008.51 下を見れば、下がある
そこなしぬま
下を見れば底なしだったと気が付いたのはいつの事だったかと思う。
昔は普通に生きて普通に死ぬという事はそれほど難しい事ではなく、人生に山や谷はあれども、トータルすれば平均値に落ち着くだろうと考えていた。
だけども実際はその平均値というものからかなり下の方を、いつの頃からか地を這うように生きていたのである。
そこから這い上がろうにも、這い上がる為の足がかりなどというものは、おおよそ見当も付かずに見つけられないない状態である。
そもそも、そんなものなどは、存在していないと言う人もあるのだけれど、もはや捜していないと言って良いし、そう断言できる状態だ。
あきらめてしまえば、意外と居心地の良い場所だったりするのである。
人生には眠るための大地と、生きるために必要な最低限の食料があればいいのである。
人類総ホームレス時代の到来である。
ホームレス王に俺はなる。
「そんな事はどうでもいいです。それよりなによち、もう今日は限界れす!!」
僕の妄想をあっさりと聞き流した田所さんは涙目だった。
この春から正社員としての採用が決まっているのだけど、正社員になる前から、既に底辺企業の洗礼を受けている田所さんだった。
時刻は日付が変わって午前2時である。
朝の九時からが我が社の勤務開始時間であるのだけど、その一時間前には出社しているので、すでに勤務時間は18時間を超えている。
しかも、こんな日々が一週間も続いていれば、鬼百合のような田所さんでも未知の領域に踏み込んだ事への恐怖心と後悔で、涙目になるのは無理のない事だった。
試用期間中は午後五時の定時勤務だったのだけど、一年の中でも一番忙しい時期である三月末ともなれば、僕などより遥かに戦力扱いされている田所さんにも残業を求めるのは当然の成り行きと言えるだろう。
それでもさすがに期待の新人である田所さんに逃げられるのは会社にとってもマイナスである事は確かであり、その辺は融通を利かせるようにと言われていたのである。
早い話が、私が田所さんにもう今日は上がって良いよと言うのを忙しさの中で忘れていただけだったのである。
正社員にはまだなっていないので、勤務時間や休みの融通は自分でして良いよと田所さんも上層部から通達されていたのだけれど、午前2時近くにもなってまだ誰も従業員が帰っていない中で、言いずらかったらしい。
しかし作業に一日中集中し、画面に向き合っているという事だけでも彼女の心をすり減らせる。
まだまだ社会人として不慣れな中ではこの辺りが限界という事なのだろう。
僕も限界なのだけど、限界を超えてからが社畜の見せ所である。
「ごくろうさん。もう上がっていいからね。ほら、涙を拭いて笑ってごらん」
僕はそう言って、彼女にテッシュボックスを渡したのだった。
「なんかムカツク!!」
彼女は僕からテッシュボックスを奪い取ると、鼻をかみながらそう言って、僕に叩きつけて返した。
「もうこんな時間で、バスも電車もないから、タクシーで帰りなよ。明日、領収書をくれれば交通費は出るから」
「いいです。パパに電話して迎えに来てもらいます」
「そう言えば、むかし働いていた会社でね、新入社員の女の子が田所さんと同じように、何日も夜遅くまで働いていた事があったんだけどね。その女の子のお父さんから会社に電話があって、ウチの娘を何時まで働かせるんだ!!って、怒りの電話を入れてきたという事があったよ」
あえて「パパ」という部分には面白いから触れずに、僕はそんな体験談を話したのだった。
「パパ」という言葉もそうであるが、日常的に会話の中で解った事だが、どうやら田所さんはそれなりに裕福な家庭で育ったらしい。
そもそもこんな過労自殺の労災認定で有名になった某居酒屋チェーンより過酷な労働環境の会社で働く必要がないくらいだ。
田所さんは愛用のiPhonでお父さんに電話して迎えに来て欲しいと頼んでいた。
