第二十話 ウィンリーナの選択。
ウィンリーナがフィルトに見送られて、滞在先の部屋に戻ると、アニスが笑顔で出迎えてくれた。
「リナ様、お疲れさまでした。あらっ、それはどうされたんですか?」
アニスの視線が、ウィンリーナの胸元に向けられる。そこにはうさぎのぬいぐるみが抱きかかえられていた。
「あのっ、いただいたの。フィル様から……」
そう恥ずかしそうに答えて、ウィンリーナはふかふかなぬいぐるみに顔を埋める。
帰り際、フィルトに寄りたいところがあるから付き合って欲しいと言われて入ったところが、可愛いぬいぐるみを沢山扱っているお店だった。
どうやらフィルトにウィンリーナが馬車でじっとお店を眺めていたところを目撃されていたようだ。
「食事だけではなく、何か形が残るものを差し上げたかったんです」
フィルトはそう言って、何か選んでほしいと言ってきた。彼の気遣いが、勘違いしそうになるほど嬉しかった。
おかげで、クマのぬいぐるみに初めて友達ができた。
こんな子供っぽい物を欲しがるなんて恥ずかしいと思ったが、そんなところが可愛らしいと彼は言ってくれた。
「良かったですわね。リナ様」
「ええ」
まだ弾むような気持ちが胸の中に残っている。いつまでもフィルトと一緒にいたいと思うほどに。
こんなに幸せでいいのだろうか。ちょっと怖くなるくらいだ。
今度は研究所に是非来てほしいと招待されていた。
魔法具がそこにあるそうだ。
選考結果がどうなっても、フィルトと会える機会があると思うと嬉しい。
また楽しみが増えて、彼と別れるときは、少しだけ名残惜しかった。いよいよ明日最終選考があるので、すぐに彼と会えるというのに。そのときに、やっと殿下にお目通りが叶う。
でも、フィルトに再会したときに、いつもどおりに笑って何事もなかったようにできるだろうか。
そう考えただけで、胸が張り裂けそうに痛かった。
アニスに手伝ってもらって着替え、ソファで休んでいるとき、もうすぐ日が暮れそうなのに、メルシルンの姿が見えないことに気づいた。
主人であるウィンリーナが不在で仕事がないから、メルシルンに休暇を与えていた。だから、実家に行く予定だと彼女は言っていた。
馬車で戻るなら、暗くなる前に帰っていなくてはおかしかった。
「メルシルンは、まだ帰ってないのかしら?」
「ええ、まだ何も連絡はありません」
「確か実家に顔を出しに行ったのよね? 泊まることにしたのなら、いいんだけど……」
元々王都出身だったので、迷子になることもないだろうと、馬車と御者だけ手配して彼女に任せていた。王宮と実家の商店を行くだけだからと、メルシルン自身が護衛まではいらないと恐縮して遠慮していたから、彼女は一人きりだった。
「きっと、もう少しで帰ってきますよ」
「そうね、そうよね」
そう自分自身に言い聞かせるように答えていた。
窓から差し込む光が、徐々に弱くなり、部屋付きのメイドたちによってカーテンが閉められて明かりが灯される。
夕飯を終えて風呂を済ませても、メルシルンは戻ってこなかった。
時間が過ぎるごとに不安が大きくなっていく。
門限もあるので、遅くなり過ぎたら王宮の門が閉まってしまう。
「メルシルンに何かあったのかしら?」
何事もなければ杞憂で済むが、しっかり者な印象のメルシルンが連絡もないのは、やっぱりおかしいと感じた。だから、彼女の安否確認をしようかと思ったときだ。
「あの、お嬢様宛にお手紙が届いていたのですが」
部屋付きのメイドが戸惑ったように声をかけてきた。
「誰からかしら?」
送り主を真っ先に尋ねると、メイドは困ったように首を傾げる。
「実は、部屋の扉の前に置いてあり、差出人の名前は書かれていないのです」
どうやら不審な手紙だったようだ。人目がつかないようにこっそりと置かれたようだ。
「確認するわ。あなたたちは下がってちょうだい」
ウィンリーナは手紙を受け取るが、すぐには封筒を開けなかった。メイドたちがいなくなったあと、じっくりと観察して手紙に仕掛けられた魔法を分析して調べ始める。
故郷で散々嫌がらせにあってきたので、皮肉なことに仕掛けを見抜くのは、得意になっていた。
「やっぱりこれにも魔法がかかっているわね」
