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蝋燭のそばに、物語が始まる

作者: 神谷嶺心

誰にも気づかれずに、

誰かの世界を照らす光がある。

それは、消えるために生まれた灯。




彼女は私を見ない。

本当の意味で、私を見たことは一度もない。


でも、毎晩、彼女は私の灯りの下で遠い世界へ旅立つ。

私は、忘れられる光。

だからこそ、私は彼女を愛している。


彼女はいつもと同じようにやって来る。

静かな足音。

すでに闇に包まれた部屋。

ページをめくるような自然さで、マッチを探す指先。


そして、私は目覚める。

火が灯る音は、私の最初の吐息。

体が温まり、光が揺れる。


その夜は、少し違っていた。

彼女は新しい本を持ってきた。


その本を抱える手の仕草から、

彼女の瞳に宿る微かな輝きが見えた。


彼女は、期待していた。

好奇心に満ちていた。


私は…彼女のために嬉しかった。

私の炎は強く燃えていた。

もしかしたら——

この物語の終わりまで、私は持ちこたえられるかもしれない。


そう願った。


彼女はゆっくりと座った。

まるで儀式を始めるかのように。


本を開く前に、そっと顔に近づけて、

深く息を吸い込んだ。


新しい本の匂い。


その香りだけで、

胸の奥にある何かが静まるようだった。


彼女は目を閉じた。

そして、微笑んだ。


その瞬間、私の炎はほんの少しだけ、大きくなった気がした。


彼女は丁寧に本を開いた。

まるで、神聖なものに触れるように。


そして、読み始めた。

ページをめくるたびに、彼女の瞳は静かに踊っていた。

その表情は、文章のひとつひとつに反応して、

眉がわずかに上がったり、唇の端が震えたり、

深く息を吸ったりしていた。


まるで、世界のすべてがその本の中に詰まっているかのようだった。


私は、書かれている言葉を理解できない。

けれど、彼女の感じていることは、すべて伝わってきた。


第一章の最後のページをめくったとき、

彼女はゆっくりと目を閉じた。


しばらくの間、動かずにいた。


そして…胸に手を当てた。

まるで、こぼれそうな感情をそっと抱きしめるように。


私は、触れたかった。

「ここにいるよ」と伝えたかった。

たとえ、彼女の目に私は映らなくても。


でも、私にできるのは、ただひとつ。


私は、私なりの涙を流した。

ひとしずくの蝋が、静かに、ゆっくりと、台座まで落ちていった。

それが、私の悲しみのかたち。


彼女は胸に手を当てたまま、

心と魂のあいだに秘密を抱えるように、またしばらく動かなかった。


私はただ、燃え続けていた。

その一瞬一瞬を、全身で感じながら。


炎は静かに揺れていた。

部屋を照らすその光は、

光を必要とする者には、少しだけ足りないほどの、

控えめな温もりだった。


彼女は本を閉じた。

ゆっくりと、音も立てずに。

まるで、静寂を守るために扉を閉めるように。


部屋は闇に包まれた。

私は、次に何が来るかを知っていた。


彼女の手が、そっと私に伸びた。

その触れ方は優しかった。

でも、私には重かった。


炎を消すという、たったひとつの仕草。

それは、私にとって切り傷のようなものだった。


私の光は揺らぎ、

一瞬、すべてが静止した。


私は泣いた。

誰にも見えない涙のように、

ひとしずくの蝋が、熱く、ゆっくりと流れ落ちた。


部屋は暗くなり、私はひとりになった。


それでも、まだここにいる。

待ち続けている。

次の夜を待っていた。

次の章を、

彼女の世界をもう一度照らせる、その瞬間を。


その夜、彼女はいつもより早く戻ってきた。


足音は軽く、どこか急いでいるようだった。

まるで、ページの間に待っている世界に早く再会したくてたまらないかのように。


彼女が誰かと一緒にいる姿を、私は一度も見たことがない。

もしかして、私だけが彼女のそばにいる存在なのだろうか。


その問いが、私の中を通り抜けた。

蝋のしずくとなって、静かに流れ落ちた。

誰にも見えない涙のように。


彼女のことを思うと、胸が痛む。

それでも、心の奥には小さな喜びの炎が灯っている。


私の存在に気づかなくても、

それでも、彼女は今も私の光の中にいる。


