2.Long range shot
「にしても、人殺して稼いだ金で、租税回避地に別荘ぶっ立てて、呑気にバカンス満喫中ってか。 とんでもねえ奴やなぁ」
監視を続けながら、金本が呟いた。
その言葉に、城山は直ぐに答えられなかった。
丸く縁どられた視界に映る豪邸。
アレを建てるのに幾ら掛ったのだろうか?
アフリカでの流行から製薬会社が関与していたと考えると、今回の件だけでも1000人以上の人間が命を落としている。
それだけの人命を金に換え、私腹を肥やしているのだとしたら、なるほど、確かに疑う余地もない大罪人だ。
東京では未然に防げたからよかったものの、もしウィルスが拡散されていたらアフリカ以上の惨状があったかもしれない。
しかも今回の件で奴らは味を占めている。
そうでなくとも、別の勢力が同じようなことを画策しないとは言えないし、もしそうなった時、もう一度防げる保証はない。
その時、自分にとって大切な人物が、運悪く犠牲になる。
それが決してあり得ない話ではないということは、人の生死に関わる仕事をしている者にとって、痛いほど身に染みている。
将来的なリスクを鑑みれば、あの男は此処で死ぬべきだ。
犯罪者一人の命で、数千の善良な市民が守られるのであれば、この憎いほど理不尽な世界において、それはむしろ喜ばしいことなのだから。
城山自身、それが分からない訳ではない。
しかし、ふと思うのだ。
人を殺して、金を稼ぐ。
方法こそ違えど、自分たちの仕事は正しくそれだ。
事実、今も一人の男の生命を脅かそうとしている。
それを決定したのは上層部の顔も知らない誰かで、組織の末端である自分は下された命令に従っているだけだし、祖国の平和を維持するためには必要な選択だということも理解できる。
いいや、それはいい訳だ。
この仕事を選んだのは他でもない自分自身。
こういった問題に直面することは想像に難くなく、それを受け入れた上で自分は此処に立っている。
だとしたら、金のために病をばら撒くあの男と、命令のために人を撃つ自分。
そこにどれほどの違いがあるというのだろうか。
答えはとうに分かっている。
違いなどない。
どちらも、只の人殺しだ。
____考えるな。
頭を埋め尽くす思考を、狩人の本能が抑制する。
それは、敵地にいるという事実、身の危険が分泌を促進しているアドレナリンであるのかもしれないし、厳しい訓練によって脳と体に刻み込まれた習慣のようなものなのかもしれない。
ともかくも、城山はその本能に従い、意識を集中させた。
深く深く、限界まで空気を吐き切ると、反動で自然と肺が満たされる。
数回繰り返すと、豊富に取り込まれた酸素が血液に乗り、脳に、筋肉に、体中に廻り、体温が若干上がり始めたような感覚を覚える。
その頃には彼の精神状態も、随分と落ち着いていた。
一般的に、深呼吸は自律神経を整え副交感神経を優位にすることで、心身の状態を安定させる効果があると言われるが、彼の場合はどちらかと言うと反復動作としての意味合いの方が大きい。
普段から意識的に呼吸を行い、その行為を自然なものとして体に刷り込んでおくことで、何か異常が発生した際でも、それによって精神を迅速にニュートラルな状態に立ち戻らせることが出来る。
モチベーションが結果に多大な影響を及ぼすということ、そしてそれをコントロールする方法も、狙撃手はよく心得ている。
傍らに座る金本の姿が、目に入った。
ふと、この男には自分のような苦悩は無いのだろうと思った。
この男との付き合いももうそれなりになるが、この男が思い悩んでいるところを見たことが無い。
いつも淡々と任務をこなし、軽口を叩き、よく眠っている。
一見不真面目なようで、同時に誰よりも自然体でこの仕事に就いているように城山には見える。
作戦前のミーティングで居眠りをかまし、ターゲットの事情など全く知らなかったとしても、任務に必要な最低限の情報は、いつもなんだかんだ把握しているし、
