始祖神殿と「勇者が来なかった世界」
白い石畳を、靴が打つ音が響いた。
篠崎遼司は、清めの衣装――金糸の刺繍が入った白いローブをまといながら、見知らぬ騎士たちに囲まれて歩いていた。
「ここが……“始祖神殿”?」
視線の先に、巨大な建造物がそびえていた。
石造りの柱が何本も天を突き、中央には人型の像。両手を掲げて立つそれは、どこか見覚えのある顔立ちだった。…日本人だ。
「――そうです。ここは、かつて初代勇者様が降り立った地。彼の魂がこの世界の歴史を刻んだ、聖なる場所です」
そう答えたのは、騎士団副団長エリナ。
先ほどの着替え騒動で、少し距離が縮まったような気もする。ような、気がするだけだが。
「あなたの召喚は、この神殿の儀式を最後に“正式な勇者認定”となります」
「いや、だから俺は勇者じゃないんだってば……」
「勇者様」
エリナは立ち止まり、静かに振り返る。
その瞳は、まっすぐに遼司を射抜いていた。
「“来なかった勇者”のせいで、この世界は一度死んだのです。……あなたが、今ここに立っているというだけで、どれほどの希望になるか分かりますか?」
その言葉に、遼司は息を呑んだ。
「……来なかった、って……勇者が?」
「はい」
エリナは口を引き結ぶと、神殿の中へと歩き出す。
遼司も、その後を追った。
* * *
神殿の奥には、巨大なステンドグラスがあった。
光が差し込むその先に、台座と、記録石のようなものが設置されている。
「これは、“神託の石”です。過去の勇者の記録を、すべて保管しているのです」
「記録って……録画でもしてんの?」
「録画……とは、何かの魔導術ですか?」
「いや、あー……なんでもない。で、その石に“来なかった勇者”の記録もあるってこと?」
エリナは小さくうなずいた。
「三年前。召喚の儀は発動しました。ですが……勇者は、来なかった」
「召喚は失敗したってこと?」
「いえ、“完了”はしたのです。神殿も魔術士たちも、召喚は成功したと判断しました。しかし――勇者は現れなかった。代わりに、光の中からは、何も、何も出てこなかったのです」
遼司は無言のまま石に手を触れる。
直後、記録石が淡く光り、音声が流れ始めた。
『勇者召喚、完了……。反応あり。魔力収束完了……! あとは……!』
『……あれ? 誰も……?』
『おい、反応が消えた! なにかがおかしい……!』
『まさか……勇者が……死んだ……?』
その最後の声が、心臓に突き刺さった。
――死んだ。
遼司はあのとき、確かに見た。
召喚装置の中に横たわっていた“遺体”。
皮肉なことに、正しく召喚はされていた。だが勇者は、召喚されたその瞬間、命を落としていたのだ。
「……そして私たちは、“来なかった勇者”を信じ続けたまま、三年が過ぎました」
「その間……何があったんだ?」
エリナは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……全てが、崩れました。各国は動揺し、魔王軍との停戦協定は破られ、戦は再開。民は怯え、国は裂け……そして、多くの命が失われました」
遼司は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
たった一人の死が――世界をここまで崩壊させるとは。
「……それでも、あなたが来てくださった。それが奇跡でなくて、なんだというのです」
エリナは静かに微笑んだ。
「私にとっては、もう……あなたが本物であるかどうかは、重要ではないのです」
「……は?」
「“勇者様”は、世界にとって希望であればいい。真実よりも、願いを守ってくれる存在であれば、それでいい」
遼司は言葉を失った。
希望は、事実とは限らない。
人は、信じたいものを“現実”と呼ぶ。
――俺が、本当にこのまま“勇者”として生きていくなら。
――それは、世界を救うことなのか。それとも……世界を騙すことなのか。
神殿の風が、ひゅうと吹き抜けた。
どこかで、誰かが嗤ったような気がした。