彼女は座り、本を開き、読み始めた。


一章、二章ではなかった。

いくつもの章を読み進めていった。


彼女の瞳は行を飛ぶように動き、

その一言一言を、まるで唯一の真実であるかのように吸い込んでいた。


私はただ、静かに見守っていた。

ページがめくられるたびに、私の光は少しずつ強くなっていく気がした。


まだ本の半分にも届いていないのに、

彼女の世界は、すでに少しずつ変わり始めていた。

私の光の下で。


その夜、本を閉じたとき、

彼女の表情は穏やかだった。


けれど、その瞳には、

読み取れないほど深い感情の重みが宿っていた。


彼女は、前の夜と同じように、そっと私に手を伸ばした。

炎を消すその仕草は、やはり優しかった。


部屋は再び闇に包まれ、

私はまた少しだけ、燃え尽きた。


でも、待っていた。

いつだって、次の夜を。


その夜、彼女は戻ってきた。

疲れた足取りで、静かな部屋に入ってきた。


部屋は暗く、私はまだ冷たく、消えたままだった。


彼女はしばらくの間、ただ立ち尽くしていた。

まるで、儀式を始める前に、

心のどこかで力を集めているかのように。


そして、彼女の指先がそっとマッチを探し、

芯の先に小さな炎が揺れながら生まれた。


私は目覚めた。

最後に灯された時からの時の重みを、全身で感じながら。


でも、もうあの頃の炎ではなかった。

命の揺らぎは弱く、

小さな風にも怯えるように揺れていた。

蝋は静かに流れ落ち、まるで誰にも気づかれない涙のようだった。


彼女は本を開き、丁寧に抱えるように持ち、

その瞳は再び物語の中へと滑り込んでいった。


読み進める速度はゆっくりで、けれど深く、

彼女の感情は隠しきれずにページの間からこぼれていた。


まだ半分にも届いていないのに、

彼女の世界はすでに言葉の中で深く変わり始めていた。


私はただ、燃え続けていた。

静かに、でも確かに、彼女のために。


蝋の涙は、私の沈黙であり、

誰にも見えない、私だけの犠牲だった。


消えていく中にも、

私は小さな誇りを抱いていた。


彼女が気づかなくても、

私は闇の中で彼女を照らす光だった。


その静かな部屋で、

私たちはふたつの孤独な存在だった。

光と影で結ばれた、目に見えない絆。


ページをめくる音だけが、沈黙をやさしく満たしていた。


彼女の瞳は、どんどん深くなっていった。

まるで、その物語が彼女の魂の一部を握っているかのように。


炎は揺れ、蝋はゆっくりと流れ落ちた。

こぼれ落ちそうな涙を、どうにか堪えているように。


終わりが近づいているのを感じていた。

それでも、もう少しだけ、彼女のそばにいたかった。


彼女が読む一言一言が、私の存在を少しずつ削っていく。

まるで、光だけでなく、私自身を捧げているようだった。


章の半ばを過ぎた頃、

彼女は本を閉じた。


深く息を吸い込み、

あふれそうな感情を胸の奥に押しとどめるように。


そして、また胸に手を当てた。

私は静かに、もう一滴の蝋の涙を流した。


彼女はゆっくりと、慎重に、私の炎を消した。


闇が再び部屋を包み、

私は空っぽになったように感じた。


それでも、まだここにいる。

明日、また光が生まれることを信じて。

その夜は、重たい夜だった。


彼女は本を開いた。

けれど、その瞳はもう以前のように自由に踊ってはいなかった。


数行読んでは、止まる。

深いため息。

ページの向こう側にある闇を見つめるような、遠いまなざし。


まるで、心のどこかで何かがためらい、

それでも前に進もうと必死に戦っているようだった。


私は、私の光で彼女を抱きしめたかった。

見えない痛みに、そっと寄り添いたかった。


私は炎を強く灯そうとした。

それがどれほど苦しいことか、わかっていても。


蝋は速く流れ落ち、

その一滴一滴が、避けられない痛みの涙だった。


でも、消えるわけにはいかなかった。

まだ、今は。


彼女はページをめくり続けた。

希望と絶望のあいだを行き来しながら。

抑えた笑みと、深い悲しみのあいだを。


私はそばで見守っていた。

身体がどれほど脆くなっても。


「もう少しだけ」

私は自分にそうささやいた。

「彼女が読み終えるまで」


その夜、彼女が本を閉じたとき、

その瞳は涙で輝いていた。

