メールアドレス
「30分位、食事はしないでくださいね。お大事にどうぞ。」
午前中最後の患者の診療が終わり、琴子は使った器具を片付け始めた。今日はなかなか忙しかった。それほど大変な治療の患者はいなかったが、その分いつもより人数が多かった。ふぅ、と小さく息を吐いて、金属のトレーの上のガーゼ類を感染物用のゴミ箱に捨てる。就職したての慣れない頃は、この後片づけも手際よく出来なかったが、今は効率よく片付くように体が勝手に動く。あとは器具を洗って滅菌器に入れれば午前の仕事はおしまいだ。琴子はトレーにのせた器具を持って洗い場に向かった。その時、院長室の前に立っていた慎二に呼び止められた。
「琴ちゃん、携帯ってもってる?」唐突に慎二が尋ねた。
「はい、持ってます。」琴子が笑って答えた。今時、携帯電話を持っていないほうがめずらしい。
「メールアドレスおしえてもらっていい?」慎二が小声で尋ねた。
「えっ、あ、はい。いいですよ。」と琴子は答えた。あまりに突然の申し出に驚いて、思わず声が大きくなってしまった。
「あの、アドレス、紙に書いてきますね。」今度は小声で慎二に告げて、持っていた器具を片付けてから、ロッカーのあるスタッフルームに入った。心臓の鼓動が驚くほど早くなっていた。琴子はロッカーの前に座り込み、固まった様にしばし動きを止めた。これってどういう意味?アドレスって、みんなに聞いてるの?今先生と話してるの、誰も聞いてなかったよね?いろいろな思いが頭の中を駆け巡った。他のスタッフたちは琴子と慎二がいた場所から最も離れた受付に居たので、話は聞かれていなかったはずだ。早くしないと。はっと我に返り、琴子は自分のロッカーを開け、バッグの中から携帯電話を取り出した。アドレスを変えたばかりでまだ暗記していなかったので、ボタンを操作し、画面に表示させた。ポケットからメモ帳を取り出して、紙を1枚破って切り離しアドレスを書いた。書きながら、まだ琴子の胸はどきどきとして、手が少し震えていた。書き終えた紙をポケットに入れ、部屋を出た。他のスタッフたちは、相変わらず立ち話を続けている。琴子は内心かなり動揺していたが、それを悟られないよう、なるべくなんでもないような感じで、速足で院長室に向かった。
「書いてきました。どうぞ…」そう言って紙を渡すと、
「ありがとう。俺のはあとでメールするから。」と慎二は言い、それを受け取った。
それ以外の話は無く、琴子は院長室から出た。すぐに昼休みになり皆で昼食を食べたが、その間も琴子の頭の混乱は続き、箸が進まなかった。この人たちも、先生とアドレスの交換ってしてるのかな…それともわたしだけ…?胸のあたりがざわざわとして落ち着かなかった。弁当を半分ほど残して食べるのをやめた。
午後もそんな調子で、仕事に全く身が入らなかった。特に慎二の治療の補助につくときは、動揺を隠すのとミスをしないようにするのに必死だった。なんとか1日仕事を終えると、琴子はぐったりと疲れていた。
琴子が家に帰ると、杏子が夕飯の支度をしていた。
「おかえり。」ゆであがったほうれん草を鍋から上げながら杏子が言った。
「ただいま。」琴子は肩にかけていたバッグを下ろし、洗面所に向かった。
琴子はハンドソープで手を洗いながら、鏡で自分の顔をまじまじと眺めた。なんだか、今朝の顔と違っているような気がした。リビングに戻り、バッグから携帯電話を取り出しメールの履歴を見たが、慎二からのメールはきていなかった。
ベランダに出ると外はすっかり暗くなっていて、風がひんやりと冷たかった。マンションの前を、部活帰りの中学生たちが大きな声で笑いながら通り過ぎて行った。ぶるっと身震いをして、急いでハンガーから洗濯物をはずそうとしたが、全体的にあまり乾いていないようで、物干しごと部屋の中に取り込んだ。ばらばらっと音をたてて、ハンガーが2,3本床に落ちた。琴子は大きくため息を1つついて、それを拾い上げた。
少しすると雛子も帰ってきて、3人で夕食を食べた。今日は鮭の西京焼きとほうれん草のおひたし、それにがんもどきの煮物とさつま芋の味噌汁だった。甘い味噌汁を1口飲むと、身体が緩んでいくのを感じた。焼き魚の身を口に入れながら、ちらりと脇に置いた携帯電話に目をやった。メール、いつくるんだろ…食事をしていてもそのことだけが気になった。
食事を終え食器を片付けると、時刻は8時半を過ぎていた。琴子はソファーに座り、テレビをぼんやりと見ていた。もうすぐ9時になるころ、携帯電話の着信の音が鳴った。どきりとして急いで携帯を開きメールを見ると、『こんばんは。お疲れ様。』慎二からのメールにはそれだけが書かれていた。返信の言葉に迷ったが、とりあえず『こんばんは。お疲れ様でした。』とだけ打って送信した。
メールを返した後、琴子は顔が熱くなっているのを感じた。いやいや、アドレスなんてみんなに聞いてるのかもしれないし。でも、わたしだけだったら…もしかして、もしかして、これから、なにかが始まるのだろうか。琴子は慎二のメールアドレスを携帯に登録しながら思った。それからすぐに、また慎二からメールがきた。
『おやすみ。』