理不尽よ、私は諦めない
「明日死ぬなら、何する?」
「アコギで何か弾き語りながら死にたい」
「死の間際までクールぶんなし。ってか、この状況じゃそんな余裕ないっしょ?」
校舎の隅で話す二人は、ひどい有様であった。切り傷だらけになった四肢も、虚な臭いに染まりつつある髪も、とても高校生が身につけていていいものではなかった。
ずっと、不愉快だった。周りを取り巻く甲高い雑音は、日に日に波の高さを増しながら脳髄が腐り落ちそうな残響を伴ってこちらに迫ってくる。
「ねえ居森、変なこと言っていい?」
「ダメだ」
「マジ叫びたい」
こいつは、私の話を聞いちゃいない。自分と周りが良ければ、それでいい。言っちゃ悪いが、下手すれば人を殺しかねない、最高にクレイジーな輩だ。
「バカ一人ならともかく、私もいる。頼むからやめてくれ。あいつらが来る」
「バカってどこよ?」
大人しくしていられないらしい桐崎は、大袈裟に走り回って周囲を見渡す。彼女が動き回るたびに、アホほど短くされたスカートが頼りなくひらひら舞った。
「トイレに行けばすぐ出会えるだろうさ」
空から謎の虫が降り注ぎ、元から狂っていた学校が完全にディストピアと化してから半月。偶然一緒に音楽室にいたこのバカとの共同生活にもうんざりしているところだ。他の者と連めるなら連みたいところだが、生憎生き残りはこいつしかいないようだった。口を開けば欲望と極論垂れ流しのイカれた女である。
最初は、こんなことにはなっていなかった。それなりに人数も生き残りもいたのでクラス単位でまとまって行動していたが、集団行動をマトモに行えなかった連中は不用意に外に出て虫たちに食い散らかされてしまった。
不幸なことに、私の友人である閑谷は無理にその集団に入れられていた。
奴は人を疑うことを知らず、誰かに命令されたり支配されたりすることを好むという妙な性癖を持っていた。命令されるままにクラスのリーダー格についていき、虫に食い殺されてしまった。
もう、彼も動き回る死体の一員である。
他にも色々居た気がするが、一番最初の閑谷以外をいちいち覚えていられないぐらい食われてしまった。とりあえず、犠牲者はここにいる二人以外全員だ。
「ほんと、急にこんなことになっちゃったよね?」
「……ああ、本当に一瞬だった」
ある晴れた日の放課後。空から降り注いだ虫は腐臭を振り撒きながら、校舎の外に出ていた生徒たちを襲い始めた。みずみずしく活動的だった生徒がボロボロの死体に成り果てる様は、まさに地獄絵図としか言いようがなかった。
そして脳まで食われた者から順に、体の欠損部分を虫たちが埋め合わせていき、ほとんど個体の区別がつかない生ける屍になってしまったのであった。
「私たち二人、あの環境で生き残れたとかヤバくね?」
「……それについては同意しよう。我がことながら、よく耐えたと思う」
空から注ぐ虫が校舎の内外問わずに跋扈するようになってから、随分色々なことをした気がする。
「最初は確か、119番したんだっけ?」
「そうだったな」
生き残った生徒たちは校舎内で過ごさざるを得なくなった。
まず最初に採られたのは、公共機関にSOSを出す策だ。
しかし、いくら電話をかけても繋がらない。どうやら、学校の外も大変な状況になっているようだった。虫たちが空を飛べず、壁も登れないらしいのが不幸中の幸いであったが、状況は最悪であった。
「でもなんやかんやしてもうまくいかなかったから、最終的に上の階の教室にバリケードを作って立て篭ったんだよね?」
「ああ。非常に脆く、いつ崩れるかわからないものだったがな」
籠城作戦とは本来、十分な食糧などの蓄えがあって初めて効果を発揮するものである。ましてや、敵に侵入され、備蓄品もないまま決行されたそれに意味などあるはずがなかった。
1日経ち、2日経ち、生徒たちはいよいよ飢え苦しんだ。幸い廊下にある水道水を飲むことができたので命を引き伸ばすことはできたが、そこまでいくのも命懸けである。
食べるものがないために手を出したのは、箒などで叩き潰した虫を食うことである。もちろん、そんなもの体に悪いに決まっている。数人は腹痛と嘔吐に悩まされ、教室からは常に異臭が漂っていた。
中には、その生活に耐えかねて身投げをしたものもいる。気が触れた笑顔と共に金切り声を上げながら肉を貪られる級友の末路は、目も当てられぬ惨さであった。
それでも生き残りたい者たち同士で校舎内に侵入した虫たちを討伐する班が組まれたこともあったが、数の暴力に負けてその姿は多くの影の中に消えた。
「一番エグい死に方してたのは、バリケードの外に出てった討伐班の奴らじゃね?」
「……どうだか」
「やっぱ今考えても、あいつらアホくさくない? わざわざ頼まれてもないのにいい人ヅラして動いてさ……まあ、食わす口が減ったからいいんだけど」
「お前がこの生活の中で、一度でも人に飯を与えたことがあったか?」
討伐班の連中は、誰かがいつかやらねばやらないことをやっただけだ。なぜそんな彼らがなぜ、さも流れに逆らうことが悪であるかのように扱われなければならない?
