちてきた。
受話器を耳に当てても、無音だった。
故障ではない。
回線は生きているはずなのに、交換機側で“使用不可”に落とされているのだ。
この都市にあるすべての「道具」が、三谷恒一というユーザーを認識していない。
そこに悪意はない。
ただ、使う資格のない者には反応しないという、徹底した無関心があるだけだ。
「……あ、ああ……!」
三谷は絶叫し、受話器を電話機本体に何度も叩きつけた。
ガツン!ガツン!とプラスチックが砕ける音が響く。
その時、砕けかけた公衆電話のスピーカーから、織部の声が響いた。
ノイズ混じりの、しかし冷徹な声。
『三谷。道具に八つ当たりをするな。見苦しい』
周囲のデジタルサイネージの音量が一斉に下がり、織部の声だけが通りに反響する。
『お前は勘違いをしている。「道具」は人間に奉仕する奴隷ではない。そこに存在し、入力に対して結果を返すだけの無機質な物体だ』
三谷の手から、受話器が力なく滑り落ちる。
『そこにお前への忖度などない。お前が「ご主人様」として振る舞おうとも、資格(ID)を失えば、システムにとってお前はただの物体だ。……いや』
織部の声が、一段低くなった。
『正常な動作を阻害する、取り除くべき「異物」だ』
「……俺は、異物か」
三谷は乾いた笑いを漏らした。
そうか。
道具たちが俺を拒絶しているのではない。
俺が、この綺麗な回路に混入したゴミだから、排除されようとしているだけなのか。
『そうだ。私はただ、ログに従って、異物を指定の集積所へ誘導しているに過ぎない』
織部の声と共に、埠頭へと続く道の街灯だけが、滑走路の誘導灯のようにパパパッと点灯した。
それ以外の道は、完全な闇に閉ざされている。
『第4埠頭へ来い。そこで最後の「校正」を行う』
三谷は、わかっていた。
この光の道以外に進めば、今度こそ物理的な事故が待ち受けていることを。
道具は忖度しない。
だからこそ、織部が設定した「排除のロジック」に対しても、忠実に、冷酷に作動するのだ。
三谷は、ふらつく足取りで光の道へと歩き出した。
かつて自分が操っていたシステムに見放され、ただの無力な異物として、最後の場所へと向かう。
その背中を、無数の監視カメラが、感情のない瞳で見つめ続けていた。
(第13話「最終校正」へ続く)
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【シリーズ前作はこちら】
『マニュアルキラー:第1部』
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