022 生きてるだけで辛いと言うことはあるけれど、人生の最後には長生きした人が勝ち組だったと思える日が来るのかも知れない。多分無いけども。
生きてるだけで丸もうけ
■介護福祉士初任者研修
介護現場では無資格で働いている人もいる中で、とりあえず何かの資格を取ろうと思った時に、最初に取る資格は介護福祉士初任者研修(旧ヘルパー二級)だろう。
単体で取れる介護系の資格には同行援護や、全身性ガイドヘルパー等があるが、これらは1日から2日の実技研修と、テキストの提出で認定証がもらえるので、通信教育もあるが、数か月に及ぶ座学と実技、そしてそれぞれの試験がある初任者研修は別物だろう。
基本的には資格を取るための職業訓練なので、よっぽどのことがない限り落ちる事はないと言われているが、同期以外に経験者がいないのでそれが本当かどうかはわからない。
筆記試験は基本的には、ほぼ教科書通りのものが出るので、それを選択問題で答えていくだけだから単純に勉強すればいいだけの話だ。
しかし実技試験は一連の介護の流れを、実際に試験官を利用者さんに見立てて介護の実技を行うので、試験会場には重い空気が流れていた。
細かい事は体験してもらうのが一番なのだ。
それでも敢えて例えるならば、顔面から人が倒れるところを見るかもしれない状況である。
試験を受ける生徒たちは、そういうことにならないように、しっかりと介護をしないといけないのだろうけれど、先生方は容赦なく、ぐらぐらと不安定な状況を演じる。
先生たちも本気と書いてマジである。
人に怪我させるかもしれないと言う恐怖心で、手が震えるなんて言うのはあたりまえ。
頭の中が真っ白になって、何をすべきであるかも頭の中から飛んで行く状況が、さらに余計に状況を悪化させて、持ち時間を奪っていくのである。
もちろん担当の先生たちにも判断基準があるようで、一連の流れができていれば大丈夫と言う人もいれば、指先1つを着まで動きまできっちりしてないと姿勢が不安定になる演技派の先生もいる。
自分の事を言わせてもらえれば、運が悪く演技派の先生のほうに振り分けられてしまったので、トラウマというかPTSDレベルの恐怖を味わうことになった。
それでも、なんとかかんとか試験は受かることができて、クラスメート全員が資格を取ることとなった。
先生から言わせれば、僕はなんでもかんでも先回りしているらしい。やりすぎて余計な介助をしてしまうと、介護する相手の能力を奪うこともあり、自分でできた事ができなるくなる様になってしまう。
だから本来しなければならないのは、出来る事は時間がかかっても本人にやってもらって、できないことだけを介助するのが本来の介助である。
動ける人を、寝たきりの人にするような全身介助ではないのである。
だからあなたの介助方法では、利用者さんをを寝たきりにさせてしまいますよ、と何度も言われたものである。
こうして介護福祉士介護福祉士初任者研修を取得した私は企業実習に出ることとなったのであった。
■企業実習
学校側から振り分けられて、過去に卒業生が行っている施設や、学校に来ている講師の先生たちと縁のある介護施設に実習に行くことになっていた。
入学してすぐから、本人の希望や施設の種類もサービスもいろいろあるので、それぞれの施設の理解や、面談で生徒に合いそうな場所を学校が選んだのである。
施設にはいろいろ種類があり、それぞれでやる事は違う。
特別養護老人ホーム
特別保健老人ホーム
グループホーム
ショートステイ
デイサービス
デイケア
病院
在宅サービス
有料老人ホーム
介護付き住宅
などなど……
自分がどこの施設に行ったとかは守秘義務があるので言えないのだけど、行ったところは施設自体が大型の高級ホテルかと思うくらいきれいな場所だった。
職員たちも若い人が多い。
そして管理職にも若い子が多い。
無資格で働いているのだけれどもベテランの人たちも多く、自分が想像しているよりも職員の人数も充実しているように見えた。
この企業実習で手ごたえがあった人は、大体その企業実習先に、そのまま就職することが多いと言う話を聞いていたので、もしそうなるのであれば何の金銭面以外で不安はないと言う事はそう思った。
問題は給料である。
大事なことなので2度言いました。
いま不安があるとするならば収入面の不安でしかない。
もちろんわかっていてこの仕事を選ぶことにしたのだけど、現実を求人票と言う形で見てしまうと、ブラックだった前の仕事が給料面ではまだマシだったと言えるのだ。
企業実習の後、気分的に自分のモチベーションが落ちてきている自分に気がつく。
実習前は新しいことをしようと言う希望に満ちていたかもしれないが、ここここ2ヶ月ぐらいはなかなか精神的にも盛り上がりを感じない。
1日12時間くらい会社にいて、睡眠時間は6時間。
自分で使える時間と言えば六時間ぐらいしかなかったんだけど、それならそれでそれが普通の日々だったので自由に使えるお金が十万くらいあればなんとかなった。
ただ自分は強制的に勤め先の方がなくなってしまったので、強制的に新しい道を探さなくてはいけなかった。
それでも世の中には、その仕事で働いてる人たちがたくさんいるのは事実。
もしかしたら、なんとかなるんじゃないかと希望的観測を持たずにはいられないのである。
どうか以前よりは幸せな日々を送りたいとは思うのだ。
■生き辛さ
年末年始早々、嫌なニュースが目に入ってきた。
