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いい歳した大人の呆れた恋の行方は

作者: 朋永実久



 机の上には山のように積まれた書類の数々。広げっぱなしの製図用紙は所々薄汚れている。空になったインク瓶は置かれたまま、付箋まみれの辞書が何冊も重なって壁を作っていた。


 ああ、仕事が終わらない!


 頭を抱えるようにして前のめりに机に倒れ込むと、カシャンと音を立てて転げ落ちたのは、魔法省魔道具開発課に配属された時にもらった万年筆だ。

 もらった当時は、感激のあまり受け取った手が震える程喜んだものだが、使い古してインクがなくなった万年筆は、まるで今の疲れ果てた自分のようだ。


「おいハンナ」


 ……ああ。課長が呼んでる。


「寝てんのか?寝たふりか?図案は書けたのか?」


 ああうるさい。催促しないで。


「それが終わらないと帰れないぞ。お前も俺もな」


 他の皆は帰りましたけどね。


「ハンナ。聞いてるのか?」


 ……ああ!もう!!


 ハンナが顔を上げると、向かい側の席に座る上司と目が合った。

 彼の名はルパート・ウォルターズ。三十歳。開発課の課長であり、由緒正しき名家ウォルターズ伯爵家の三男坊だ。


 襟足までのブロンドの髪に、二重だが切れ長の灰色の目。鼻筋の通った高い鼻。薄いが形のいい唇に、真っ白な歯と、どこを見ても非の打ち所がない整った顔が、責めるようにこちらに向けられていた。


 ハンナはため息を漏らした。漏らさずにはいられなかった。上司と二人きりで夜更けの研究室にこもって残業だなんて、ため息しか出ない。しかもそれを、ほぼ毎日のように続けているのだ。


 ハンナは今年で二十九歳になった。

 結婚適齢期はとうに過ぎ、親からは結婚を催促されて見合い写真が送られてくる。それを忙しいからと躱し、職場では上司から仕事の催促をされる日々。


 ハンナはじとっとルパートを見返した。口は悪いのに、無駄に美しい顔だ。この人以上に綺麗な顔を見たことがない。睨まれてさえいなければ、ずっと眺めていたいと思ったことだろう。


「ハンナ」


「……聞こえてます図案はもうすぐ出来ます元々私の仕事ではありませんが」


「引き受けたのはお前だし、メリルは具合が悪いってんだから仕方ないだろ」


「そうですけど、大丈夫ですよ。すぐに終わらせますから」


「そうしてくれなきゃ困る。ここで寝るのはごめん被る」


 病気がちなメリルだけではなく、他の同僚も家族がいたり用事があって残業が出来ない。

 というわけで、必然的に独身が残る。つまり、ハンナとルパートが。


 ハンナは万年筆を拾いあげると、仕事を再開したルパートを盗み見た。


 ルパートは二年前に魔道具開発課の課長として異動してきたのだが、そのうち昇進して別の部署へと異動していくエリートだ。


 反対にハンナは、魔法省に入った時点で準男爵という位を得てはいるが、元は平民の平均的な家庭の次女として産まれた。見た目も性格も平凡だったが、魔力だけはそこそこあって、なんとか魔法省へと入省することが出来た。こう見えて努力家であり、運のいい女だと自分では思っている。


 しかし、その運は尽きてしまったらしい。最近のハンナはツイていない。


 ハンナが開発した火災警報機が誤作動を起こしたり、魔導士団の使い魔の狼が突進してきたので避けようとして噴水に落ち、外を歩けば鳩の糞が頭に落ち、タンスの角に指をぶつける。

 ツイてない出来事が続き、最近では自ら不幸探しをするようになってしまった。


 あーあ。何かいいことないかなぁ。


 そんなことを考えていると、ルパートが頼んだぞと念を押した。ハンナはげんなりして製図用紙を見下ろした。


 ああ……今日は何時に帰れるやら。

 