「大丈夫ですか?」
側で付き添うアニスが、心配そうに様子を窺っている。
「ええ、開けてしばらくしたら、証拠隠滅の消去魔法がかかっているだけだわ。わたくしに読まれることだけを目的としているみたいね」
つまり、相手は何かウィンリーナだけに言いたいことがあるようだ。しかも、後ろめたく他言しにくい内容を手紙で伝えようとしている。怪しいばかりである。
犯人の思惑どおりに証拠を消されたくないので、手紙にかかっていた魔法を取り除いておいた。
どうやら魔法の送り主は、魔力はあるものの、魔法があまり得意ではなかったようだ。仕掛けた魔法に気づいていれば、誰でも簡単に取れるような捻りのない仕組みだった。
『明日、殿下の妃選考会から辞退して、指定の場所に来なければメイドの命はない。また他言した場合も同様である。』
そう短く手紙に書かれていた。心臓をぎゅっと強く握られたようなショックが襲ってきた。封筒の中には、もう一枚紙が入っており、そこには指定の場所が記されている。
「脅迫状だわ。もしかして、メルシルンが捕まってしまったの……?」
動揺のあまりアニスに尋ねると、彼女は沈鬱な顔をして、うなずいた。
「おそらく、そうかと思います」
「どうしよう……! 彼女は無事なの……!?」
メルシルンの最悪な状況までも脳裏をよぎって、全身から血の気が引いた。足ががくがくと震える。立っていられなくなり、アニスに支えられるように椅子に腰かけた。
こんな状況を全く想定していなかった。全部ウィンリーナ自身に嫌がらせの類いは集中すると思っていた。今までのように。
まさか無関係のメルシルンが被害に遭うなんて、想像もしなかった。
「どうしよう、どうしたらいいの?」
頭がパニックになりながらも、必死に考えるが、何も思いつかない。
彼女を助けたい。彼女の安全を考えるなら、今すぐにでも辞退するべきだ。でも、それはすぐに決断できなかった。殿下を篭絡するという任務がある。それがウィンリーナにとって優先事項だった。
どちらかを選べば、どちらかを失う。ウィンリーナは重大な岐路に立たされていた。
「大丈夫です。落ち着きましょう」
「でも、メルシルンが、わたくしのせいで」
アニスが膝を折り、目線をウィンリーナに合わせて顔を食い入るように見つめてきた。
「まず、リナ様はメルシルンをどうしたいですか?」
「助けたいに決まっているじゃない! でも……」
「でも、どうされましたか?」
「どうしたらいいのか、分からないの」
そう言うと、アニスは落ち着かせるようにウィンリーナの手を両手で優しく包み込んだ。
「リナ様は、メルシルンを見捨てる気はないのですね」
「そうよ。わたくしは、彼女を死なせたくない」
でも、任務のことがあるから、選択に躊躇していた。失敗したら、帰国しなくてはならない。そうすれば、あの男との結婚が待っている。
元婚約者のバーサイド公爵は、残念ながら中身が下品だった。夜会で彼と出会ったとき、彼は舐めるような視線を向けてきただけではなく、距離感なく近づいてきて、勝手に腰に手を回してきた。
「二人きりになれるところに行こう。どうせ後継者にウィンリーナ殿下は選ばれず私たちは結婚する運命だ。今からでも深い仲でも問題あるまい」
「殿下の茶髪と黒目を受け入れてくれる男は、私だけだぞ」
「ドレスのせいで分からなかったが、なかなかいい体をしているじゃないか」
卑しい笑みを浮かべながら囁き、あちこちいやらしく布越しに触れてきた。思い出すだけで寒気がして気持ちが悪い。あのときばかりは彼の足を踏んだ隙に必死に逃げた。
あの男は他の人と交わす話題も女のことばかりで、知性や品など欠けらもない。敬意を全く抱けない相手だった。
同じ状況でも、姉なら迷わず、侍女を犠牲にして密偵を続行しただろう。
『敵に捕まるなんて間抜けな侍女ね。助けるわけないじゃない』
姉なら、そんなことを言いそうだ。
でも、母はどうだろうか。目的のためなら、あっさり見捨てるのだろうか。
母は不吉な黒色でもウィンリーナを見捨てなかった。でも一方で、目的のためには娘すら密偵として利用する人だ。
分からなくて、すぐに答えは出なかった。
