神様はスポーツカーがお好き
神様はスポーツカーがお好き
一
どの銀河だか分かりませんが、その昔、地球にそっくりで実際に神様が住んでいらっしゃる星がありました。
神様は各国に一人ずつおられまして国内を自己所有のお車で巡回され、人々の日頃の行いや暮らしを毎日、調査していらっしゃいました。それは大雑把に言いますと、行いの良い人ほど良い暮らしをさせ、行いの悪い人ほど悪い暮らしをさせるためです。
で、ニッポン国を担当される神様は振るっていらっしゃいまして御自身お気に入りのスポーツカーで巡回されていたのですが、或る晴れた日、その神様は巡回の息抜きをされようと土手道の路肩にマイスポーツカーをお停めになり、土手を降りられ川岸で釣りを楽しんでいらっしゃいました。
すると、偶々土手道を散歩していたケンキチという百姓が神様のスポーツカーを見つけて大変汚れているので日頃の御加護に感謝を込めて洗って差し上げようと思い、神様に気付かれないように土手を降りて行って被っていた麦わら帽子に水を汲んで土手を上がってはスポーツカーに水をかけるということを繰り返し、スポーツカーのボディ全体に水が行き渡ったところで首に巻き付けてあった手ぬぐいで丁寧に真心こめて拭いて行き、スポーツカーをピカピカにして差し上げました。
その間、神様はそれにお気づきになっていましたが、知らんぷりなさって釣りを続けていらっしゃいました。そしてケンキチがええ汗をかいただべと言いながら額の汗を腕で拭っていますと、神様はケンキチの前に突然おいでになるなり仰いました。
「お前さんはケンキチどんだね。」
「へえ、これはこれは神様!」とケンキチはびっくり仰天して言った途端、跪いて額づき、「こんただことしまして出過ぎた真似をしまして全く全く申し訳ごぜえません!」と思わず謝ってしまいました。
すると神様はお笑いになりまして謝ることはないとおっしゃってケンキチの顔をお上げになりました。
「ほんとうにありがたいことじゃ。わしはお礼をしたい。何か望みのものはあるか、何なりと申してみよ。」
「あの、おらは只、神様におらこそ、お礼をしようと思いましてしたことでごぜえますから何もいらなえでごぜえます。」
「ハハハ!欲のないことを申すのう。気に入ったぞ、わしは褒美を取らすことに決めた。家に帰ってみよ、よいことが待っておろうぞ!」
神様はそうおっしゃいますと、マイスポーツカーにお乗りになり、素晴らしいエキゾーストノートをお響かせになりながら土手道を突っ走って行かれました。
この一部始終を土手道の脇にぽつんと立つ松の幹に隠れてこっそり覗いていたケンキチの知り合いのヨタロウという商人は、ケンキチが神様に言われた通り家に帰るあとをついて行きますと、なんとケンキチのちっぽけな茅葺の粗末な家がその何倍もの大きさがあるばかりか大棟の両端に鴟尾を飾った銅板葺の立派な御殿に変わっているのを目の当たりにしましたので大層おったまげてしまいました。
「こらまた、何とまあ、でっけえ御褒美を賜ったものだろう!」とケンキチもおったまげますと、「冥加に余るだべ。ありがたやありがたや。」と深く感謝し、神様が住んでいらっしゃる方角に向かって遥拝しました。
これを見たからには俺もこの褒美に与らなきゃあ気が済まねえとヨタロウは思いましたので、それからというもの仕事もそっちのけで毎日のようにくだんの土手道を歩いておりますと、ケンキチの家が御殿になってから半月程経った或る日の昼下がりに要約、神様のスポーツカーを見つけました。
「はあ、やっと見つけたわい、さてと、神様はいるかな。」とヨタロウは言って川のある方の土手下を覗いてみますと、果たして神様が川岸で釣りをされていましたので早速、背負子で運んで来た大きめの桶で川の水を汲んで来て流石に麦わら帽と違って水が漏れませんし、よく入りますから一かけしただけで大体スポーツカーのボディ全体に水が行き渡ったのを見て用意して来た2枚の手ぬぐいでボディの半分ずつを雑に気持ちも込めずに拭いて、それで済ませてしまいました。
「よし、これで準備万端整った。」
ヨタロウは満を持した積もりで神様が来られるのを待ちましたが、一向にそう遊ばしません。仕方なしに再び土手下を覗いてみますと、神様は居眠りをされておりました。
「なんだっつんだ!人が折角、骨折って洗ってやって待ってるのに何、呑気に寝てやがんだ!そっちがその気ならこっちだって!」
信仰の薄いヨタロウは不満ばかりが募り木陰に横になり昼寝を始めました。そうして疲れていたこともあって何時間も眠ってしまって、やっと目が覚めた時には日が暮れかかっておりました。
「あれ!車がない!なんてこった!OH MY GOD!」
そうなんです。神様はヨタロウに構わず、お帰りになってしまったのです。
「畜生!でも、ひょっとすると俺に内緒で俺の家を御殿にしてくれたのかもしれない。」
諦めの悪いヨタロウは自宅へ急いで帰りましたが、何も変わった様子はありませんでした。
「なんだ、ちぇっ、くそー!神様の奴、俺に気付かなかったんだな。しまった、意地になって寝てしまったのがいけなかったんだ。今度は幾ら待たされても起きていよう。」
飽くまでも諦めの悪いヨタロウは機会を窺って例の土手道を毎日歩き続け、その為に欠勤が続いて奉公先の番頭から首を言い渡されたのちも同様にして歩き続け、到頭、所持金がなくなった日にやっと路肩に停めてあるスポーツカーを見つけました。
「よし、これで神様にお願いが出来る、金を幾らでも貰うことが出来る。」
そう目論んだ欲の深いヨタロウは前と同じようにスポーツカーを洗い終わって待っていますと、神様のお歩きになる足音が聞こえてきましたので、よし、良いところを見せてやろうと思ってスポーツカーのボディを手ぬぐいで拭く真似をすることにしました。そこへ神様はお越しになっておっしゃいました。
「これ、何をしておるのじゃ!」
「へえ、お車をお綺麗にして差し上げたく思いまして拭いているのでございます。」
「たわけ!余計なことをするな!既に綺麗になったものをまた拭いて見せて良い行いを見せつけようとするとは何たる図々しい奴!」
「い、いえ、まだ、汚れておりましたので拭いているのでございます。」
「嘘を申すな!わしは何でもお見通しじゃ!お前は『自分の義を人に見られるために人の前で行わないように』というイエス殿のお言葉を知らんのか!」
「あの、お言葉ではございますが、あなた様は人ではなく神様でいらっしゃいますから私は神様に私の良い行いを見ていただこうとしましたんでございます。」
「たわけ!屁理屈を申すな!神というのは陰の行いを見て人の良し悪しを判断するものじゃ。それをそんなこと言いおって、お前は全く愚にもつかぬ大馬鹿者じゃ!わしゃ帰る!」
神様はお急ぎになってマイスポーツカーにお乗りになろうとしますと、ヨタロウは必死になって神様に追いすがりました。
「待ってください!私は何がどうあれ、あなた様のお車を洗って差し上げたのでございます!何かお礼をしていただかないと私は一文無しですから、どうしようもなくなってしまいます!どうか、お願いです!お恵みください!」
「よい行いをするのに返報を期待するものではない。それに一文無しになったのはお前の身から出た錆じゃ。悪いが、この世の掟では悪い者は報いを受けることになっておる。さらばじゃ!」
神様はドアを強引におしめになりますと、マイスポーツカーで轟音をお立てになりながら去って行かれてしまいました。
取り残されたヨタロウは暫くの間、途方に暮れてしまいましたが、自分は馬鹿だったと悟り、後悔しても仕方がないと再就職へ向けて歩み始めました。
ニ
神様は今日も今日とて土手下の川岸で釣りを楽しんでいらっしゃいます。
「痛かったであろう、痛いの痛いの飛んでけ~!」
そうおっしゃりながら神様は釣り針で出来た鮒の口元の穴をお撫でになりますと、穴がふさがって痛みがなくなりましたので鮒は川に放してもらう前に言いました。
「神様、餌、おいしかったです。また、神様に釣られてみたいです。」
「うむ、うむ、うい奴じゃのう。」
神様は魚とも会話を楽しまれるのです。それから川へ帰って元気よく泳ぐ鮒の姿を如何にもお優しそうに目を細めて眺めていらっしゃいますと、土手上から何やら黄色い歓声が上がっています。
「なんじゃ、あの騒ぎは?」
神様は興味津々になられて、お立ちになり、土手をお登りになりますと、なんと10メートルほど先にある神様のスポーツカーを5人のビキニギャルが1人の男と戯れながらハレンチな格好で洗ってるではありませんか!
