第二十三話 ナーセルンの誤算
「なんでわたくしがあいつに婚約破棄されなくてはいけないのよ!」
ナーセルンは感情のままに部屋に置かれていた花瓶を床に叩きつける。
それは石床に勢いよくぶつかり、派手な音を立てて陶器の破片があちこちに飛び散った。
ナーセルンの部屋は癇癪を起したせいで散らかりまくっていたが、誰も部屋を片付けないので、酷いありさまだった。
昨日、侍女たちはみんなナーセルンによって首になっていた。
なぜなら、婚約者だったネルソンの侵入を阻止できなかったからだ。
彼女たちのせいで、サーバーク公との密会の現場に立ち入られてしまったと、ナーセルンは逆恨みしていた。
ネルソンが部屋にいきなり入ってきたとき、言い逃れできないほどナーセルンたちの体はベッドの上で密着していた。
「これはどういうことだ! 噂は嘘だと思ったのに本当だったとは! なぜナーセが兄上とそんな関係になっているのだ!?」
ネルソンが激昂する姿を見て、ナーセルンは咄嗟に「これは私のせいじゃない」と心の中で自己弁護していた。
「ち、違うの! これは、その、彼に無理やり迫られたの!」
責められるのが怖くて、ナーセルンは婚約者にいつものように言い訳を口にしたのだが、それがまずかった。
「なんだと? 私のせいだと言うのか?」
傍にいたサーバーク公の態度が豹変した。
「弟に抱かれるのが嫌だと散々文句を言っていたのは誰だ? 本当は私のことが好きだったと言い寄り、私に抱かれて喜んでいたのは私の記憶では殿下あなただったと思うが、殿下の中では違ったらしいな。無理やり私と関係を続けていたのなら失礼する」
そう辛辣に言うなりベッドから降ると、彼は服を最低限着て部屋から出て行ってしまった。未練などないと言わんばかりに振り向きもしなかった。
「……私のことを陰でそんな風に言っていたのか?」
茫然と立ち尽くしていたネルソンが、ぽつんと呟いた。
「ち、違うの! あれはあなたの兄上が勝手に誤解させるようなことを言っただけなの!」
ナーセルンが必死に言葉をとりつくろいながら、ベッドから降りて裸のままで婚約者の腕をとろうとしたら、彼に邪険に振り払われた。いつもなら豊満な胸を押し付けたら、彼の機嫌はかなり良くなっていたが、今回はその手は通用しなかった。
「兄上に抱かれていた姿でよく私に触れようとするな。汚らわしい! 売女とは結婚するつもりはない! この婚約は破棄させてもらう!」
ネルソンは汚物でも見るような目つきでナーセルンを睨みつけたあと、部屋から出て行ってしまった。
それからナーセルンが侍女たちを一斉に首にしたところ、誰も身の回りの世話をする者がいなくなってしまったのだ。
メイドに頼めばいいが、もう誰も信用できなかった。サーバーク公との密会がばれたのも使用人がばらしたせいだ。元婚約者は噂を聞いたと言っていた。
そのとき、ドアがノックされたので、ナーセルンは部屋の中が見えないようにドアを少し開けて「なんの用なの?」と素っ気なく対応した。
王妃陛下つきの女官が、一瞬怪訝な顔をしたが、何事もなく口を開く。
「ナーセルン殿下、失礼します。王妃陛下がお呼びです」
こんなときに母の呼び出しとはついていない。
「分かったわ。すぐに行くと伝えてちょうだい」
嫌々ながらも了承した。
ナーセルンは嫌々ながらもメイドを呼びつけて、慌てて身支度を整えてもらい、王妃陛下に会いに行く。
ナーセルンが入室したとき、すでに兄のルンフィードが部屋にいた。
「では、ナーセルンが来たので、今回の本題である後継者の課題について話そう。今回の長雨で被害が出たが、其方たちの担当の農地では、どのように対応しているのだ?」
被害なんてナーセルンは初耳だったので、王妃の言葉に驚くとともに動揺していた。
雨だから何もせずに城の中で過ごしていたからだ。
「人を遣いに出して調べてもらったところ、農夫たちが水門や水路を調整して畑に雨水が流れないように調整していたようです。若干生育に遅れと病気が生じていますが、今後の天気次第で回復すればと願っております」
「うむ、ルンフィードはきちんと気を配っていたのだな。ご苦労だった。ちゃんと管理しているようでなによりだ。ナーセルンはどうなっている?」
王妃に問われてもナーセルンは答えられなかった。何も気にしていなかったからだ。だが、正直に言えるわけがない。兄の報告を聞いた後では、明らかに失態だと理解していた。どのように取り繕えばいいのか、必死に考えていた。
おそらく何も連絡がなかったから、何も問題はなかったはずだ。そうだ、そうに違いない。ナーセルンは自分の都合の良いように考えて、それが正しいと感じずにはいられなかった。
「特に問題はなかったですわ」
そのように無難な答えができて安堵した直後だ。
「本当か?」
