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10.一日





元特殊部隊員フリーターの朝は早い。



起床は午前四時半。


携帯のアラームで目を覚ます。


最近はあまり眠れていないのか、目の下の隈が目立つ。


そんなことは気にせず顔を洗って着替えると、ジャージ姿で外に出た。



彼の一日は日課のトレーニングから始まる。


軽く体を伸ばすと、少し離れたところにある公園に向かう。


距離は体感で5キロ弱。


その道を行きはウォーミングアップも兼ねて30分。


帰りは20分かけて走る。


それなりに起伏もカーブもある、変化に富んだコースだ。


公園に着く頃には体は十分温まっている。


もし園内に誰もいなければ、子供用の遊具を利用した自重トレをやる。


懸垂、雲梯、跳躍、等。


回数やセットは特に決めていない。


公園に着いて、腕時計を見る。


その時、一番最初に目に入った数字で内容を、秒数で回数を決め、即座に取り掛かる。


例えば、最初に見た数字が3なら雲梯、16秒なら6往復といった具合に。


現役時代に海外部隊との研修で学んだ、瞬発的な対応力を養う鍛錬法だ。


人が増えてきたら、奥の雑木林の中に場所を移す。


足元から手頃な枝を拾う。


「シッ」


鋭い呼気と共に、その辺りの木に枝で斬りつける。


同じ動作を、何回も、確かめるように。


人と樹木では手応えも何も違うが、相手がいることを想定して行うことで、()()を考えることが出来る。


想定される反撃、防御、回避行動。


若しくは、こっちの木も敵だったら? 右の木と左の木、どちらから対応したほうが良い?


斬撃、刺突。回して逆手に持ち替え、また斬撃、刺突。そして左での掌打。


一つ一つは単純な動作だが、組み合わせることで無限の戦術(コンビネーション)が生まれる。



日課で汗を流したら、シャワーを浴び、軽く朝食を取ってバイトに行く。


バイト先は、近所のスーパーの鮮魚部門だ。


直ぐに正社員になるのは無理だと判断し、それならばと店頭のスタッフ募集のチラシを見て応募した。


社員はいらないが、非正規労働者はいつも人手不足らしい。


入ったら入ったで、経費削減とかで人手が雇えず、本来5人で回す作業を3人でやっていた。


それ程規模の無い店舗だからか鮮魚部門には社員は一人もおらず、パートの中年男性が主任を代行していた。


当然金本もバイトとは思えないようなシフトを組まれる羽目になる。


嫌な世の中だ。


業務内容は、魚を切って、洗って、詰めて、掃除して、そんな感じだ。


こう聞くと退屈そうだが、案外そうでもない。


例えば、包丁とナイフでは持ち方一つとっても違う。


商品をよく見せるための切り方、盛り方、切りやすい魚体の置き方、怪我防止の方策、作業手順、商品の種類etc.


覚えることがたくさんだ。


例え時給1000円のスーパーのバイトでも、より良い商品を作るための工夫(ノウハウ)、早くこなすための技術(スキル)、自分の仕事に対し負う責任(プロ意識)が、脈々と受け継がれている。