それを神様は御覧になるなり思わず前にお手をおつきになって這いつくばわれイグアナのような格好におなりになり、目立たぬように雑草に紛れてお覗きすることにしました。勿論、ビキニギャルたちをこっそり観賞されるためです。
神様は十分、堪能されてからお立ちになりますと、それに気が付いた男が持っていたホースを隣のビキニギャルに預けるや、神様の前へ駆けて来て跪いて一礼してから言いました。
「これはこれは神様、只今、わたくしめの従業員どもが神様のお車を有り難くも洗わせてもらっているところでございます。およろしければ御賞玩遊ばしくださいませ。」
「何を申しておる。わしにはそんな趣味はない。」
「えっ、そうでございましたか、それではあと少しで済みますから洗い終わるのをもう暫くお待ちくださいませ。」
「それは構わんが、時に聞くが、先刻、お前はわたくしめの従業員どもと申したが、あれは何かの商売なのか?」
「へえ、あの者どもはカーウォッシュガールと申しまして車を洗うことと人々の目を楽しませることを生業としておりまして、わたくしめはあの者どもの支配人でございます。」
「では、わしの愛車の後ろに停めてあるあのでっかいのはお前の商用車か。」
「へえ、さようでございます。あれには洗車機が付いておりまして・・・へえ、そんな次第で、へえ。」
「では、勝手にわしの愛車を洗って強いてわしにいかがわしいものを見せて無理矢理わしから金を取ろうと言うのか。」
「いえ、滅相もございません。只、わたくしめは神様に喜んでいただこうと、その一心であの者どもに洗わせているのでございます。」
「嘘を申せ、お前の下心は見え透いておるわ。わしから褒美を受け取ろうという腹積もりであろう。じゃが、生憎、わしはあのようなものを見る趣味は断じてない。況してお前の魂胆が腹立たしいから褒美なぞ取らすわけにはあいならん。ところでお前、ケンキチに聞いたな。」
神様の御察しのとおり男はケンキチの家が御殿になりましたので、そのわけを聞き出そうとケンキチから聞いて神様のスポーツカーをカーウォッシュガールを使って洗えば褒美がもらえると、こう単純に思ったのです。
「いえ、わたくしは本当に神様に喜んでいただこうと・・・」
「もう、よい、言い訳は無用じゃ。お前みたいにあんな商売を始める奴に碌な者がおらんのは分かり切っておる。お前はこの世の風紀を乱す元凶じゃ!よって制裁を受けて然るべきじゃが、今日からきっぱりあの商売を止めると言うのであれば、許さんこともない。どうじゃ、止められるか。」
「いや、あの、神様、わたくしはあの商売を止めれば仕事がなくなってしまいます。止めた後、どうすればいいのでしょう。」
「では、お前に畑を与えよう。だから、よいか、地道に身を粉にして働いて心を入れ替えるのじゃ!」
「へえ、畏まってございます。」
「よし、では、お前はいいから、お~い!おなごたちや!ちょっと、こっちに来なさい!」
そう呼ばれてカーウォッシュガールたちはキャーキャー言いながら喜び勇んで神様の前へ駆けてきました。
神様は間近に彼女らを御覧になりますと、正直なところ尋常でなく興奮されたのですが、自制心をお働かせになりながらおっしゃいました。
「えー、君たちは随分と肌を露出して、わしの愛車にそのー、何だ、おっぱいやらお尻やらを泡立てたりなんかして、その柔肌をこすりつけて甚だしくいやらしいことをしておったが、神を冒涜しているとは思わんのか!」
彼女らはキャーキャー言っていたのに静まり返ってしまいました。
「まあ、それは君たちの美しさに免じて許すとしてもだ、君たちが今しておる仕事をハレンチだとは思わんのか!」
彼女らは赤くなった顔を見合わせましたが、リーダーらしきカーウォッシュガールが一際赤らめながら言いました。
「はい、神様、お恥ずかしゅう存じます。」
「うむ、そうであろう。では、何ゆえに今の仕事をしておるのだな?」
「はい、神様、わたくしどもはあの男に売られまして已むに已まれずしているのでございます。」
「ああ、矢張りそうであったか、君たちのようなめんこい娘を売らなければならんとは親元は相当、家計が苦しいのであろうのう。」
「はい、おっしゃる通りでございます、神様。」
「よし、分かった。君たちを今の恥辱的生活から救ってやろう。えーと、君たちの親元に土がよく肥えた田んぼを与えよう。それも苗と灌漑施設付きじゃぞ。じゃから、これから君たちは親元に帰って美しい早乙女になって美しく働くのじゃ!分かったな。」
「はい!承知いたしました!神様!大変ありがとうございます!」
斯様な明るい感謝の声を彼女らが一斉に上げましたので神様はいつになくお心が浮ついてウキウキとなさいました。けれども神様は威厳を保とうとされまして敢えて、お顔を引き締め、「よし、さて、我が愛車はどうなったであろうのう。」とおっしゃってマイスポーツカーの方を御覧になりますと、畑を賜った男が濡れたボディの水分をタオルで拭き取っていました。
「おう、感心、感心。」
御満足になられた神様は、その後、商用車を神業でお消しになり、お礼を言う男と女たちに見送られながら、お前いい思いをしたな、お前に取って代わりたかったぞと羨ましく思うマイスポーツカーで帰ってゆかれました。
三
今日は神様はマイスポーツカーでお急ぎのようです。制限速度をはるかに超える速度で高速道路をぶっとばしておいでです。何故かと言えば、誰もが良い人と認めるキンジロウという男の噂を耳にされ、そんなに良い人なら会ってみたい、よし、ほんとに良い人なら特別に褒美を遣わそうと思し召された反面、疑わしい気もされますので逸早く真実をお確かめになりたかったからです。
目的の村にお着きになりますと、神様はマイスポーツカーからお降りになり、山に囲まれた田園の中に家がぽつりぽつりと立つ風景が左右に広がる田舎道をお歩きになる途中で行きずりの村人を呼び止められて仰いました。
「この村にキンジロウという者がおるそうだが、良い人と評判のようであるなあ。」
初対面で何を偉そうに話すか、何者なんだ、こいつはと村人は不満に思いながら、「ああ、そうだべ。」とぶっきらぼうに答えました。この村人もニッポン国の民ですから神様がスポーツカーにお乗りになって巡回されていることを知ってはいるものの、そのスポーツカーが見当たりませんし、神様の身なりが人の目には仙人のような格好をした変わり者にしか映りませんからそうなるのも当然ですが、神様の後方の100メートルほど先の道端に見覚えのある派手な車が停めてあるのが視野に入り、もしやと思い、神様のお顔を注視しますと、神様がにやりとされたので忽ち気づいて、その場に即刻、平伏してしまいました。
「ははあ、神様でいらっしゃるとは露知らず、とんだ無礼な真似をいたしまして大変失礼いたしましただ!どうか、お許しくだせえまし!」
「無理もない無理もない、いいのじゃいいのじゃ、おもてを上げなされ。」
「ははあ、では、遠慮なく、おもてを上げさせていただきますだ。」
村人がえらく畏まって顔を上げましたので神様はお笑いになりました。
「さて改めて聞くが、キンジロウというのはそんなに良い人なのか?」
「はあ、さようでごぜえますだ。何しろ、あんまり人がええだで皆の推薦で去年から村長になりましただ。で、みなさんもそうだどもが、手前ども家族の者は大変あの人には世話になっておりますだ。そんで挨拶するのでも、あの人はとても丁寧に気持ちのええ挨拶をするでごぜえますだ。」
「ほお、そうか、では物々交換の方も行き届いておるのか。」
「えっ?物々交換?」
「つまりだ、返報性の原理を活用して人は付き合いをするものであろう。それを巧いことやるのかとわしは聞いておるのじゃ。」
「へ、へんぽこ性の原理とおっしゃいますと・・・」
「たわけ!へんぽこじゃないわ!へんぽこって言うな!あのなあ、お前にも分かるように言うと返礼だ。そやつは返礼を巧いことやるのか?」
「へえ、それはもう親切に・・・」
「そうか、しかし、案外、親切な人、良い人と人が褒めそやす人ほど返報性の原理を狡く要領よく利用して得しているものなのだ。キンジロウもその口じゃないのか。」
「いえ、決してキンジロウさんはへんぽこではごぜえません。」
「たわけ!まだ申すか!何もわしはキンジロウのことをへんぽことは申しておらんわ!もう、お前とは話したくない!よって手っ取り早く聞く!キンジロウの家が何処にあるか教えてくれ!」
「へえ、あの人の家はこの道を真っ直ぐお行きになって、あの四つ角に竹藪があるでごぜえましょ、あれを超えて2つ目の十字路を右にお行きになれば、それはそれはクリーミーなクリーム色の2階建ての家が取っ付きに立ってるのが見えますだで、それがキンジロウさんの家でごぜえますが、キンジロウさんとは今しがた会ったばかりでごぜえまして、へえ、それで、よもやま話で盛り上がりましてな、その時もあの人は愛想が大変よろしゅうごぜえ」
「おい!そやつのことはわしが良く調べるからお前は余計なことは話さんでもよい!最後に聞く!風貌や格好はどんなだ?」
「へえ、風貌は赤鼻のトナカイみたいに鼻の先が赤いのが特徴でごぜえまして、へえ、格好は白地に青海波模様の入った浴衣を着ておりますだで、そりゃあ粋なもんでごぜえまして、おらも、あの」
「もう、よい!分かった、サンクス、へんぽこ!」
神様は強引に切り上げられまして村人とお別れになり、村人の言う通りキンジロウの家に行かれますと、丁度クリーム色の家の前で犬と遊んでいる赤鼻の男、取りも直さずキンジロウを発見されました。
「村長になっただけあって中々いい家に住んでおるが、何処か貧相な感じのする男じゃ。」
第一印象でそう思し召し、いよいよ疑わしく思われた神様は、その後、何日もキンジロウを観察されますと、キンジロウは村長なのに腰巾着のように腰が低く特に昔から付き合いのある隣町の料亭の主人にはそうで店の料理を格安で御馳走になる代わりに庭で栽培している野菜なんぞで抜かりなく返礼をし、その際、明らかにキンジロウの方が得をし、他家との付き合いでもそうであることがお分かりになりました。家の中でもキンジロウは家長であるのに家族の者に媚びているのですが、それは仕事が増えるだけで得にはならず洗濯物を干している姿なぞは、まるで家の使用人のようじゃとお感じになりました。
それにキンジロウは妻と息子夫婦と孫と裕福に暮らしていて、それだけ見れば幸福そうですが、半年前に定年退職(60歳)してから昼間たっぷりある時間を持て余し気味で而も近所の者や家族の者との会話を始め同じようなことを繰り返すばかりですから、そんな暇の多いマンネリな慢性化した暮らしに飽き飽きしている様子でした。
「刺激のない生活が嫌なら地獄へ行って蜂や大蠅に刺されるがいい。それが相応しいとさえ思える。それにつけても本を全く読まん。得になること以外、何も学ぼうとせん。無駄に生き延び惰性で生きておるだけじゃ。その意味では全く怠惰な生き方で生きる値打ちはなく国にとって何の益にもならん年金を食いつぶす害虫に過ぎん。畢竟するに人間として何も進化せず心が貧しいままじゃ。だから貧相なんじゃ。こういう心が貧しく得をしようと日々周囲の者に媚びてマンネリに暮らしておる俗物は、必ずや返礼を期待できない変わり種の弱者に対しては尻尾を出すに違いない。」
