白い家
外を眺めると、どんよりとした曇り空だった。雲の隙間からところどころ青空も見えてはいるが、遠くの山はぼんやりと煙っていて、もうすぐ雨が降り出すだろう。琴子は傘を持って家を出た。長袖のTシャツに厚いニットのカーディガンを羽織っていたが、思いのほか寒くて身体がキュッと緊張するのがわかった。10月ももう終わりで、確実に冬がそこまで来ていることを感じる。近くの電線にとまっていたカラスが1羽、鋭い声をあげて飛んで行った。
琴子の住むマンションの東側の地域は緩やかな坂道になっていて、そこを坂の上まで登って折り返してくるのを、琴子は毎日の習慣にしている。時間にして30分位の散歩だ。夏場は暑くてだめだったが、涼しくなった9月下旬頃から、大雨の日を除きほぼ毎日歩いている。医者から軽い運動を勧められたということもあるが、何より、風や季節の移り変わりを感じながらゆっくり歩くのはなかなか気持ちのいいものだった。とは言っても、初めから長い時間歩けたわけではない。最初は家から出るのでさえ苦労したし、外へ出ると足がすくんで動けなかった。それでもなんとか毎日外には出るようにして、最初は家の周りを1周することから始めて、体調を見ながら徐々に距離を伸ばしていった。
平日の午前の住宅街は、人気もなくとても静かだ。鳥の声と、近くを走るバイパスの車の音だけが聞こえてくる。民家の庭先の柿の木が熟した実をたくさんつけ、枝が重そうにしなっていた。少し歩くとぽつぽつと弱い雨が降り始め、琴子は持っていた傘を開いた。ゆっくりと坂を登っていくと、途中に建設途中の白い家があり、その家の前で数人の作業員の男が休憩をとっているのが見えた。皆手に缶コーヒーを持ち、その内の2人はタバコをふかしていた。1階部分がガレージになっている、3階建てで煙突のある美しい家だった。どんな人が住むのだろう。琴子がそう思いながらその脇を通り過ぎようとしたとき、ヘルメットを被った作業員の1人と目が合った。琴子は急いで目をそらし、傘で顔を隠しながら足早にそこを通り過ぎた。今の、あの人の目には自分はどう映っているだろう。琴子は思った。この道はほぼ毎日通るので、きっと何度かは見られているはずだ。出勤途中か、主婦の散歩か、それとも平日の朝からふらふらしているニートか。琴子が仕事をしなくなってから4か月が経つ。琴子は、どこにも属さない今の自分がとても身軽に思えたが、同時に、今の自分はなんだか皆とは違う世界に生きているような気がしていた。自分の存在がとても希薄で、どこかに飛ばされてしまいそうな、そんな心細さも感じるのだった。
坂の上で折り返し家に戻ると、部屋は暖房がきいていて暖かかった。
「ただいま。」ハルにそう声をかけると、嬉しそうに羽を震わせてから琴子に近づいてきた。ケージごしに嘴に触れると、ぴぃ、と小さく鳴いた。手を洗い、キッチンに行ってマグカップに紅茶のティーバッグを1つ入れ、ウォーターサーバーからお湯を注ぐ。出来上がった熱い紅茶を1口飲むと、さっきの不安な気持ちが少し薄らいだ気がした。マグカップを両手で包むように持って窓辺に行くと、雨がざあざあと音をたてて降っていた。