妹の未来を守るため、彼女はすべてを捨てた
『私が愛した●●のために』のリメイク版です
ハスティーナ帝国の名家、アステシア家には二人の美しい姉妹がいた。
姉のルルー・アステシアは、生まれながらにして人より飛び抜けた才能を持っていた。あらゆる学問に秀でていた彼女は、帝国貴族の一般教養を専門とする学校では全て「優」を取っていた。
その優秀さを活かして、教授の便宜を図りつつ、趣味に没頭していた。料理や錬金、鍛冶など、多岐にわたる物に日々挑戦していた
「世界にはこんなに色んなものがあるものね。全く知らなかったわ!」
ルルーは教授が持ち込む未知のものに触れるたび、その青い瞳が好奇心に輝いた。どれも一度始めると手放せなくなり、まるで飽くことのない探求心に突き動かされているようだった。
そんな多彩な趣味と多才な才能を持つ彼女は、「アステシア家の中のアステシア家」として高い評価を受けていた。ダイヤモンドブルーの瞳は、帝国貴族の人々を魅了してやまなかった。
しかし、その才能ゆえに彼女は不自由な生活を強いられていた。当時の貴族社会では、「女性は無駄な知恵を身につけるべきではない」という風習が根強く、彼女の才能はなかなか認められなかった。
さらに、世俗への関心を持つルルーは、使用人たちにも大いに警戒されており、毎晩、睡眠薬が混ざった飲み物を渡されていた。
一方、妹のリリー・アステシアは、才能では姉に及ばなかったが、貴族としての品位や立ち振る舞いに優れていた。ダイヤモンドブルーの瞳は純粋さを際立たせていたが、常にルルーへの期待が寄せられ、リリーは自分に劣等感を抱いていた。
姉妹の間には深い絆があったが、会う機会が滅多になかった。 ルルーは貴族としての期待に応え続け、社交や学問に没頭する日々が続いていた。
その一方で、リリーはいつも家庭内で一人で過ごすことが多かった。
姉妹が顔を合わせることは稀で、食事さえ時間が合う事はなかった。
◇
ある日の夕暮れ、ルルーは窓から差し込む夕日の光を眺めながら考えていた。自分の存在がリリーの未来を奪っているのではないかと。
この家にいる限り、私は自分の人生を歩むことができない。だけど、もっと辛いのは、私がいることでリリーの未来が閉ざされてしまうことである。
――この家で何をしたかったのだろう
彼女の心にふと疑問がよぎった。彼女は家からも周りからも期待を寄せてくれる。しかし、その期待は次第に重荷となり、いつしかルルーを押しつぶし始めていた。
このままの生活が本当に自分の望む生き方なのか、それとも、自分自身のために生きるべきなのか……
◇
記念舞踏会の夜、予想通り妹のリリーは姿を見せなかった。「記念舞踏会」は花婿・花嫁を選ぶ重要な場であり、ルルーにとっては初めての参加だった。
今回の舞踏会では、アステシア家の長女であるルルーの花婿が誰になるのかが大きな話題となっていた。
しかし、彼女の家族はリリーの存在が花婿選びに影響を与えると考え、彼女を舞踏会に招待しなかった。ダンスの練習もルルーのみ付けられ、リリーには何も準備がされていなかった。
ルルーはそれを見て、家族にリリーにも稽古を付けてもらうよう何度もお願いしたが、その願いは叶う事はなかった。リリーが今も部屋の隅で涙を流しているのではないかと、胸が痛んだ。
「おや、リリーは来ていないのかい?せっかく挨拶しようと思ったのに……」
突然、背後から声がかかり、ルルーは一瞬驚いた。
「……ヨルギースさんですか。」
背後から聞こえてきた声に振り向くと、クロドが立っていた。昔からの知り合いで、今や彼女にとって最も近しい存在である彼は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。