迎えが来るまでの少しの時間を私は休憩に当てる事にした。
「みなさん凄すぎます。こんな時間でも黙々と仕事をしているなんて。杉岡さんですら神々しく見えます。まるで地獄で鬼に追いつめられながら賽の河原で石を積み上げている赤子の亡者みたいです」
初めて田所さんに褒められて僕は気分を良くしながら言う。
「僕なんか大したこと無いよ。営業の袋崎くんなんかは身体壊して入院するまでの半年ほどは、月に160時間ぐらい残業をしてたからね。総労働時間じゃないよ、あくまで残業だけだからね。その他に休日出勤が40時間ぐらい」
「死んじゃうじゃないですか」
「まぁ、実際死にかけたんだけどね。それで、今は配置換えでそこまでの残業時間じゃなくなったんだ。かわりに上村くんがそこの得意先を回るようになったから」
「あぁ、上村さんていつも顔色の悪い人ですね」
「寝てないからね。それに行動がおかしいときがあって、それに気が付いた社長が心の病院に行くように言って見て貰ったら、鬱の気がありますとか言われちゃったりしてね」
「いつも何か捜してますよね」
「本人も何を捜しているかよく解っていないんだけどね。でも、大学を出た後、30過ぎるまで無職で親に食わせて貰もらっていて、やっと勤めた勤め先だから、辞めるという選択肢はきっと無いと思うよ。どんなに過酷でも」
そんな話をしている横を上村君がお疲れ様ですと言いながら通り過ぎた。
伝票の山をバサバサと捲りながら、やはり何かを捜しているようだった。
「春になって暖かくなってくると、ああ言う人が増えるよね。いきなり全裸になって泣き始める人とか」
「そう言う場合は救急車を呼んであげてください。でも、杉岡さんは仕事は出来ないし、遅いけれど、残業だけは得意ですよね」
「真実すぎて胸に何かが突き刺さったような気がするけど、残業は慣れだよね。もうこの業界で20年も働いていると、そんなに徹夜も苦にならなくなるよ。残業代も出ないから、あくまで無償作業なわけだし、定時勤務より気楽に出来るという考え方もあるよね」
「そこは責任感というものを持って仕事はしましょうよ」
「それが出来たら、こんな所にはいない!!」
僕はそう言って胸を張った。
「責任感まるで無しですね。それで社会人と言えますか?そもそも大人と言えるんですか?杉岡さんはきっと責任というものを持ちたくないから恋人もいなければ、結婚もしないのでしょう」
そう言われると身も蓋もなくて、M属性の僕としては嬉しくなって、涙を浮かべるくらいだった。
田所さんはまだ二十歳で、勤め始めた頃は専門学校に通っている学生さんだったが、無事に専門学校を卒業したのである。
正式に社員となるのは四月一日からではあるが、これまでは時給換算の定時勤務だったのが、残業解禁となった。
高卒で現場上がりの私とは全く別の生き物であると言って良く、パソコンを使った作業ではさすがに専門学校を出ているだけあって、ぜひ、土下座したいレベルである。
元々、女性社員がほぼいない職場であったので、職場に一輪の華が咲いたと言って良い。
まさに鬼百合のような人であったと言っておこう。
「そうそう、出来ないわけじゃなくて、しないだけなんだお」
「世の中には物好きがいるものですからね。私もけっこうダメ人間というのは嫌いじゃないですよ?母性本能をくすぐられるというか、きっちり矯正したくなります」
「それはそれで怖いね」
「プログラムとしては、まず私はダメ人間ですという言葉を狭い部屋に押し込んで、一万回言わせ、心の底から自分の事を認識してもらいます。もちろん、その間は食事もトイレもダメです。オムツを付けてもらいます」
「あぁ、それどこかの宗教団体がやってた洗脳みたいなものだね」
「次の過程では、私は真人間になりますと言わせた瞬間に額に付けた電極から電気ショックを与えて、身体に教え込ませますね」
「廃人コースだよ!!」
