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ダニエルのお見合い  作者: 岸野果絵
五年後
9/12

タチアナの罪

「ダニエルくん。私、そろそろ行かないと」

 タチアナはそう言うと、ダニエルから離れようとした。

しかし、ダニエルの腕は離れなかった。


「タチアナさん。僕、幸せすぎてどうにかなりそうです」

 耳元で囁くと、タチアナの首筋に唇を這わせた。


「ちょ、ちょっとダニエルくん。どうにかならないで。お願いだから放して。私、結婚するって言ったわよ」

 タチアナはダニエルの唇から逃れようと、ダニエルの腕の中でもがいた。

ダニエルはそんなことは意にも介さないというように、タチアナを強引に組み伏せた。


「やめて。結婚するっていったら放してくれるって言ったじゃない」

 タチアナは強固に抵抗をし続けた。


「やっぱり……」

 ダニエルのため息がふってきた。

タチアナは驚いて動きを止める。

ダニエルはタチアナを解放すると起き上がった。


「僕、これでも幻術使いですよ。人を惑わす魔術の使い手です」

 タチアナはハッとしてダニエルを見上げた。

そこには静かなダニエルの瞳があった。

心の奥を見透かされそうな気がしたタチアナは、思わず目を逸らした。


 幻術といえば、一般的には視界をぼやかせたり、音の反響を操作したりするなど、視覚や聴覚を惑わす魔術だ。

霧の魔女・レイラはそれをさらに発展させ、人の心を操作する幻惑魔術を確立させた。

その危険性を認識していたレイラは、それを門外不出の秘術とし、愛弟子のニコラスにのみ伝授した。

 ニコラスはダニエルの師匠。

ニコラスの愛弟子であるダニエルが幻惑魔術を伝授されていてもおかしくない。

 幻惑魔術は人の心を操る魔術だ。

人の心を操るには、人の心の動きや習性等に精通しなくてはならない。

ダニエルが幻惑魔術をマスターしたとすれば、人の心に精通しているということになる。

 タチアナのその場しのぎの浅はかな嘘などは、端っからお見通しだったということなのだ。


「そんなに僕を追い払いたいんですか? それならそうと、はっきり言って下さったらいいのに、僕のことが嫌いだって。そしたら僕は大人しく引き下がるつもりでしたよ」

 口元に嗤いを浮かべながら、ダニエルはタチアナを見下ろした。


「ダニエルくん……」

 その悲しそうな瞳にタチアナは胸が詰まりそうになる。


「一つだけ教えて下さい。なぜ僕じゃだめなんですか? 僕がレオル先生じゃないからですか?」

 タチアナは驚いて、ダニエルの顔をまじまじと見つめた。


「すみません。僕、どうしても気になって、ディミトリアス先生にうかがったんです」

 ダニエルは目を伏せた。


「そう。知っていたのね……。なら、話は早いわ」

 タチアナは起き上がり、ダニエルを顔を真正面からみつめた。


「私の夫はレオルだけ。レオル以外の男性ひとなんて考えられない。レオルは私の全てなの。だから、ダニエルくん。あなたの気持ちにはこたえられない」

 タチアナはキッパリと言うと、右手を伸ばし、ダニエルの頬を包み込む。

ダニエルはその感触を味わうように、悲しそうな瞳のまま、うっとりとした表情を浮かべた。


「あなたは素敵な男性ひとよ。レオルに出会わなかったら、私、きっとあなたに恋をしたと思う。すぐにあなたに相応しい、若くて可愛い女の子が現れるはず。いいえ、もしかしたらもう現れているのかもしれないわね」

 タチアナはニッコリと笑いかけた。


 キッパリと断ち切って欲しい。

タチアナはそう願った。

ダニエルには、過去に捕らわれ、時間が止まってしまった自分のようにはなって欲しくない。


「わかりました。僕、今日のところは引き下がります。 でも、僕、諦めませんよ、あなたのこと。あなたが『うん』と言ってくれるまで、何度も求婚します。し続けます 」

「ダニエルくん。それは困るわ。私はあなたの気持ちにこたえるつもりは全くないのよ」

「分かってます。望みはないって。でも、僕は諦めません。僕、何度も何度もあなたを諦めようとしました。でも、諦めることができなかった。一目惚れだったんです。はじめてあなたをみたときに、僕、なぜか運命の人を見つけたって思ったんです。でも、あなたは大人すぎるくらい大人で、僕なんか相手にしてくれない。どんなに背伸びしてもあなたには届かない。5年前に、あなたに振られた時、僕、諦めるどころか、ますますあなたのことが好きになってしまって。だから、僕、決めたんです。あなたのことを諦めないって。いいんです。一生振り向いてくれなくても……」

 ダニエルは、真剣な眼差しで、じっとタチアナを見つめている。


「ダニエルくん……」

 タチアナはダニエルから目をそらした。


 ダニエルの真剣な想いを受け止めてやることができない自分がもどかしかった。

受け止めることができたなら、どんなにいいか。

でも、それはできない。


「僕、あなたに幸せになって欲しいんです。僕なら、あなたが幸せになるお手伝いができるはずです。僕はあなたのそばにいることができます。 僕、どこにも行きません。どんなことがあっても、必ずあなたの元に帰ってきます。他人のために自分の命を犠牲にするなんて、僕はそんな素晴らしい人間じゃありませんから。たとえ誰かを犠牲にしても、必ず生きて帰ってきます。僕はレオル先生と違ってそういう事ができる人間です」