王妃がなぜか確認してくる。今の答えに何か怪しまれるような言葉はなかったはずだ。
「ええ、そうですが」
ナーセルンが不安を感じながら答えると、王妃の眉間に皺が寄った。とても不快そうに。
「私が周囲から聞いていた話と違うようだが? 其方の領地は今年開拓した土地が長雨のせいで土砂が流れ出て、他の畑まで被害を受けたらしいぞ。なぜ、そんな有様なのに特に問題はないと言えるのだ」
「え――?」
ナーセルンは二の句を失った。そんな話を聞いていなかった。一体、周りは何をしていたのか。農夫たちも被害を報告すればよかったのに。そう恨みを抱いたが、その前に失態を取り繕わなくてはならない。
「も、申し訳ございません。連絡がなく、何も問題はないと思っていました」
「ああ、農民たちが言っていたぞ。ナーセルンに何を言っても聞き入れてくれないと。だから、其方ではなく、私に被害を訴えに来たのだぞ?」
「そ、そんな――。わたくしが女で若輩者だから、彼らに信頼されなかっただけですわ」
「それは違うぞ。其方は、彼らの言い分をとるに足らぬと聞かなかったらしいな。そのせいで、雨の被害を心配して土留めが必要だと主張したのに、無駄だと言われた結果、今回の土砂流出が起きたと、相当嘆いていたぞ」
「そ、そんな――」
「しかも、長雨のせいで、作物に病気が蔓延しているそうだ。いつもより密に植えた結果、病気が発生しやすい状況だったようだ。それも注意したが、ナーセルンが全然話を聞いてくれなかったと訴えていたぞ」
次々に聞かされる最悪な状況にナーセルンは耳を疑うばかりだった。
「だから、其方は後継者にふさわしくないと判断する」
王妃の決定にナーセルンは絶望に落とされる。目の前が真っ暗になった。
「そんな、もっと丁寧に説明してくれたら、わたくしだって理解しましたのに」
悔しさがこみ上げてきて、つい農夫たちに恨みが向けられていた。
「残念な言い訳だな。あと、ナーセルン。私に何か他に言うことがあるだろう?」
王妃に問い質されて、ナーセルンの肩が震えた。心当たりなんて、ありすぎた。でも、まさか。もう王妃にまで報告がいき、最も知られたくない相手に知られているのだろうか。ナーセルンの胸中は不安で激しく揺れる。
「……恐れながら、何のことでしょうか?」
自分から白状する勇気がなくて、ナーセルンが咄嗟に誤魔化すと、王妃の表情が凶悪なものになった。
「この痴れ者が! 其方のせいでサーバーク公爵家のネルソンから婚約破棄されたのだぞ!」
「も、申し訳ございません……! ですが、わたくしの相手は婚約者の兄です。わたくしが一方的にあの家から責められるのはおかしいですわ!」
ナーセルンの言葉に王妃は疲れたようにため息をつく。
「其方が何を言おうと、我が王家の信頼は失墜したのだ。婚前に貞操を守らない者は王女として相応しくない。其方を廃嫡し、バーサイド公との婚姻を命ずる」
ナーセルンは一瞬自分が何を言われたのか理解できなかった。
「お待ちください! バーサイド公はリナの婚約者ではありませんか!」
「つい先日、婚約を白紙に戻してもらったばかりだ。彼の相手をこれから探そうと思っていたが、其方の婚約がなくなったので、ちょうどよかったな」
ナーセルンは思い出した。以前、バーサイド公を城で見かけたことを。あのとき、既に婚約の話が白紙に戻っていたのだ。
「酷いですわ! あんな男に嫁がせるなんて! お母様には情がないのですか!?」
そう責めると、王妃はきつくナーセルンを睨んできた。
「私とて、あの男との婚姻はどうかと思うが、王族の掟だから仕方がない。ところで其方、以前ウィンリーナとバーサイド公との婚約が決まったとき、お似合いだと祝福していたではないか。そんなに酷いと思う相手なら、なぜ妹の婚約が決まったときに同じように文句を言わなかったのだ。それに、私の話を全然聞かなかった者の話をなぜ私が聞かなければならないのだ? 以前会ったときに忠告したはずだ。サーバーク公との付き合いは、あまり度が過ぎぬようにとな。なぜ無視したのだ」
ナーセルンは、何も言い返せなかった。確かにウィンリーナの婚約が決まったとき、ざまぁみろと思いながら祝福していたのだから。
しかも、サーバーク公との関係をあのとき既に王妃には全て見抜かれていたようだ。自分の考えの甘さに気づき、背筋が寒くなった。
「ウィンリーナの養家であるバートン家からも、また苦情が来たぞ。ウィンリーナのドレスがみすぼらしい物ばかりだったから、新しく購入したと。支度もろくにできないのかと笑われたぞ。ウィンリーナから新しいドレスを奪った挙句、下げ渡しもしなかったようだな。ウィンリーナが普段地味な格好をしていたのは、己の立場を理解して目立たないように配慮していたのかと思ったのだが、まさか姉から虐められて晴れのドレス一着も持っていなかったとは思わなんだ」
