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マニュアルキラー:第2部 校正なき改竄  作者: 早野 茂


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第1話 前提条件を疑え

世の中の人間は、あまりにも「前提」を信じすぎている。


三谷みたに恒一こういちの書斎は、情報の墓場であり、緻密なパズルの保管庫だった。

壁一面を埋め尽くす書架には、背表紙の擦り切れた推理小説が並んでいる。

エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カー。

そして日本の本格をも網羅した鮎川哲也。

三谷の読書は、一般的なそれとは決定的に異なっていた。

彼は犯人が誰か、などということには興味がない。

動機にも。

彼の視線が執拗に追うのは「トリック」のみだ。

どうやって密室を作ったか。どこに盲点があったか。

どの前提条件を疑わなかったから、名探偵は敗北したのか。

彼にとって世界とは、解かれるのを待つ論理パズルの集積に過ぎなかった。


そんな彼の思考の癖が、かつて勤めていた物流会社で起きた「あの事故」を、全く別の形に塗り替えてしまった。


当時、安全管理担当だった三谷は、現場の危機に直面していた。

「この点検頻度では、センサーの劣化を検知しきれません。運用そのものを見直すべきです」

三谷が繰り返し提出した是正提案を、統括責任者は鼻で笑って一蹴した。

「仕様書を読め、三谷。この安全基準を満たしていれば統計上のリスクはゼロだ。仕様上、問題はない」

その男にとって、安全とは現場にあるものではなく、書類の中にのみ存在する「免罪符」だった。


この男には前科があった。

数年前に別の現場で死亡事故が起きた際、男は「マニュアルに従わなかった本人の過失」として全ての責任を死者に押し付け、自らの保身を図ったのだ。

現場の人間を部品としか見ないその冷酷な姿勢は、いずれどこかで破綻を招くには十分だった。

三谷が男の強欲さと傲慢さに辟易していた頃、現実が静かに帳尻を合わせた。


事故は最悪のタイミングで起きた。

稼働率が最大に達し、点検記録が「異常なし」と記された直後。

現場確認に入った統括責任者が、突如作動した自動搬送機と閉まるはずのない防護ゲートの間に挟まれた。

責任者は即死。

不運にも巻き込まれた現場作業員は、かすり傷一つ負わなかった。


調査報告書の結論は、三谷の知る「現実」とは無関係に、冷徹に綴られた。

『安全仕様は遵守されていた。

事故の原因は責任者の不用意な現場判断による。

再発防止策として設備の更新と人員の増強を講じる』

会社は、結果として改善された。

かつて部下に責任を擦り付けた男が、皮肉にも自ら作った「仕様」の通り自業自得の死を遂げたのだ。

三谷にとってそれは単なる物理的な事象の推移に過ぎなかった。


だが三谷の指先は報告書の行間に潜む「不自然な美しさ」に震えていた。

(……偶然じゃない)

彼は報告書を、自らの得意とする「本格ミステリー」の文法で読み解き始めた。

なぜ、あの時間にあの男が現場にいたのか。

なぜ、その判断をしたのか。

なぜ「安全だ」と確信して足を踏み入れたのか。

答えはすべて、男が絶対視していた『仕様書』の中にあった。

特定の条件下で、論理的に死角が生まれるように誰かがマニュアルの呼吸をわずかに変えたのだ。


その直後、業界紙の隅で見つけた別業種の死亡事故の記事が決定打となった。

『仕様は守られていたが、安全管理責任者がクレーンの下敷きになり死亡』

三谷は二つの事故を並べ背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「……同じ『やり方』だ」


それは暗殺でもなければ恨みによる犯行でもない。

仕様を守らせ、その前提条件を現実から静かに切り離し最もその仕様を信じている者を罠の中に立たせる。

暗殺者の「意志」ではなく、論理の「必然」が人を殺す。

三谷は、織部悟という男の名前も、その背負う正義も知らない。

ただ、その「手法ロジック」の完璧さに狂おしいほどの好奇心を抱いてしまった。


***


数日後。

若手交流会の居酒屋は、仕事上がりの喧騒に包まれていた。

「かんぱーい!」

「マジでうちの上司、仕様書ばっかりうるさくてさ」

ジョッキがぶつかる音、誰かの無関心な相槌、揚げ物の匂い。

その賑やかさの中で誰かが冗談めかして口にした。

「最近妙な事故が多くないですか。仕様通りなのに上が死ぬやつ。巷じゃ『マニュアルキラー』なんて噂されてるらしいですよ」

「ははは、都市伝説だろそれ」

同僚たちが笑い飛ばす中、三谷だけは笑わなかった。

彼は冷めたお通しを見つめたまま、手元のメモ帳にその言葉を無機質な筆致で書き留めた。


帰宅した三谷は、現在務めている会社の取引先の仕様書を開いた。

ページをめくる指が止まる。

ある一項の前提条件。

ここを数ミリ現実からスライドさせるだけで。


「……再現できる」


三谷の瞳に宿ったのは復讐者の怒りではなく、難解なパズルの解法を見つけた子供のような、純粋で残酷な喜びだった。

彼はまだ知らない。

この手法の背後にある「校正者」の覚悟を。

正式な資格を持たぬ彼が、禁断のルールを書き換えたとき何が起こるのかを。


(第2話「ノイズの介入」へ続く)

ご一読ありがとうございます。

三谷が「再現できる」と確信し、自身の才能に震えるラストシーン。

ここから彼の『改竄者』としての歩みが始まります。

三谷を狂わせた「完璧なロジック」の原点、織部悟の足跡を描いた第1部もぜひご覧ください。

少しでも面白いと感じていただけたら、ブックマークと【☆☆☆☆☆】での評価をいただけると執筆の励みになります!

【シリーズ前作】

『マニュアルキラー:第1部』

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

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