夏の終わり
2004年、8月。琴子が地元の歯科医院に勤めて1年が過ぎた。
専門学校を卒業し、歯科衛生士として働いている。町の中心部に近いこの「三波歯科医院」は、院長が父親の後を継いでから15年になる。近くの会社に勤めている人や、院長の父親の代から通い続ける高齢の患者が多い。依頼があれば訪問診療も行っており、このごろ週1回はどこかの家に往診に行っている。
仕事にはだいぶ慣れてはきたが、まだまだ上手く出来ないことは多い。先輩に怒られることもしばしばだ。
「佐伯さん!さっきの時間かかりすぎ!患者さん疲れるでしょ!」
「はい、すみませんでした…」
「これ、この前も教えたよね?」
「はい、すみませんでした…」
毎日こんなことの繰り返しだ。
就職して初めて、琴子は母親以外の女に怒られる体験をした。中学時代の部活の顧問も怒りっぽい人だったが男だった。街中でたまに聞く怒鳴り声も男のものだった。なので、女がこんなに怒りっぽく、感情を露わにする生き物だということを初めて知り、衝撃を受けた。しかし、そういう女は結構たくさんいるらしい。特に、歯科医院のように女ばかりの職場には。
今日は仕事が休みで、琴子は専門学校からの友人の梨絵と会う約束をしている。場所はいつものファミリーレストラン。マンションを出て駐車場に向かう。この前の大雨を境に、連日の猛暑も落ち着き、空気にわずかだが秋の気配を感じるようになった。夏も終わりだな。そう思いながら琴子は車に乗り込んだ。
レストランに着くと、すでに梨絵は席に着いていて、携帯電話を見ていた。
「ごめん、ごめん。遅くなって。」琴子が足早に席に近づくと、
「全然。なんか早く着いちゃったから。」と梨絵が答えた。
琴子と梨絵は、ドリンクバーと、まだお昼前なのでとりあえずフライドポテトを注文した。
「仕事どう?」梨絵が訊ねる。
就職してから、2人の話題は仕事のことが多くなった。学生時代はお互いが好きなバンドのことや、観に行った映画のこと、次の連休はどこに行こうか、というようなことばかり話していた。2人はまだ若いが、今はすっかり大人の社会にいるのだ。いる、というか、飲み込まれたというか。
「仕事はさぁ、とにかく先輩が鬼。人には色々言うくせに、自分は苦手な患者さんから逃げたりさぁ。本当腹立つ!」琴子が答える。
「マジ?うちのとこもだよ。なんかやたら偉そうでさぁ。この前なんかガーっと上から言われて泣いたからね、わたし。」
最近こんな会話が多くなり、琴子は自分の心が以前よりも薄黒くなった気がしていた。元々、それほど明るくポジティブな性格ではないが、この渦巻くような暗い気持ちになる自分が、なんだか恐ろしかった。
フライドポテトをつまみながらとめどなく話をしているうちに、時刻は12時を過ぎていた。そろそろ昼ごはんを食べようと、メニューから琴子はチーズ入りのハンバーグのセットを、梨絵はオムライスを注文した。
「実はね、わたし今付き合ってる人がいて。」料理を待っている間、唐突に梨絵が打ち明けた。
「へ~!そうなの!どんな人?」琴子が訊ねると、少し照れたように
「果歩ちゃんの紹介で知り合ったんだけど、普通に会社に勤めてる人。4つ年上。」と梨絵が答えた。果歩も専門学校の同級生で、琴子も学生時代よく話をした。今はなんとなく疎遠になってしまったが。
「でね、その彼氏がね、毎日家に来るの。それで泊まってくの。ほんと、毎日。」ちょっと困った顔をして梨絵が言った。「だから毎日寝不足で。疲れてんだ。」
なにかの自慢とも捉えられるような話だが、梨絵は本当に疲れているように見えた。
「でも好きなんでしょ?」と琴子が問うと、
「…まぁね。」と梨絵が答えた。
梨絵が、なんだか急に大人の女のように思えた。