そう思われますと、神様はキンジロウの家の隣に掘っ立て小屋並に粗末な陋屋をお建てになり、そこに変装されてお住まいになることになさいました。マイスポーツカーは神業で一先ずお消しになって。
以来、神様は態と近所付き合いをなさらず、隠遁生活さながらにお暮しになって一週間ほど経った或る日の昼間の事、神様は陋屋で静かに本を読んでいらっしゃいますと、外から草刈り機の音が近づいて来て最初は一定の音で唸っていましたが、だんだん抑揚をつけて唸り出し、挙句の果てにはブーンブーンとバイクのエンジンみたいに唸るようになって、おまけに草を刈る音がしませんので神様はこれは完全なる質の悪い嫌がらせじゃと察知され、音のする方の窓をお開けになりますと、キンジロウが神様の家に隣接する庭で草刈り機を操作していました。而も草を刈った青臭い匂いもしなければ、草を刈った形跡もありません。
「おい!こら!何を騒々しい真似をしておるのじゃ!わしの神聖なる読書の邪魔をするでない!」
この殿様か、または偉ぶった侍のような言い回しにキンジロウはやっぱりこいつは変人だ、からかうには打ってつけだと思い、「し、神聖?ハハハ!笑わせやがって、わしの方ではこうして草を刈っておるのじゃ!」と神様の口真似をしながら言い返しますと、白々しく草を刈り出しました。
「やはり尻尾を出しよったか。」
重々しくお呟きになった神様は、窓をおしめになりました。
その後もキンジロウは毎日のように絶好の暇つぶしの的となった神様にあてつけがましい咳払いを始め、こま目に嫌味なことをしてきました。そして極めつけは普段、良い人を演じている所為でたまったストレスが弾けたのでしょうか、神様に外で出くわした時、流石に声にこそ出しませんでしたが、口の動きでアホと言って来たことでした。これはキンジロウにとって致命的なことで神様の逆鱗に触れました。
こうして神様はキンジロウの本性を照魔境に照らされ、目的を果たされますと、その晩、キンジロウの家の明かりが全て消え、キンジロウ家が寝静まってから神業で陋屋をお消しになり、マイスポーツカーをお出しになり、元の姿にお戻りになってマイスポーツカーの中で一晩お過ごしになりました。
夜が明けて有明の月が残る頃、年寄りらしくいつも早起きのキンジロウは、庭に出ますと、果たしてびっくり仰天しました。
「あれ!ぼろ屋が・・・車に・・・而もこ、こ、これは、か、か、か、神様の、す、す、スポーツカーだ!と、と、と、ということはあの中に寝てるのは、か、か、神様!と、と、と、ということは、まさか!あの変人が!ひえ~!」
このようにキンジロウは気が動転して恐怖の極みに至り、お起きになった神様と目が合った途端、血の気が引いて顔が真っ青になり、膝がわなわな震えて腰砕けになり、尻もちをついた拍子に仰向けに寝転がって置き石に頭をぶつけて死んでしまいました。
神の倫理観によると人間の法律に抵触しない陰の卑劣な行いこそ、万死に値し、キンジロウは神業によって処刑されたのです。
四
実りの秋になって例のカーウォッシュガールたちとその支配人の男が本当に農作業に励んでいるのか、神様は調査されるため、まずは男に下賜された畑の方へいらっしゃり、てっぺんにススキ状に伸びた雄花が鮮やかな萌黄色に輝き、茎や葉が青々としたトウモロコシが土地一帯にびっしり無数に生えているのをお確かめになりますと、男にはあまり興味を持たれず女、殊に美女に興味をお持ちになりますので、お会いになるまでもなく男が改心したものと判断なさって即刻、元カーウォッシュガールのそれぞれの田んぼを巡回なさることに遊ばしました。
それで一人目のところも二人目のところも三人目のところも四人目のところも田んぼ一面に生えた稲を親子で刈り入れていましたので神様はそれぞれのところで御視察がてら歓待してくれた元カーウォッシュガールの家族と御機嫌良くお過ごしになり、最後の5人目の御視察となりました。
田んぼに横付けされたスポーツカーに気づいて百姓夫婦が降り立ちになられた神様の前へ参上し、平伏しますと、夫の方が言いました。
「こんな辺鄙な所へ態々お越しくださいまして誠に勿体のうございます。わたくしども如きが神様に拝謁させていただくなぞ身に余る光栄に存じます。」
「おう、くるしゅうない、くるしゅうない、よきにはからえ。面を上げてな。」
夫婦は恐る恐る顔を上げました。
「時に尋ねるが、お前たちは以前カーウォッシュガールとして働いておった娘の親であるな。」
「へえ、さようでございます。」と夫の方が答えました。「その節はこの上ない御加護を賜りまして感謝の言葉もございません。」
「うむ、して、娘はどうしておる。」
「はあ、あのー、実はそのー・・・出かけております。」
「出かけた?何処へじゃ。」
「はあ、あのー、八百屋へ・・・」
「八百屋か、いつ頃帰る?」
「へえ、えー・・・」
「何を渋っておる、わしはいつまでも待つつもりじゃが。」
「・・・あ、あの、実は都の方へ・・・」
「何、都?おなご独りで都とな、して何処の都じゃ?」
夫婦は顔を見合わせ、唇を震わせ、何も言うことが出来ません。
「何を心配しておる。隠すではない。わしは娘を罰するつもりはない。安心して申してみよ。」
暫くして、夫が重い口を開きまして、「さ、サカイでございます。」
「何しにじゃ。」
「へえ、サカイで働くんだと申しまして出て行ったのでございます。」
「サカイで働くとな。よし、一つ、わしが探しに行ってやろう、お前の娘は殊に美しかったのを覚えておるでのう。じゃが、探すには顔写真がないと不便じゃから、あるかな?」
「へえ、ございますとも、早く持って来てお渡ししなさい!」
夫は神様に返事した後、隣の妻に言ったのです。それで妻は急いで家に行って直様、戻って来て跪き、両手で写真を差し出しました。
「これにございます。」
「うむ。」
神様はお受け取りになりますと、思わずお顔がほころんで、わしのお宝プロマイドにしようと秘かに思し召し、でれ助のようにおなりになりました。
「で、名前は何と申すのじゃ?」
「はい、サナエと申します。」
「早苗か、そんなよい名を授かっておいて田んぼを捨てて出て行ってしまうとは不届きなおなごであるなあ・・・あっ、心配するでない。罰しはしんから。」
そう断っておいて神様は夫婦に暇をお告げになり、マイスポーツカーでサカイへと出発なさいました。
流石にサカイは都の一つで人通りが多いですから人目に付きやすく目立つ所以からサカイに入られる前に神様はマイスポーツカーを神業でお消しになり、町人になりすますため変装なされ、サカイへお入りになりました。
お言葉遣いも町人らしくなさいましたから神様と疑われることもなく通りすがりの者に写真をお見せになってはお尋ねする内に到頭、サナエを知る者に行き当たられました。
「ああ、この娘なら先月オープンしたコマ屋ゆう商家でオサナゆう源氏名で奉公してまっせ。」
「するってえとぉ何かい、コマ屋ってのは曖昧屋って奴で内緒で娼婦を囲ってるわけかい!」
「あんさん、さっきから聞いとりますと鯔背でんな、エドっ子でっか?」
「あたぼうよ、親子三代続いた生粋も生粋、カンダの生まれよ!」
「ほほお、ほんまでっか、道理で道理で威勢のいいわけでんな。わてはエドっ子と話す機会がおますとは夢にも思っとりませんでしたわ。」
「そんなことよりオサナの」
「ああ、オサナ、オサナね、あれはベッピンでっせ!噂聞きつけなはれて遥々やって来たってわけでっしゃろ、あんさん、折り紙付きの粋人やおまへんか!どことなく人とちごうとりますもんな。」
「だからそんなことよりオサナのいるコマ屋は何処でい!」
「おこんなはんな、ほんまにエドっ子は気が短いでんなあ、短気は損気でっせ!」
「ええい、しゃらくせえ!早くオサナの居所を言いやがれ!」
こんな調子で神様は会話をなさり、コマ屋の在りかもエド弁でお聞き出しになりますと、着物の裾をはしょられて大急ぎでコマ屋へいらっしゃいました。
成程、おもてに御納戸色の地にコマという字を白抜きした暖簾が垂れている商家らしき商家がありました。
「おお、ここじゃ、さてと、サナエちゃんに会えるぞ!んっ?な、何をわしは浮かれておるのじゃ、わしは苟も神じゃぞ!」
神様は独りごちられますと、暖簾をくぐられました。
「ごめんやす!」
神様は今度は船場言葉に早変わりなさいました。誠に器用な御方です。頗る振るっていらっしゃいます。
「おいでやす!」
三和土にいた丁稚が神様の前にやって来ました。
「番頭はんはおりまっか?」
「おます、あの帳場に」
丁稚が指さしますと、丁度、結界の格子の間の利休色の縞模様が動きだして横になっていた番頭の上半身が結界の上に現れました。
「お客さんでっか?」
「あっ、お前は!」
神様が驚きなさったようになんと番頭は元カーウォッシュガール支配人のあの男だったのです。それを神様はしかとお確かめになるなり神業で元の姿に変身なさいました。
すると丁稚は驚愕して悲鳴を上げながら腰を抜かし、男はそれ以上に驚愕して矢張り悲鳴を上げながら仰向けに寝転がり、2階からは、「どうしたの!」という女の叫び声が上がりました。そして天井がドタバタという足音で振動したかと思いますと、天井の角に設けてある出口から真白な素足がにょきにょき現れ、島田髷に結い、若紫の長襦袢に紅の弁慶縞の着物を身に着けたサナエが梯子を駆け下りてきました。
その純和風美人に変身したサナエに神様は案の定でれでれになられましたが、サナエは梯子を降りたところで神様に気づくや、ギャー!と悲鳴を上げて顔を両手で覆ってその場に蹲ってしまいました。
その隙に神様は威儀を正され、男に向かっておっしゃいました。
「おい、番頭、何を寝ておるのだ。早く起きんか!」
男は大いに恐れ、身震いしながら起き上がりますと、その途端、顔を伏せてしまいました。
「おい、番頭、おもてを上げよ!」
男は渋々顔を上げましたが、立ちどころに平伏してしまいました。
「だから面を上げよと言うに。」
男はすっかり恐れ入って顔を上げました。
「お前、畑を売ったな!」
「へ、へえ・・・」
「そして、この店を立ち上げた。そうじゃな!」
「へ、へえ・・・」
「あの娘を道連れにして、そうじゃな!」
「へ、へえ・・・」
「あの娘をどこまで穢せば気が済むのじゃ!この極悪人が!」
「め、面目次第もございません!」
男はまた顔を伏せてしまいました。
「カーウォッシュガールの中でも一番かわいい子を誘惑しよって!、これ、サナエ、泣くでない!お前、あの男に誘惑されたんであろう!どんな風に誘惑された?都は田舎とは比べ物にならないくらい楽しいことが一杯あるとか給金をはずむとか・・・」
サナエは蹲ったまま泣きじゃくるばかりです。
「おい、小僧、わしゃ神様だ、怖がらんでもよい。」
丁稚はそう言われて、はっとして我に返りました。
「小僧、定めて、あの娘はお前に優しいであろう。」
「へ、へい、優しいでおますでござります。」
