浮気者の夫と思いやり深い妻の話
ある宮廷に遊び人の男がいた。
男は貴族で、羽振りよく、容貌にも恵まれていたが、その分少々素行がよろしくなかった。ある時は悪友たちと飲み明かし、またある時は舞踏会に出かけてどこぞの令嬢との火遊びを楽しんでいた。家人に悪い遊びを諫められてもどこ吹く風だった。
そんな男の悩みの種は、ことあるごとに妻を貰うことを勧められることだった。
結婚は貴族の逃れられない宿命である。家柄を誇る一族は家を守るために世継ぎを残さなければならず、そのためには身分の釣り合う相手と婚姻を結ばなければならない。そのため両親や親族、同僚の宮廷官たちは男に対してしきりにいい相手を世話しようとした。
だが男にしてみればこれはおせっかいだった。冗談じゃない。男にしてみれば伴侶なんてものは今の楽しみを奪うただの足かせにすぎない。
しかしおせっかいが今後も延々続くと思うとそれも考えもの。
悩んだあげく、男はある女と婚姻を結ぶことにした。
それは社交界で時折見かける、ある貴族の令嬢だった。控えめな性格という評判で、容貌は地味ながら悪くはなく、家柄は同格。そして男の家と比べて暮らし向きは慎ましい。
遊び慣れた男には恋愛を楽しむ相手として魅力的とは思えなかったが、政略結婚の相手としては申し分なかった。結婚するだけして後は遊び歩いていても、ぜいたくをさせておけば文句は言わないだろう。世継ぎだけは伴侶との間に必要だが、程度の差はあれ誰でも火遊びくらいするものだ。彼女を選んだのはそんな目論見だった。
「家柄良く従順であればどんな女でもいい。悋気を起こしてあれこれ問い詰めるような妻はごめんだ」
そういう成り行きで申し入れた婚姻は驚くほど円滑に進み、つつがなく婚礼までこぎつけた。
好条件な妻を得た満足から、男は式の後一週間は良き夫を演じようと努力していた。しかしそれも長くは続かない。じきにまた悪い遊び癖を出し始めた。
とはいえ正式な婚姻を結んだ以上妻の実家への建前も家人の目もある。前までのように大手を振って花街に馬車を差し向けることは難しい。
なので男は夜遊びに出かける際、本当のことを知らせずはぐらかすようにした。宮廷に出仕した帰りに残業と称して悪友たちと馴染みの遊女のいる店に赴き、友人間の「会合」と言葉を濁して乱痴気騒ぎに身を投じる。そうやって夜明けまで遊んで帰ることもたびたびあった。
妻はうわさに聞いた通りおとなしい女だった。男とは対照的に、出かけて行って派手に遊びまわることはない。友人を屋敷に招いて茶会を開く程度のつつましい楽しみに満足している様子で、女主人としての仕事を覚えるのにも熱心だ。そして何より男の帰りが遅かろうと疑いをかけて当たり散らすことがない。
これに気をよくした夫は、高級遊女を招いた集会に出向いては、高級な葡萄酒を掲げながら「結婚なんてどうということはない」と笑いの種にしていた。
ただ一つ誤算だったのは、結婚相手が想像したよりもおせっかいな女だったことだった。
男の遊びを口やかましく咎めるわけではない。しかし婚礼後しばらくして、妻は帰宅後の男に口を出すようになった。
ある夜隠れて遊興にふけった後、仕事で遅くなったと偽って屋敷に戻ったことがあった。
着替えの後肌着の胸に葡萄酒のしみが飛んでいたのを見つけた妻は
「まあ、食事中礼服をお脱ぎになっていたのですか?」
と声を上げた。まさか衣服をくつろげて遊女と酒興に浸っていたなどとは言えない。男は口ごもる。
「身体が火照るようでしたらよく効く薬酒があったはずですわ。冷やして持って参りましょう」
すると妻は夫を問い詰めることなく、使用人にあれこれ指示を出すのだった。
男がへべれけに酔って帰った時も、妻は男の体調を気づかって明日の朝食を軽いものに変えるよう料理人に伝えながら言った。
「お友達同士で場に花が咲いたのかもしれませんが、こんなに飲まれるとお身体が心配です」
男はその度辟易したものの、妻は行動を制限しようとするわけではなかった。むしろそれは男の身辺を快適にしようという心遣いだった。また出過ぎるわけではなく、煩わしくて下がれと言えばそれ以上うるさく口出しせず従う。
これは存外好都合な妻を手に入れたと、男はすっかり気を良くしていた。
夜の街に繰り出したとき心配する妻の顔がちらつくことはあったが、魅惑的にまたたく街の灯りを前にするとすぐに忘れてしまった。
ある晩男は裏町の宿からひどく濡れて帰った。帰り道で唐突に雨が降り出したのだ。
足元のぬかるむ中を走って屋敷までたどり着き、玄関をくぐると、ホールには少ないながら灯りがあった。普段ならとっくに消灯されて使用人も奥へ下がっているはずの時間なのに。
男が怪訝に思う間もなく、奥から人影が現れた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
灯りを持って男を出迎えたのは、とっくに寝ていてもおかしくない妻だった。
男は驚いてとっさに口を聞けなかった。妻は壁際の台に手燭を置いて歩み寄ってくる。
