喪失の強襲
重低音が響く。光の無い空洞をひたすらに走る。行先はどこへ? とにかく音の鳴る方へ? 否、否、決まっている。まだアトラが戻っていないのだ。
かんこんかんこん、古びた革靴が地面に鳴る。その音が何かに塞き止められ響かなくなった時、シェイもまたその足を止めた。
「……?」
暗闇だ。いつもと変わらない、暗闇が蠢いている、はずだった。シェイが見たものは闇だ。光が無い状態ではなく、闇をその場で見たのだ。見えないはずの靄の気配に足音が吸い込まれたという僅かな違和感を感じ、彼は足を止めたのだった。
「ひッ」
「グギギギギギギッギギギ―――」
水が弾ける、いや、粘性がありすぎて固まった水が砕けるような鳴き声が頭蓋に擦れる感覚。闇は、こちらを向いていた。シェイを見て、威嚇なのか歓喜なのか嘲笑なのか、その声を上げたのである。靄に紛れるは血の色。その足元と思わしき四つの闇が垂れた側には、流血し力尽きた犠牲者の姿が見えた。
「何だよ……このバケモノ!!」
「コォオオオオオオオオオオン―――」
無機物な咆哮が響くと共に、四つ足の闇はゆっくりとその場を離れていく。……次の獲物が現れたのだから、今度はそちらに標的を定めるのは当然だろう。シェイだってそうする。明日飢えるかもしれない身としては、狩れる時に狩るのは当然だろう。
「くそッ! 離れやがれ!」
周辺に落ちたガラクタを手探りし、闇に向けて投げつける。しかし奴等の身体はまるですり抜けるようにそれをかわし、じっくり、じっとりと距離を詰めていく。闇を放つ炎がこちらに近づくに連れて、身体の芯から冷えあがり、その末端から動きが奪われていく感覚に襲われる。
奴等と戦ってはいけない、と本能が訴えた時、両方のつま先は既に地を離れて浮遊していた。上下がひっくり返ると、どさりと鉄くずだらけの砂場にシェイは倒れてしまう。唇を噛み、舌を打って上体を起こそうとするが、眼前には既に闇は迫っていた。
「なんだよ……こいつらはッ……!?」
恐怖よりも疑問。否、正体不明だからこそ感じる恐怖か。いずれにせよ、このまま奴等の正体を知らずに殺されるのは納得が行かなかった。この闇が何者で、何のためにこの最下層区に現れたのか。死はいつでも側にあることくらいこの世界で生きていれば嫌でも分かっている。シェイはこの瞬間に、最初で最後、目の前にある闇を知りたいと腕を伸ばした。
「シェイッ!!」
闇を切り裂く一喝、一震、一閃。どろっと右手に零れてはふわりと消える影の液。目の前に迫った黒は、その一瞬で蒸発して霧散する。
差し迫った死は、聞き馴染んだ友人の手によって斬り払われた。
「大丈夫か、立てるか」
「あ、……あぁ」
手を差し伸べたのはアトラだった。顔はいつもより薄汚れていて、息は上がっている。背には荷物と一緒に長い棒のようなものを背負っており、その手には白く輝く冴えた光……剣があった。閃いた長剣は、コケの光を反射したか、暗闇でも淡く輝いてみえた。
シェイはアトラの右手に、自分の右手を引き上げられるようにして立った。
「……アトラ、あんた、それは?」
「あぁ、折れていない剣を見るのは初めてか? まぁそれは後で教えてやるよ。ここはもう、安全じゃないからな」
走れるか、と、アトラは尋ねる。シェイは頷くが、
「どこへ行くんだよ」
直後の疑問が彼の脚を止めた。
「どこって、そりゃ逃げるんだよ。【ロスト】……さっきのバケモノがまだ目覚めていない場所にな」
「ロスト? ……いや、逃げるって、どこに逃げるんだよ。最下層区に落ちた人間は、二度とどこにも行けないんじゃ無かったのかよ?」
「諦めるのはまだ早いさ。何なら俺を信じろ、必ず一緒に生き残らせてやる」
