第一話 悪女になってみせるわ!
ウィンリーナの目の前には、開墾された農地が青々と広がっている。遠くには自然豊かな山々が連なっている。
昼下がりの日差しの中、ウィンリーナは農道の端に立つと、両手を水平に伸ばして手のひらを広大な畑に向ける。元気になれと念じると、ウィンリーナの手からふわりと霧のような白い魔法が広大な畑にどんどん散布されていく。
作物の生育状態は良好だ。瑞々しい緑葉が、陽の光を元気に照り返している。
この調子なら、勝てるかもしれない。
王妃の母はアグニス国の跡継ぎを決めるために課題をウィンリーナを含む三人の子たちに与えていた。それぞれ農地を任せ、その収穫量の増加割合を競い合う。結果と工夫が求められていた。
ウィンリーナは負けたら人生の墓場が待ち構えているが、事情があって人目を避けて活動していた。
額を流れる汗を長い前髪をどかしてハンカチで拭ったときだ。
「おい。あれは、誰だ?」
背後から声が聞こえたので、振り返って目が合ったのが、運の尽きだった。
「目が黒いぞ! 見ちゃいかん! 魔物に襲われるぞ!」
通りすがりの農夫たちが、ウィンリーナに気づいて震えている。二人とも一目で庶民と分かるような濃緑色の髪をしている。
見つかってしまった。
ウィンリーナは慌てて魔力を集中させて瞬間移動の魔法を使う。次の瞬間には、見慣れた自室にいた。王女にしては最低限な調度品しか置かれていない。一目見て高価だと分かるようなものは全部姉に奪われていった。贈られたパーティー用のドレスや宝石さえも。割り当てられた予算も、ほとんど全部。
「……アニス、戻ったわ」
蒸し暑さの不快感に耐えきれなくて、ショールと茶髪のカツラをむしり取る。すると、黒い地毛が視界の端に見えた。不吉と言われる黒い色だ。魔物と同じ色だから、人々から忌み嫌われている。
「リナ様、お帰りなさいませ。いつもながら人間離れな登場ですね」
部屋で待っていた侍女のアニスが近づいてきた。他に人はいない。赤毛の彼女は近づいてウィンリーナからカツラなどを受け取る。
彼女は貴族出身にしては魔力が少ない。だからなのか、いつも彼女はウィンリーナの魔法に対して大げさな反応をしている気がした。
髪の色は、魔力の色。王族の金髪碧眼が最高色と言われている。王族でそれ以外の色は、残念色と言われ、家臣並みの魔力となり、立場は悪くなる。この誤魔化しようのない不吉な黒目なら、なおさらだ。
「リナ様の髪の色が戻ってるから、また脱色しないといけませんね」
魔法を使うと、なぜか元の色に戻ってしまう。
「手間をかけるけど、さっそくお願いね」
カツラをかぶっているとはいえ、他の誰かに隠している黒髪を知られたらと思うと怖かった。
「はい、喜んで――と言いたいところですが、これから王妃陛下との面会がありますよ」
「……そうだったわね」
ウィンリーナは思わず顔をしかめる。王妃である母との面会を今まで忘れていた。
「お召し物を変えたあと、髪を直してカツラをかぶりましょうか」
「ええ、いつもありがとう。お願いね」
アニスは十五歳のウィンリーナより三つ年上で、彼女は昔からしっかり者だ。今だって、彼女の的確な段取りにうなずくしかない。
彼女がいてくれてよかったとウィンリーナはしみじみ思う。
それから身なりを整えたのち、ウィンリーナは母の部屋に入室した。二つ年上の姉ナーセルンが先に応接用のソファに座っていて、意外そうにこちらを見上げていた。彼女がいるだけで、胃の辺りが重苦しくなる。不安に思いながらもウィンリーナはソファに腰掛けている母に挨拶をして許しを得てから姉の横に腰を下ろした。正面にいる母は、さっそく話を切り出す。
「其方たちには、後継者の課題を与えていたが、状況が変わった。二人のうちどちらかは抜けてもらうことになる」
母の言葉にウィンリーナは驚いて二の句を失う。後継者になれなければ、姉の虐めから一生抜け出せないと思ったからだ。
「まぁ、王妃陛下。どうしてわたくしたちのどちらかが後継者争いから抜けなければならないのですか?」
姉が王妃の前では猫をかぶって謙虚に質問をしている。
母に似た金糸のような美しい髪を未婚の娘らしく肩に垂らしている。髪のトップだけを編み込み、花の髪留めを挿している。そこには瞳と同じ青い貴重な宝石が一つ飾られている。ウィンリーナから奪ったものだ。
ドレスの生地は深い青色で、白く透き通った肌によく映えている。ウエストが細くふんわりと膨らんだスカートは、贅沢なレースがアクセントで使われて華やかだ。大きく襟が開いているので、豊満な胸元が強調されて官能的な魅力にあふれている。
一方で、ウィンリーナは露出の少ない地味な茶色のドレスを着ている。姉のせいでドレスが少ないので、いつも代り映えがなかった。さらに、少しでも黒目を隠したくて前髪を伸ばし顔すら見えない。
「我がアグニス国は脅威にさらされている。隣接しているスーリア大帝国を知っておるか?」
母の問いにウィンリーナと姉は「はい」と返事をする。