彼は、ハスティーナ帝国でも古参の家系で「ハスティーナの番犬」と称されるほど有名な一家の出身だった。
「やめてよ、『ヨルギースさん』なんて。いつから敬語を使うような関係になったんだ? 僕たち幼馴染だろ? クロドって気軽に呼んでくれ。」
「クロド……。今回の舞踏会には妹は呼ばれていないの……」
「へえ……それは残念だ。」
クロドは近くを通りかかったウェイターからオレンジジュースのグラスを手に取り、一口飲んだ。
「……君は、舞踏会なんてどうでもよさそうな顔をしてるな」
「そんなことないわ。これでも一応、今日の主役らしいもの」
「らしい、ね」
「見透かされている……」とルルーは感じた。
彼の眼差しは、いつもそうだった。静かで、優しくて――けれど、核心に触れる。
「……本当は、一緒に出たかったのよ。リリーにも綺麗なドレスを着て、笑っていてほしかった。なのに……家族は、最初から呼ぶ気なんてなかった」
「君が頼んでも、通らなかった?」
「何度もお願いしたわ。でも、返ってきたのは『彼女にはまだ早い』とか、『控えめな子の方が家の名誉には都合がいい』とか……そんな言い訳ばかり」
「“早い”んじゃなくて、“邪魔”だったんだろうな」
ルルーはクロドを見つめた。彼はグラスを置き、視線を遠くへ向ける。
「ごめん。きつい言い方だったかもしれない。でも、君がそれを分かっていないはずがないとも思った」
「……そうね。気づいていたかもしれない。ずっと、ずっと前から」
唇をかみしめる。胸の奥に、重く沈んでいた感情がじわじわと浮かび上がってくる。
「分かっていたのよ、ずっと。でも、気づかないふりをしていた。私が黙っていれば、家族のバランスは保たれる……そう思い込んで、自分もリリーも、見て見ぬふりをしていたの」
クロドは静かに頷いた。肯定も否定もなく、ただ彼女の心に寄り添うように。
「君はさ、他人に迷惑をかけないようにって、自分の痛みを全部内側に閉じ込める癖があるよね」
図星だった。言葉が出ないまま、ルルーはただ黙っていた。
「でも、君のそれは、君の優しさだけど……同時に、君自身を殺してる」
クロドの声は、決して責めるようなものではなかった。ただ、彼女の痛みをそっと包み込むような優しさだった。
「……どうして、あなたはそんなに優しいの?」
「優しくなんてないよ。ただ――君が、無理をしているのが見えてしまうだけ」
そして、彼は少し視線を逸らして、小さく呟くように言った。
「……いつだって、君のことだけは見てるつもりだよ。だって僕、君が――」
言葉が、そこで止まった。
クロドの唇が小さく震えたが、続きはもう出てこなかった。
ルルーは、その続きを聞かないまま、あえてそっと踊り場へ視線を移した。
「ねえ……一曲、付き合ってくれる?」
クロドはその瞳に射抜かれたように、わずかに息を飲む。そして、いつものように軽やかに微笑んだ。
「もちろん。今夜は、君のために来たようなものだから」
差し出された彼の手を、ルルーはそっと取った。
その手のひらが、今夜だけはやけにあたたかく感じられた。
シャンデリアの光が舞踏会場を照らし、音楽が静かに流れ始める。
ルルーとクロドは、ダンスフロアの中央へと歩みを進めた。
人々の視線が自然と集まる中で、二人は向き合い、礼を交わす。
クロドがそっとルルーの腰に手を添え、ルルーは自然に彼の肩へと手を乗せた。軽やかに一歩を踏み出すと、スカートの裾が優雅に弧を描いた。
「相変わらず、完璧なステップだね」
「あなたがリードしてくれるおかげよ」
ルルーは微笑んだが、その瞳の奥にはどこか遠い色が浮かんでいた。
クロドは視線を合わせようとしたが、彼女はあえて目を逸らしていた。
