第七話 ナーセルンと兄
アグニス国王妃の部屋にて、三人はソファに座り向かい合う。
ナーセルンは隣にいる兄ルンフィードへ視線を送り、女を虜にする金髪碧眼の美貌を睨みつける。
「あらお兄様、お久しぶりですわね。ずっとお忙しいと思っていましたわ。最近はマリーという女がお気に入りだとか。噂が色々と耳に入っておりましてよ」
「ナーセは相変わらず手厳しいな。母上である王妃陛下の呼び出しとあれば、何よりも優先するとも」
ナーセルンは二つ上の兄を嫌っていた。お気に入りの女の名前が、噂で聞くたびに変わっているからだ。暇さえあれば女とばかり会っている、ただの無能な女好きだと見下していた。
「ホホホ、若い兄妹は元気が良いな。ナーセルンはサーバーク公と懇意にしておるようだが、あまり度が過ぎぬようにな」
王妃が仲裁に入ってくる。
「あら、やましいことは何もないですけど、根も葉もないことを噂する人はいるものですね」
ナーセルンがサーバーク公と関係を持って半年近く経つが、兄と違って使用人にバレるようなヘマはしていないと思っていた。だから、陛下の忠告を特に気にもしなかった。
結婚前に純潔を保つのは貴族の娘としての義務だが、サーバーク公の弟を篭絡するために処女は先に彼に捧げているので、不義を疑われることはない。
「そういえば、リナはこの場には来ていないのですね。てっきり後継ぎの課題の話かと思ったのですが」
ルンフィードの疑問にナーセルンが勝ち誇ったように笑う。
「あら、お兄様はご存じなかったのですか? リナは後継者争いから降りてスーリアに行っているんですよ」
「そうなのか? なぜいきなり……」
「それを今話そうと思っていたところだ」
王妃が話し出したので、二人の兄妹はピタリと口をつぐむ。
「ウィンリーナには密偵を命じた。スーリアの第二王子が妃を募集していたから、それを利用して近づき、篭絡せよとな。ナーセルンとウィンリーナ、どちらが行くか直接二人に聞いたのだ」
「なるほど、それでナーセが知っていて、私との一騎打ちになったというわけですね。国境付近は危険と聞きますが、リナは無事にスーリアに着いたんですか?」
ナーセルンは聞きながら笑いを堪えていた。
ウィンリーナは護衛もなしで国境を越えようとしていた。見捨てれば、すぐに泣きつくかと思っていたが、意外にも強情でそのまま行くと言っていた。
想像以上に愚かだったようだ。魔物に襲われて這う這うの体で帰ってくるかと思いきや、全く音沙汰がないので、途中で殺されたと思っていた。
あの不吉だと言われていた黒い色が、ずっと気に食わなかった。あの王族の恥さらし。
でも今回、漆黒の死神の妾にさせられそうだったが、ウィンリーナが代わりに役立ってくれてなによりだった。
ところが、ナーセルンの耳に信じられない王妃の言葉が入ってくる。
「ウィンリーナは、無事にスーリアに着いたようだ。報告書が届いた」
「えっ、本当ですか?」
ナーセルンは思わず耳を疑う。
魔物がいる国境を超えるなんて、あり得なかった。
「ウィンリーナの報告書には、運が良かったと書かれていた。災害級の魔物が出たのでスーリアから応援の部隊が来ていたらしい。そのおかげで魔物が弱っていたそうだ」
「まぁ、そうでしたのね……」
ナーセルンは落胆したが、すぐに気を持ち直した。無事に着いたとしても、肝心の任務をこなせるとは思えない。第二王子に気に入られるなんて、無理に決まっている。なにせあの黒い目の持ち主だから。
それに地毛は黒い。発覚を恐れて内心ビクビク怯えているに違いない。妹の弱り切った心境を簡単に想像できて、面白くて仕方がなかった。
「男爵家の養子になり、王都に向かうそうだ。そこで他の妃候補と一緒に審査を受ける予定だそうだ」
「まぁ、大変ですわね。でも、リナなら無事にやり遂げますわ」
ナーセルンは作り笑いを浮かべながら、心にもないことを言う。
実際は死神の不興を買い、どこかに吊るされることを祈っていた。
「だがな、男爵夫人から苦情があったぞ。大事な養女を護衛もなしに送るとは何事かと。馬車も令嬢が乗るとは思えないほど粗末だったらしいぞ」