王妃は苦渋の表情を浮かべる。
「兄妹みな同じように育てたはずなのに本当に情けない。ウィンリーナは無事役目を成功させてスーリア国の第二王子から求婚されたというのに」
王妃から告げられた事実にナーセルンは耳を疑った。もっとも聞きたくない言葉だったかもしれない。
「……まさか、リナがですか!?」
なぜなのだ。あんな残念色の妹が。自分よりも劣っているはずの妹が。なぜ。
「そうだ。もうすぐ開催される建国祭で国民に婚約を発表されると報告書に書かれていた」
「そ、そんな……」
王妃の言葉を聞いても、ウィンリーナが王子妃の地位を勝ち取ったなんて信じられなかった。
「実は、リナの話なんですが」
横から兄ルンフィードが口を挟んできた。
「彼女の担当した農地では、長雨だったにもかかわらず、作物は元気に育ち、病気や害虫の影響もなく、例年よりも収穫量の増加が見込まれるそうです。農夫がたびたび魔法を使うウィンリーナの姿を目撃していたので、何かしていたようです。だからなのか、黒色だからとウィンリーナを忌み嫌っていた農夫たちが、申し訳なさそうにしていたと部下から聞きました」
「ほう、ウィンリーナは自ら悪い印象を払拭していたのか。感心だな」
「なんですって……!?」
妹には何もするなと命じていたのに、それに逆らった事実を知って、怒りを通り越して憎しみの感情が湧いて出た。
ウィンリーナのせいで、こんな惨めな思いをしなくてはいけないなんて、到底許せるものではなかった。かつてないほどの憎しみが胸中を渦巻いていた。
「祝福もできぬとは、本当に性根が腐っておるな。なぜ、そこまでウィンリーナを目の敵にするのだ? ウィンリーナが其方に何かしたわけではあるまい」
「……」
「もうよい。後継者はルンフィードとする。用はもうない、下がれ」
ナーセルンは自室に戻った記憶がなかった。気が付いたら、部屋の中が暗くなっていた。
ナーセルンは、自分の身に起きたことをまだ理解できていなかった。
婚約破棄、廃嫡、最低男との結婚。死んだ方がマシな最悪な状況だ。
それに比べて、ウィンリーナは大国の第二王子との華やかな結婚が待っている。
「なぜ、なぜなの……!? 最高色のわたくしのほうが、優れているはずなのに!」
でも、いつも勉強の先生から褒められるのは、ウィンリーナだった。
魔法の習得も、いつも妹が早くて、とても目障りだった。
顔立ちも可愛らしくて、ナーセルンよりも優れていると知られたくなくて、嫌がらせのように彼女の黒目を嘲笑っていた。
だから、妹の不吉な黒髪の秘密を知ったとき、これでようやく自分が完全に妹よりも優位に立てると安心したのだ。
それなのに、ナーセルンを出し抜いて、また結果を出したことを許せなかった。
このまま何もせずにいられなかった。妹に一泡吹かせて、同じようにひどい目に遭わせたかった。
何か良い案はないだろうか。そう考えたとき、一つ思い浮かんだ。
「そうだわ。密偵として養子に出されるのは、わたくしでも良かったはずだから、今からでもウィンリーナと代わってもらえばいいわ。あの子はわたくしに黒髪の弱味を握られているから、表立って逆らえない。だから、きっと言うとおりになるわ」
なんなら、母である王妃の命令だと嘘をついてもいい。
「それにきっと、王子もわたくしのことを気に入ってくださるはずよ」
なぜならナーセルンは、金髪碧眼の最高色だから。
サーバーク公とネルソンを一瞬で篭絡したこともある。この豊かな胸と鍛え上げられた寝床のテクニックで、相手を満足させられる自信があった。
「ふふふ、このままあの男との結婚を待つばかりよりはマシよね。さぁ、今からスーリアに行くわよ!」
こうしてウィンリーナの知らないところで、恐ろしい計画が実行されようとしていた。
それからのナーセルンの行動は早かった。ありったけの資金をカバンに詰めて御者に馬車を出すように命令させ、王妃のバーサイド公との結婚の命に逆らって国を出奔したのである。
国境付近の魔物は、前回スーリアの精鋭部隊とウィンリーナのおかげで駆逐されて間もなかったので、まだ通りやすい状態を維持されていた。そのおかげで、ナーセルンは運よく無事に隣国スーリアまでたどり着くことができた。
「国境越えは危険っていうけど、言うほど怖くなかったわね」
残念ながらナーセルンは勘違いしたままだったが。
さらにスーリア国の王都に向かって猛進するが、盗賊たちはフィリアンク殿下のおかげで捕まっていたので何も被害に遭うこともなく、さらに建国祭に向けて人通りも多かったので、安全な旅路のままナーセルンは王都に到着することができた。
「ふふふ、女一人でも全然問題なかったわ」
まさにナーセルンはスーリアの王宮の目の前まで来ていた。