「君のこういうところ……ずっと変わらないな」
「なにが?」
「誰かのために無理して笑う癖。昔からそうだった」
ルルーは一瞬、動きを止めかけたが、すぐにリズムを取り直した。
「……それって、悪いことかしら?」
「悪くはない。ただ……悲しくなるんだよ、見ているこっちが」
クロドの言葉に、ルルーは少しだけ視線を落とした。
悲しくなる、なんて言われたのは初めてだった。
家族はいつだって、彼女の笑顔を「立派」と言った。教授たちは「理想的だ」と讃えた。
でもクロドだけは、ずっと前から見抜いていた。
――本当の私はもっと脆くて、臆病な存在だということを。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ」
「そう言われると、なんだか私が、すごく嘘つきみたいに思えてしまって」
「そんなことないよ。君は……そうするしかなかっただけなんだと思う。苦しくても、黙って笑ってたのは――誰かを守りたかったから、じゃないかな」
「……ありがとう。でも、それを言われるのが、一番つらいの」
「どうして?」
「だって、そんなふうに優しくされると、困っちゃうから」
クロドは少しだけ微笑んで、そっと言った
「ルルー、僕の方を向いて。」
その何気ない言葉に、ルルーははっとして顔を上げた。
頬が、ふわりと赤く染まっていく。
クロドは昔から、こういうことを無意識に言ってしまう人だった。
何年も一緒にいたから、慣れていたはずなのに――いざ言われると、やっぱり照れてしまう。
気を取り直すように、二人は自然と視線を合わせ、息を整える。
そして、またステップを踏み直した。
次第にリズムが戻ってくる。
ぎこちなさは消え、足元は再び軽やかに。
クロドは彼女の手を優しく引っ張り、顔を近づけた。そして手をしっかりと握り、そのまま彼女を持ち上げた。
ルルーのドレスは高く舞い上がり、彼女の髪が風になびいた。青く輝く瞳がシャンデリアの光に反射し、キラキラと輝いた。
「いいかい、ルルー。僕の気持ちはともかくとして、君が本当にリリーのことを思ってるなら、一度ちゃんと話した方がいいよ」
クロドは真剣な顔だったが、あまりにも顔が近く、人生で初めて異性に身体を持ち上げられたという衝撃からルルーは真っ赤になっていた。ダンスを踊っているせいか、どこか色っぽく見える瞬間もあった。
「ま、待って……! まだ………!」
ちょうど一曲が終わりを迎え、会場の拍手とざわめきが重なる中、ルルーはドレスの裾をつまみ、そっと礼をしてからその場を離れた。
頬に火が灯ったように熱く、呼吸も落ち着かなかった。
あのままじゃ、顔を合わせていられない――そう思った。
心臓の鼓動が速くなり、手のひらに冷や汗が滲んでいた。このまま過ぎてしまえば、二人の関係が変わってしまいそうで――
庭園には小さな噴水が穏やかな水音を立て、舞踏会の喧騒をかき消していた。ルルーはベンチに腰を下ろし、夜空を見上げた。
「一度話し合うべきだよ。」とクロドの言葉が脳裏をよぎる。話し合うべきなのだろうか。
彼女は庭園の中央にある石造りの噴水のそばに立ち、静かに水面を見つめた。
夜空には満天の星が輝き、月明かりが柔らかく庭全体を照らしている。
水面に映る自分の顔は、どこか見慣れないものに見えた。さっきまでの舞踏会での自分とは、どこか違うような気がする。
リリーのことを想うと、胸の奥がずきりと痛んだ。
優しくしたいのに、届かない。言葉にしようとしても、いつも途中で止まってしまう。
――でも、逃げてちゃいけない。そう思った。
「リリーのために、ちゃんと話そう。今度こそ、ちゃんと……向き合わなくちゃ」
ルルーはそう呟いて、ゆっくりと顔を上げた。