 それから二時間後、なんとか仕事を終わらせたハンナがのろのろと帰り支度をしていると、皺一つないコートをかっちりと着込んだルパートが、送ると一言告げた。


「大丈夫ですよ。毎度申し訳ないですし」


 魔法省の建物から寮までは徒歩十分程の距離だ。とはいえ、道中明かりがない所もあるため、危ないからといって残業のあった日は必ずルパートが送ってくれていた。


 はじめは帰るついでだと思っていたのだが、聞けばルパートの自宅は反対の方向だというし、いつもは伯爵家の車で送迎してもらっているらしい。

 車を所有しているのは貴族の中でも少数で、ウォルターズ家は財力があるんだなと感心した。


 ともあれ、それを知ってからは一人で大丈夫だと断っても、ルパートは頑なにハンナを送ってくれていた。


「いいから行くぞ」


 結局ハンナは、その日もルパートと一緒に南門を出た。



「ハンナは帰ってから夕飯を作るのか?」


「あるもので済ませます」


「あるものって?」


「確か、ハムと卵とトマトがあったはず……」


「なんだよそれ。朝食か?」


「いいじゃないですか。そういう課長は?」


「帰ったら夕飯は用意されてるからな。何かしら出てくる」


「ああ羨ましい!お貴族様はいいですね。肉を焼けって言ったら出てくるんですか?」


「まあ、料理人が作ってくれるな」


「私も手を叩いて、今すぐステーキを!レアで!とか言ってみたいですよ」


「……なんだよそれ」


「課長だって指をパチンと鳴らして、この料理に合うワインを!とか執事に言ってるんでしょう?」


「……なんていうかお前、よくそれで魔道具開発課に配属されたよな」


「ちょっとそれどういう意味ですか?」


「言葉通りの意味だよ。想像力が乏しい」


「ひどい……!」


 いつものように、くだらない話をしながら寮への道を並んで歩く。仕事では厳しいルパートも、この時ばかりはハンナに笑顔を向けて、冗談を言ったり軽口を叩いてくれる。

 ハンナはルパートと帰るこの時間を、いつしか楽しみにしていることに気が付いていた。



 寮に着くと、ハンナは頭を下げた。


「今日もありがとうございました」


「ああ。早く寝ろよ」


 ルパートがハンナの頭にポンと優しく手を乗せた。


「はい。おやすみなさい」


 離れていく手が名残惜しい。おやすみと告げて去って行くルパートの背中を、見えなくなるまで見つめていた。



   ✴

 


 翌日出勤してみると、メリルがやって来てハンナに頭を下げた。


「昨日は具合が悪くて先に帰ってしまって申し訳ありません!」


「大丈夫よ。それよりも具合はどう?」


「もう大丈夫です」


 と言ってメリルは咳をした。まだ本調子じゃないのかもしれない。ハンナは心配してお茶を入れた。

 お茶を飲んで落ち着きを取り戻したメリルが、思い出したように声をひそめて言った。


「ところで、聞きましたか?」


「何を?」


「課長、そろそろ結婚するんじゃないかという噂ですよ」


 えっとハンナは一瞬固まった。


「結婚……?」


「先週末、二十歳前後の女性と一緒に宝石店で指輪を見ていたそうですよ。総務の同期が今朝言ってました」


「へっ……へえ〜そうなんだぁ〜二十歳なんて若いわね羨ましいな〜!」


 ハンナは笑ってみせたが、心中は穏やかではなかった。動揺のあまり持っていた万年筆を取り落とすと、慌てて拾おうとしてインク瓶に手が当たり、製図用紙にインクをぶちまけた。


「ああ!!もうすぐ終わりそうだったのにぃ!」


 絶叫するハンナに、ルパートが青筋の浮いた顔で怒鳴り付けた。


「うるさいぞ!ハンナ!」


 本日も残業が決定した瞬間だった。

 汚れた製図用紙とルパートを交互に眺めて、ここ最近で一番の不幸だと思った。

 