私が見る空間の腐臭はみるみるうちに蔓延し、討伐班を組み始めたあたりから生き残りの数もごっそり減った。教室が空になるごとに生活範囲が収縮し、いよいよ飲料水を手に入れることさえ厳しくなった。
私は、絶望していたのだろう。
虫が落ちるボトボトという音は鼓膜を貫く散弾となって頭を犯した。ここにいるだけで、体のさまざまな部分が汚れていくのがわかる。とても、マトモな精神でこの環境に耐えることはできなかった。
私が何かを手放し始めてからだろう。私の友人は、次々に食われていったのは。私が手放さなければ食われなかったのかと問われれば、おそらくそれは違うのだろう。
たまたま、運が悪かったのだ。たまたま、私がここに生まれてしまったのだ。誰も悪くはないのだ。
どれだけ虚しい気持ちでいようとも、今日も空は渦を巻いたまま不愉快な虫を降らせ続ける。
「……てかさ、二人だけって流石に寂しくない?」
「別に」
私は汲んできた水をちまちま舐めながら答え、立ち上がった。
「えっ、ちょっ、どこいく気?」
「……水、汲んでくる」
今は一刻も早く、桐崎から離れたかった。ただそれだけであった。
迂闊だった。ろくに耳もすまさず、前後確認もせずに、無防備に体を曝け出してしまった。
「……?」
教室から出た瞬間、無数の白い肉の塊が視界の真横にいるのが見えた。
「まずい……」
慌てて教室に引き返し、扉と鍵を閉める。
「……見つかった。逃げるぞ」
「り」
と言っても、私たちにできることなど大してない。せいぜい、虫たちが来たのとは反対の扉から出て、逃げることだけだ。喚いても無駄なのだから。
「……流石に、疲れたな……」
足元を見れば、割れたガラスにうねるような線が入っている。全身の切り傷から血が噴き出し、虫に食まれ、前後不覚の体を成していた。
隣に立っていたはずの桐崎は、うまく目の前の虫の急襲をかわしたらしい。特に外傷が増えた様子もなく、壁にもたれかかって立っている。夕日によって作り出される影によって顔は見えなかった。しかし腹立たしいことに、彼女が持つ溌剌とした鬱陶しい雰囲気がより深くなっていることだけは朦朧とする意識の中でもわかった。
それと同時にどこか……桐崎が纏う毳毳しい雰囲気に、陰鬱なものが混じった気がする。
「……お前、私が疲弊するたびに元気になっていないか?」
桐崎は私の問いには答えず、倒れている私の頭の横でしゃがみ、見下ろしながら言った。
「この問題と、マトモに向き合っちゃダメだよ。正論や本音に……君が考えることに意味なんかない。真っ当に全てを受け入れた君が壊れるだけで、神様は何も変えてくれないよ」
「なら、どうすれば良い? 私のこのやり場のない怒りをどこに向ければいい?」
口調まで別人のように変化していることを指摘する気力すら無くして、ただ問いかける。
「忘れるの」
夕日の中の透明な少女は、薄く笑いながらそう言った。まるで良いことを言ってやった、と言わんばかりのしたり顔である。腹立つ。
「……どう忘れろと?」
私は理解できなかった。何をしていても、あの音が聞こえてくるのだ。何を考えていても、仲間の成れの果てが頭の中に浮かんでくるのだ。どこにいようと、蠢く虫たちが目に入るのだ。慢性的に与えられるストレスや生命の危機全てを恒常的に無視できるほど、人は器用にできていない。
「君が、君でなくなればいいだけ。ポーンって、この窓から飛び降りればいいだけ。どのみちそうなっちゃうなら、今それを選ぼうよ。驚くほど楽になれちゃうよ?」
「……嫌だ」
頬を食まれる痛みも忘れて、私は拒絶した。
希望も、理性も、自由も、本音も、行動力も、全て奪われた人間は、頼んでもないのに押し付けられた贈り物を開くことしかできない。従順な動物以下の営みしか、私にはできない。
自分がどれだけ絶望していようと、足は構わず明日に進んでいく。頼んでもいないのに、次の私に、勝手に命はつながれる。
それだけが、私にできることなのだ。
「……最後まで、私でいたい」
せっかく、できることがあるのだから。私で居続ける限り続く地獄と、とことん向き合ってやろうではないか。
「あっそ。じゃあ引き続き頑張って。私は先に行くから」
その声を最後に、雪崩のように虫たちが校舎に侵入してきた。桐崎はあっという間に虫たちの波に飲まれ、その姿を私の前から消した。
私を消し去る白い波を、私はもはや恐れてなどいなかった。