けれど、涙はこぼれなかった。


震える手で、彼女は私の炎を消した。


そして私は、何度目かもわからないほどの、

あの苦い痛みを感じた。


毎晩、消されるたびに感じる、

存在が消えていくような痛み。

そしてまた、闇の中で生まれ直す。

ただ、また消されるために。


それでも、私は耐えていた。


なぜなら、私の光は彼女のためだけじゃない。

私たちふたりのための光だったから。


その夜、彼女は戻ってきた。

その瞳には、かすかな輝きが宿っていた。


静かな期待が、空気の中に漂っていた。


私は彼女を待っていた。

かすかに震える、弱々しい炎で。

でも、確かにそこにいた。

私は知っていた。

もう長くはないことを。

終わりが近づいていることを。


それでも、消えることを拒んだ。


燃える痛みは激しく、

流れ落ちる蝋の一滴一滴が、

もう照らすことのできない瞬間への、

静かな悲しみだった。


彼女は本を開いた。

私は、見えない目でそのすべての動きを追った。

丁寧にページをめくる、その指先のひとつひとつを。


物語は、もうすぐ終わりに近づいていた。


私は、最後の章まで彼女と一緒にいたかった。

言葉が重くなるその瞬間に、

彼女を支える光でありたかった。


「お願い…暗闇に置いていかないで」

私は心の中でそうささやいた。

「最後まで、そばにいさせて」


疲れを感じながらも、

時の重みに押されながらも、

私は炎を強く灯した。


闇に飲まれそうになりながら、

それでも抗った。


私は泣いていた。

誰にも気づかれない蝋の涙が、

次々と流れ落ちていった。


それは、言葉にならない愛。

見えないけれど、確かにそこにある想い。


彼女はゆっくりとページをめくっていた。

その動きには、重みがあった。


私は彼女の顔に浮かぶ感情を見ていた。

抑えた笑み。

苦しげな吐息。

こぼれそうな涙。


でも、私の終わりはすぐそこまで来ていた。


どれだけ抗っても、

炎は弱まり続けていた。


もう、あの夜を照らしていた頃の光ではなかった。


蝋の涙が静かに流れ落ちるたびに、

私は、別れの準備をしていた。


彼女には、きっと聞こえない。

それでも、私はそこにいた。


終わりが近づいていた。


蝋の一滴一滴が、誰にも見えない涙だった。



炎は震え、

沈黙に飲まれそうになりながらも、

私はまだ、そこにいた。


もう少しだけ、いたかった。


彼女の読む言葉すべてを照らしたかった。

その吐息ひとつひとつを、見守りたかった。


でも、燃える痛みは限界に近づいていた。


私の光は、

一瞬ごとに、確実に弱まっていた。

彼女は、ついに最後の章にたどり着いた。


その瞳は震え、

唇からは苦しげな吐息が漏れた。

そして、ついに涙がこぼれ落ちた。


「ごめんね……頑張ったの」

「でも、私の光は……ここまでだった」

「ほんの一瞬でも……」

「あなたの世界を照らせたなら、それだけでよかった」


そして、彼女の手がそっと私に触れた。


炎は最後の揺らぎを見せ、

そして、消えた。


闇が私を包み込んだ。


彼女は本を閉じた。

その音には、悔しさが滲んでいた。


——最後まで、読み終えることはできなかった。


彼女は、消えた蝋燭を見つめた。


もしかしたら、初めて気づいたのかもしれない。

あの小さな光がなくなったことで、

部屋がこんなにも暗くなったことに。


沈黙の中で、彼女の声が聞こえた。

かすかに、でも確かに。


「最後まで、読めなかった……」


私は伝えたかった。

「まだ、ここにいるよ」

「どこかで、きっと」


でも、返せるのは沈黙だけだった。


― 終 ―

この物語は、誰にも気づかれない光の話です。 誰かの夜をそっと照らし、 何も言わずに消えていく、小さな命の話。


彼女にとって、それはただの蝋燭だったかもしれません。 でも、蝋燭にとって、彼女はすべてでした。


言葉にならない想い。 届かない祈り。 そして、誰にも知られない別れ。


この物語が、あなたの心のどこかに 小さな灯りをともせたなら、 それだけで、この光は報われます。


読んでくださって、ありがとうございました。

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