今回にしても私語こそ絶えないが、潜入時の護衛からレンジカード(簡単に言えば、狙撃に使用する専用の地図のようなもの。自身と標的との距離や、射線上に存在する物体などの情報を記入する)の作成に至るまで、畑違いとは言え観測手としての職務も一通りこなしていた。
自分には理解できない人種なのだろう。
城山はそう思っていた。
「……おっ」
状況に動きがあった。
金本の纏う雰囲気が変わる。
スコープを覗くと、屋敷から数人の男が出てきたところだった。
裏口と見られる場所から出て、ヘリポートに向かって歩いて行く。
事前に覚えた顔とは違う。
おそらく操縦士か護衛だろう。
二人目、三人目……
「あれか」
四人目、最後に出てきた男の顔が、ミーティングルームのプロジェクターに映し出されたものと一致する。
「標的を確認、これより、作戦を実行段階に移行する」
単眼鏡の倍率を上げ、奴が目標で間違いないことを確かめた金本が短く告げる。
それを聞きながら、城山はチークピースに乗せた顎の位置と肩に触れる銃床の具合を調整し、腕の中のライフルを、もう一度しっかり抱え直した。
「射撃は予定通り、標的がヘリに搭乗後、離陸までの間に実施する。想定目標との距離は、950メートル」
金本が事前に計測しておいた数値を復唱する。
一般には長距離と目されるが、城山にとっては十分狙える距離だ。
今回持ち込んだ仕事道具は、合衆国製レミントンM700。
世界でも五本の指に入るであろうメジャーなボルトアクションライフルだ。
銃火器にさほど詳しくない人でも、狙撃銃だとか猟銃だとか言われた時、恐らく一番にこれを思い浮かべるのではないだろうか。
世界各国の軍や警察に採用され、ハンターたちが使用している、特に珍しくもないライフル。
だがそれは、裏を返せば、それだけこの銃が優れた性能を持つ、名作であるということの証明でもある。
城山にとっても馴染み深い銃だ。
国防軍で採用されている対人狙撃銃M24 SWSもM700をベースとして構成される狙撃システムであるし、
ということは、城山が始めて狙撃に使用し、それに習熟するまで幾度となく触れてきた銃であるということだ。
彼にとっては、苦楽を共にした積年の相棒と言っても過言ではない。
より大型の実包を使用可能なロングアクションモデル、装填されているのは.338ラプアマグナムという名の弾薬。
これは1000メートルの距離で高性能な軍用ボディアーマーを貫通し、稀有なところでは、これを使用し2475メートル先の標的を射殺した例もある。
更に今回使用するのは、狙撃用に製造された高精度弾だ。
これが、彼が1キロ近く離れた獲物を仕留めることが出来る理由の一つ。
というのも、例え一流の装備、選び抜かれた弾薬を用いたとしても、長距離狙撃はそんなに簡単なものではない。
意外に思われがちだが、現代の一般な歩兵の交戦距離は300メートル以下と言われており、それが十分な訓練を積んだ射手の”狙撃”であったとしても、その大半は600メートル程度までの話である。
特に1000メートル前後からそれ以上の距離となると、重力による弾丸の落下はもちろんのこと、果ては気温差や湿度、地球の自転の影響を受けることもあるため、基本的に命中は期待できない。
………基本的に、は。
話を戻そう。
弾頭の落下を補うためのエレベーション(スコープの十字線の縦軸。銃で物を狙う場合、視線と着弾点が一致するように照準を合わせる必要がある)の調整は既に済んでいる。
射撃直前に考慮が必要だとすれば、それは刻々と変化する風の影響を受ける横軸くらいだろう。
「風向、10時。風速は微風、照準に変更なし」
「了」
これから起こる悲劇のことなど露知らず、地中海のリゾート地は今日も平和そのものである。
気温、湿度、風、どれを取っても穏やかで安定している。絶好の狙撃日和だ。
まあ、元々年間を通して安定した気候の土地ではあるのだが。
カラッと乾燥した南東の海風、風速はいいとこ秒速2メートルと言ったところ。