「そうであろう。あんな可愛い子が性格悪いわけがない。あの男が悪いのじゃ!全くけしからん。若い美しいおなごというのは悪い男に引っ掛かりやすいものじゃて、それにつけてもあのようなめんこい娘が汚らわしい男どもの手によって、はあ、堪らん・・・想像しちゃいかん、想像しちゃいかん、おい、これ、サナエ、泣かんでもよい!わしはお前に罰を与えようとは思っとらんから安心せい!それとじゃ、わしの提案としてケンキチと言ってなあ、これは心ばえのよい男でな、わしが御殿を与えてからも奢ることなく百姓仕事に精を出して今や人望を集めて村長になっておるんじゃが、只今、熱烈に恋人募集中じゃ!丁度、御殿が広すぎて寂しがっておるところよ。そこで、どうじゃ、ケンキチと一緒に清い汗を流してみんか!」
サナエはそう言われて、しくしく泣きながらも顔を上げ、神様に向かって拝礼しますと、再び顔を伏せ、今度は随喜の涙を流し始めました。
「よしよし、わしがきっとケンキチと結ばせてやる。えーと、それから小僧、お前の奉公先もよい所を探してやろうぞ!」
「へえ、おおきに、大変ありがとうござります!」
「うむ、うむ、さて、おい!最早、番頭でない男!お前の名は何と申す!」
「へ、へえ、た、タメゾウと申します。」
「タメゾウか、お前はまあ・・・あっ、そうだ、小僧!お前は名を何と申す!」
「へえ、わてはタキチにおますでござります。」
「うむ、おい!タメゾウ!」
「へえ!」
「このタキチと力を合わせて、この店を堅気な商家として立て直すというのであれば、お前を許さんでもない!どうじゃ!もう金輪際、かわい子ちゃんを悪用しない、はたまた、いかがわしい仕事から足を洗うと約束できるか!」
「へ、へえ、今度こそ、絶対、お約束いたします!」
「よし、本来なら断じて許されるお前ではないが、最後のチャンスを与えることにした!」
「ははあ!何という寛大な慈悲深さ!有難き有難き幸せ!感謝感激あめあられ!神に栄光あれ!あなた様こそ神ちゅうの神!絶大なる神!この世のどんな神様より偉い神,尊き神!すごい神!素晴らしい神!とてつもない」
「もうよい、分かった、褒め方が諄い上に下手糞で聞くに堪えん。では、サナエ、わしと一緒にケンキチのところへ行こうじゃないか!わしのスポーツカーでのう。」
お誘いになった神様は、然も嬉しそうににやけられ、サナエも嬉しさの余り顔を上げ、麗しい瞳を涙で輝かせながらにっこりと微笑みました。
五
今、神様はサナエを助手席にお乗せになりマイスポーツカーでハイウェイを爆走していらっしゃいます。
「どうじゃ、気持ちいいじゃろ。」
「あ、あの、私、怖いです。」
「怖い?なんでじゃ?」
「あ、あの、お速すぎます!あっ!ぶつかる!」
神様は絶妙のステアリングワークで前方の車をかわされながらジグザグ走行で一気に3台を牛蒡抜きされました。
「大丈夫じゃて、わしは人間で言えば超人なんじゃから。」
「あの、よそ見されては、あっ!今度こそ!」
神様のスポーツカーはひょいと前方の車をかわして、また追い抜きました。
「ほら、申したじゃろ、大丈夫じゃて。」
「え、ええ・・・」
「まあ、しかし、サナエちゃんの顔が強張りっぱなしじゃ、わしも面白ないから。」
そうおっしゃいますと、神様は程よいスピードに落とされました。
「どうじゃな、これくらいなら気持ちいいじゃろ。」
「はい、神様。」
サナエが安心して顔を綻ばせましたので神様はいそいそとされまして暫くデートをされている御気分でドライブを楽しまれましたが、意を決しておっしゃいました。
「まあ、わしは決してサナエちゃんを罰する気はないんじゃが、サナエちゃんのためにちょっと説教めいたことをするが、よいかな。」
「はい、神様。」
「まあ、サナエちゃんみたいに綺麗に生まれつくと、どうしても男がうじゃうじゃ寄って来るわけなんじゃが、残念ながら真の愛を持っておる者は中々いなくて中にはタメゾウのような悪い奴がおって、あんなもんに引っ掛かるといかがわしい世界に染まることになっての、金は儲かるかもしれんが、折角の綺麗な心が台無しになってしまうのじゃ。そうなると本人はその気でなくても金が第一と考えてしまうようになり、金のためならハレンチな真似が羞恥心を等閑にして簡単に出来てしまうことになるのじゃ。恥を恥とも思わなくなる状況に陥るのじゃて。そうなったら女としておしまいじゃ。実に情けないことじゃろ。」
「はい、神様。」
「嘆かわしいとか、はしたないとか、そんなどころの騒ぎじゃないよ。酷いもんじゃて。実際、そういう女が急増しておるからな、サナエちゃんがそんなのになったら、わしゃ悲しくて堪らんよ。まあ、幸い、早くサナエちゃんが見つかって良かった。のうサナエちゃん。」
「はい、神様。」
「そもそも金を儲ければ儲けるほど成功したと思い、それを幸福とする成功主義がいかんのじゃ。本来、幸福とは徳を積むことで得られるものなのじゃ。だってそうじゃろ、上に立つ者が徳を持たなければ政治が腐敗して皆が不幸になるし、皆が徳を持たなければ皆が腐敗して皆が不幸になるじゃろ。」
「はい、神様。」
「現に古代中世のモラルの中心が幸福であったのに現代はモラルの中心が成功になったもんじゃからタメゾウみたいな不道徳な人間が幅を利かす訳であってじゃ、そのタメゾウの誘惑に負けたサナエちゃんみたいに幸福になる為に徳を積まずに給金が良いからって娼婦として金を稼ぐというのは本末転倒なんじゃ!分かるかな。」
「はい、神様。」
「まあ、先立つものは金、それは分かるが、過ぎたるは猶及ばざるが如しで金についても中庸の徳を心得るべきなのじゃ。何せ、隴を得て蜀を望むと言って人間の欲には際限がないのじゃから金が有る方を望んでいては金が幾ら有っても足るを知ることが出来ず心が貧しくなるばかりで安んじれず清くなれず欲に塗れ堕落するのが落ちじゃ。分かるかな。」
「はい、神様。」
「まあ、兎に角じゃ、経済力は必要なだけありゃあいいんで肝心なのは徳を積んだ者にしかない真の愛を持った男を探し求めるべきなのであってじゃ、わしがその男としてサナエちゃんに推挙するのがケンキチなんじゃ。」
「はい、神様。」
「どうじゃ、ケンキチに会いたくなったかな?」
「え、ええ・・・」
「流石に即刻はい、神様とは申せんか?」
「は、はい、神様。」
ここにおいてサナエの顔が赤い薔薇のようになりましたので神様はガッハッハッハ!と豪快に大笑いされました。
さてケンキチの御殿付近の野原においでになりますと、神様はサナエと共にマイスポーツカーをお降りになりました。
「ああ、よい天気、よい空気じゃ。どこか汚れたサカイの空気と違って清々しい限りではないか。のうサナエちゃん。」
「はい、神様。」
「自然が豊富にあるわい。草花や木々や山々、小鳥や昆虫、それに風に光に影。そしてそこはかとなく漂ってくる香りの粒子。こうした自然の織りなす風景が全く素晴らしいではないか。のうサナエちゃん。」
「はい、神様。」
「自然と触れ合うことが大切なのじゃ。どうじゃ、ここへ来て生き返ったじゃろ。」
「はい、神様、おなつかしゅうございます。」
「うむ、うむ、しみじみそう思うか。」
「はい、神様。」
霊験あらたかな神様によってサナエはすっかり改心したのです。
「うむ、うむ。」
神様は見るからに御満足そうな御様子です。で、道端に生える野菊をお摘みになり、サナエちゃんは野菊のような人じゃとおっしゃってみたい愛おしさを覚えられるのでした。
神様はそれからもサナエと自然に親しまれながらてくてくとお歩きになり、遂にケンキチの御殿の冠木門前に到着されました。
「どうじゃ立派なものであろう。」
「はい、神様。」
「ケンキチも立派な男であるぞ!」
サナエはしおらしく色白の頬に紅葉を散らしました。
「たのもう!」
神様は大声を張り上げられました。
駆けて来た取次の女中が大きな門扉の隣のくくり戸の向こうで返事をしました。
「どなた様で?」
「わしゃ神様じゃ!」
「えー!神様とおっしゃいますと御主人様にこのお屋敷を賜られたという・・・」
「そうじゃ!ケンキチはおるか!」
「御主人様は田んぼで稲の刈入れの真っ最中でございます。」
「そうか、分かった。じゃあ、サナエちゃん、田んぼへ参ろうか。」
「はい、神様。」とサナエが答えますと、物見高い女中がくぐり戸から慌ただしく出て参りました。
「神様、場所はお分かりでしょうか?」
「分かっておる。」
女中はひょうきんなお顔をした神様を見て不謹慎にも吹き出しそうになりましたが、隣のサナエに目を奪われ、羨望の眼差しで見入ってしまいました。
「何をぽけーと見ておる。」
女中はそう言われて神様の顔を見るや否や余りの落差にぶっと吹き出してしまいました。
「この無礼者!神を見て笑うとは何たる不届きな奴!」
「わー!す、す、すいませんでございます!し、し、失礼いたしまして、ま、ま、誠に申し訳ございません!」
女中は神様の一喝にこの上なくびびりながら土下座して謝罪しました。
「このたわけめ!お前こそ笑える顔をしているくせにこのくそったわけが!」
「も、も、申し訳ございません!ど、どうか、お許しを!」
「お前の顔を見てると反吐が出るわ!のみならず、お前のするうんこはさぞ臭いだろうと想像してやったわ!この噴飯物が!ガッハッハッハ!ま、このくらいにしてサナエちゃん、参ろうか。」
「はい、神様。」
神様はサナエと御殿の築地塀に沿ってお歩きになりながらおっしゃいました。
「わしは差別する気はないんじゃが、どうもああゆう失敬千万な女を見るとな、罵言を吐かずにはいられなくなるのじゃよ。サナエちゃんは先刻のような侮辱を受けることはないじゃろうから、わしの気持ちはわからんじゃろうがね。」
「いえ、わたくしも売女と罵られれたことがございますから・・・」
「ば、売女!す、するとサナエちゃんは・・・」
「いえ、わたくしは生娘でございます。但、あんな仕事をしておりましたから・・・」
「そ、そうか、良かった・・・」
そう呟かれた切り神様は、しばらく無言で考え込まれてしまいました。その間、サナエは疑われている気がして恥ずかしそうに俯いておりました。
神様は知らない内に柳の葉がしなだれている川の沿道をお歩きになっていることにお気づきになりますと、せせらぎの音をお聞きになりながらぽつりと呟かれました。
「風流な道であるな。」
「はい、神様。」
会話はそれきりで途切れてしまいましたので神様はこの気まずい雰囲気を打破なさろうと明るいトーンでおっしゃいました。
「サナエちゃんは幾つになるんじゃ。」
「わたくしは18にございます。」
「おう、そうか、よい年頃じゃ、ケンキチも26でな、よい盛りなんじゃが、何せ、面食いでな、自分の好みのおなごがいないもんじゃから、よい年なのに結婚できんでおるのじゃ。じゃからの、サナエちゃんが目の前に現れたならケンキチの奴、必ずや、その場でサナエちゃんを自分のものにしようと思うに違いないのじゃ。じゃから・・・」
神様はお立ちどまりになり思案なさり始めますと、サナエも立ち止まりました。
「・・・おう、そうじゃ!あのな、わしが今からケンキチをここに連れて来るからサナエちゃんはこの柳の下で川を眺めながら待ってなさい。」
「はい、神様。」
サナエは言われた通りにしますと、柳の葉の緑と着物の弁慶縞の紅が鮮やかに調和してサナエを艶やかに引き立てましたので、「おう、そうじゃ!実に絵になる!よっしゃ!ちょっとそうやって待っておるのじゃぞ!」と神様はおっしゃるが早いか、雲を霞と田園地帯の方へ走り去ってゆかれました。
神様は神業をお使いになったのでしょう、それからほんの数秒後のことでした。ケンキチと思しき者が独りでこちらへ歩いて来ますのでサナエは急激に胸の高鳴りを覚え、どきどきしながら態と神様に言われた通り川を眺め続けました。