夜風がそっと髪を揺らし、星々が彼女の決意を見守っているようだった。
彼女は使用人たちの目を欺くため、あらかじめ用意していた使用人の制服に馬車の中で着替えた。そしてそのまま馬に乗り、急ぎ足で屋敷へと向かった。
舞踏会には、貴族のための親睦会のほかに、別室ではあるが使用人のための感謝祭――いわゆる『勤労感謝祭』も開かれていた。この感謝祭は、一年のうちでただ一日、貴族の使用人たちが宮殿の中に招かれ、豪華なご馳走を味わえる特別な機会となっている。
各家の使用人たちがこぞって参加しており、もちろんアステシア家の者たちも例外ではなかった。
つまり、今夜の屋敷にはリリー以外、誰もいない。
まさに、脱出にはうってつけの夜だった。
彼女は手綱を握りしめ、馬を駆けた。
背後に広がる舞踏会の光は、遠ざかるたびに小さくなり、やがて森の影に呑まれて見えなくなった。
◇
馬を飛ばして数時間後、ルルーはようやく自邸に戻ってきた。
屋敷の灯りはほとんど消えており、夜の静けさが敷地全体を包み込んでいる。
正面扉に向かう前に、ルルーは庭の隅にある古井戸へと足を運んだ。
リリーのために、少しでも冷たい水を持って行ってあげたかった。
手馴れた動作で、縄を釣瓶にかけて井戸の底までおろす。バシャリと音を立てて水をすくい上げると、バケツを引き上げ、そのそばにあった金属製のコップを手に取った。
一度、そのコップを汲み上げた水で丁寧にすすぎ、もう一度、水を注ぎ直す。
月明かりの下、透き通った水面がかすかに揺れた。
彼女はコップを手に持ち、そっと扉を開けた。
予想どおり、家の中にはリリー以外、誰の気配もなかった。
一階の床はひんやりとしていて、足音が静かに響く。
薄暗い照明がぽつりぽつりと灯り、窓辺には重たいカーテンが垂れている。
その向こうから、月明かりがやわらかく差し込み、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
アステシア家の屋敷は三階建てで、基本的に身分の高い者から順に上の階を与えられる仕組みになっている。
ルルーとリリーは二階に部屋をあてがわれていたが、リリーの部屋はその中でも一番奥――少し古びた扉の向こうにあった。
廊下を歩くたび、床板がきしりと軋む。
その音がやけに大きく感じられ、ルルーはコップを握る手に少しだけ力を込めた。
一階は部屋数が多いため、使用人たちの行き来も賑やかだが、二階は来客用の部屋を兼ねており、客のいない夜はひときわ静けさに包まれていた。
ルルーは壁に掛けられた燭台に火を灯し、手にしたコップを持ち上げて、ゆっくりと階段をのぼる。
灯の揺らぎが彼女の影を長く引き、石造りの壁にかすかに映し出していた。
二階の廊下に足を踏み入れた瞬間、古びた床がギシリと軋む。
息を詰めたような静寂が、あたり一面に広がっていた。
ルルーはふと深いため息をこぼす。
長いドレスの裾が床を擦る音が、その吐息と重なるように静かに響いた。
リリーの部屋の前に辿り着いたルルーは、扉の前で立ち止まり、そっと耳を寄せた。
――微かな、啜り泣きの音が聞こえる。
その音は、胸の奥を締めつけるように、細く苦しい。
おそらく、ずっと一人で堪えてきたのだ。誰にも頼れず、声も上げられず、ただ静かに涙をこぼしていた。
ルルーは燭台と水の入ったコップを廊下の隅にそっと置いた。
そして、ためらうことなくドアノブに手をかけ、ノックもせずに扉を開けた。
「リリー!!」
リリーは涙ぐんだ顔で驚いた表情を浮かべた。
「わっ……お姉様? どうして……急に……舞踏会は?」
ルルーは返事もせず、そのまま駆け寄り、リリーの肩をぎゅっと抱きしめた。
「リリーのいない舞踏会なんて、楽しいわけないじゃない」
