プロローグ
「どこだ…ここ?」
いつもの朝の通勤電車から見える景色とは明らかに違う。薄暗い森の中の様だが、幻想的な明かりに照らされた等間隔に並ぶ木々はどこかファンタジーな世界を想像させる。
いつの間に座り込んでしまったのか。通勤電車の床下に胡座をかいて座り、壁に寄りかかっていた。床下は冷たく、尻と腰はすっかり冷えてしまっている。
そんなことよりも。
「いやいや、ここは山手線だ。」
山手線沿線の全てを知っている訳では無いが、こんな景観がある場所があるはずがない。寝ぼけて別の路線に乗り間違えたのだろうか。そしてどこまで来てしまったのか。
覚えている直前の記憶は新橋駅を発車した直後までだ。
目の前が突然明るくなり光り輝く霧のようなモノが前方、つまり列車進行方向に現れその中に吸い込まれていったのだ。あの世への入り口があるとすればこれなんだろうな、と思ったことを思い出した。
「事故でも起きたのか?」
ボソリと呟く。両手が震えていることに気づく。事故である可能性を考えてしまったためか、心の底から湧き出てくるような恐怖心を自覚し叫び出したくなってしまう。震えをなんとか堪えて、ゆっくりと身体中を触り状態を確かめる。血は出ていない。骨折もしていない。五体満足であることにひとまず安堵する。
しかし、自分の置かれた状況はとても安心できるものではなかった。普通に電車に乗っている時には想像もできないような状況だからだ。そのまま立ち上がれば、転がってしまっていただろう。
何しろ床が斜めに傾いているのだから。
具体的にどのくらいの角度で傾いているのかは分からないが、体感的に60度以上は傾いているだろうか。革靴では歩くことなど、とてもできない。
電車が何かに衝突して車両後部が持ち上がった、いわばつんのめっているような状態だろうか。
「大事故だろコレ…いったいどうなってんだ?それに他の乗客は?駅員はなにしてんだよ」
誰かに聞こえるように悪態をついてみるが、誰もいないようなので反応が無い。車内は静寂に包まれている。
立ち上がるため手探りで掴めそうなものを探す。すぐ近くに柱があったのでそれを掴み、何とか起き上がる。そして周りを見渡し状況を確認してみる。
すぐに不可解な点に気づいた。
ひとつは暗すぎること。
車内の電灯は消えてる。事故なら仕方がないだろう。しかしこの暗さはまるで真夜中だ。なんとか見ることができるのは、うっすらと車内を照らす幻想的な外からの光のおかげだ。この光は月明かりだろうか。
腕時計で時間を確認する。7:15。新橋で電車に乗ったのが6:45だから30分ほどしか経っていないことになる。早朝ではあるが日は昇っていた。こんなに暗いはずがない。
次に、静かすぎること。
呼吸を静め聞き耳をたてる。救助活動が行われているような活動音は聞こえてこない。というより何も聞こえない。
「俺だけ救助を忘れられた…のか?」
取り残されたこの状況を考えればその可能性はある。無傷だったから後回しとなり重症者を優先した結果、忘れられてしまった。笑えないことだがあり得るだろう。だか、事故車両ごと乗客を放置するなんてことがあるだろうか?
「何らかの理由で動かせなかった…?まさか、クーデターか戦争でも起きたのか!?」
思わず口にだしてしまったが、なんてねと付け加える。冷静に考えればそのような可能性は低いだろう。それにそんな事態が起きているならもっと騒々しいはずで、こんな静けさは考えづらい。
しかし、今の状況ではそんな想像力も働いてしまう。
まあ、そんな想像も不可解な状況も全ては外の景色と紐付ければ、原因がどこにあるかは誰でも分かることだが、その判断は心の何処かで待ったをかける。
「外…出れるかな」
普通なら(事故に普通も何も無いが…)この場に待機して救助を待つべきである。だが、幸い怪我もなく動けるのだから外の安全な場所に移動するのは悪い判断では無いだろう。
というのは建前で、内心では外のファンタジーな世界が気になっていた。危険の有無について確認は十分する必要があるだろうが、この車内よりは安全な気がしたし、何より見てみたい。斜めな車内でからでは確認しづらい。
「何処からか、出れるかな?」
ドアは開くだろうか。窓ガラスが割れていればそこから脱出できるかもしれない。あるいは車両の連結部分から出れるかもしれない。
柱に掴まりながら周囲を確認し、脱出する方法を模索する。すぐ横の座席に掴まりながらであれば移動はできそうだ。
上に昇るか下に降りるかで迷ったが、下は車両が地面にめり込んでいて連結箇所からは出れないように見えるし、暗くて状況が不明だ。なので少しでも明るい上を目指すことにした。
安全に外に出るなら下を目指すべきだと後から思ったが、結果的にこの判断は正しく、命を永らえることになる。
▷▶︎▷▶︎
昇り始めて数分後、車両の端に到達した。途中、車窓はどこも割れていなかったのでそこから出ることはできなかった。連結部分は扉が閉まっていて、辿り着いても開くかどうかは分からない。ならば。
「確か手動でドアを開閉できたはずだよな」
ドアを開閉する操作盤があったはずだと、記憶を頼りに探す。電気が来ていないのに開くかどうか不明だったが、ダメ元で探す。その時だった。
ドオン
車体を揺らす振動とそれに見合う轟音が森の中を満たす静寂を切り裂いた。
「うわ!わ、わ!」
なんとか座席にしがみつき、転がり落ちるのは避けれた。
体を硬直させ落ちないように踏ん張りながら、何が起きたのか必死に思考を巡らす。思い浮かんだのは事故車両の撤去作業が再開した可能性だ。こんなでかい車体が揺れるくらいだ。重機を使った大掛かりな作業しか考えられない。
そうであれば生存者がいると伝えなければならない。ここに生きてる人間がいるのだと。必死に上体を起こして窓越しに手を振って大声を出した。
「」
体を起こすことは出来たが手は振れず声も出なかった。体が強張り呼吸が出来なくなったから。
上に昇り比較的高い位置に来たおかげで、窓から覗く景色は広く遠くまで見えるようになっていた。幻想的な森の木々は視界が広がったためか、よりいっそう美しく見えた。
そしてそれも認識してしまった。
その瞬間から、焦りと恐怖が心と身体を支配する。これまで人生で味わったことのないこの感覚は戦慄とでも呼ぶのだろうか。
そして理解する。
先ほどの轟音と共に車体を揺らした原因はコイツであることを。
こちらを見上げる対になった光が生き物の眼光であることを。
ついでに、、ここが日本では無いことを。