大切な親友を傷つけるなんて馬鹿なの?死ぬの?
レイナ・ブランヴィルは伯爵家の長女として生を受け、両親や三つ年上の兄にかわいがられ、すくすくと成長した。レイナは、隣国の社交界で至宝と呼ばれた母の血を受け継ぎ、ぱっちりと大きな瞳、桃色の唇、流れるような金色の髪を持ち、将来は母をも超える美貌の令嬢になるだろうと噂されていた。
レイナの父は、王立学園時代からエステリエル公爵と旧交をあたためており、それは卒業してそれぞれの道を歩んでも変わらなかった。エステリエル公爵家は、数代前には王妃を輩出したほどの名門公爵家であり、エステリエル公爵自身も宰相を務める傑物である。いっぽうのレイナの父ブランヴィル伯爵は、どちらかと言うとおっとりとした物静かなタイプで、本来なら対極の二人が友人と呼べる仲になったのは、レイナの母フェリーチェ・ブランヴィル伯爵夫人のおかげであった。
フェリーチェは隣国からの留学生として王立学園にやってくると、すぐに貴族子息たちの注目の的となった。彼女がほほ笑むと男たちはみな見とれ、婚約者のいる男性でさえ、フェリーチェとすれ違うと自然とその方向に視線が向くほどである。そんなフェリーチェは、学園にきてすぐ、中庭で静かに本を読むブランヴィル伯爵に一目惚れしたのだ。そして、そんなフェリーチェと朴念仁のブランヴィル伯爵の仲を取り持ったのが、エステリエル公爵である。
そういうわけで、ブランヴィル伯爵とエステリエル公爵は身分を超えて、今でも家族ぐるみの付き合いがあった。
レイナは幼いころからエステリエル公爵家に遊びに行くことが多く、エステリエル公爵家のひとり娘で同い年のマリアンヌとよく遊んでいた。遊んでいたというよりは、引っ込み思案のマリアンヌの手を引いて外に連れ出すことが多かった、というのが正しい。
レイナとマリアンヌも、父たちがそうであるように、対極な存在である。
見目うるわしく、母譲りの活発さを持つレイナと、どちらかというと一歩引いたエステリエル公爵夫人の血を引き、容姿は平凡なマリアンヌ。貴族令嬢たちの集まりでは、華やかなレイナの周囲に人は集まるが、マリアンヌは公爵家の娘であるのにほとんど人が寄り付かない。レイナとマリアンヌが二人でいると、意外そうな顔をする不躾な子どももいたくらいである。
レイナは、両親から「人に優しく、誠実であれ」と教えられて育った。どんな相手でもにこやかに相手にするのと、もともとの見た目の美しさもあり、幼いころから貴族子息にかこまれることも多かった。そんな彼女は、一部の令嬢たちから陰口を叩かれることももちろんある。レイナ本人は、「言いたい人には言わせておけばいい」と軽く考えていたのだが、とある伯爵家で開かれた誕生会で事件は起こった。
まだ子どもとは言え、集まるのは貴族の子どもたちである。たとえば、主役である令嬢とドレスの色がかぶらないように、など貴族として守るべきマナーはたくさんあった。レイナも、伯爵令嬢の誕生会ということで、主役の令嬢や他の高位貴族の令嬢たちとドレスの色やデザインがかぶらないよう細心の注意を払って参加していた。
ところが、主役の伯爵令嬢が淡い恋心を抱いていた伯爵子息が、誕生会の主役に儀礼的なあいさつをしただけで、あとはレイナの隣でべったり侍っている。レイナはやんわりと主役の令嬢のもとに行くよう伝えるが、子息はレイナに夢中であった。なんとか子息を振り切ってひとりになった途端、主役の令嬢や彼女の取り巻きたちにレイナは取り囲まれたのである。
「あなた、どういうつもりなんですか!?」
「男性をいつもいつも侍らせて本当に下品!そのドレスも似合ってないわ!」
一方的に悪意を向けられることのなかったレイナは、何も言い返すことができず、黙ってうつむくしかなかった。何か話せば泣いてしまいそうだったからである。そうして言われるがままじっと耐えていたときのことだ。
「な、なにをしているんですか?」
突然現れたマリアンヌに、令嬢たちも気まずそうに顔を見合わせる。エステリエル公爵家は名門公爵家で、このなかではマリアンヌが一番爵位が高い。それでも、ふだん大人しいマリアンヌを軽んじていた令嬢たちは、馬鹿にしたように言い返す。
「マリアンヌ様には関係ございませんわ」
「そうです。わたくしたちはレイナ様に、教えて差し上げてるだけですもの」