「あ、あのー・・・」
サナエの傍にやって来たケンキチが言い掛けますと、サナエはケンキチの方へ振り向きました。
すると既にサナエの柳腰と横顔の虜になっていたケンキチは、サナエの顔を真正面で見たものですから、その玉の肌を持った美しさに思わず生唾をごくりと呑み込んで瞠若たらしめられてしまいました。
二人は見つめ合っている内に顔を赤らめてゆきまして、やがてケンキチが切り出しました。
「あのー、おら、あっ、いや、わ、私は神様におめえ、いや、あなたのことを聞いてやって来ただべ、いや、ただですが、おら、いや、私はあなたに一目惚れしてしまっただたです。」
ケンキチが神様に教わった標準語を交えてカミカミで愛の告白をしますと、サナエはその朴訥とした中に紛う方なき誠実を見て取り、感動して珠玉の涙の粒を可憐に流しながらケンキチの愛を受け入れました。その様子を神様は遠くからお眺めになり、二人のとこしえの愛を確信されるのでした。
六
ケンキチとサナエはめでたく結婚してサナエの光彩陸離たる美しい花嫁姿が異彩を放った婚礼には実に目出度いことだと村人全員が喜んで参加して終わった後も各家庭で二人のために祝杯を挙げました。それだけケンキチは村人たちから尊敬すべき村長として慕われているのです。
同じ村長だったキンジロウと違ってケンキチは村人たちと一緒に和気藹々と働くばかりでなく自分たちの収穫を苛斂誅求を事とする貴族に搾取され、時には貴族従属の武士に横領される村人たちに援助も惜しみませんでしたから当然です。
ケンキチとサナエが結婚後、ケンキチの村の領主であるヒカルゲンジが初めて税の取り立てを行う為、護衛兼運搬係の武士たちを乗せた、運転手付きトレーラーでケンキチの御殿にやって来ました。
村人たちのケンキチに対する忠誠心は非常に強いものがありますから総収穫高は全村の平均値を遥かに超え、それは毎度のことですからヒカルゲンジは荘園制度で私腹を肥やす貴族の中でも華奢な暮らしをしていて今回も頗る機嫌よく収穫報告を受けるのでした。
トレーラーに侍者たちが収穫を詰め込んでいる間、ヒカルゲンジは決まってケンキチの御殿の和式の客間で内心気の進まないケンキチと寛ぐのですが、何しろ、このヒカルゲンジ、名代の色男にして色事師、当然、好色で多情ときていて正室2人側室5人持っていまして、いい女に目がありませんから話は自然、縁先に見える庭の事からサナエの事に焦点が当てられました。
「この度は結婚おめでとうと祝辞を述べておきますよ。」
「ヒカル様直々の御祝辞、誠に恐れ入ります。」
「何でもないですよ、こんなことは、ところでケンちゃんの結婚相手ですけどねえ、とても美人らしいじゃないですか。」
「いえ、とんでもございません。ヒカル様の姫君方に比べれば、月と鼈でございます。」
「何をおっしゃるうさぎさんってなものじゃないですか、ええ、ほんとにケンちゃん、村長として貫禄が付いてきたばかりでなく、すっかり言葉遣いが洗練されましたね、どこで覚えたんです?さしづめ奥さんとの蜜月の甘い語らいの中で覚えたんでがしょ、憎いよ、この!」
ケンキチは神様から教わった標準語と敬語を大体マスターしたのです。
「い、いや、ヒカル様は相変わらずお口が達者でいらっしゃいます。」
「いえいえ、どういたしまして、いや、そんなことよりです、うちの侍者の間でも評判でしてねえ、寄ると触るとケンちゃんの奥さんの話題で持ち切りになるんですよ。私なぞもね、加わって聞いてみますと、肌は雪をも欺く白さなんて申しましてね、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花とこうくるじゃあござんせんか、そこで、どうです、お隠しにならないで、ここへ是非とも呼び寄せてくれませんか、ええ!」
「いや、それはちょっと・・・」
「何で?」
「いや、まあ、その・・・」
「何です、水くさいじゃありませんか、ええ。」
「いや・・・」
「ああ!そうやって渋るところを見ますと、まさか、こんな村にまで私の噂が及んでいるんじゃないでしょうねえっなんて思っちゃったんですけど、いかがでしょう?」
「・・・」
「どうやら図星のようですねえ、悪事千里を走るじゃないですが、浮名は流れやすいもので、いやはや、困ったものです。狭い狭い、世間は狭い!はあ、そうでしたか、でもね、大丈夫、心配ないですから、ね、ほんと、安心して、だって考えてもみなさいよ、幾ら、私だって村民を恋人の対象にする訳ないでがしょ。ねえ、だから、お願いですからお見せなさいよ、ね、ね。」
「はあ・・・」
「何よ、冷たいじゃないですか!こんなにお願いしてますのに、私とケンちゃんの仲じゃないですか!」
「あの、それでは条件を呑んでくだされば、お目にかけますが・・・」
「条件!また、お堅い。まあ、いいですよ、聞いてあげます。」
「はい、あの、ヒカル様についておられるお侍様方がわたくしどもから時に収穫を横領することがございますから、それを止めさせてもらえませんか!」
「なんと!私の侍者どもがですか?」
「はい!」
「それは知りませんでした。まさか、ほんとにほんとうですか?」
「はい。」
「いや、全くそれはけしからんことです!私が厳重に注意しておきます。いやね、何しろ私は周知のとおり主に宮中で暮らしてまして、村のことには疎いんですよ。あっ、言い訳ご無用ですね。顔に書いてあります。怖い!怖い!時より見せるそのケンちゃんの目、怖い!怖い!はい、はい、分かりました、兎に角、止めさせますから安心してお見せなさい!」
「それと、もう一つ条件がございまして・・・」
「えっ、まだあるの?」
「はい、あの、村人たちは非常に重い税に苦しんでおります。ですから減税をお願いしたいのでございます。」
「それは幾らケンちゃんの頼みでも駄目です。だって、それは一存では決められませんから・・・ね、分かるでがしょ。」
「・・・」
「また、そんな不満そうな目つきをして・・・」
「金は天下の回り物なんです。一部の富裕層だけが金を持っていては村人たちの景気は一向に良くなりません。」
「確かにね、私たちがもらい過ぎな気はしますよ。だけど生まれ持っての身分ってものがあるでがしょ。しょうがないことですよ。高貴な者は高貴に、そうでない者はそれなりにってことじゃあごわんせんか、ええ、そうでがしょ。私たち貴族はね、政以外にも色々やることがございましてね、報酬に見合った仕事をしてる訳ですよ。ケンちゃん方は無駄に金を浪費してるとか思われるかもしれませんがね、冠婚葬祭とかね、盛大にやることもちゃんと意味が有るんですよ。その証拠に王朝文化が花開いてるじゃないですか!ええ!」
あんた方だけだろ、それも全人口の0・001パーセントにも満たない・・・とケンキチは思うのでした。
「それに私はねえ、政治家としても非常に情の深い配慮をなさると良い評判を得ていますから、そう目で責めないでくださいよ。」
あんたが情の深い配慮をするのは妻や妾や貴族仲間に対してだけで村人たちにはこれっぽっちも配慮してないじゃないかとケンキチは思うのでした。
「兎に角ね、侍者どもの横領は絶対やめさせますからお見せなさい!」
「はあ・・・」
「何です!私がこんなにお願いしているのに!もう、よろしい!私が直接、会いに行きます!」
ヒカルゲンジが強硬な態度で腰を上げましたのでケンキチはこれは不味い、機嫌を直さないと横領禁止の件も呑んでくれないと心配になって倉皇として言いました。
「ああ!お待ちください!分かりました!妻をお呼びします!」
「そうですか、よろしい、じゃあ、座りましょう。」
ヒカルゲンジが座に落ち着きますと、ケンキチは呼び鈴を鳴らしました。
暫くして待ってましたとばかりに慌ただしい足音と共に縁側に例の物見高い女中が現れまして敷居に額ずいて顔を上げるや興奮の余り声を上ずらせて言いました。
「ご、御用件は、な、何でございましょう!」
この女中は一ヶ月に一回やって来る美しいヒカルゲンジを咫尺の間に意識して半端でなく興奮しているのです。
「ヒカル様がお呼びだとサナエに伝えなさい!」
「ひ、ヒカル様がですか!」
「そうだ!」
「は、はい、畏まりました!」
果たしてドタバタと慌ただしく立ち去ると、ヒカルゲンジが言いました。
「あの女中はこの風流な場を乱す者ですね。」
「はあ、風流とは申し兼ねますが、不束者には違いございません。」
御殿と言ってもケンキチの御殿は質素に出来ておりましてケンキチは贅沢を好みませんから置き物にしましても飾り物にしましてもそうで数も少なく至ってシンプルで床の間に定番の掛け軸の他は椿や桔梗や小菊で飾られた立華が、床脇の違い棚に花瓶が一つずつあるだけで、この和室には家具は一切なくて縁先の庭にしましても定番の筧や雪見灯籠の他はオブジェらしきものはなく建仁寺垣の手前に玉散らしの松が一本寂しげに立ち、植え込みの花も目立たぬように咲いております。
只、雲と天女が施された欄間から差す光を浴びたヒカルゲンジの美しさだけが際立つばかりでありまして桜襲の唐織物の直衣に葡萄染の下襲を着る姿は艶でこの世の者とは思われません。
「これは織部焼ですか?美濃焼ですか?」
不意に尋ねるヒカルゲンジの湯吞を持つしなやかさも誠に優雅であります。
「あの、私は無粋ですから存じ上げません。」
「そうですか、私も計り兼ねます。ホホホ!」
笑う姿も絵になります。
「ほほお、敷き砂の上をセキレイが小走りに、おっと竜の髭から蛇が、おおこわ!」
驚く姿も絵になります。
「あの花は何ですか?」
ケンキチはまた不意に聞かれて、どぎまぎしまして、「えーと、私は花にも疎くて、あれは妻が植えたものでして・・・」
「紫苑じゃないですか、可愛らしい花ですねえ。この庭によく映えます。奥さんは庭を飾るセンスもよくていらっしゃる。」
感心する姿も絵になります。
「ところで遅いですねえ、奥さんは・・・」
「はあ・・・」
二人が無言で向き合って茶請けを摘まみながらサナエの消息を想像している折、松籟がそよそよと吹いて来て覚えず庭の方を見ますと、微かな衣擦れの音と共にサナエが縁側に現れ、直様敷居に額ずき、顔を上げ、「お待たせいたしました。ヒカル様、ケンキチの妻のサナエにございます。」と挨拶してまた一礼しました。
大層めかし込んでおりまして藍白の長襦袢に雪の結晶のような模様が入った絞り染めの紺青の一張羅の着物を身に着け、紅粉青蛾した肌は一点の曇りもなく真っ白です。勿論、サナエはヒカルゲンジの気を惹こうとしたのではなく、やんごとなき者に対する女の見栄で粉飾したのです。
その近代的な着物姿に新し物好きのヒカルゲンジは宮中の姫たちにはない魅力を感じて一方ならず惹かれてしまい、これはもうどうしても情人の一人に加えなければ気が済まなくなりました。
「う~ん、噂にたがわぬ美しさではないですか!いや、噂以上ですね、ケンちゃん!」
ケンキチはやはり不味いことになったと思いつつ言いました。
「ヒカル様は相変わらず口がお上手でいらっしゃいます。」
「いやいや、ケンちゃん、しらばくれちゃいけません。私が本心から言ってるのは見え見えでがしょ!いや、ほんとに、だってね、宮中では初対面じゃなくてもはっきり見えないように几帳や御簾でぼかしたり屏風や衝立を間に置いて隠したりする上に扇で顔を隠すもんですが、こうはっきり見せられてはねえ・・・」