  ✽



「インク汚れをあっという間に消し去る魔道具を開発するべきです」


「そんな便利な魔法はない。便利グッズの発明は民間に頼め」


「そんなこと分かってますよ。言ってみただけです……」


「それにしてもお前、もう三十路なんだからもう少し落ち着けないのか?」


「まだかろうじて二十代です」


「ほぼ三十歳だろ」


「いいえ!まだです!」


「どちらにせよ落ち着けよ」


「自分でも落ち着きがないことくらい分かってますよ……」


 残業の帰り道、暗い夜道を並んで歩きながら、ハンナはこっそりとルパートを伺った。

 風が吹いてルパートの前髪が顔にかかると、鬱陶しそうに前髪をかき上げる。そんな仕草の一つ一つにドキリとして、今夜のルパートはいつにも増して男前に見えた。


 絶対に手に入らない男だと知ってしまったからだろうか。ハンナはなんだかむしゃくしゃしてきた。


「課長は三十過ぎて益々男に磨きがかかってきましたよね。顔は良くて財力はあるし、さぞおモテになるでしょう。そりゃあ若い娘もほいほい釣れますよね」


 けっと唾でも吐きたい気分だ。ハンナは夜空を見上げ、星一つなくて舌打ちをしたくなった。


「これからどんどん渋くなって、もっともっといい男になるんでしょう?隣には若い奥さんがいて、子供バンバン産んで、見るからに幸せそうな家庭を築いていくことでしょうよ」


「……なんだお前、酔ってるのか?仕事中に酒飲むなよ」


「飲むわけないでしょう!」


「だったらどうした?いつもの薄っぺらな妄想の話か?」


 近い将来きっと事実になるでしょう。

 ハンナはまあそんなところですと曖昧な返事をしてこの話題を終わらせた。


 その日は珍しく、それきり二人共口を開くことなく、会話がないまま寮へ着いた。



 ハンナはおやすみなさいと頭を下げた。顔を上げると、いつものようにルパートが頭に手を乗せた。

 しかも、今日はなぜか優しく撫でてきた。髪の指通りを確かめるようにするりと撫でる。


 いつもとは違った行動に戸惑い視線を上げると、ルパートはじっとハンナを見下ろしていた。その目が何を言いたいのか分からなくて、ハンナの鼓動が早鐘を打つ。


 いつからか、残業終わりに送ってくれるのは、ハンナのことを特別に思ってくれているからではないかと期待していた。

 しかし、それはまったくの勘違いだった。


 期待して、失望して、また期待させて。

 手に入らない男をもっと好きになってどうする。


 街灯の下で、しばらく無言で互いの目を見つめ合った。ルパートの瞳が青みがかった灰色だなんて知らなかった。知らなくてよかったのにと、ハンナの胸は痛んだ。


「……では、おなすみなさい」


「ああ……おやすみ」


 ハンナは堪らなくなって視線を逸らし、背を向けた。ルパートの背中を見送るのが辛くて、寮の階段を駆け上がると、自室へと逃げ込んだ。

 まだ鼓動はうるさいままで、髪の毛が脈を打っているようだった。


 こういう時はとにかく腹を満たそう。なんでもいい。


 しかし台所に行ってみると、干しぶどうと飲みかけのミルクしかないことに絶望した。パスタもパンも米もない。連日の残業で、買い物をすることすら忘れていた。


 ハンナは諦めて干しぶどうを食べ、ミルクを飲んでシャワーを浴びた。


 熱いシャワーを浴びていると、涙がゆるゆると流れてきた。一旦流れると中々止まらなくて、ハンナは声を上げて泣いた。小さな浴室に泣き声が響いた。


 二十九歳にもなって叶わぬ恋をするなんて、我ながらバカだと思うが、まさかこんなにもルパートを好きになっていただなんて思わなかったのだ。


 今更気付いたところで、もう遅かった。



   ✽



 翌朝、ハンナは朝早く目が覚めた。

 鏡を覗きこむと、目が少し腫れぼったい。なんとか化粧で誤魔化すことに成功し、着替えて部屋を出た。


 よく晴れた朝の空気が清々しい。

 少しだけ気分が上がり、小走りでパン屋に向かった。朝食と昼食、それからストック分のパンを買い込むと、職場へ向かった。


 出勤時間までまだ一時間はある。誰もいない部屋でお茶を入れて、チーズとハムとレタスを挟んだ白パンにかじり付く。昨夜はろくに食事をとっていないので、いつも以上に美味しく感じた。