「いつも男性とばかりお話しになっているので、女性同士の機微にうとくていらっしゃるんですもの」
令嬢たちの言い分に、レイナはやはり言い返せずに唇を嚙みしめる。何より、自分がいつも手を引いてあげていたマリアンヌに見られたことも、彼女の自尊心を傷つけていた。マリアンヌは令嬢たちの話を聞き、大きくため息をつく。
「くだらないですね」
「は……?」
「少なくともレイナは集団で誰かを槍玉にあげたり、陰口を言ったりしません」
「べ、別に、わたくしたちだって……」
「こんなことをしているお暇があるなら、気になる方と交流を持たれたほうがいいんじゃありませんか?」
いつもおどおどしているマリアンヌがきっぱりと言い返したことで、令嬢たちが驚いたように顔を見合わせる。
「これ以上レイナに何かするなら、エステリエル公爵家としても看過できませんわ」
マリアンヌの言葉に、令嬢たちはびくりと肩を震わせてそそくさとその場をあとにする。レイナもそんなマリアンヌをぽかんと見つめることしかできなかった。
「レイナ、大丈夫?ひどいことされてない?」
心配そうにレイナの顔を覗き込むマリアンヌの目に、みるみる涙が溜まっていく。
「マリアンヌこそ……。本当はこわかったんじゃないの?」
レイナはマリアンヌの手をぎゅっと握る。お互いの指先はすっかり冷え切っていた。
「い、家の名前を出しちゃったから、あれで引っ込んでくれなかったらと思ったら、お父様に怒られるところだったわ……」
「そこなの!?」
マリアンヌの返答に、レイナは貴族令嬢らしからぬ声を出して笑ってしまう。レイナの笑顔を見て、マリアンヌも泣きながら笑っていた。
この件以降、レイナとマリアンヌは家のことを抜きにして、急速に関係が深まっていった。レイナは流行りのドレスやお出かけが好きで、マリアンヌは読書や刺しゅうが好きという、趣味趣向はまったく異なる二人だったけれど、一緒にいると落ち着くし誰にも言えない秘密を共有し合える関係でもあった。
王立学園に入学する半年前、王家の希望もあり、第三王子とマリアンヌと婚約が結ばれた。エステリエル公爵家にはすでにマリアンヌの兄が跡継ぎとして地盤を固めており、マリアンヌはエステリエル公爵家が持つ伯爵位を継承することになっている。第三王子は側妃腹の王子でいずれは臣籍に下る必要があった。そのため、女伯爵となるマリアンヌの補佐として結ばれた婚約である。
マリアンヌは父からこの婚約話を受けた際、嫌な顔ひとつせず、笑顔で頷いた。エステリエル公爵家が力を持っていると言えど、断れば父に累が及ぶかもしれない。公爵家の令嬢として贅沢な暮らしを享受しておきながら義務を放棄するようなことをしたくない。マリアンヌはそう考え、しかしその考えをなるべく父に悟られないよう笑顔を見せたのである。
一方の第三王子のルシアン・ヴェルダンは、マリアンヌのことを「おもしろみのない女」だと考えていた。容姿に華やかさもなく、男性を楽しませようとする技量も持ち合わせていない。名門公爵家の令嬢なのに何もかもが凡庸な婚約者を、ルシアンはあまり好ましく思わなかったのである。
側妃の息子として生まれたルシアンは、王位とはほど遠く、正妃の子と比べると大した才覚も持ち合わせていなかった。母譲りの顔立ちのよさが彼の唯一の自慢であり、すべてである。だからこそ、平凡な容姿のマリアンヌの婚約者になってしまったことを、勝手に恥だと考えていたようだ。
王立学園に入学して、さまざまな貴族令嬢を目にすると、ルシアンのマリアンヌへの気持ちはますます冷めたものになっていった。いずれ結婚しなければならないことはわかっていても、どうしても大切にしようと思えない。
そしてそれは、マリアンヌの友人であるレイナを紹介されたときに、決定打となってしまった。
「はじめまして。マリアンヌの親友、レイナ・ブランヴィルと申します」
レイナ、マリアンヌ、ルシアンは時を同じくして王立学園に入学した。入学してから数週間、マリアンヌにどうしても時間をとってほしいと言われしぶしぶ中庭のガゼボに向かうと、ルシアンはこれまで目にした令嬢とは比べもにならない、輝くばかりに美しい容姿を持つレイナを紹介されたのだった。
「レイナはわたくしの一番の友人なんです。ぜひ殿下にご紹介したくて」
いつもは口数の少ないマリアンヌがうれしそうに言うのを、ルシアンは気にもとめずぼうっとレイナに見とれている。