「すでに廃人と変わらないんですからいいでしょう?誰も困りませんよ?」
「まぁ、それはどうでもいいとして、田所さんもこれくらいで心が折れないでね? 僕は三日徹夜が続いたときは心が折れたけど、でもそれは永遠に続くわけじゃなくて、月に何度かある程度だから、経験値として乗り越えられると解っているので、心もそう簡単には折れなくなるから。諦めの極地だね」
「絶望しているだけじゃないですか。死に至る病です」
「あぁ、エヴァンゲリオンが流行ったときにそんなタイトルの本を読んだ事があるよ。意味が分からなかったけど」
「その時すでに二十代後半じゃないですか」
「うん。それまでは普通の二十代だったんだけれどね。アニオタの血が復活しちゃってね。もう大人買いの日々。旧劇場版は映画館で10回以上見たよ。で、パチンコにエヴァが登場して破産寸前まで追い込まれた。でもギャンブルじゃ自己破産できないんだけどねw」
「wじゃないですよ。どんだけ、のめり込んだんですか?本当にダメ人間ですね」
「田所さんも気が付いたら二十代半ばになって、気が付いたら二十代半ばになっていたとか言うんだよ。そしてもう三十だ。何もない十年だったとか言うんだよ」
「嫌すぎます!!でも、そのせいか杉岡さんもルックス意外を除けば今年で40には見えないですよ。もっと若く見えます。他の人たちも実年齢より若く見える人がこの会社は多いですよね」
「工場の山本課長とは前の会社から一緒で、もう二十年の付き合いだけど、二十年前とちっとも変わっていないんだよね。娘さんなんか僕が前の会社に入社した一年後に生まれたのに、もう高校を卒業してデパートで働いているからね。僕はこの業界を時の狭間と呼んでいる」
「社会の狭間でもありますけどね」
「例外的なのは取締役部長の坂本さんかな?若いときから白髪だったんだけど、子供が生まれたとき、病院で看護婦さんにお爺ちゃんですか?って言われたと言う。今は実年齢が容貌に追いついたけれどね」
「それはちょっと失礼ですね。せめてお父さんですか?って聞かないと」
「普通だよ。それにある意味失礼だよ!!」
その時ちょうど田所さんのiPhonが鳴った。
どうやら田所パパが会社の前に着いたようだ。
「そう言えば、田所さんのお父さんって、いくつなの?」
「45です。杉岡さんのたった五つ上です」
「若いなぁ。と言う事は、僕には15才の娘さんがいてもおかしくないんだなぁ。きっとお風呂も一緒に入っちゃうよ」
「普通じゃないですか?家族ですし」
「……え?じゃあ、田所さんは今でもお父さんと一緒にお風呂に入るわけ?」
「最近はパパが嫌がるから嫌がるから入りませんけど、高校生くらいまで一緒に入ってましたよ?ちなみに弟とは今でも入ってますけど」
「……そうか。弟は嫌がるだろ?」
「そうですけど、兄妹ですからね。チャックしないと」
「それを言うならチェックだよ!!だいたいナニをチェックするんだよ!?」
「ほら、悪い事していないかとか、成長しているかどうかとか?」
「もう、放って置いてあげて!!」
僕の涙ながらの訴えを聞き流しながら田所さんは笑顔で帰っていった。
世はすでに春である。
と言っても、僕の暮らす町は北国であって、冬の間に降り積もった雪が溶け、桜の花が咲き誇るまでにはまだしばらく時間がかかる。
今年の春は迎えられるとして、来年の春も田所さんがこの会社で迎える事が出来るかは解らない。
もちろんそれが悪い事だとは、人それぞれの人生であるから思わないし、むしろこんな状況下から早々に足を洗ったと言う事で良い事だと思うかも知れない。
それは全てが田所さんが決める事であって、僕が口を挟む事でもないのだ。
この会社で12年。
同じ業種の倒産した会社で8年。
合計二十回目の春を迎える事になる僕は、きっとあと20回後の春も同じようにこの会社で迎えるだろうと、何となく思ったのだ。
きょうくん
にじゅうねんごはむりだった




