秋の日
琴子が勤める歯科医院は、診療室が大きなガラス窓に面していて、治療を受けながら、または治療をしながら、外の様子がよく見える。今は目の前の草むらに、コスモスの群生が風にゆらゆらと揺れていた。
この医院の院長である三波慎二はいつもとても忙しい。歯科医師会の理事になっていることもあり、頻繁に会議に出席したり、他県への出張も多い。もう51歳らしいが、いつ休んでいるんだろう。と、琴子はよく思っていた。
琴子は就職してしばらくの間、この院長が少し苦手だった。まず、琴子を「ことちゃん」と呼んでくる。(そう呼ぶのは院長だけでなく、ここの医院では皆がそう呼ぶのだが。)そして、スタッフの前ではいつもヘラヘラとしていて、その調子で琴子のプライベートについてもけっこう踏み込んでくる。琴子は自分の話をするのが昔から苦手だったし、そもそも、こんなに年上の人相手に、どんな風に会話をしたらいいかわからなかった。しかし、1年以上毎日一緒にいると付き合い方もわかってきて、話も自然にできるようになった。そして、いつもヘラヘラしている人だが、仕事に関してはまじめで決して手を抜かないということも知った。
医院から歩いて10分位のところに保育園がある。今日はそこでの歯科検診があり、慎二と琴子の2人で出向いた。それほど園児は多くないので、1時間ほどで検診は終わった。
「三波先生、今日はありがとうございました。次回は来年の春になりますね。またよろしくお願いいたします。」園長先生があいさつをして、2人は園を後にした。
住宅街の中を、2人は歩いて医院に帰る。9月ももうすぐ半ばで、ずいぶん涼しくなった。時折吹く風が、琴子の着ているカーディガンの裾をふわりと揺らした。
「琴ちゃん、知ってる?今駅から観光用のトロッコ列車出てるんだってさ。紅葉見ながら列車乗って、ラーメンでも食べてきたら楽しくない?」慎二が言った。
「へー、知らなかったです。いいですね。気持ちよさそう。」琴子が言った。
「琴ちゃんと一緒に行ったら楽しいだろうなぁ。」と、慎二が言うと、
「ははは、いいですよ!行きましょう、ラーメン!」琴子はなんでもなさそうに笑って答えた。
秋晴れの空は高く、トンボが1匹、2人の目の前をスーっと通り過ぎていった。
医院に帰ると、時刻は11時半を少し過ぎていた。今日の午前中は歯科検診のため休診になっているので、院内は静かだっった。昼休みは12時半からなので、琴子は持ち物を片付けたり、先輩の歯科衛生士に今日の検診の報告をしたりして過ごした。
昼休みは、6帖ほどのスタッフルームで昼食をとる。この医院のスタッフは琴子を入れて5人で、歯科衛生士が4人に、受付が1人。この5人が集まって昼食をとるわけだが、それぞれに役割分担がある。テーブルを拭く人、テレビをつける人、座布団を出す人、など。1番下っ端の琴子はお茶係になっている。ここでは、お茶出しは新人の仕事と決まっている。琴子が入ったばかりの頃は、お茶っ葉の適切な分量がいまいちわからず恐る恐るお茶を入れていたが、今はもう慣れた。
琴子はこの昼食の時間が苦手だった。これは1年経っても全く慣れない。琴子は、子供のころから大勢の人と話をするのが苦手だった。円滑に話せるのはせいぜい3人までで、それ以上になると自分が話すタイミングがうまくつかめなかったし、他の人の話に圧倒されてしまい声が出せなかった。この医院に就職してからもそれは同じで、話をふられた時以外は自分から声を発することはほとんどなく、昼休み中人の話にただただうなずいたり、笑ったりして過ごした。それがなんだか窮屈で、1時間半の昼休みが果てしなく長く感じるのだった。