「あの国は、周辺国を従えるためには手段は選ばない。要求に逆らった国の王族は、侵略された挙句に殺されて塔に吊るされたそうだ。我が国は周囲を山に囲まれているため、進軍しづらい地の利点があるおかげか、まだ攻略の対象となっていない。だが時間の問題だ。このままでは我が国も同じように攻撃されて殺されてしまう。今は後継者争いどころではない」
母の鋭い視線と口調にウィンリーナは黙ったまま固唾をのんだ。
「スーリア国の第二王子が国内で妃を募集していると付き合いのある行商人から情報があった。だから、この機会を活かすことにした」
「もしかして、わたくしたちのどちらかが、第二王子の妃として応募するということですか?」
姉の言葉に母は満足そうに首肯する。
王子が妃を募集するなんて珍しい。第二王子は、多くの女を集めて後宮でも作るつもりなのか。
「そうだ。スーリア国で娘のいない男爵家が応募するために養子を求めていたので、手筈を整えておいた。だから、妃が無理なら愛妾でもよい。その第二王子を篭絡できれば、其方の要求も通りやすくなり、我が国を隣国の戦火から守ることができる。たとえ悪女と罵られようとも国に尽くせ。城の塔から吊るされたくなければ」
母の言葉には重みがあった。
母は国王陛下をその美貌で篭絡して浪費三昧の前王妃と子を失脚させ、自身が王妃になった経緯があった。現在国政は母が国王陛下を尻に敷いて予算まで管理している。現王妃の見事な手腕に不満を持つ前王妃派の貴族たちからは「悪女」と悪評を立てられている。母は目的のためには手段を選ばない。
父は優しいと言えば美点だが、優柔不断で気が弱く、いつも他人の言いなりだ。施政者には向いているとはウィンリーナでも思えなかった。でも、会えば「リナ」と愛称で呼んで優しく接してくれる父を嫌いにはなれなかった。
「よくよく考えて決心してもらいたい。その第二王子は、噂では漆黒の死神と評されるほど恐ろしい男と聞く。死体を吊るしたのも、その王子の仕業らしい」
聞けば聞くほど最悪な男だ。そんな男を篭絡するなんて、できるのだろうか。
「わたくしは、リナがふさわしいと思いますわ」
姉が突然横からとんでもないことを言い始めた。
「ねぇ、リナもそう思いますでしょう? スーリアの公用語も得意でしたわよね? わたくしの金髪よりもリナの茶髪のほうが目立たなくてかえっていいですわ。妃は無理でも愛妾なら狙えるのでは?」
姉は逆らうことなど許さないと意味深な視線を寄越してくる。姉には、母にさえ隠しているウィンリーナの黒髪を知られている。それなのに密偵として勧めるなんて。
二年前、茶髪だったウィンリーナの髪が突然黒色に変化したとき、姉が側にいたのが運の尽きだった。
それから不吉な黒髪の事実を黙ってもらう代わりに姉の言いなりになっている。本当は姉には後継者争いで何もするなと言われていた。
でも、今日みたいにこそこそと活動し、ようやく勝ち目が見えてきた、その矢先だったのに――。
「でも……」
(目は黒いです。相手に嫌がられるのでは……。それに婚約者もいますし……)
そんな言い訳すら口にできなかった。隣にいる姉が恐ろしすぎて。
婚約者といっても、四十過ぎの子持ちで卑猥すぎる男だ。第二王子と違い、殺される心配がないだけマシという悲惨な状況だ。
王女は王族との結婚を義務とされている。血と魔力を繋ぐための決まりだが、未婚の王族の男子が彼ぐらいしかいなかった。唯一の若い年頃の男は、姉に夢中で相思相愛で婚約している。
最悪な状況だが、王族だったおかげで黒色を理由に殺されることはなかった。
「リナ、心配は無用ですわ。今のように前髪で目を隠していれば、あなたの目の色は分かりませんわ」
クスクスと可笑しそうに姉は笑うが、こちらを見る目は鋭く、怒りに満ちている。これ以上の抵抗は許さないと語っていた。
母は品定めするように碧眼をウィンリーナに向けていた。威圧すら感じる眼差しが恐ろしい。
「黒目は、恐らく問題ない」
なぜ、そんな判断が下せるのか。
でも、母にまで、こう言われたら、嫌とは決して言えなかった。
「わ、わたくしが密偵のお役目、引き受けたいと思います。この国のため、王妃陛下のために貢献したいと存じます」
ウィンリーナは泣きそうになるが、必死に作り笑いを浮かべる。
横で姉が満足そうにほくそ笑んでいた。
「そうか。では、其方に任せるとしよう」
母はあっさりと申し出を受け入れる。
目的のためには娘すら利用する。母らしい決断だった。
「まぁ、リナったら、素晴らしいですわ。さすがわたくしの妹ね。でも、万が一のことがあっては大変ですわ。陛下、魔法の契約はいかがかしら?」
「ふむ、考えておこう」
姉は母の返事にニヤリと笑う。裏切って契約を違えたら魔法で厳しい罰を下されるからだ。最悪死ぬ。
「でも、無理はしないでね。バレたら大変ですもの。失敗して戻ってきても、きっとあなたの婚約者は待っていてくれますわ」
ウィンリーナはその言葉を聞いて一気に肝が冷えた。要は、姉が言いたいのはこうだ。「密偵に失敗して帰ってきたら、あいつと結婚させられるわよ」と。
それだけは絶対に嫌なので、ウィンリーナは心に誓った。
(お母様やお姉様のように自分も悪女になって、絶対に王子を篭絡させてみせるわ!)
もう弱者の立場はごめんだった。