そう言いながら、彼女はその場に腰を下ろし、リリーの背にそっと手を添えた。
優しく撫でるたび、リリーの震えが少しずつ和らいでいくのがわかる。
「リリー……今まで、本当にごめんなさい」
ルルーは静かにそう言って、涙で濡れた妹の頬に手を伸ばす。
その指先で、そっと雫をぬぐった。
ルルーはリリーの髪をそっと撫でながら、しばらく黙っていた。
柔らかな髪の感触が、かえって胸の奥を締めつける。
今までも何度も迷ってはやめた。
けれど、こうしてリリーの涙を目の当たりにした今、もう迷いはなかった。
自分がこの家にいる限り、リリーの未来は狭まったままだ。
それがたとえ本人のせいではなくても、周囲の目や扱いが、確実に彼女を縛ってしまっている。
それを変えられるのは、自分が動くことしかない――そう思った。
ゆっくりと息を整えてから、ルルーはリリーに視線を合わせた。
「私、今日……この家を出ていくことにしたの」
「お姉様……! 一体どうなさったのですか? 私が……何かしてしまったの……?」
ルルーはすぐに首を振った。
「ちがうわ、リリー。これは、ずっと前から考えていたこと。あなたにはね、あなたのままでいられる場所を、ちゃんと見つけてほしいの。そして私も、誰かの“理想”じゃなくて、本当の自分を――見つけに行きたいの」
「そんな……お姉様……! ダメです、行かないで。どうして……どうしてそんなこと……!」
リリーの瞳に、涙が溢れた。
彼女はルルーの手を握りしめ、その小さな肩を震わせる。
「私……お姉様がいたから、頑張れたんです。つらくても、淋しくても……。それでも今日までやってこられたのは……お姉様が、いてくれたからで……」
その姿を見て、ルルーはそっと妹の肩を抱き寄せた。
「リリー、あなたは強いわ。私がいなくても、必ず家を引っ張っていける。」
ルルーは静かに語った。彼女の手には、リリーの涙が手の甲へと伝い、床へと落ちていた。
「でも、お姉様がいなくなるなんて…私、どうしたら……っ……」
リリーの肩が小さく揺れ、嗚咽が静かな部屋に響いた。ルルーは彼女をさらに強く抱きしめた。
「リリー、泣かないで。たとえ遠くに離れても私はずっとあなたの味方よ」
ルルーは優しくリリーの頭を撫でた。
「廊下に水を持ってきているの。リリー、しばらく飲んでないでしょう。良かったら飲む?」
ルルーは尋ねた。リリーは目を赤らめ、下を俯いたまま頷いた。
「じゃあ、待っていてね。すぐ戻るわ。」
ルルーは立ち上がり、そっとドアの外へ出た。廊下の隅に置いておいた燭台と水の入ったコップが、かすかな炎に照らされて静かに佇んでいる。
それを手に取り、再び部屋へ戻ると、リリーはベッドの縁に座っていた。背筋を丸め、手を膝の上で固く握りしめている。
「はい、リリー。冷たいけれど……少しずつ、ゆっくりね」
ルルーはそう言いながら、コップを手渡した。リリーはおそるおそるそれを受け取り、両手で抱えるようにして口元へ運ぶ。
一口、そしてまた一口。喉を潤すたび、胸に溜まっていた張り詰めたものが、少しずつほどけていくようであった。
リリーが水を飲んでいる間にルルーは部屋の周りを見渡す。サイズの合わないハイヒールに古くくたびれたドレス、そしてハイヒールの跡がくっきりと残っているカーペット。
どれだけ傷ついても、泣きながら、諦めずに努力を重ねてきたその姿を想像するだけで、息が詰まりそうになる。
――やっぱり、リリーには、私なんかよりずっと強さがある。
ルルーはそっと彼女の背中に目をやった。
その小さな背中が、どこか頼もしくも見えて、そして何より愛しかった。
「リリー、ベッドに行きましょう。床は冷たいわ」
優しく声をかけると、リリーは少し戸惑ったように目を瞬かせ、それでも素直に頷いた。