サナエは自分の失態に気づくなり右に顔を背け、左手で横顔を隠しました。
「今更、隠したって無駄ですよ、それにそんな真似は冷たく受け取られるだけで何の得にもなりませんよ、ねえ、お顔をお見せなさいよ、私を誰だと思ってるんですか、失礼じゃないですか、ねえ、ケンちゃん!」
ケンキチはもう何も言えませんでした。
「いいです。一目見れば結構、さあ、では、とっくに済んでるでしょうから今日はこれにて引き揚げましょう。」
ヒカルゲンジはそう言って立ち上がりますと、正座した状態で蹲るサナエを横切って、すたすたと玄関の方へ廊下を渡ってゆきました。
ケンキチは一旦はヒカルゲンジを見送るため追っかけようと思いましたが、サナエへの愛おしさ故に蹲るサナエを抱き起こして、ひしと抱き締めました。
七
ヒカルゲンジは帰路の間も六条院に帰ってからも、どうしたらサナエを情人にできるかとそればかりを考えていましたが、そんなことを考える日が続いて、その合間に正妻や情人と会うたびに何だか古臭い女に思えてしまい、遂にはおかめ顔が嫌になり、サナエが恋しくて恋しくて堪らなくなりました。
そうしてサナエに出会ってから5日目の朝ぼらけ、釣り殿の高欄にもたれながら空に浮かんでいる美しい鴇色をした木綿かずらをぼんやり眺めている内、「玉響にぽかりと浮かぶ木綿かずら見ゆることすら許さざりけり」と一首詠んだ後、閃いてそれを覆すべく一つの案が浮かびました。
そこで早速、ヒカルゲンジはその日の空いた時間を利用してマイラグジュアリーカーでケンキチの御殿に向かいました。
昼時だったのでケンキチは昼食を取った後、自分の座敷で横になりながら休んでいるところでした。そこへ例の物見高い女中がやって来て興奮しながらヒカルゲンジが訪ねて来たと告げたので慌てて身なりを正し、断る訳にもゆかず客間へ通すことにしました。
「やあ、どうも、休憩中に急に伺ってすまなかったですねえ。」
「いえいえ、どうぞ、お座りください。」
自分が差し出した座布団にヒカルゲンジが座りますと、ケンキチは嬉しそうに装った儘、「いや、お珍しい、取り立て以外に来られたのは初めてですねえ。」
「なんですがね、実は今日はこの村にとって朗報を持って参ったのですよ。」
「朗報とおっしゃいますと・・・」
そう言いしなケンキチは湯呑に手を付けました。
「いや、この前ね、ケンちゃんに頼まれた減税についてなんですがね。」
「えっ!減税!ゴホッゴホッ」
ケンキチは茶を飲んだ後、叫んだので噎せたのです。
「それは無理なんですがね、私が自腹を切ろうと思いましてね。」
「えっ!とおっしゃいますと・・・」
「ですからね、この村に寄付しようと思って伺ったんですよ。」
「寄付でございますか?」
「ええ。」
「それはありがたいことですが、いかほどでしょうか?」
「一千万です。」
「い、一千万!」
「ええ。」
「それは本当でございますか?」
「本当です。但し、条件が有ります。」
「じょ、条件、一体なんでございましょうか?」
ヒカルゲンジは勿体ぶるため湯呑を取り、一口飲みましたが、例の物見高い女中の入れた茶であることに気づきますと、にがっ!おお、まずと呟き、湯呑を如何にも汚らわしいそうに茶托に置いてから言いました。
「実はですねえ、今度の日曜日に奥さんとドライブがしたいんですが、良いでしょうか?」
「えっ!それが条件でございますか?」
「ええ。」
ケンキチはヒカルゲンジが訪ねて来た時から胸騒ぎがしていたのですが、恐れていたことが到頭やって来たと思いました。
「そ、それは・・・」
ヒカルゲンジはケンキチの言葉が切れてから間髪容れず言いました。
「大丈夫ですよ、ケンちゃんが心配しているようなことは絶対しません。只、一緒にドライブをして、お話をしてみたいだけなんです。」
「し、しかし・・・」
「何を疑ってるんですか!失敬な!私はこの村の領主のみならず天下の一上ですよ!一上の命令をきけないと言うんですか!」
如何に権威に抗う気持ちの強いケンキチと雖も権威を笠に着るヒカルゲンジの妖しく煌めく目に射すくめられてしまいました。
「ねえ、ケンちゃん、村民思いのケンちゃん、村民たちを助けたくないんですか?私は村民を救うために参ったんですよ。それをふいにする気ですか!」
ヒカルゲンジは条件を呑ませるために急所を突いて来たのです。果たしてケンキチの心は激しく揺れ動きました。ケンキチの村には親を病気で失いかけている子が何人もいました。その親たちを直してやるには高価な薬草が必要でした。一千万あれば、彼ら全員を救ってあげられる上に貧困に苦しむ他の村人たちも潤うのです。
「ほ、本当にサナエに変なことをしませんか?」
「い、いや、変なこととは何ですか?ちょっと失礼ですよ。」
「はっきり申します!本当にサナエにエッチなことはしませんか!」
「し、しませんよ、失敬な・・・」
「では、今からサナエに聞いて参ります。」
ケンキチは眦を決して納屋で村人数人と脱穀作業をしているサナエを自分の座敷に連れて来て訳を話しました。
サナエは正直なところ心中の奥底でときめきを感じました。何しろヒカルゲンジを一目見てしまったなら女性の誰もが憧れてしまう、それ程までにヒカルゲンジは光り輝く存在なのですから。しかし、サナエはもしものことがあったらと当然、悩みました。決してケンキチさんを、神様を裏切ることは出来ない、しかし、自分が条件を呑んでもヒカルゲンジが約束を守ってくれれば、裏切ることにはならないし、困っている村人たちを救えるのです。
「私、ヒカル様にお会いして真意を確かめてみます。」
ケンキチは首肯するしかありませんでした。
二人が客間に行ってみますと、ヒカルゲンジは座布団に胡坐をかいて割とゆとりのある表情で庭を眺めていました。が、サナエの姿を見るや否や、はっとした拍子に顔が引き締まって凛々しくなって一段と美しさが増しました。
「やあ、これはこれはお揃いで、ありがたいことです。」
サナエは割烹着姿でしたが、小さな頭にバンダナをセンス良く巻いていて寧ろ可愛らしくて決まっていましてケンキチの横の畳の上に直に正座しました。
すると、ヒカルゲンジは直接、サナエに言いました。
「で、条件は呑んでくれますか?」
「はい、ヒカル様がお約束を守ってくださるなら。」
「それは勿論、請け合いますよ。信用してください。」
サナエはヒカルゲンジの心中を探ろうとヒカルゲンジの目と自分の目とをしっかり合わせてヒカルゲンジを凝視していましたが、改めて見て誘惑されそうな自分を認識して絶対ケンキチさんを裏切らない!絶対神様を裏切らない!と自ら叱咤しました。
ヒカルゲンジがその熱のこもった燃えるような美しい目に益々惹かれていますと、サナエは決意しました。
「承知いたしました。では今度の日曜日、よろしくお願いいたします。」
「ほほお!そうですか!分かりました!ではねえ、早速、お金を用意します。現金輸送車で明日、使いの者を寄こしますから期待して待っていてください。」
翌日、約束通りヒカルゲンジからケンキチに一千万エンが送られましたのでケンキチは親を病気で失いそうになっている子の家庭を始め困っている家庭へお金を分け与えました。
八
遂に日曜日がやって来ました。ヒカルゲンジは約束の時間となっていた朝8時にマイラグジュアリーカーでケンキチの御殿にやって来ました。
サナエは先日の失態を繰り返すまいと、垂らしたロングヘアーを故意にぼさぼさにして顔をなるべく見えないようにし、化粧もせず服装も無骨なものにしようと上は着物の上にどてらを羽織り下はもんぺを履きました。
その姿をヒカルゲンジは甚だ失敬に感じましたが、しかし、サナエには違いありません、そう思うと、ほくそえむ他はありません。
冠木門に横付けされたラグジュアリーカーの助手席に乗り込むサナエをケンキチは色気違いへ生贄に捧げるような苦渋を感じながら然も心配げに見守り、それとは裏腹に最高級のカシミアを使用したスーツに身を固めて洋装したヒカルゲンジの虜となった例の物見高い女中と共に二人を見送りました。
「いやあ、ハハハ!いよいよスタートしましたねえ。」
「はい・・・」
敢えて沈んだ声で答えたサナエは、顔を振り向かせもせず俯いている上に垂れているロングヘアーの所為で顔が全く見えません。
ヒカルゲンジは出鼻を挫かれ、意気消沈しましたが、しかし、サナエには違いありません、気分はカーステレオのスピーカーから柔らかく鳴り響くボサノヴァと共に直ぐに浮き立ちました。
それを余所にサナエは出かける前、ケンキチに出来る限りヒカルゲンジを見ないように、ヒカルゲンジと顔を合わさないようにと言付けされていましたし、自分も言われなくてもその積もりでいましたから同じ姿勢のままでいました。
これでは自分の誇るべき容姿と魅惑的な目で以て気持ちを惹き込むことは出来ません。こうなったらとヒカルゲンジは自分の美声を使って口説き落としにかかりました。
「私はあなたを最初見た時、この人こそ花も恥じらい月も隠れる美しさだと思いましたねえ、だから、まず羞花閉月という漢語を思い浮かべましたよ、それから沈魚落雁とか明眸皓歯とか氷肌玉骨とか粉白黛墨とか解語之花とかね、全くその美しさには驚くばかりなんですが、また、あなたが素晴らしいのはその美しさが新しいんですよ、正にエポックメイキングですねえ、私の美意識が根底から覆されてしまいました。今もまるでファンタジーの世界に迷い込んでるようで夢うつつな気分ですよ。何しろ世の人口に膾炙した詩人達のありとあらゆる現実離れした幻想的な美の形容が悉く現実化している上に新しいんですからねえ、だから七歩の才を持つ詩聖でない限り、あなたの美しさを讃えることは出来ないでしょう。」
サナエはヒカルゲンジの立て板に水の如く流れる妙なる美声に因る言葉の数々にメロディアスで甘美な調べを聴くように聞き惚れてしまい、身が蕩ける思いがしました。
「ところで私はあなたも知っての通り、名うての好色一代男で妻を2人持ち、情人を5人持っていますが、私は彼女たちに分け隔てなく誠実なる愛を以て接しているのであって決して徒し心から彼女たちを選んだのではありません。そして今、私はあなたに誠実なる愛を以て接しているのです。あなたにも姫君たちと同等、いや、それ以上の愛を捧げる積もりです。どうです、私の気持ちを御理解いただけましたでしょうか?」
サナエはすっかり恐縮してしまい、もっといい格好をして来ればよかったとさえ思いましたが、相変わらず俯いたまま言いました。
「あの、わたくしは根っからの田舎者、村民でございます。お付き合いに必要な和歌はおろか何の作法も知りません。あなた様のお相手など務まる訳がございません。それどころか、あなた様の不名誉になるだけに決まっております。」
そのしっとりとしめやかに話すサナエの甘い美声にヒカルゲンジは姫君たちに負けず劣らずの気韻を感じ、うっとりと聞き入っていましたが、そんな陶酔した自分を打ち払うように強い語調で言いました。
「不名誉!そんなものはどうでもいいんです。私は仮令、どんな醜聞を立てらえようが、あなたと付き合えるなら一向に構いません。どうです、これからも時たまで良いですから会ってくれませんか?」