 朝食を終えてカップを片付けると、ちらとルパートの机を見やった。今日は残業をしたくないと思い、まだ時間はあるけれど仕事に取り掛かろうと考えて引き出しに手をかけた。


 開けてみると、つい最近親から送られてきた見合い写真が入っていた。家に送っても目を通さないものだから、職場に送り付けてくるようになったのだ。

 ハンナはいつも封筒を開けることさえせずに引き出しに入れては、両親が諦めた頃に捨てていたのだが、今日は違った。いかんせん気持ちが沈んでいる。


 何気なく封筒を開けて、見合い写真を取り出して見た。人の良さそうな顔をした男がぎこちない笑みを浮かべていた。額の頭髪が薄くなりかけている。


 男の顔を眺めていると、見合いでもしてみようかという気になってきた。

 誰でもいいから慰めて欲しい。見れば見るほど優しい人なんじゃないかと思えてきた。癒やしだ。今は癒やしが必要だ。


「見合いしてみようかな……」


「そいつとか?!」


 突然背後からした声に驚いて、ハンナは飛び上がった。振り返ると、ルパートが見合い写真を睨み付けていた。


「か、課長!いつからそこに?!」


「今だよ。それよりも、本当にそいつと見合いするのか?」


 眉根を寄せて尋ねるルパートに圧倒されて、ハンナは反射的にはいと返事をしてしまった。


「やめろ」


「えっ?いや、でも」


「見るからに性格の悪そうな面をしてる」


「ええ?見るからにいい人そうですけど……」


「そういう奴程悪い。ものすごく悪い。悪人だ」


 そこまで言うか?とハンナは見合い写真に目を落とした。優しそうに見えるが?と思ったところでルパートに取り上げられると、そのままゴミ箱に捨てられた。


「あっ……」


 追いすがって伸ばした手を、ルパートが掴んだ。熱い手だった。ハンナはドキリとしてルパートを見上げた。


「ハンナ、結婚したいのか?お前は仕事一筋で、結婚とか興味がないと思ってたんだが……」


 難しい顔をしたルパートに聞かれて、少し前まではそうだったと思った。なんだかんだで仕事は大変だが楽しいしやり甲斐がある。それに、残業後にルパートと帰るのはハンナにとって小さな幸せだった。


 でも、そのルパートが結婚してしまうのだ。

 胸が苦しくなり、自分の気持ちを隠すためにこくりと頷いた。


「……結婚もいいかなって。だから、お見合いでいい人がいたら受けようかと思ってます」


 ルパートは目を見開き、ハンナの手を離すと黙り込んだ。


「……そうか。分かった。それなら、次に見合いが来たら受けろよ」


 突き放すように言われてしまい、好きな男からそんな言葉を聞きたくなかったと、ハンナはショックで黙り込んだ。


 その日はルパートと目を合わせることなく、残業することもなく帰宅した。


 そして、何も食べずに布団に潜り込んで、わんわん泣いた。翌日が仕事休みで良かったと思いながら、泣きつかれて眠った。まるで幼子だと自分に呆れた。



   ✽



 それから一週間後、両親から見合いの話があると呼び出されたハンナは、見合い写真を見せられる間もなく、実家で用意されていた真っ青なドレスを着せられて、念入りに母親に化粧を施され、真新しいヒールの高い靴を履いて、強制的に車に乗せられた。