でも、母は為政者として、犠牲は国のためにはやむを得ないと判断してきた。前王妃を排斥したように。その結果、母は悪女とも言われるようになった。
「やっぱりアニスの言うとおりね。わたくしは、悪女には向いていなかったわ」
「リナ様……」
「わたくしの警戒が足りてなかったせいで、メルシルンまでも巻き込んでしまったの。彼女にすべての犠牲を強いるわけにはいかないわ。これはわたくしの責任だわ。わたくしの失敗なのよ」
やっとウィンリーナは腹を括ることができた。
選考からは辞退する。そう決意した。
「メルシルンを助けるわ。でも、卑劣な奴らを許すわけにはいかない」
「そうです。それでこそリナ様ですわ。私を助けたようにメルシルンも助けてくださいませ。誰に喧嘩を売ったのか、相手に思い知らせてやりましょう」
相変わらずなアニスの言葉を聞いて、ふと気づいたことがあった。
彼女が言葉が決して大げさではなかったことに。
いつもアニスは認めてくれていた。ウィンリーナの魔法の優秀さを。
「アニス、ありがとう」
いつも的確な言葉を掛けてくれるアニスが、犯人たちを思い知らせてやろうと言うのだから、きっと間違いなくできるはず。
まだ誰が犯人なのか分からないが、犯人との対峙が怖くても、ウィンリーナの体は、もう震えていなかった。
「ところで、私はいつアニスを助けたのかしら?」
心当たりがなくて尋ねると、アニスは肩をすくめて苦笑した。
「フフフ、リナ様にはごく当たり前のことでお忘れかと思いますが、国王主催の夜会でみすぼらしく壁側に立っていた私にリナ様が侍女にならないかと声を掛けてくださったんですよ。あのとき私は伯爵家で残念色だと捨て置かれていたので家にいたくなかったのです。だから城に住めて好都合だったのです」
それはよく覚えていた。
アニスが可哀そうなほど惨めなドレスで壁側に立っていたからだ。だから、彼女に声を掛けた。ウィンリーナも残念色とはいえ王女だ。侍女になれば、給金が出る。あのとき、まだウィンリーナの髪は茶色だったので、姉から金を奪われておらず、今よりも待遇は悪くなかった。
「わたくしも侍女がいなくて困っていたのよ。あなたが一方的に得をしたわけではないわ」
「でも、私に気を留めてくださったことが嬉しかったのです」
「そうなのね」
ウィンリーナとアニスは互いに顔を見合わせて微笑んだ。
迷いがなくなったあとは、やるべきことをやるだけだ。これからの見通しを立てたとき、アニスに迷惑ばかりかけることに気づいた。
「そういえば、ごめんねアニス」
ウィンリーナが謝ると、彼女はきょとんとして不思議そうな顔をした。
「なぜ、謝るのですか?」
「だって、わたくしが失敗したら、アグニス国に戻らなくてはならないわ」
アニスはスーリアで夫を探す野望を抱いていた。
「まぁ、そんなこと、今はどうでもいいではないですか。それに帰るとしても一年後ですよ! その間にいくらでも機会はありますよ」
アニスの言葉で、母と結んだ魔法の契約を思い出した。
『最低一年間は、密偵に努めるように。失敗したら国に戻ること』
アグニス国へ戻らなくてはならないが、アニスの言うとおり、それは一年後だった。
「でも、どうして私の任務の詳しい内容をアニスが知っていたの?」
「それは、資金の受け渡しについて王妃陛下から指示があったからです。最低一年間はスーリアにいてもらうから、必要があれば送金するつもりだとおっしゃっていました」
「そうだったのね……」
「リナ様。篭絡は失敗しても、密偵は可能ですから。スーリア国での情報収集を頑張りましょう!」
「確かに、そうね。母も言っていたわ。入国できる機会はなかなかないって。普通ならこんな風に簡単に王宮に潜りこめなかったわ」
アグニス国では見たこともなかった魔法具もこのスーリアでは使用している。調べるネタはまだまだありそうだ。
このときは、そう考えていた。母の本当の思惑に気づかずに。
ウィンリーナは朝を迎えた。気持ちの良い風が窓から入ってくるが、心は晴れなかった。
本日、約束の時間になったら、フィルトが来るはずだ。そこで辞退の旨をアニスから伝えてもらう。その前にウィンリーナはメルシルンを助けに指定された場所に行く予定だ。