「ルシアン・ヴェルダンだ。ルシアンと呼んでくれ」
「まあ、王子殿下に対して恐れ多いですわ。殿下と呼ばせていただきます」
レイナは完璧な淑女の笑みで、ルシアンの申し出を軽くいなす。
「レイナと呼んでもいいだろうか?」
「……名前は家族か親友にしか呼ばれていないので、ブランヴィル伯爵令嬢とお呼びくださいませ」
やんわりとレイナは名前呼びを断るが、ルシアンには美貌の乙女が自分に甘くほほ笑んでいるというふうにしか見えていなかった。マリアンヌは惚けるルシアンを、無表情で見つめている。ルシアンが、肩書き以外すべて平凡な自分に不満を持っていることはわかっていたが、ここまであからさまな態度をとられると、怒りを通り越していっそ冷静になれる。
本来なら、マリアンヌはレイナを紹介するつもりはなかった。こうなることはわかりきっていたし、王家からの申し入れである以上、この婚約を簡単に解消することはできない。マリアンヌとしてもルシアンと心を通わせることはあきらめていたが、大切な友人であるレイナに迷惑をかけるわけにはいかないと考えていた。
ところが、そんなマリアンヌの考えを承知の上で、「婚約者様に会わせて?」と言ったのはレイナである。
レイナはレイナで、マリアンヌとルシアンの関係がどうもうまくいっていないらしいことを察していた。明らかにマリアンヌのため息が増えていたし、マリアンヌの侍女からそれとなくルシアンのふざけた態度のことを耳にしていたのである。そして、忍耐強く、周囲を常に慮るマリアンヌが、婚約解消を難しいと考えているだろうことを。
レイナも一介の貴族の娘である。政略結婚の重要性も理解しているつもりだ。だからといって、親友が不幸せになるのを黙って見ていることは正しいことだろうか?それはもちろん否である。
そうして、まずは自分の目で見極めようと、嫌がるマリアンヌに頼み込んでこの場をセッティングしてもらったのだが。
間抜け面をぶら下げるルシアンを見て、レイナは内心吐き気を覚えていた。こんな品性も知性もなさそうな男がマリアンヌの婚約者になるなんて、エステリエル公爵は耄碌したのではないか、とすら考えていた。精神的にも幼稚で、女を装飾品としか思っていなさそうなこの男に、マリアンヌを任せられるわけがない。
「これから、俺も友人として仲良くしてほしい」
この瞬間、ルシアンの運命は、ほとんど決したようなものだった。
ルシアンはイライラしていた。
レイナと出会って数ヶ月、なんとか距離を縮めようとしてもいつもマリアンヌに邪魔されるからである。
「レイナ」
レイナを紹介したときから、ルシアンは事あるごとにレイナにつきまとった。レイナのそばにはたいていマリアンヌもいたが、彼はいつもマリアンヌよりもレイナへのあいさつを優先する。
「……ブランヴィル伯爵令嬢ですわ、殿下」
今日もレイナは完璧な淑女のほほ笑みを浮かべるが、ルシアンにとっては自分にだけ向けられる特別なほほ笑みに見えていた。
「レイナ、よければ人気のカフェに行かないか?」
「わたくし、マリアンヌと用事がありますの」
そこではじめて、ルシアンはいつもレイナの隣に亡霊のように張りついてるマリアンヌに気づくのである。レイナにきっぱり断られているにもかかわらず、ルシアンは「マリアンヌのせいで」と自分に都合のいいように解釈していた。
レイナという女神に会わせてくれたことにだけは感謝しているが、明らかに女神の引き立て役にすらなっていない、凡庸なマリアンヌ。忌々しい存在だと、ルシアンはこの数ヶ月を思い返して舌打ちをする。
しかし、今日の彼はイライラしながらも、どこか上機嫌であった。
学園が夏休みに入る直前に行われる慰労パーティーで、今度こそ自分の気持ちがレイナにあることを知らしめてやろうと考えていたからである。
社交界では、ファーストダンスは婚約者と踊るのが通例だ。とくに、婚約者のいる女性にとって、ファーストダンスを婚約者と踊ることは名誉であり、婚約者に愛されている証でもある。ルシアンは、このファーストダンスをレイナと踊ることで、自分の真実の愛の相手はレイナであると周囲に喧伝しようと考えていた。女神のように美しいレイナを思うように独占できなかったこの数ヶ月で、ルシアンは正常な判断を失っていたのかもしれない。