この程度の風であれば、300グレインの弾道には何ら影響を及ぼさない。
屋敷の周囲に干された衣類や植木の葉のたなびき方を確認していた金本の報告に頷き、ボルトを引く。
開放された薬室にそっと指を入れると、弾倉で大空に飛び出していくその時を静かに待っている弾丸の、ひんやりとした感触が指先に触れた。
「弾倉、弾薬、共に異常なし」
言いながら、そっと念じる。
それは城山の癖であり、ジンクスのようなものだった。
これから自分の代わりに飛び出し、命を奪う弾丸に、無事目的地まで届き、そして願わくば、出来るだけ苦しまず、標的に安らかな眠りが与えられることを…
祈る。
それは半秒にも満たない刹那の、しかし彼にとっては決して欠かすことは出来ない時間。
それを待っていたかのように、城山が意識をスコープに戻したタイミングで、金本が号令をかける。
「状況確認、射撃準備、共に問題無し。 第一射、装填」
ボルトを押し戻すと弾倉から一発の実包が薬室に送り込まれる。
「弾込め良し」
薬室が完全に閉鎖されたことを確認し、意識をスコープの向こうに集中させる。
左手で銃床を肩に押し当てるようにして固定し、まだ引き金に指は掛けない。
「いつでも撃てる」
「了。以降、射撃は任意。 獲物が鳥カゴに入り次第、撃て」
標的は屋敷からヘリポートへと繋がる桟橋を渡りきったところだ。
ヘリの影になり、一旦男の姿が視界から消える。
予定通り。
ヘリのこちら側へと回り込んだ男が後部座席に乗り込むと、護衛と思しき巨漢がドアを閉めた。
呼吸を整え、人差し指を引き金に這わせる。
まだ、まだだ。
ローターの回転数が上がり、旋風が屋敷の広い庭に植わっている木々の枝葉を揺らし始める。
護衛が反対側の座席に乗り込み、全員がカゴの中に入った。
今。
そう思うよりも早く、城山の身体はまるで事前にプログラムされていたかのような正確さで仕事を終わらせていた。
撃鉄が落ち、恐ろしいほどの精密さでライフリングが切られた銃身内を、焔が迸る。
放たれた約19.5グラムの徹甲弾は、1秒と少しの時間をかけて飛翔し、ヘリの窓を穿った。
「フッ」
短く息を吐く。
そこに込められたのは僅かな安堵。
ガラスには数本ヒビが走っているのが確認できるが、確実に弾は貫通ている。
情報通り、あのヘリにはラプアマグナムを止めるほどの防弾処理は施されていなかったということだ。
息をついたのも束の間、間髪入れずボルトを操作し、次弾を装填する。
発砲。
ターゲットはヘリの中であり、直接生死は確認できない。
であれば、確実に致命打を叩きこみ、止めを刺す。
銃口に装着した抑音器により大部分が拡散された銃声が響き、ヘリの穴が一つ増える。
更に排夾、装填。
三射目を撃ったところで、城山はようやく手を止めた。
「状況から標的の生存は不可能と判断。撃ち方を止め、速やかに現在地を離脱する」
「……了」
金本が静かに告げ、それに頷く。
二脚をたたみ、持ち込んだ時のように銃を長型のフィッシングバッグにしまい込む。
隣では三脚や、レンジカードなどを閉じたバインダーや、その他もろもろをまとめ終わった金本が大きく伸びをしていた。
…って、片付け早やっ!?
「あ~、終わった終わった疲れたわぁ。さっ、けえろけえろ。ってかマジ疲れた、クソだるい。もう二度と狙撃任務なんてゴメンやわ。他の人に回してクレメンス」
射撃が終わったとたん、先程までの雰囲気からガラリと一変し騒ぎ出す金本。
まるで別人のような変わりように、城山も毎度のことながら開いた口が塞がらない。
「城ヤーン、ボヤボヤしてっと置いて帰ってまうで~」
真剣に二重人格を疑い始めた城山に目もくれず、金本は駆けだしていた。
猛虎弁を操り、騒いでいただけで今回特に見せ場の無かったこのイタ男。
彼こそが、1年後に巻き起こる一連の事件の台風の目であり、そして、この物語の主人公その人であることを、世界はまだ知らない。