いつも通りのアトラの笑み。失意の水底のような濁った瞳の住民の中で、彼だけが常に何か明るいモノを見据えているようであったそれは今も変わらない。シェイは再び頷き、アトラの後を走る。
「ギダダダダダダダダ―――」
「チッ、あーしつこいぜ!」
狭い通路上―――今までそんなものがあったかどうか、気にも留めなかった洞穴―――に立ち塞がるのは四足歩行の闇、否、【ロスト】が二体。がりごり、硬質な音を咀嚼しながら吠えた奴等はぶるりと頭部と思わしき箇所を震わせ、存在しない視線をシェイ達に向ける。
「アイツらは何なんだ!?」
「【ロスト】は剣でしか倒せないバケモノだ! 大昔、この王国のご先祖サマが退治したバケモノと多分同じのな!」
「何で……こんなところに!?」
「ハラでも減ってたんだろ、ハハッ、いい迷惑だ!」
ぐぅんと、風が巻き起こる。地面と平行に飛び上がったかのように走るアトラはその勢いのままロスト達を横に薙ぐ。一体は一瞬で真っ二つに切断されて消滅し、もう一体は両断とまではいかず弾き跳ぶ。壁に打ち付けられたロストは虫の鳴き声のような弱々しい音を出して怯んだ。打ち付けられた衝撃からか、土煙が天井から零れ落ち、ロストに化粧する。
……虫の知らせとでも言うべき、臓物を見えざる手により弄られるかのような嫌な予感がしたのはその時だった。落盤の危険を本能的に感じ取ったのか、それとも。
「次で……仕留める。それで仕事完了だ」
「待てよアトラ、今はダメだ!」
漠然とした悪い感じをアトラに叫ぶ。アトラは手を止めて振り返ろうとした―――その時だった。世界が壊れるような反響を伴って、その黒い巨大な牙が壁の奥から現れたのは。
「RyaaaaaaaaaaaaaAAA―――」
「ッ―――!」
夜。空を見た事が無いシェイは、夜空というものを伝聞でしか知らなかった。光苔とは違う、細工のような光が散りばめられ、青い黒の水面が遥か頭上に浮かんでいる。目の前の闇は彼が想像した夜そのものであり、そんな途方もない存在が今、弱ったロストを一口にて喰らい、アトラを鼻先に引っかけて浚っていこうとしていた。
「こりゃあ……想定外すぎるな!」
突き上げられた彼の手から剣が滑り落ちる。刀身はくるりくるりと周り地面に突き刺さる。
「ッ、アトラ!」
「……お前、何やっているんだ!」
彼を助けなければいけない、そう思った矢先、シェイは刺さった剣を引き抜く。
「剣を持って逃げろ! 心配しなくていい、俺も後で追い付く! だから……先に進め!」
ぐわんと垂れかかる重量を感じる。冷たい光は体に染み渡るようでいて、少しの吐き気を催した。だが、些細な問題だ。両手に持った剣を彼は高く持ち上げて、アトラを襲わんとする巨大なロストへと振りかぶる。
「でぁああああああああッ!」
じゅわ、と刀身が染みるように闇を切り裂く。だが、それだけだった。切り込みが入った足は、なおも十全に巨体を支えており、怯んだ形跡すら見受けられない。
「GaxaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaAAAAA!」
その一撃の応酬。轟哮と共に解き放たれたのは、闇の風だった。実体のある夜より巻き起こる昏き波動が、地面、天井、壁を抉り掘削し、立ちはだかる全てを吹き飛ばす。シェイは剣にしがみ付くように堪えようとするも、やがて足元を掬われ、剣ごと通路脇に投げ捨てられてしまう。
「ぐぅッ、クソ、ヤロウ……」
「シェイ……ッ!」
アトラの声はシェイの頭の中で分割し重なり、消えていく。削り取られた意識を覚醒させ続けることはできず、耐えがたい微睡へと彼を誘う。彼は最下層区よりも深い深淵の闇に飲まれるように、その意識を喪失させていく。
自分を導いてくれた友人であり家族を助けると、不明の誓いを立てながら。