 着いた先は、ものすごく大きなお屋敷だった。

 聞けば、見合い相手の所有する別邸らしく、門は魔導力で自動で開き、中に入ると立派な前庭が広がっている。

 車で迎えに来た時点で、すでに見合い相手がすごいお金持ちであることは想像出来たが、見合い相手を間違えていやしないかと、何度も両親に確認をとった。


「だから、間違えてないって言ってるでしょ?」


「だって、ありえないでしょ?」


「私だって信じられないけどね、このお見合い相手の方は過去に一度うちに縁談を持ってきてくださってるのよ」


「そ、そうなの?!」


「一年前くらいかしらね?」


「それなのにお前が仕事に集中したいっていうから、渋々断ったんだよ。そうしたらお前、一週間前にまた縁談の話を持ってきてくださって、驚いたよ」


「本当にありがたいわよね。行き遅れにも程がある三十路の娘をもらってくれるっていうんだからさ」


「まだ二十九歳よ!でも、何で?何で私なの?」


「あんた……その調子だと、今までに送った見合い写真、全部見てなかったんでしょ!」


「そ、それは……」


「本当に呆れた娘ね!今日で決めなきゃ勘当するわよ!」


「お、お母さん……!」


 というやり取りを車中で繰り広げた後、ハンナはげっそりして車を降りると、執事の案内で屋敷の中へと足を踏み入れた。


 屋敷の中も豪勢な造りだった。入ってすぐに赤いカーペットの敷かれた階段があり、手すりには細かい細工が施されている。天井を見上げると、見事なシャンデリアがつり下げられていて、廊下のあちこちに美術品が飾られている。


 もしかしなくても、お相手の方は貴族なのではという考えに至り、ハンナは青褪めた。


 昨今、王侯貴族の力は衰えつつあり、周辺諸国では民政化する国も出てきた。その影響で、恋愛や結婚も貴族平民問わない自由結婚を謳う者が増えた。実際に貴族の家に平民の嫁を迎えたという話はいくつか聞いたことがあった。


 とはいえ、まさかハンナにそんな話が舞い込むとは思ってもみなかった。無理だと内心で結論を出した時、執事が扉の前で立ち止まった。


「では、ご両親はこちらでお待ち下さい。ハンナ様はこちらへ」


 なぜか両親と引き離されたハンナは、助けを求めるように母親に手を伸ばしたが、その手を叩き落された。


「ハンナ、頑張ってきなさいよ!」


 一体何を頑張ればいいのか?

 ハンナは両親に売り飛ばされたのではないかと、絶望した。



 その後、だだっ広い客間に通されたハンナは、豪華な革張りのソファにぽつんと座って、ソワソワしながら待っていた。


 よぼよぼのお爺さんとかが来たらどうしよう。そもそも、三十間近の女を嫁に望むくらいなのだ。完全に後妻枠に決まってる。

 待てよと、ハンナは立ち上がった。


「もしかして私、介護要員として嫁に望まれてる?!介護に必要な魔道具を作れとか、そういうこと?!それなら納得だわ!絶対にそうよ!」


「そんなわけあるか。バカ」


 突然後ろから頭を小突かれて、ハンナは前のめりによろめいた。履きなれない高いヒールのせいでそのまま転びそうになったところを、すかさず後ろから伸びてきた手が腰に巻き付いて、抱きとめられた。


 助かったとほっとして、待てよと思い直す。

 今の声って、まさか……。


 恐る恐る振り返ると、すぐ間近にルパートの美しい顔があった。ハンナは声にならない悲鳴を上げた。


「な、ななな……?!」


 ルパートはハンナから手を離すと、落ちつけと言ってソファに座らせた。すぐ真横にルパートが腰を下ろした。

 よく見るとルパートは、上質な濃紺のスーツに身を包み、髪はぴしりと撫でつけられており、いつも以上にかっこよくてキラキラしている。

 これでは落ち着くどころではない。鼓動が激しくなって体温が上がり、汗が出てきた。ハンナは混乱の極みに達した。


「なぜ俺がここにいるか聞きたいか?」


「は、はい!」


「ここは俺が所有している別邸だからだ」


「えっ?!……じゃあ、今日の見合いをセッティングしたのは課長?ということは……見合い相手は、課長のお祖父様?!」


 ルパートは呆れてため息を吐いた。


「なぜそう斜めの方向へいくんだ?一度後妻から離れろ。……今日の見合い相手は、俺だよ」


 ハンナは目玉が飛び出る程驚いた。


「か、課長が、見合い、相手?!そんなバカな!だって、課長はもうすぐ二十歳の若い娘と結婚するんですよね?」


「はあ……?誰から聞いた?」


「メリルさんが、噂で聞いたって。二人で宝石店で指輪を見てたって」


 ルパートはしばし思案した後、思い付いて頷いた。


「それは妹だ。見てたのはネックレスだ。誕生日祝いに欲しいってねだられたから、買ってやったんだよ。それに、妹はもう二十五歳だ」


 ハンナは一瞬言葉を失った。

 いもうと?!