「あの、わたくしはケンキチの妻でございます。そんなお付き合いをする道理はございません。」
「私はケンちゃんとは長い付き合いでしてね、あの人は理解のある方だからケンちゃんに言い聞かせて私とあなたの付き合いを合法なものとして認めさせてみせますよ。」
ケンキチさんがそんなこと認めるわけがないとサナエは思い、改めて強い反発心を抱き、この方の言うことは何も信用してはならない!絶対ケンキチさんを裏切ってはならない!絶対神様を裏切ってはならない!と不退転の決意を固めました。
そんなこととは露知らずヒカルゲンジはこの後も口説き続けましたが、サナエの頑なな態度が一向に変わらず少しも顔を向けませんので面と向かって話をしようと思いまして、「はあ、私はそろそろ疲れました。これから喫茶店に寄って、お茶でもしましょうか?」
「えっ、わたくしはこんな格好で、お恥ずかしゅうございます。」
「それなら服を買ってあげましょう。」
「そ、そのようなことをしていただいては、わたくし、困ります。」
「困ることはないですよ、遠慮はいりません。」
ヒカルゲンジはサナエの拒むのを冒して高級ブティックへ向かいました。
九
高級ブティックがあるところですから可成りモダンな街中です。ヨコハマと言いましてエドやサカイが旧文化町であるとすれば、ヨコハマは新文化町なのであります。で、一層恥ずかしくなったサナエを尻目にマイラグジュアリーカーを路肩に停めたヒカルゲンジは溌溂として呼び掛けました。
「さあ、着きました!着きました!降りましょうか!」
「いえ、私は恥ずかしくて降りられません。」
「そうですか、では恥ずかしくないようにして差し上げましょう。私が今から色々買いそろえて来ますから、えーと、その前にサイズを確認しておかないといけませんですねえ・・・スリーサイズを教えてください!」
「えっ!」これは絶対、秘密にしておかなければいけないことだとサナエは強く思いました。「あの、私はMです。」
「いや、Mって、マゾじゃないんですから・・・それだけ聞いたところで、ちゃんと服は選べませんからねえ・・・」
「いえ、Mの中からお探しくだされば、選べます。」
「そうですか~・・・」とヒカルゲンジは然も残念そうに言いましたが、こうなりゃボディコン着せちゃいましょ!と思いついて、にやつきました。だけど逆に恥ずかしがって着ないかも・・・とも思い、「ま、兎に角、楽しみに待っていてください。」と言って車を降りますと、裏がガラス張りで店内のディスプレイも外から見えるショーウィンドウが入口の左右に照明で明るく配された高級ブティックに颯爽と入って行きました。
サナエは待つ間、こんなことなら、もうちょっとましな格好をして来ればよかったと後悔しましたが、女心としてヒカルゲンジがどんな物を買って来るのか期待せずにはいられせんでした。
彼是、30分も経った頃に買い物袋を両脇に抱えたヒカルゲンジがやって来てリアドアを開け、買い物袋を車内へ入れてから運転席に乗り込みました。
「いやあ、お待たせしました。お洋服も靴も櫛もシュシュも買ってきましたし、ブティックのファッションアドバイザーさんに色々聞いたり注文したりしましてね、ばっちりコーディネートしてもらいましたし、ポニーテールを作るのに必要な物ももらって来ましたから後ろの座席で着替えて髪を束ねてください。私は買い物袋を被って目隠ししますし、後ろのドアにはカーテンが付いていますから安心して着替えてください。」
「私、そんなにしていただいて本当に困ります。」
「いやいや、私にとっては端金を使ったまでです。遠慮なさらず、さあ、どうぞ、後ろの席へ移ってください。」
サナエは楽しみにしている気持ちを隠そうと俯いた儘、ドアを開け、後部座席に移りました。
二つの買い物袋の中を見ますと、大小の箱詰めの物もあります。大きい方を開けますと、シンデレラハイヒールが、小さい方を開けますと、ダイヤの指輪にサファイアのネックレスにエメラルドのイヤリングが入っていました。
サナエは漲る喜びを押し殺し、洋服を取り出しますと、首元や胸元がローブデコルテのように露になり、ボディラインにフィットするベアトップワンピースあることが分かり、口車に乗らされたような気がしましたが、生地、デザインの高級感にときめきを抑えることが出来ません。それに肌寒さを防ぐためのショールまで入っていましたのでラメの煌めきに心が躍り、シュシュはと見ますと、光沢のあるサテンのフリルシュシュでしたので更に心が躍り、あと、櫛も鼈甲性の高級なもので真珠が付いたヘアピンまで入っていました。それにポニーテールを作るのに必要なブラシや輪ゴムなども入っていました。ボディスタイルを確かめ、顔を隠させない為の戦略でしょう、全く用意周到なヒカルゲンジです。
「全部出したら買い物袋を渡してください。」
「はい。」とサナエは返事をして席の間から手を出すヒカルゲンジに渡しました。
「さあ、被りましたよ。では、どうぞ着替えてください。」
サナエは早速、どてら、草履、もんぺと次々に脱ぎ、下に着ていた着物も脱ぎ、ワンピースを着ますと、思った以上に体にフィットする上に谷間が見えるくらい胸元が露になりましたので、とても恥ずかしくなりましたが、矢張り嬉しくなり、次にハイヒールを履き、ショールを羽織りました。そして髪を櫛やブラシで梳いて行き、輪ゴムなど使いながらシュシュで後ろに束ね、ヘアピンも使ってポニーテールを仕上げました。
「終わりました。」
サナエは素っ気なくそれだけ言いますと、恥ずかしそうに顔を俯かせ、横に逸らしました。
「おお、終わりましたか、では見させてもらいますよ。」
ヒカルゲンジは一際色めきますと、買い物袋を脱いで座席の間から覗き込みました。
「ほう!素晴らしい!セクシー&ビュー~ティフル!ブラボー!ブラボー!フ~!さあ、さあ、遠慮なさらず指輪もネックレスもイヤリングも付けて助手席にお戻りください!」
サナエはヒカルゲンジの思いのままに丸裸にされたような気がして赤らめた顔を手で隠しながらドアを開け助手席に戻りました。
ヒカルゲンジは胸元のふくらみや腰のくびれやすらりとした足や足首の細さを嘗めるように見てサナエのスタイルが姫君らとは比べものにならない位、否、姫君らと比べては失礼な位、ずば抜けてナイスバディであることを知り、もうこのまま震い付いてやろうかと思いましたが、色欲を押し殺して言いました。
「また、そんな姿勢を取って、おまけに両手でお顔をお隠しになる。いけませんよ、そんなことでは、冷たいじゃありませんか、さあ、まずは両手をお下ろしになってください。」
サナエはヒカルゲンジの美声に抗う気持ちが薄れ、両手を恐る恐る下ろしました。
「そうです、そうです、それでいいんですよ。さあ、今度はお顔をお上げになってください。」
どんどん促して来るヒカルゲンジの美声にサナエは猶も抵抗力がなくなって行き、顔をゆるゆると上げて行きました。
ヒカルゲンジはその整った横顔、盛り上がった胸、ほっそりとした首や腕や足、白い肌の何もかもが蠱惑的で生々しく艶めかしく思われ、ここが街中でなければ、間違いなく抱き着いていたことでしょうが、必死に自制心を働かせながら言いました。
「ではお顔を私の方へ向けてください。」
サナエは自分の美しさに反応して興奮のあまり荒々しくなっているヒカルゲンジの息遣いを感じ取り、恐ろしくなりましたが、自分も我知らず興奮して来て流し目になりながらヒカルゲンジの方を見ました。
ヒカルゲンジはその長い睫毛を持つきりりとした美しい目に完全に参ってしまいました。
「そ、そうです。OH!何という素敵な方なんでしょう。まるで3106カラットのカリナンダイヤそのものだ。私はあなたにぞっこんになってしまいました・・・私の手で磨いて差し上げましょう!」
そう言ったかと思うと、ヒカルゲンジはサナエの方へ手を伸ばしてゆきました。その途端、我に返ったサナエは咄嗟に、「駄目です!」と叫ぶや、その手を繊手ではたき落としました。
「おう、いた!お顔に似合わず、お気の強いことをなさるんですねえ・・・」
サナエは実際、いざという時の気の強さで操を守って来たのです。
「だって、そういうことは一切なさらないというお約束だったじゃありませんか!」
「そ、そうでした。ですが、私は天下御免の一上ですからね、そういう酷い仕打ちをなさってはいけないのではないでしょうか。」
「そうはおっしゃいましても私は人妻です!幾らお公卿様でもいけないことはいけません!」
「ほお、このヒカルゲンジに向かって、そこまで主張なさるとは驚きました。全くあなたはエポックメイキングな方です。いやあ、ほんと~に惚れ惚れしますねえ~参りました。では喫茶店に参りましょう!」
その言葉を皮切りに誰もが振り向くラグジュアリーカーが目抜き通りをゴージャスに走り出しました。
「ケンちゃんが言ってたんですがねえ、ヒカル様に愛されるなんてサナエは世界一の幸せ者だって・・・」
「そんなことケンキチさんがゆう筈はございません!」
「ああ、そうですか、何だか、すっかり反感買っちゃいましたねえ・・・」
ヒカルゲンジは頑なになる一方のサナエを何とか砕けさせようと話し出しました。
「サナエさんは蹴鞠をご存じですか?」
「存じません。」
「そうでがしょ、そうでがしょ、蹴鞠は貴族だけの特権みたいなもんですからねえ。しかしです。サナエさんが私の愛を受け入れてくだされば、サナエさんは宮中の姫君たちと御一緒に私たち貴族のお遊びを御観賞できるんですよ。」
「わたくし、別に見たくございません。」
「なんとまあ、つれないことをおっしゃるんです・・・でもね、そんなことに怯む私じゃないですよ。ですからですねえ、サナエさん、またお尋ねしますが、舟遊びをご存じですか?」
「存じません。」
「そうでがしょ、そうでがしょ、舟遊びも貴族だけの特権みたいなもんですからねえ。しかしです。サナエさん、いや、もっと砕けさせてください、サナエちゃん、サナエちゃんがね、私の愛を受け入れさえすればね、サナエちゃんは私と舟遊びだって出来るようになるんだよ。」
サナエはサナエちゃんと呼ぶようになり、妙に軽々しくなったヒカルゲンジに身分も忘れて甚だしい馴れ馴れしさを感じ、強い嫌悪感を抱いて叫びました。
「わたくし、したくございません!」
「ひ、酷い、酷い、あんまりだわ!でも、堪らんねえ、堪らんねえ、その気の強さ!何だか、私、サナエちゃんに苛められたくなっちゃいまいた!これってMの心理?なんちゃって!」