ウィンリーナの扱いを粗末にすれば、そんな粗雑な待遇がふさわしい身分の低い女をアグニスの国の貴族は養女として差し出したことになる。養女として受け入れる男爵家に対して、非常に失礼な行為になる。
王妃がそう説明しながら、怒りのままナーセルンを鋭い目つきで見ていた。視線を逸らしもしない。
妹を虐めたかっただけなので、何か問題があるとは思ってもいなかった。
非難されてナーセルンはショックを受ける。偉大な王妃からの心証が悪くなるなんてあり得なかった。これも全部ウィンリーナのせいだ。妹が無茶をしたから。
「わたくし、実はリナを止めたんです。リナったら、護衛の申請を忘れていたんですけど、今から準備するから待っていてとわたくしが言っても、時間がないからと焦って護衛なしで行ってしまったんです。安い馬車で行ったのも、豪華すぎると盗賊に狙われでもしたら大変だからと言っていましたわ」
ウィンリーナが無謀なことをしたのは本当だった。だから嘘は言っていない。いつものように妹にちょっとだけ意地悪しただけだ。用意した安っぽい馬車でそのまま出かけたのも妹だ。
だから、全部妹が悪い。
それにしても、王妃も元々ウィンリーナを大事にしていないのに、なぜそんな些末なことを気にするのか理解できなかった。
いつも同じドレスを着ていても、贈られた宝石を身につけなくても、王妃は何も気にしていない。
ウィンリーナにも最低限の支度金を支給し、教師をつけているので、完全には見放していないようだが、全然目に掛けてはいない。ただ単に最低限、親の義務を果たしているだけだ。
いや、一度だけ怪しまれて尋ねられたことがあった。
『なぜ、ナーセルンはそんなに新品のドレスを持っているのだ? 予算を超えているだろう?』
『姉思いのウィンリーナが贈ってくれたのです。自分はお下がりでいいからと』
『そうか。姉妹の仲が良くてなによりだが、何事も度が過ぎれば目に余る。ほどほどにな」
そのやりとりだけで、他に追及はなかった。実際にはドレスを下げ渡した事実はなかったが、特に何も言われなかった。
後継ぎ争いにウィンリーナを参加させたのも、「王の子が参加」という法律のせいだ。
だから、王妃もナーセルンの言葉をすぐに信じてくれるはずだ。
「それでは全て、ウィンリーナの失敗と無謀のせいだと言うのだな?」
「はい。きっとリナは男爵夫人に対して自分の失敗を正直に話しづらかったんでしょう。それはわたくしたちが寛容な心で受け止めてあげるべきかと思いますわ」
本当に困った妹だ。迷惑をかけられても許してあげる家族の優しさに感謝してもらいたいものだ。
ナーセルンは最高色を持ち、アグニスの青い薔薇と国内の貴族たちから尊ばれている。自分は常に特別であり、この優れた容姿と能力を持つ自分の判断は絶対に正しいのだと疑いもしなかった。
「では、今回の件は、ウィンリーナが不在なため、いったん保留とする」
これでナーセルンが勝ったも同然だった。申し開きを聞く場にナーセルンがいれば、いつもどおりウィンリーナを脅すことができるからだ。
今度はどんな失敗話を送ってくるのだろうか。ナーセルンは妹の失墜をとても楽しみにしていた。
「さて、話を後継者の課題について戻そうか。進捗はどうなっている?」
王妃が話題を変えたので、さっそく各自のアピールタイムとなった。
農作物の収穫量の結果と増やすための工夫が、評価のポイントだとあらかじめ説明がされていた。
「私は管轄の集落の長たちに声を掛けて、前の年よりも収穫量の増加比率が大きい地域に褒美を出すと布告しました」
そう言ったのは、兄のルンフィードだ。教育もされていない低能な農民に全てを任せるとは、兄の愚鈍ぶりが丸わかりだ。空いた時間を女にかまけてばかりいるようだ。
「わたくしは自ら策を考えだし、民たちを指導いたしましたの」
「ほう、何をしたのだ?」
ナーセルンは自信を持って答える。
「はい。収穫を増やしたければ、農地を増やせばいいのです。そのため、開墾をわたくしの指導の下でさせました。さらに、彼らの農作業の見直しを行い、効率化を図りました」