「まあ、こんなに濡れて……。車も待たせずにお出かけになっているから心配しておりました」
男は言葉を濁す。馬車は夜遊びをするのに邪魔だったので先に帰してしまっていた。
「お寒いでしょう、今湯を用意させますので、まずは体をお拭きになって」
壁に取り付けてある知らせのベルを鳴らしてから、妻は寝間着の袖が湿るのも構わず乾布で男の髪や体をそっと拭い始めた。まるで夫が濡れて帰るのを分かっていたかのように用意が良い。
男はされるがままにしていた。口出しのしようもなく、ただ妻の手の柔らかな気遣いをその身に感じていた。
出先に泊まって帰らないかもしれない夫を寝ずに待っていただなんて。
自分を顧みない夫のために自身の休息まで削って。
男は突如として、妻の足元にひざまずいて取り縋り、その足元に落ちる影に口づけをしたい衝動にかられた。そして今までの一切を打ち明けて許しを乞おうかとすら頭をよぎった。しかし余裕ぶって虚勢を張る自分と非難を恐れる気持ちとがそれを押しとどめた。
立ち尽くす男の葛藤を知らず、女はまつげを伏せて懸命に夫の服を拭き清めていた。
それからも男はたびたび習慣じみて夜の町に遊びに出かけた。
しかし前のように愉快ではなかった。
ある日の宮廷帰り、男は同僚の誘いを断って街に降り、近頃人気だという菓子店に足を運んだ。ほんの気まぐれだった。ただ妻が茶を好むということをふと思い出しただけだった。
妻は夫の早い帰りに目を丸くし、贈り物の箱を見せると顔をほころばせた。その表情を見ると心の奥に小さなともし火が点くように感じた。遊びに身を投じる際の高揚と刺激とは違う、身体を包み込むような温もり。そして自らを苛むやましさもまた大きくなっていた。
やがて男はきっぱり火遊びをやめた。
両親は安堵し、ついでに使用人たちからも夜番が楽になると評判は良い。品行を正した男は上からの覚えもめでたい。それが自分だけの功績でないことを男は理解していた。
妻は今も何も知らずににこにこと笑っている。
これからは疑うことを知らない妻に報いようと、夫は心に誓うのだった。
「――それで、夫人の旦那様は次期顧問官候補として名が挙がっているそうよ」
「まあ、それは名誉なことですわね」
「恐れ入ります」
ある邸宅の花咲く庭で、貴族の婦人たちはおしゃべりに花を咲かせていた。彼女らは社交界で親しくする友人たちだ。
そして今日の茶会は、近頃ある貴族と婚礼を挙げた一人に話を聞くためのものだった。
女の夫となった男は社交界では有名人だった――主に悪いうわさで。
刺激を求める貴婦人、ときに世間知らずの令嬢にまで声をかけ、色恋を遊びとして好き放題楽しんでいるという。当然その評判は同じ社交界にいた彼女らの耳にも入っていた。
しかしその音に聞く遊び人が近頃では女遊びと縁を断ち、愛妻家として新たな評判を築いているというではないか。
若華やかな彼女たちは哀れな妻から一転幸せな花嫁となった友人を祝福し、また純粋な好奇心から、夫を徳の人へと変えた生活の秘訣を聞いてみたいと期待していた。
女は微笑んだ。
「特別なことをしたわけではありません」
別に夫の更生のために力になろうと思ったわけではなかった。
夫は世間の女の敵のような男だった。軽薄な浮気者。次々と相手をとっかえひっかえして、そのくせ関係を切るタイミングには聡かった。そのため大きな問題になったという話はなく、耳に入るのは何も知らず弄ばれた令嬢方の恨み言が大半だった。
それだけに女は招かれた晩餐会で彼を視界の端に捕らえることはあっても、好感を抱いたことはなかった。関わろうとか、まして親睦を深めようなどとは思いもしなかった。
しかしこの縁談は好条件だった。家柄は同格、実家への金銭的援助も見込める。本人も宮廷勤めで見目も立ち居振舞いも社交には不足ない。
女は考えた末に結婚を決めたが、彼は結婚後も遊びをやめなかった。それなのに糾弾されることは厭わしく思っていると見え、女にはいい顔をしながら夜な夜なこそこそと出歩いている。
だから女はあらかじめ考えていた計画を実行した。
馬鹿な男だ。遊び好きの軽薄な男であることはとっくに知られている。いくら言葉を偽ったところで、それは罪悪感があると表明しているにすぎないのに。
女はその罪悪感を利用しただけだ。
女にとってそれはささやかな賭け事に過ぎなかった。どちらへ転んでも夫を一心に慮る女の評判が下がることはなく、ただ夫が女を顧みるかどうかが決まるだけ。もし互いを愛することができずとも婚外の恋でもすればよいと思っていた。あちらがすることをこちらがして責められる筋合いはない。
けれど幸いにも聞こえの悪い道は進まずに済みそうだ。
「疑うのも慮るのも、相手のことを積極的に考えるという点では同じです。疑っては相手を頑なにさせるばかり。ならば慮る顔を見せておいた方が相手の心を溶かすにはずっと簡単で、体裁も保てるというもの。人は心で動くものなのですから。おかげで良き夫を手に入れることができました」