前
それはある朝に、一人の男へ訪れた出来事。その男は極々平凡な男だ。
多くの人と同じ様に、毎日会社に勤め売り買いをする。よく分からないものを売り、よく分からないものを買う。昨夜もそんな普遍的な日常を終え、いつもと何ら変わり無く眠った。そして休日の朝、あくびをしながら身体を伸ばし、寝癖を掻きあげながら洗面所へ行った。歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を付ける。そして鏡に写った歯磨きをしている自分に、何見てんだよと思うはずが、何かがおかしい。
違和感に覆われ、寝ぼけている頭は必死に違和感へと目を凝らす。辺りをざっと見渡して、正面を見て気が付いたのは浮いている歯ブラシ。そこで男は気がついた、自分が鏡に写って居ないことに。先程まで叩き起こされ必死に働かされた頭は、その事実に数秒男の身体を硬直させた。そして驚く程に慌てる事は無かった。口から歯ブラシを抜き取り、手に持っているはずの歯ブラシは浮いている。頬に触れるも目には映らず、身につけている下着の中を覗き込むも、透けているため見えているのは裏地だけ。
それはまさに突然だった。
彼は目が覚めると透明人間になっていたのだ。
淡々と歯磨きの続きを始めて終わり、口を濯いだ。拭ったタオルを掛け直すと、鏡越しに見る見えない自分をまじまじと見た。その感覚は、VRゴーグルをつけている時に程なく似ていた。動かしているはずの身体は見えず、感覚はハッキリとしている。ただVRと違うのは、これが現実だということだった。
男はリビングへ行きソファへ腰を降ろすと、スマートフォンを手に取り一息ついた。そして思い出したように透明人間について検索すると、映画や小説など大凡現実とは異なる事柄ばかりが溢れている中に、動物の擬態や様々な筋張った仮説が散らばっていた。
画面を閉じると男は、全身が見えるはずの鏡の前に立った。しかしその鏡に写っているのは、浮いている紺色の下着だけ。鏡の前で、男はぐるりと全身を写して見たが、見えたのはただ下着が陽気に踊っているだけだった。そして下着を見つめた男は、どうしてか恐る恐るとしながら下着をそっと下ろした。当然鏡には何も写らない。しかし下げられた下着を眺めながら、男は恥じらいを感じた。そしてちょうどその時、荷物を届けに来たと音が鳴った。