ルルーは空いた手でリリーのコップを受け取り、机の上にそっと置いた。
そして、彼女の肩をそっと支えながら、ベッドの方へと導いた。
リリーはふわりと立ち上がる。少しだけふらついた足元を、ルルーがそっと支えた。
「ありがとう、お姉様……」
リリーは恥ずかしそうにしていると、ルルーに手を引かれながら、ゆっくりとベッドへ向かっていった。
羽根布団のふくらみを押し分けるようにして腰を下ろすと、深いため息がこぼれる。
そのまま体を横たえ、顔の半分を枕に埋めたリリーの表情は、少しだけ安心しているようだった。
ルルーはそっとブランケットをかけてあげた
その手はゆっくりと、まるで子どもの頃に戻ったかのように、リリーの髪を撫でる。
「リリー、貴方が家の為に努力してきた事を無下にして欲しくないの。輝く舞台へ立つべきなのはリリー、貴方よ。」
「でも………私なんて……そんな、大きな場所に立てる器じゃ……ないわ……」
「私はただ、好きなものを追いかけてきただけ。それはこの国では、役に立たないって……最初から分かってたのよ」
リリーは、姉の言葉をただ黙って聞いていた。胸の奥で、何かが締めつけられるような感覚だけが残った。
「……でも、私はお姉ちゃんと離れたくない!!」
とリリーは自分の思いを伝えるべく一際大きい声を上げた。
リリーにとって、お姉様はすべてだった。どれだけ理不尽な仕打ちを受けても、ルルーさえ笑っていてくれたら、それでいいと思っていた――ずっと、そう思い込んできた。
「リリー………」
ルルーは胸が締め付けられるような痛みを感じた。けれど、歯を食いしばり、ぐっと堪える。
今ここで崩れてしまったら、すべてが台無しになる気がした。
涙は、家を出てから流せばいい。そう言い聞かせることで、かろうじて心の安定を保っていた。
ルルーはリリーの手を優しく握りしめる。それでもリリーは堪えていた涙を1粒、手の甲へと落とす。
「リリー……あなたが、どれだけ孤独の中で苦しみに耐えてきたか、私はちゃんと分かっている。
だからこそ言えるの。あなたには、私以上の強さがあるわ。……自信を持って」
「でも、私はドジで、何も上手くできなくて……」
リリーは視線を伏せ、かすれた声で呟いた。
ルルーは微笑み、そっとリリーの手を握り直す。
「そんなことないわ。たとえ誰が評価しなくても、あなたの努力はちゃんと積み重なっている。
私は、誰よりもあなたの頑張りを見てきた。だからこそ信じられるの――あなたなら、きっとできるって」
リリーは、これまでずっと自分の努力が誰の目にも留まらないものだと思い込んでいた。
陰で何度も挫折し、泣きながらも自分を奮い立たせてきた日々――。
その努力が誰かに評価されることはない、とずっと諦めていた。
それでも続けてこられたのは、貴族として「やらなければならない」という責任感だけだった。
けれど今、初めて誰かに――それも一番尊敬している姉のルルーに、その努力を認められた。
リリーは顔に手を当て、溢れる涙を止められなかった。
「私……本当に、誰にも気づいてもらえないって……そう思っていたの」
リリーの声はかすれ、涙が言葉の隙間から零れ落ちるようだった。ルルーはそっと身を寄せ、静かにその傍に腰を下ろす。
しばらくの間、二人はその場で向き合いながら色々なことを話した。亡くなった母のこと、小さな頃の記憶……。今まで言えなかったこと、話さなかった分だけ。
言葉を交わすたびに、重く沈んでいたものが少しずつほどけていく。張り詰めていた心がようやく緩み、静かな安らぎがそこにあった。
ルルーはリリーの髪をそっと撫でながら、ふと目を伏せた。
もっと、こうしていたい。でも――