「ほう、ナーセルン自ら動いたと?」
「はい、そのとおりですわ」
「だが、開墾をすれば、渡した資金以上に経費が掛かったばかりではなく、人手も必要だろう。それはどうしたのだ?」
「もちろん、わたくしの伝手とポケットマネーからですわ」
私費を投入する熱意も忘れずにアピールする。人手はサーバーク公に頼み込んで兵士たちを借りていた。
「なるほど。二人の工夫が無事に実を結ぶとよいな」
王妃はそれぞれの話を聞き、満足そうにうなずく。
話が終わり、ナーセルンは王妃の部屋から退室する。そのまま馬車を手配して、自分の管轄の農地に向かう。
隣に乗っているのは、残念ながら婚約者だ。たまにはご機嫌伺いをしなくてならない。
「うわ、くっさいなぁ。ナーセは、こんな臭いところによく来れるね」
周囲には堆肥のにおいが漂っていた。
彼の頭の弱そうな発言にいつも苛々するが、我慢しながら微笑んだ。彼はウィンリーナと同い年で成人したばかりだ。だから、子どもっぽい彼の発言は、年上として目を瞑らなくては。
「仕方がありませんわ。今回王妃陛下から頂いた課題のためですもの」
馬車の窓から外を覗けば、青々と育つ作物が見えた。
畑にはいつもより多くの苗が植えられている。間隔を狭めてできるだけ多く植えれば、それだけ多く収穫できる。そうナーセルンは考えた。
農夫たちはそれはダメだと文句を言っていたが、教育をろくに受けていない農夫から教わるものは何もない。ナーセルンは反論を許さず、指示通りにしろと命じた。
開墾を指示したときも、ナーセルンの予算をはるかに超える金額を提示してきてびっくりしたものだ。よくよく話を聞いてみれば、開墾だけすればいいのに、余計な工事を行おうとしていた。隙あらば貴族から金をむしり取ろうとする見え見えの魂胆にナーセルンは辟易としたものだ。「十年に一度の大雨に備えるため」と言い訳していたが、そんないつ起きるか分からないものに金を出すつもりはなかった。今年だけ収穫が多ければいいのだから。
「あら、あそこの兵士たちは、何をさぼっているのかしら?」
サーバーク公から借りた兵士たちが木陰で休んでいた。
開墾して土地を増やしたはいいが、農夫たちの手が足りなかったため、彼らをずっと借りたままでいた。国境の警備があるから返してほしいとサーバーク公から言われていたが、そもそも仕事をきちんとしていないではないか。
「あんな風に休んでばかりいられては、仕事が終わらなくて兵士を返したくても返せませんわ」
今は日差しが強い昼下がり。体力を消耗させないために必要な休憩時間だったが、ナーセルンにはそんな実情など理解できなかった。
「どうしたの? 何を困っているの?」
いちいち説明しないといけない彼の愚鈍さに毎度苛々する。
「サーバーク公から兵士をお借りしているんですが、彼らが手抜きしているせいで仕事が進んでいないみたいですの。このままでは後継者争いにわたくしは負けてしまいますわ」
「そうなんだー。彼らのことは兄上に伝えておくよ」
ウルウルと目に涙を添えれば、婚約者はすぐに信じてくれる。
「お願いしますわ。さすが頼りになりますわね」
婚約者の腕に枝垂れかかって、ぎゅっと胸を押し付ける。
彼の目が品なくだらしなく垂れ下がった。
「今日、これから屋敷に来ないか?」
「まぁ、ネルソン様ったら昼からお元気ですわね」
サーバーク公との関係を疑われないためにもナーセルンはまんざらでもない口調で返事をして、彼の口づけを黙って受け入れる。
婚約者の彼は、兄のサーバーク公とは違って見た目が平凡だ。はっきり言って好みではなかった。だが、彼が婚約者にならなかったら、あの中年親父が婚約者になってしまう。腹が醜く出た不細工の男に嫁ぐくらいなら死んだ方がマシだ。だから、ネルソンに言い寄って押し倒したら、あっけなく彼を篭絡できた。最悪な男なんて、妹とお似合いだ。
クスクスと笑いを堪えながら、婚約者からの口づけを受け続けていた。
だが、このとき遠くの空から徐々に暗雲が立ち込め始めたことにナーセルンはまだ気づいていなかった。