ヒカルゲンジは到頭、色気違いになったのでしょうか、自分の品位を落とすようなことまで言うようになりまして喫茶店でも、「私は実はですねえ、姫君たちのおかめ顔とぶよぶよした体に飽き飽きしていましてね、どうしてもサナエちゃんのそのナイスバディを触ってみ」と言いしなサナエにコップの水を顔にぶちまけられ、昼食中の高級レストランでも、「これはニッポン国流に言えば、突き出しとかお通しとかいう前菜なんですが、オフランス流に言えば、オードブルですね、このサワークリームをべったりと塗ったトーストなんかは殊に酸味が効いておいしいですよ。」と言っても、「私の口には合いません。」と言われ、「私は牛肉が大好きでカルビ、ハラミ、ロース、タン、サーロイン、ランプ、ホルモンと部位が色々ございましてね、焼き方にもベリーレアからベリーウェルまで色々ございましてね、今日は通ぶらずに王道のカルビの中落ちなんかをウェルダンで頂きたいのですが、サナエちゃんはどうされます?」と聞いても、「私はお肉は基本的に頂きません。」と言われ、「そうでがしょ、そうでがしょ、サナエちゃんみたいな気品ある美女が焼肉にがっつくなんて姿はあるまじきことですからねえ、しかしです、サナエちゃんみたいな美人が松坂牛の最高級サーロインステーキをミディアムレアなんかでオーダーしてですよ、バルサミコソースを掛けたりなんかしてフォークとナイフをセンス良くしなやかに動かしながら小さく切り取った肉片を小さなお口で可愛らしく頬張る姿なんかは上品でいいと思いますがねえ。」と言っても、「ですから私はお肉は所望しません。」と言われ、自分だけが焼肉を食べることになった揚げ句、「しかし、何ですねえ、こうしてサナエちゃんとお食事をしていますとね、ケンちゃんとサナエちゃんはどんな風にお食事をしてるのかなあなんて想像しちゃったりなんかするんですけど、時にはどうです、例えば、お酒なんか入った時にですね、お二人でチョメチョメなんてことになると思うんですが、私もサナエちゃんとやってみた」と言いしなサナエに席を立たれてしまう始末でした。
暗くなるまでには帰る約束になっていたヒカルゲンジは、道に迷ったり見栄を張って店を選んだりして遠くに行き過ぎてしまったので昼食後、即、帰途に就かなければならなくなった状況の中で食事をしていたのですが、怒って立ってしまったサナエを宥めて席に着かせるのに手間取った後、プンプンしながら食事をするサナエの向かいで無意識にナイフとフォークをステーキにぶっ刺しておいてシャンデリアの光に照らされたソルティドッグのソルトの煌めきを冷たく当たるサナエとダブらせながらこう思っていました。
「あ~あ、また時間を食っちゃいましたよ。これで完全に途中で寄り道できなくなっちゃいました。それにしても村民の分際で随分付け上がっちゃってますねえ・・・こんな気の強い女は初めてです。私の手でも手に負えません。これは決して情人にはできません。もうこうなったらさ、どうせ情人にできないのならさ、やっちゃいましょ!」
十
スキャンダル騒動を起こすリスクを冒してでもと自棄のやんぱちになったのです。で、帰途の途中、用を足すためにパーキングエリアに入る代わりに高速道路を降りて田舎の方へ向かい、人気のない縹渺たる大平原を横切る一本道の路肩に車を停めました。
「すいません。道に迷っちゃいましてねえ、こんなところに来てしまって、どうしましょう、私、ちょっとお小便をしてきますが、サナエちゃんもしたいでがしょ。だからね、私は遠くの方でしますから安心して、この叢あたりでしなさいな。ティッシュはグローブボックスの中にありますから。」
サナエはいよいよ頭にきましたが、実は彼女も膀胱が破裂しそうになっていましたのでヒカルゲンジが立小便をしている隙にする積もりになりましてヒカルゲンジが車を降りて100メートルくらい向こうのセイタカアワダチソウが群生するところまで歩いて行って彼の姿が見えなくなったのを潮に車をさっと降りて叢に隠れました。
すると15秒くらい経ってから草を踏みにじりながら猛然と駆けてくる足音が聞こえて来ましたので濡れたところをティッシュで拭いている最中だったサナエは、拭き取るのもそこそこに慌ててパンツを履き、逃げ出そうとしました。ところが、ハイヒールを脱ぐ際に転んでしまって、そこへヒカルゲンジがやって来て後ろから覆いかぶさったものですから、「ぎゃー!助けて!」とサナエが裂帛の悲鳴を上げた、丁度その時でした。二人の頭上の雲の切れ間から天子の梯子と呼ばれる薄明光線が幾筋も差して来て、その一つの光芒の中を伝ってするするするっと滑るように何者かが降りて参りました。それはなんとあのスポーツカー乗りの神様だったのです。
「こらー!このくそったわけが!」
激怒した神様の凄まじい怒号が広大無辺な空間の隅々まで轟くや否や震え上がって死に体になったヒカルゲンジのスーツをお摘みになった神様は、ひょいとヒカルゲンジを放り投げてしまわれました。
「サナエちゃん!大丈夫であったか!何もされておらんじゃろうなあ、大丈夫であろうなあ!」
「はい!神様!大丈夫です!御心配なさらないでください!」
「そうであったか、間一髪じゃった、あのたわけ、もう、ちんちん出しておってな、フルチンで走っておった時に丁度、わしは雲の上での昼寝から目が覚めて立ちしょんしとるところじゃったから見つけたのじゃよ!」
「そうでございましたか!私はなんて運が良いんでしょう!お陰で助かりました!感謝のお言葉もございません!」
「うむ、うむ、兎に角、良かった。さて、手足が汚れておるから洗ってやろうかの。」
神様は神業で塗れたタオルをお出しになり、サナエの手足を然も嬉しそうにお拭きになってからサナエにハイヒールを履かせておやりになりました。
「さあ、立ってごらん。」
「はい、神様。」
サナエも嬉しそうに答えますと、芒の上風に吹かれてショールとスカートを軽やかにそよがせながら、すっくと立ち上がりました。
「んー、なんと華麗なんじゃろう・・・まるでシンデレラ姫じゃ、モダナイズされたサナエちゃんも実によい!しかし、サナエちゃん、ちょっと露出が過激すぎはしないかい?」
「いえ、これはヒカルの君に着せられたのでございます。」
「えっ、着せられたと言うと?」
サナエが斯く斯く然々と説明しますと、神様はあの、たわけ、上手いことやりおるわいと思いつつ言いました。
「そうか、たわけがやりそうなことじゃ・・・さてと、そのたわけはどうしておるかの・・・」
神様は放りなさった方を歩いて行かれますと、十歩ほど進まれたところで叢の上に俯せになって大の地に倒れているヒカルゲンジを見つけられました。
「おい!貴様、起きんか!」
神様がヒカルゲンジの肩をお持ちになって揺らしておやりになりますと、ヒカルゲンジは譫言を呟きながら顔を上げました。
「おい、貴様、お前のことは知っておるぞ。札付きのドンファンことヒカルゲンジであろうが!」
「わ、わ、私も存じあ、あ、上げております。か、か、へっ・・・」
ヒカルゲンジは神様を見て再び失神してしまいました。
その後、神様はお探しになったパンツとズボンをヒカルゲンジに履かせておやりになり、ヒカルゲンジをラグジュアリーカーの後部座席に寝かせておやりになり、サナエを助手席に乗せておやりになりますと、ラグジュアリーカーでケンキチの御殿へ向かわれました。
「流石に一上ともなると、斯くも豪華で快適な車に乗れるものじゃの。しかし、わしの趣味ではないわ。何しろ、わしは硬派な乗り手じゃからな。オートマは好かんし、こんな軽いハンドルも好かん。ボディがでかすぎるのも好かん。まあ、しかし、助手席に乗るサナエちゃんはわしの車よりこの方がええのじゃろうがの。」
「いえ、わたくしは神様のスポーツカーが好きです。」
「ほほほ!無理せんでええよ!」と神様はお笑いになりながら仰った後、サナエを一瞥して、「しかし、まあ、サナエちゃん。」
「はい、神様。」
「セクシーやねえ・・・」
「・・・」
「その恥じらう姿もええねえ・・・その服を着せたヒカルゲンジの趣味には脱帽するよ。ガッハッハッハ!」
流石に神様は運転が巧みであられますのでサナエに官能をくすぐられながらも陽が沈む前にケンキチの御殿にお着きになりました。
早速クラクションをお鳴らしになりますと、音を聞きつけたケンキチが女中より先に冠木門から飛び出して来るなり驚いて叫びました。
「えー!な、何で神様が運転席におられるんですか!」
神様がサナエに訳を話してきなさいと仰ると、サナエは神様にお礼を言ってから車を降りて、そこへ寄り添って来たケンキチと歓喜に満ちて抱き合いました。
十一
「まだ気絶しておるわ、しょうがない、わしが降ろして禊をさせよう。」
神様は振り返って独り言を呟かれますと、車からお降りになりヒカルゲンジを背おわれて川岸に向かわれました。
お着きになりますと、ええもんばかり食うておるから重い重いと文句をおっしゃりながらゴミがポイ捨てされた下草にヒカルゲンジを寝かせておやりになってからヒカルゲンジがまた失神しないように少し離れたところヘお移りになり、川をお眺めになりながら即興で一首詠まれました。
「川べりで草に芥に紛れたるヒカルの君のたわけた姿」
「は~あ!」
ヒカルゲンジが欠伸と共に目覚めますと、起き上がるなり神様に気づきました。
「やっと起きたか、たわけ!もう、宵の口であるぞ!」
ヒカルゲンジは周章狼狽しながら四つん這いで歩いて行って神前に額づきました。
「か、か、か、神様!な、な、何卒、ひ、平に平に御容赦くださいませ!」
「国のトップに立つ者が何たる無様なざまじゃ!これを見ろ!」
神様は十五夜の満月に照らされたサナエの顔写真を差し出されたのです。
「そ、それは、さ、さ、サナエちゃん・・・」
「貴様が気安くサナエちゃんと申すな!わしの唯一無二のアイドルなんじゃからな!それを貴様は辱めようとしおって!到底、許される行為ではないぞ!」
「そ、そ、そこを何とか、な、な、なりませんでしょうか?」
「んー、そうじゃな、犯しておったら即刻死罪であったが、まあ、貴様も運のよい奴じゃ。」
「と、おっしゃいますと許してくださるんでしょうか!」
「たわけ!只で許すわけがないじゃろ!条件があるのじゃ!」
「じょ、条件、一体、条件とは何でございましょう?」
「ひと~つ!サナエちゃんに絶対手を出さないこと!」
「あっ、それは勿論、心得ております。」
「ひと~つ!サナエちゃんに土下座して謝ること!」
「は、はい、承知いたしました!」
「ひと~つ!ケンキチに土下座して謝ること!」
「は、はい、それも承知いたしました!」
「ひと~つ!貴族たちの贅沢を禁止すること!」
「そ、それは私の一存では・・・」
「何を申しておる。貴様は内覧の資格を持つ一上ではないか!」
「はあ、さ、左様でございました。やってみます、力の限り・・・」
「よし、ひと~つ!減税を実施すること!」
「はい、それも出来る限り、やってみます。承知いたしました。」
「うむ。ひと~つ!村人思いのケンキチを見習って政治に生かすこと!」
「はい、それも承知いたしました。」
「うむ。条件は以上じゃ!じゃがな、まだまだこれだけでは済まんぞ、貴様!すっぽんぽんになれ!」
「えっ!何故でございますか?」
「これから貴様がこの川で禊をする為じゃ!」
という訳で秋も半ばの冷たい川の中で禊をさせられて大層ぶるぶる震えるヒカルゲンジに向かって神様はおっしゃいました。
「兎に角じゃ、女道楽する暇があるのなら民衆たちの暮らしを良くするにはどうすればよいかと考える位できるじゃろ!そこから良き政治が始まるのじゃ!」
「ははははい、しょしょしょ承知いたいたしましました、はっ、はっ、ハックション!」
「ガッハッハッハ!修行が足りんぞ!ま、風邪ひかんようにな。じゃあ、わしはこれにてドロンする。さらばじゃ!」
神様は神業で文字通り、お消えになりました。
その後、清められたヒカルゲンジは神様の御神託通りにして更には精神修養してノブレスオブリージュの精神を修得し、国民思いの良き政治を行いましたのでニッポン国は貴族たちだけでなく民衆も国風文化を嗜むようになり、真の平和国家になりました。