その時、遠くから馬車の車輪が石畳を軋ませるような音がかすかに響いた。ゆっくりと近づいてくる。
――もう帰ってきたの? まさか、こんなに早く……。
ルルーの胸に不安が走った。彼女は急いで自分の部屋に戻ろうとする。しかし、戸惑ったようにリリーの手が彼女の袖をぎゅっと掴んで離さなかった。
「待って……お姉……さ……」
「待って……お姉……さ……」
リリーは言葉を途中で途切らせ、そのまま静かに目を閉じた。まぶたがすっと落ち、手からは力が抜けていく。
ルルーは、その様子をじっと見守っていた。
やがて聞こえてきた静かな寝息に、ほんの少しだけ胸をなで下ろす。
――ごめんね、リリー。でも、これしかなかったの。
井戸で汲んだ水に、あらかじめごく微量の睡眠薬を溶かしていた。リリーが止めようとするのはわかっていたから。話し合いをすれば、きっと情に流されてしまうと、自分でも分かっていた。
だからこそ、眠らせた。涙を見ないように、引き止められないようにするために。
今だけは、自分の弱さを遠ざけておきたかった。
眠りに落ちたリリーの顔を見つめ、ルルーは立ち上がり、そっと彼女を抱き上げた。
朝になって自分の部屋にいないことに誰かが気づけば、それは大問題になってしまう。
使用人や家族が不審に思い、どこかへ探しに行けば、すぐに見つかってしまう。姉妹で瓜二つのリリーをその部屋で寝かしつける事で、ルルー・アステシアは失踪したとは暫く分からないだろう。
リリーを自分の部屋のベッドに寝かせた後、ルルーは急いで出る準備をする。
何着かの簡素な衣服をカバンに詰め込む。どれもこれまであまり使ってこなかった、質素なデザインのものだった。ドレスとは違い、目立たず移動するためにぴったりのものだ。
そして、これまで貯めてきたお小遣いを取り出した。家ではほとんど使う機会がなかったため、かなりの額が溜まっていた。
――これで暫くは何とかなる。
そう心の中で呟きながら、ルルーは最後の確認を済ませた。
準備が整ったところで、彼女はそっとドアノブに手をかけ、音を立てぬよう部屋を後にした。
ルルーが裏口に手をかけ、外に出ようとした瞬間、突然後ろから誰かに手を握られた。驚いて振り返ると、そこにはクロドが立っていた。彼の表情はいつになく真剣で、彼女を逃がすつもりはないかのように、その手をしっかりと握りしめていた。
「クロド……!どうして、ここにいるの?」
ルルーの問いかけに、クロドはしばらく何も言わず、ただ彼女の瞳を見つめていた。
夜の静けさが、二人の間に降りてくる。遠くの森で、どこか小さな獣の鳴き声がした。
「……わかってたんだ。君が今夜、この家を出ること」
その声には、言葉にできない想いが微かに混じっていた。
「言葉にできないけど……今日の君は、何か決めてる顔をしてた。見てて、わかったんだ」
そう言って、クロドはルルーの手を見た。その手に握られた小さな鞄。逃げる準備をすべて終えた人間の、それだった。
「君の決意を、邪魔するつもりはない。でも……」
クロドは一歩だけ前に出る。月明かりが彼の輪郭を照らした。
「僕は――」
そこで言葉を止める。
クロドはしばらく言葉を止め、ルルーの手を見つめる。
言いたい。けれど、それを言えば、彼女の背中を押してあげられなくなるかもしれない。
言葉が喉元まで込み上げて、また引いていく
「困らせないで……」ルルーは小さな声で言った。
小さな声で、でもはっきりと、彼女はそう告げた。
クロドは、ルルーの手を強く握ろうとしたが、その手はだんだんと緩んでいく。
リリーが望んでいるのは、自分の側にいることではなく、自らの力で未来を切り開くことなのだろう。それは今もあの時も変わっていなかった。彼女の選択を尊重しなければならない。それもまた、ひとつの愛なのだと思った。