急に辞退することになり、今まで選考に携わってきた彼に迷惑をかけてしまう。とても心苦しく申し訳ないが、やむを得ないと自分に言い聞かせていた。
「では、行ってくるわ」
「ご武運をお祈り申し上げます」
アニスがお辞儀をして見送ってくれる。本当は彼女も同行を願ったが、瞬間移動は一人しかできないので、万が一のときに逃げられないと理由を話すと、渋々ながら諦めてくれた。
部屋付きのメイドが開けた扉から出たとき、予想外なことに突然男性から声を掛けられた。
(まさか、この声は――)
聞き覚えのある声が聞こえて振り向けば、フィルトが廊下に立っていた。彼が迎えにくる約束の時間までかなり早い。彼の表情が暗いので、何か良くないことが起きたのだろうか。
「リナ嬢、いきなり申し訳ない。実は緊急事態で他の妃候補者たちから辞退の申し出があったんだ。まさかリナ嬢も同じように辞退を考えているのではないかと心配になって来たんだ」
「えっ、わたくし以外の二人も辞退したんですか?」
全員被害に遭っているとは思わず、ウィンリーナはびっくりして声を上げていた。
すると、それを聞いたフィルトの顔つきが、みるみる泣きそうになる。
「その口ぶりだと、まさかリナ嬢も辞退するつもりだったのか?」
フィルトの直球な問いにウィンリーナは後ろめたさを覚えて咄嗟に彼から視線を逸らした。その反応がまずかった。
「本当なのか? なぜなんだ?」
フィルトに気づかれてしまった。何か訳があると、察してくれているようだが、犯人に他言を禁じられているので何も話せない。むしろ、こうして彼と接触していたら、犯人が誤解してメルシルンの身に危険が迫る恐れがある。
「大変申し訳ございません。わたくしにはやはり殿下の妃にはふさわしくなかったようです」
当たり障りのない断り文句を言うが、フィルトは全然納得する気配はなかった。
「もしかして、私が何かリナ嬢の気に障るようなことをしたのか? 昨日泣かせてしまったことが原因だったのか?」
「いいえ、違います。フィル様のせいではありません」
「では、なぜ?」
「ですから、わたくしには殿下の妃は無理です。申し訳ございません」
心を殺してまで拒絶すると、フィルトの顔が絶望に染まっていく。
「そんな……」
フィルトが言葉を失い、顔を歪めて、今にも泣きそうだ。それを見て、ウィンリーナまでも泣きそうになった。
(わたくしが殿下の妃にならないことが、そんなに悲しかったのね)
彼は殿下のためだけに今までウィンリーナに対して丁寧に対応してきたのだ。他意はないと、はっきりと突き付けられた瞬間だった。
それが分かった途端、ウィンリーナの心が切り裂かれたみたいに悲鳴を上げていた。
「困るよ、リナ嬢にそんなことを言われたら……」
ウィンリーナの傷心に気づかず、フィルトが縋るように近づいてくる。
その必死な彼の態度を見るたびにウィンリーナの心が何度も切り刻まれていく。
鼻の奥がツンと痛くなり、目の縁にどんどん涙が溢れていく。
頬を一筋の雫が流れ落ちたとき、彼とのご縁はもう終わりなんだと感じていた。
辞退すれば、彼とは今後関わることはないだろう。お別れだからこそ、言えなかった言葉を今なら言える気がした。
これを言えば、きっと彼もウィンリーナが辞退することもやむなしと納得してくれるはずだ。
だから、絶対に秘めたままでいようと思っていた想いを今ここで告げようと思った。
これを言えば、もう絶対に後戻りはできない。それほど威力のある言葉だ。
ウィンリーナは手を握り、気合を入れるために息を何度か吸う。
覚悟を決めてフィルトを見つめ、勇気を出して口を開いた。
「——わたくしは、あなたのことが好きなんです。だから、殿下の妃にはなれません」
そう言った途端、フィルトの青い目がびっくりするくらい大きく見開いていた。
今、何を言われたのか分からないといった顔をしている。あまりにも無防備な顔をしているので、彼は全然ウィンリーナの言葉を予測していなかったのだろう。それもとても悲しかった。
ぎゅっと目をつぶって、彼の姿を視界から消した。
「さようなら」
戸惑うフィルトを置いてウィンリーナはこの場から一瞬で消え去った。