お金がないと言うことを理由に、自室の浴槽で赤ん坊を出産した女性が、産み落としてすぐに赤ちゃんを部屋に残し仕事に出かけたそうだ。
アルバイトを2つを掛け持ちして仕事を終えてから部屋に戻り、寝かせていた赤ちゃんが様子がおかしくなると自分で救急車を呼んだが、赤ちゃんが亡くなってしまったと言う事件である。
相談できるような人も無く、赤ちゃんの父親も断定できる人がいなかったようだが、もしそのお母さんがいろいろな知識を持っていれば、少なくとも赤ちゃんの命が奪われる事はなかったのではないかと思う。
行政に相談したところで何もしてくれないと言う人がいるかもしれないが、問題なのは相談したのに何もしてくれない行政であって、本来は金銭的に困っていた時には相談することはできる。
病院には相談員が配置されているばあいがあることや、働けなくてお金がなくて通院にも、生活にも困るような人たちはNPO法人や、行政に相談すれば少なくとも最低限でもなんとかなるはずである。
もちろん会いたくは無いような親類縁者に連絡されるようなことがあるかもしれないが、その人たちに相談できることができない理由がちゃんとしたものがあるんだったら、それはそれで聞いてもらえるはずである。
僕の姉は母親との関係が悪く、中学の頃から家出を何度も繰り返し、鑑別所に入ったりして、家族を迷惑かけていた人である。
もちろん母親に子供の頃から虐待を受けていたのは目の前で見たので知っており、同情する部分もあるのだけど、最終的な部分で金に困って親に泣きついてきて全てを面倒みてもらい、何度目かの家出で妊娠して帰ってきたりしたときは、誰が父親がわからない子供を生むと言った時に、当然のように僕は反対した。
育てられないは分かっていたからである。
子供時代に虐待を受けて、いろんなトラウマになった分があるかもしれないが、それでも人に親になるならばその親になるならば、少なくとも自分で生活をしてほしい、と思っていた。
しかし現実は家出した先で暮らし始めたとたん、お腹が大きくなっていると言う理由でパート先も解雇され、働くことができないので収入が無くなって家賃が払えなくなってアパートを追い出され、真冬に24時間開放されているJRの連絡通路で寒さをしのぎながら1日中歩き回っていたと言うホームレス妊婦であった。
そんな親子共々命を落としかねない状況に一週間いて、泣きながら母親に電話してきただけと言う、何の対策も取れなかった人が人の親になれるわけがないと思ったのである。
そしていつしか子供を置いて家に家から出ていくのは想像できた。
それが現実になったのは15年後のことである。
最終的に家に戻ってきて親に面倒みてもらい、子供を生んだ。
出産費用は何とかなったが、親としても子供を育てられるとは持っていない。。
貧乏な親のところに生まれたのもかわいそうではあるが、生活能力のない親のところに生まれたのはより不幸なことだろう。
親もいつまでも面倒を見てやれることが出来るわけではない。
ましてや姉弟である自分が、少ない収入の中から姉の家族を養うのもおかしな話である。
本人の生活がままならないのに。
だから生まれてすぐに養子に出すと言う話を病院か、行政かとはわからないけど、していたらしいが、結局のところは自分が育てると言うことになった。
本来ならばここで養子にもらわれて、望まれた家庭で育ったほうが良かったとのではないかと今は思う。
結局のところ姉は15歳になった息子を置いてどっかに逃げていった。
僕の予想は正しかったのだが、子供に対する責任は、親も姉も姉も取るつもりはないらしい。
結局のところ最終的に、僕の親が亡くなった後も一緒に過ごすことになる僕のほうに全て放り投げてきたのである。
いい迷惑である。
誰かが不幸にならないように最初の方で、行政に相談していればきっと多くの人が幸せになっただろう。
小学生時代の頃、1年生の頃から学校を休みがちなクラスメイトの女の子がいた。
彼女は母親と3人弟妹の暮らしていた。
月の半分くらいは休んでいたのだが、それが5年生の頃になると全く来なくなった。
ある日、学校の帰り道にいつもとは違う道で帰っていると、その彼女が公園で小さな弟達と遊んでいるのを見かけた。
私が彼女に学校においでよと言うと、彼女は弟たちの面倒を見ないといけないし、もう学校に行っても勉強なんか全くわからないからいいの、と笑ったのである。
そんな彼女と中学も一緒になったのだが、学校に来ることはなく、2年生になった途中でどっかに転校していった。
しばらくして街中で彼女とすれ違った。
当時はまだ珍しかったというか、不良と呼ばれていた金髪にして、龍の刺繍が入ったスカジャンを着て1人で歩いていた。
僕があまりの変わりっぷりに笑いながら何やってんのと言うと、彼女はニコニコと笑いながら何も言わずに少し恥ずかしそうにして通り過ぎていった。
それからは二度と彼女とは会うこともなく、どうしているかと言う話も聞く事は全くないのだけど、周りの誰かがどうすればいいかと頭を使って考えていれば彼女にも別の生き方があったのではないかと思う。
今回の赤ちゃんが亡くなった事件を、ネットで色々と意見を見てみれば、そういう状況になった人が行政に相談すれば、制約があっても生きていける道はいくらでもあると言うのにそれを知らない人は意外と多くいると言う意見も多くあった。
なんか悲しいよね。
などと金持ちが言う