ルシアンは会場の入り口をしきりに見つめながら、レイナが来るのを今か今かと待ち構えていた。きっとレイナは、この会場で誰よりも美しく着飾って入場してくるだろう。ダンスでレイナの肌に触れる想像をしていると、にわかに会場がざわつく。
レイナは、マリアンヌの瞳の色であるエメラルドグリーンのドレスをまとい、会場に入ってきた。いつも美しいが、今日は格別である。ふだん流している髪をていねいに結い上げ、首から胸元にかけたきれいなラインに目が奪われた。レイナを見た会場の男たちは、そわそわと彼女に声をかけようと色づいている。ルシアンは早足でレイナに駈け寄り、声をかけた。
「レイナ!」
「ブランヴィル伯爵令嬢ですわ」
「レイナ、今日の君はなんて美しいんだ」
「わたくしよりも、マリアンヌを見てくださいませ」
レイナに言われるがまま隣を見ると、いつものようにマリアンヌがレイナに張りついていたようだ。マリアンヌはレイナの瞳の色であるパープルのドレスを着ていつもより着飾っているが、ルシアンの目にはどこか古臭く映っていた。そもそも紫はあまり若い令嬢がまとう色ではないし、レイナを見たあとではやはり物足りなく思える。
「レイナ」
「……殿下」
レイナの眉がぴくりと動いた。
「俺とファーストダンスを踊ってほしい」
ルシアンの言葉に、周囲の貴族がざわつく。マリアンヌも驚いたように目を見開いていた。
「――本気ですか?」
「もちろんだ!俺は君のためだったら何だって……」
ルシアンの手がレイナに触れようと不躾に伸ばされる。レイナはさっと身をかわすと、取り出した扇でルシアンの左頬をばちんと打った。
「え……?」
何が起こったのか理解できず、ルシアンはぽかんとしている。
「わたくしの一番大切な親友をよくもコケにしてくれたわね」
レイナはヒールでルシアンの足を思いきり踏みつけた。
「いっ……!」
「わたくしをファーストダンスに誘うなんてどういうつもりなの?わたくしの大切な親友を傷つけて何がしたいの?馬鹿なの?死ぬの?」
レイナは笑顔のまま、ヒールをぐりぐりと押し当てる。
「レイナ、落ち着いて。口調も乱れてるから……」
マリアンヌがたしなめると、レイナは淑女のほほ笑みとは違う甘い笑みを浮かべた。
「だって、この馬鹿を早くマリアンヌの視界から消さないと」
「わたくしは気にしていないから」
「違う!」
レイナはぎゅっとマリアンヌの手を握りしめる。
「気にしてないなんて嘘。マリアンヌは優しいから、気にしてないふりをしてるだけよ」
「本当に気にしてないわよ?殿下のことなんて好きじゃないし」
「まあ、当たり前でしょ。こんな馬鹿をマリアンヌが好きになるわけないじゃない。でもそれとこれとは別よ。心ないことをされれば傷つくわ。いいえ、マリアンヌが傷ついていないと言ってもわたくしが嫌なんだもの」
ルシアンは左頬と足の痛みをこらえて、なんとか声を絞り出す。
「お、おい、ちょっと」
「うるさいわね。まだいたの?」
レイナは淑女の笑みも忘れ、汚物を見るような目でルシアンを見る。その瞳に、ルシアンの背筋に冷や汗が伝った。
「レイナ……?」
「軽々しく名前を呼ばないでくださる?」
完全にぷっつんしてしまっているレイナを見て、マリアンヌは小さくため息をつく。こうなったレイナを止めるのはしばらく難しいだろう。
「わたくしの大切なマリアンヌを大切にしない馬鹿に、呼ばせる名前はありませんので」
この騒動で、レイナはエステリエル公爵に「マリアンヌを大切にしない相手と婚約させていいのか」と直談判をし、公爵が動いたことでルシアンとマリアンヌの婚約は白紙となった。エステリエル公爵はルシアンがマリアンヌを大切にしていないことを薄々感じながらも、王家の申し出ということもあって対応が後手になったことを心から謝罪したという。
ルシアンは、母親ほど年齢の離れた女帝の五番目の王配となることが決まり、ほどなくして学園を退学することになった。
そしてレイナとマリアンヌは、今度のパーティーのドレスについて話し合う。
「ねえ、次はおそろいの宝飾品をつけましょうよ!」
「いいけど、派手すぎるのはやめてね」
マリアンヌは親友の申し出に、小さく笑って返す。あまり気乗りしない態度を見せているが、本当はレイナとおそろいのものを用意するのが楽しみになっている。
「わたくしがマリアンヌのことを一番わかってるんだから、世界一似合うものを見つけるわ!」
元気よく言ったレイナは、世界一幸せそうな笑顔を浮かべていた。