リリーも、クロドの気持ちを薄々分かっていたが、それを自分から聞くのが怖かった。クロドが何を言おうとしているのか、彼の視線や言葉の間に滲む感情から感じ取っていた。長い付き合いの中で、彼の本心を察することはできたし、もしかしたら自分も同じ気持ちを抱いていたのかもしれない。
それでも、今それを伝えてはいけなかった。
「クロド……ごめんね。私……行かなくちゃいけないの。あなたがどれだけ優しくて、どれだけ私を気遣ってくれているかは、よく分かっている。だからこそ……これ以上、あなたを巻き込みたくないの。」
ルルーはそっと手を離し、クロドに背を向ける。
「どうかリリーを気にかけてあげて。」
と一言を残し、ルルーは裏口を出る。
冷たい夜風が彼女の後を追うように吹き込んできた。
クロドは扉の前に立ち尽くし、ただ彼女の後ろ姿を見送るしかなかった。
「ルルー……」
彼は小さく呟くが、その声は彼女に届くことはなかった。
翌日、姉ルルーが突然姿を消し家中が大騒ぎになった。何ヶ月の間、何度も捜索をしても、彼女の念入りな偽装工作で見つかる事はなかった。
◇
数年が経ち、アステシア家は以前とは新しい日常が訪れていた。
「あなたは強いわ。自信を持って。」
姉の言葉が、彼女の支えだった。リリーは初めこそ不安でいっぱいだったが、アステシア家を守るために、そしてルルーの残した役割を果たすために毎日全力で頑張っていた。
クロドの心には、依然としてルルーへの想いが残っていた。彼女に伝えたかったことも、これからも共に歩んでいきたかったという気持ちも。
でも、ルルーは自ら選んだ自由を手に入れ、もうこの世界にはいない。
それを受け入れた今、二人はそれぞれの道を歩きはじめている。
リリーはアステシア家の新たな柱として、日々政務に追われながらも、一歩ずつ確かに前進していた。姉に似た芯の強さと、人を思いやる優しさが、いつしか彼女自身のものとなっていた。
クロドは変わらず側にいたが、それはかつてのような恋慕ではなく、互いを支え合う同志としての距離だった。時折交わす視線の中には、言葉にはしない敬意と信頼が宿っていた。
ふたりの間にはもう、恋という言葉で表せる関係はないのかもしれない。それでも、かつてルルーがそうであったように――
「隣にいてくれるだけで、力になれる」
そんな穏やかな絆が、確かにそこに存在していた。
一方その頃、遠く離れた静かな村では、風に揺れる窓辺のカーテンの向こうで、ひとりの女性が空を見上げていた。
それが誰であるか、彼女の過去を知る者はいない。ただその瞳の奥には、どこか遠く懐かしい場所を思い出すような、静かな光が揺れていた。
――これでよかったのよ。
彼女はふっと微笑むと、そっと目を閉じた。
道は交わらなくなったとしても、それぞれの選んだ未来は、きっと間違いではなかった。
そう信じられるほどに、時は静かに流れていた。
◇
一方、ルルーは小さな村での生活を続けていた。村の人々に貴族だと知られることなく、ただ一人の普通の人間として生きていくことに、彼女は満足していた。
ある夜、彼女は星空を見上げながら、ふとアステシア家のことを思い出した。リリーとクロドのこと、そして自分の選択が本当に正しかったのかどうかを。だが、今の彼女の心には後悔はなかった。各々が選んだ道が幸せであるからだ。
「これで良かったのよ」と、ルルーはそっと呟き、星明かりの下で静かに微笑んだ。
私が愛した、あの二人のために。
そして――私自身のために。
あの夜の涙も、別れの言葉も、すべてが未来へ繋がっていたのだと。
ルルーはゆっくりと目を閉じた。夜風がそっと頬をなでていく。
新しい一日が、もうすぐ訪れようとしていた。