昔の人は「職業に貴賎なし」と言ったらしいが、そういうことかもしれない。



仕事を終え、家に帰ると食事を作る。


今の彼にとって、数少ない楽しみの一つだ。


今日のメニューは、割引の冷凍イカとエビを入れたシーフードカレーだった。


動いている分、食べる量も多い。


普通の三人前くらいはペロリと完食する。


夕食を食べ終え、テレビを見ていた金本だったが、ふと立ち上がり、寝室でない方の部屋に入って行く。


押入れが一つあるだけの殺風景な部屋。


金本は鍛錬部屋(ジム)と呼んでいたが、その割にはダンベルやバーベル、プッシュアップバーなどの器具が一つも見当たらない。


唯一、床にポツンと転がっていたラバーのダミーナイフを拾い上げた。


しばらくナイフを手の中で転がしていた金本だったが、唐突に刃が空中を走る。


凄まじい速度の刺突、斬撃。


朝、公園の林でやっていたものと同じ動き。


それをひたすら繰り返す。


素振り素振り素振り。



元々、金本は筋力トレーニングにはどちらかと言えば懐疑派だ。


今でこそ腕立て等の自重トレーニングを多少取り入れてはいたが、それは金本にとって息抜きのようなもの。


昔、基地内のトレーニングルームに通ってウェイトトレーニングに励んでいたこともあったが、肥大した筋肉に対して馬力はあまり上がらなかった。


正拳突きを強くする筋トレは無い、などと言われるように、結局のところ習得したい動作を繰り返すことこそが、最良のトレーニングだと金本は考えていた。


筋トレで付けた筋肉が、逆に動作の邪魔になることもある。


欲しいのは力だ。ハリボテはいらない。



Tシャツを脱ぎ捨て、床にぽたぽたと汗を垂らしながらナイフを振り続ける金本。


トレーニングは良い。


身体を酷使し、息が上がっている間は他のことを考えなくて済む。


過去の後悔も、惨めな現状も、将来への不安も。


何も考えず、ただ、目の前の動作にのみ、集中すればいい。


ナイフを振るために身体が稼働し、その苦痛を和らげるために心臓が跳ね、肺が動き、血が巡る。


それだけだ。


目的と行動がガッチリと線で結びついている。


至ってわかりやすく、シンプルだ。


素晴らしい。


まるで何かから必死に逃れようと藻掻くかのように、金本はひたすら素振りを続けた。




部屋の電気を消そうとして伸ばした腕が、ズキリと痛んだ。


広げた左手を眺める。


そこに在るのは、小指側から中指の辺りまで深々と走る傷跡だった。


数年前、ある紛争地帯での任務中に負った傷だ。


嫌な場所だった。


理不尽と不条理という名の怪物が絶えず襲い掛かり、人が、村が、次々と血に塗れ死んでいく。


出来ることなら思い出したくはない記憶。


もう消えたものも、跡として残っているものも、体中に数え切れないほどの傷を負ってきたが、肉体の回復に伴って、それにまつわる記憶も既に大部分は忘却の彼方だ。


それでもコレだけは、今でもありありと回想することが出来る。


それはあの時、傷と引き換えに失ったモノがあまりに多く、大きすぎたせいだろう。


特に最近は、夜毎に騒ぎ出す。


『忘れるな』、と。


まるで止まってしまった金本を急かすかのように。



いつからだろう。


眠るのが怖くなったのは。


大丈夫、起きた時には朝になってる。


そうしたらまたバイトに行くだけだ。


何も考えなくていい。


そう自分に言い聞かせて、いつも布団に入る。


それでも目を閉じると、どこからともなく泡のように浮かび上がった思考が、頭の中を埋め尽くす。



このままでいいのか?


自分は一体何をしたい、いや、したかったのか?


今までは、俺が他人の生活を守ってやっていると思っていた。そのために戦っているつもりだった。


それがどうだ。


もう俺は戦っていないのに、こんなにも怠けているのに。


見ろ、日本は今日も平和だ。


だったら、俺はなんのために戦ってきたんだ?


俺たちの仕事は無駄だったのか?


努力してきたつもりだ。


人の為に、文字通り身を削って尽くしてきたつもりだ。


それなのに、今の俺には何もない。


夢も、希望も、名誉も、守りたい人すらも、何も、無い。


いや、違うな。


人の為なんかじゃあない。


人の為に尽くしている自分に、酔っていただけだ。


俺はどこまでも自分のために生きてきた。


だというのに、自分のために戦ってきたはずなのに。


なんで俺は、こんなにも報われない。こんなにも、満たされない。


分からない。


誰か教えてくれ。どうしてこうなった? 俺はどうしたらいい?


苦しい苦しい苦しい。


辛い辛い辛い。


こんな人生に、価値はあるのか?


……………違う。


止まるな。


振り返るな。


立て。


前に進め。


戦え!


『平和を、守れ』



「はあっ………はっ…はっ」


息苦しくなって、目を開ける。


外はまだ暗く、目を閉じた時から長針は15分も動いちゃいなかった。


「…クソっ」


この程度じゃあ、まだ寝られないのか。


無駄についた体力を呪った。






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