「い、妹って……そんな、そんなありがちな誤解ありますか?!」


「知るかよ。事実だからな」


「だって!私はてっきり……妹だなんて思わなくて……!あ、ありがちすぎる……」


 ハンナは肩を落とした。散々泣いて苦しんだのは何だったのかと、ここ数日の苦悩の日々を思い出した。

 それが誤解だったとは……。


「本人に聞きもせずに単なる噂を信じるなよ」


「それはそうなんですけど、私がどれだけ悩んだか……」


「……悩んだ?」


 あっとハンナは口を手で覆った。思わず口が滑ってしまった。まずいと顔を上げると、ルパートが顔を覗き込んでいた。


「何を悩んだんだ?」


「いや、あの、その……」


「俺が結婚すると思ってショックだったのか?」


「ええと、そ、れは……」


 じりじりと身を寄せてくるルパートから逃れようとしたが、手を掴まれて阻止された。手を引かれて向き合わされた拍子に、膝がルパートの太ももに触れた。

 たったそれだけで、ハンナは顔を赤くした。その瞬間、ルパートの目の奥が光った気がした。


「なぜ?」


「そ、そんなのっ!もう言わなくても分かってますよね?!」


「ハンナの口から聞きたい」


「わ、私だって、なぜ見合い相手が課長なのか聞きたいですよ!」


「そんなの……もう分かってるだろ?」


 ルパートの顔が目前に迫っていた。言い合っているうちに指を絡めるように繋ぎ合い、太ももはぴたりとくっついている。ハンナの心臓は破裂しそうだった。


「ハンナ……」


 ハンナは観念して顎を引くと、震える唇で告げた。


「好きだから、です」


「俺も、好きだからだよ」


 信じられない思いでルパートの告白を聞き、ハンナは迫りくるルパートの顔を熱く見つめた。見返してくるルパートの視線の熱量が自分と変わらないことが分かると、ハンナはそっと目を閉じた。


 二人は触れ合うだけのキスをした。目を開けて、ルパートが好きだと呟いてもう一度キスをすると、ハンナを抱き寄せた。


「一年前に縁談を申し込んだ時は、仕事がしたいと言って断られたから、ハンナは仕事一筋なんだと思ってたよ」


 独り言のようにルパートが呟いた。ハンナははっとして、ルパートから離れた。


「ま、まさか課長、その頃から私を?」


「ああ。はじめは仕事に打ち込む姿に惹かれて、一緒に帰って他愛のない話をしているうちに好きになってた。それで縁談を申し込んだら断られて……。あの時はどんな顔で仕事に行こうか悩んだが、お前の様子を見て確信したよ。見合い写真、見てないんだなって」


「そ、それは……」


「だから結婚に興味がないんだと思ってた。でも、急に見合いを受けるとか言うから、大急ぎで縁談を申し込んだ」


「だから、あの時次の見合いを受けろって……」


 こくりと頷いたルパートに急に腹が立ってきて、ハンナはルパートの胸を叩いた。


「あの時私がどれだけショックだったと思ってるんですか!もうっ!」


「悪かったよ……」


 ルパートはハンナの手を掴んで止めさせると、苦笑しながらハンナの頬に触れた。怒って上気したハンナの頬をサラリと撫でると、ルパートは真剣な眼差しを向けた。


「順番がめちゃくちゃになったが、ハンナ、俺と結婚してくれないか?」


 ルパートがこんなにも真剣な顔をしているのは今までに見たことがなかった。触れた手から僅かな緊張が伝わってきて、胸の奥から愛しさが溢れてきた。


 この人が好きだ。ずっと一緒にいたい。


 ハンナは、貴族の嫁に入るだとか、厳しい上司だとか、見合いの場だとか、今後のこととか、そういった諸々のことはひとまず置いておくことにした。


 ただ、ルパートが好きだという気持ちは確かなもので、ルパートもきっと同じ気持ちだと確信することが出来たので、笑顔で返事をした。


「……はい!」


 喜びに満ちた顔でルパートが笑った。


「ハンナ、愛してる」


 ハンナは照れて返事が出来なくて、そっとルパートに身を寄せた。













 

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