後
男は飛び上がるように慌てながら下着を上げて、外へ向かって返事をしようとした。しかし男は固まった。それは文字通りに、振り返り扉へ向かって声を発そうとした所で硬直していた。鏡には映らないが硬直している自分の見えない姿を見て、人に自分の姿を見せれない、と。ここで漸く自分が透明人間である事を自覚したようだった。
下着を脱ぎ捨て顔を見せれば何も見えず、帽子にマスクとサングラスで顔を隠し、服を着込めば見えることの無い透明人間に。いいや、それでも家の中でその格好は誰がどう考えても不審者で、どれだけ顔を隠しても全てを覆うのは難しい。男がそんな事に頭を働かせている間に、配達人は行ってしまった。
男は再びソファに腰を降ろすと、透明になっているという事の重大さに迫られていた。そして身に起こっている非現実的な事柄と、この現実にどう溶け込ませるかということを考えた。仕事は有給休暇を取れば済む。声は出ることが確認出来た為に暫くは問題無い。食料は、ある。しかし保って三日程の量しか無く、その後どうするかという事。外出が出来ないとなると、他人に頼むしかない。
しかしこの身に起こっている現実を、どう説明しようかと。映画やドラマにあるような、人体実験や妙な薬を飲んだ訳でもなく、前日も普段と変わらずに過ごしていただけで、朝になりただ目が覚めたら身体が透明になっていたのだ。男が考えをどれ程巡らせても、原因になるようなものは無かった。
男は考える事を止めて窓から外を見た。これでもかと言うほどに、晴天である。窓を開ければ清々しい風が吹き込み、この非現実的な事柄について考え混んでいた男は、とても心地良さを感じた。そう感じるのは当然だ、下着しか身に付けていないのだから。その風に煽られるように、男は外へ出ることにした。せっかくの休日、こんなにも天気の良い日に、家に居るなど勿体ないと。
そして男は、下着を脱いだ。普段とは真逆の行為だ。服など元なく下着をも脱ぎ捨て、何も身に付けずに表に出るのである。姿が見えていないだけで、裸の男がドキドキワクワクしながら玄関の扉へ手を掛けるというのは、想像したくない光景であったが、誰にも構うことなく男は取手に手を掛けた。
しかしそこで男は思った。待て待て、外で透明人間で無くなってしまったらどうするんだ、と。それが頭の中で過ぎった途端、取手に手を掛けたまま男はまた硬直してしまった。想像したくない光景が見えないというだけで、現実に男は非現実的な姿とは言え、非常識な行為一歩手前で硬直しているのだ。しかしそれは無理強いされても仕方ない。透明人間になった原因が分からないのだから。
治ると言う表現が正しいかは分からないが、いつになれば透明の状態が治まるかも分からず、どうなれば透明で無くなるのかも分からず、いつまでも透明なままなのかも知れないという不安も、同時に男は抱える事になり、そっと取手から手を離した。
玄関で佇む男の後ろで、窓から突風の吹き込む音が響いた。それに何故が男は怯えて、慌てて窓を閉めた。そして現状を誰かに覗かれたらという不安に駆られ、カーテンも締め切り部屋の中は薄暗くなった。覗かれても何も見える物など無いのにも関わらず、男は隠れるように部屋の隅で膝を抱えて座った。
それからしばらく経ち陽の沈むころ、男は立ち上がりカーテンの隙間から外を覗いた。いつもと変わらない光景も、それは何故か新鮮だった。そして男は月が現れていることに気がついた。いつの間にか夜になり、男はそれに安堵した。暗がりに塗れ込めば、覗かれても見つかりにくいだろうと感じたからだ。自分が居ることを知られないように、部屋の明かりは付けなかった。カーテンを開いて窓を開けると、ひんやりとした風を纏い夜が部屋へ舞い込んだ。
月明かりの差し込む部屋に、男の影は現れなかった。昼間はどうだっただろうかと、そう思うと影は無かったように思う。男にはもう、浮いたように見える下着だけが、自分の存在を認識する唯一の物だった。徐ろに立ち上がった男は、また鏡の前に立つと、しばらくそれを見つめた後にお気に入りの服を着始めた。月明かりを背に浴びて、服の影が鏡に映ると、それを見た男は表情を緩めたことだろう。
その後、男は服を丁寧に畳み終えると、下着をも脱ぎ捨てベッドへ潜った。そしてしばらくして瞼を閉じると、男は透き通る様に静かに眠りについた。それも束の間に、大きな音に男は飛び起きた。大きな目覚ましの音に、時計を見て転げ落ちながらベッドから出て洗面所へ駆け出した。雑に歯磨き粉を塗り付け、歯ブラシを咥えて鏡を見ながら自らを見つめる自分に、何見てんだよと目を逸らした瞬間に男は固まった。
何で見えてんだよ、と見える限りの全身を確認した。男は目が覚めると、突然に元の男へ戻ってしまったのだ。そして夢でも見ていたのかと混乱する寝ぼけた頭と寝癖を正した後、いつも通りの日常へ出て行った。しかし部屋を出て行く間際に、キレイに畳まれたお気に入りの服と下着が見えた。誰にも会わず誰にも言わず、誰にも気付かれず誰にも見られることは無かったが、そこにある透明人間の影が男にだけははっきりと見えていた。