 タチアナは胸をおさえてうつむいた。


 誰にでも優しいレオルが大好きだった。

他人のために、何のためらいもなく自分を犠牲できるレオルを尊敬していた。

勇敢で優雅で優しくて、まるでおとぎ話の王子様のようだったレオル。

あんなに素敵な男性はいない。

でも、その優しさと勇敢さが仇になった。

レオルがもう少し臆病だったら、優しすぎなかったら、あんなことにはならなかった。


「タチアナさん。僕、レオル先生みたいな愛し方はできないです。でも、僕なりに、生涯かけてあなたを愛します。幸せになって欲しいんです。きっとレオル先生だってそれを望んでらっしゃるはずです」 

「私は幸せよ」

 タチアナはポツリと呟くと顔をあげた。


「ダニエルくん。あなたは勘違いしてるわ。私は十分幸せなの。それに、あなたはレオルの何を知っているっていうの? レオルに会ったこともないでしょ? よく知りもしないくせに、分かったような口をきかないで。レオルのことを一番分かっているのは私よ。あなたになんか分かるはずないわ」

 強い口調でそう言うと、唇を噛み、ダニエルから顔を背けた。


 これ以上、触れてほしくなかった。

レオルはタチアナの人生の全てだ。

 本当はあの時、レオルが死んだと知らされた日に、タチアナも死ぬはずだった。

あの時、死んでしまえればどんなに楽だったか。

それを、レオルの父でタチアナの師であったレクラスに止められた。

レクラスは死ぬことをゆるしてくれなかった。

いつまでもレオルの死を受け入れず、魔術の訓練もしようとしなかったタチアナは、とうとうレクラスに破門を言い渡された。

それでもタチアナは、レオルを死に正面から向き合おうとしなかった。


 タチアナの肉体は今も生きている。

だが、心はあの時死んだのだ。

レオルと共に死んだ。

一度死んだ者は決して生き返ることはない。

タチアナの心も生き返ることはないのだ。

 これ以上、余計なことを言って、タチアナの死んだ心を揺さぶらないで欲しかった。


「確かに僕はレオル先生にお会いしたことはありません。何も知らない。でも僕にはレオル先生の気持ちだけはわかります。だって、僕もあなたを愛しているから。もし僕がレオル先生の立場だったら、僕のためにあなたが苦しむ姿なんて見たくない。愛する人が嘆き悲しむ姿なんてみたくない」

「やめて!!」

 タチアナは耳を塞いでうずくまった。


 もうたくさんだ。

そんなことは、とうの昔に気づいていた。

でも、気づいてないと思いたかった。

気づいたときには、受け入れることができないくらい、タチアナの心は固くなっていた。

 師・レクラスは何度もそう言ってくれていた。

しかし、タチアナは聞き入れることができなかった

レオルを失って一番辛かったのは父親であるレクラスだったのに、タチアナは自分のことだけしか見えず、そのことに気づくことができないまま、レクラスを逆恨みをして、ひどい言葉を投げつけた。

それでもレクラスはタチアナのことを心配して、実家を飛び出してしまったタチアナに、魔術師協会の事務局での仕事を世話してくれたり、住居を世話してくれたりと、いろいろと便宜を図ってくれた。

そこまでしてもらいながら、タチアナはお礼の言葉一つ言い出せないまま、和解することができないまま、レクラスは他界してしまった。


「私は取り返しのつかないことをしてしまったの。苦しまなければならないの」

 タチアナはうずくまったまま言った。


「なぜですか? どうして? レオル先生はそんなことを望んでいる筈はない」

 ダニエルは驚いたような声で、タチアナを覗き込んだ。


「いいえ、私はきっとレオルに嫌われているわ。だって、師匠にあんなひどいこと・・・・・・。気づいていながら、謝ることすらしなかった。私は恩知らず。幸せになっちゃいけない」

「そんなことありません。あなたは幸せになるべきです。幸せになることが、レクラス先生に対する恩返し」

「いいえ。きっと師匠は許してくれない」

 タチアナはダニエルの言葉を遮り、首を激しく左右に振った。


「タチアナさん。もしレクラス先生があなたを許さないのなら、破門しているはずです」

 ダニエルは軽く息をつくと、穏やかに諭すように語りかけた。


「ええ、そうよ。私は破門されたわ」

 タチアナは顔を上げずに即答する。


「それはおかしいですね。あなたはレクラス先生の弟子として名簿に記載されているはずです」

「あれはレイラ先生が間に入って、師匠を説得してくれたから」


 レクラスに破門を言い渡されたタチアナは、自暴自棄に陥り、家をも飛び出してしまった。

見かねた、レクラスの姉である霧の魔女・レイラは彷徨い歩くタチアナを見つけ出し、保護した。

そして、レクラスとの間に入ってくれて、タチアナは破門を免れることができた。

だが、タチアナは魔術の訓練を再開することはなかった。


「それは違いますね。本気で破門するつもりなら、たとえ身内に引き留められたとしても破門します。この業界、そんな生易しい世界じゃないですよ? それに、破門したい弟子を事務局においときます? そばにおいておきます? レクラス先生は会長だったんですよね?」

 ダニエルは問いかけたが、タチアナからの返答はなかった。


「僕、レオル先生のことは知りませんが、レクラス先生のことはよく知っています。レクラス先生は、そんな小さな方じゃない。それはタチアナさん、あなたの方がよくご存知のはずだ。レクラス先生は、最後まであなたの幸せを願っていらっしゃいました。そうでしょ?」

 タチアナは無言でうずくまったままだった。


「タチアナさん。もう逃げるのは止めませんか? 誰かのせいにして、自分の殻に閉じこもって。そうやって死ぬまで逃げ続けるおつもりなんですか? みんなの好意を振り切って、逃げ回って、後悔して、また逃げて……。誰もあなたの不幸を望んでいませんよ。みんなあなたに幸せになってほしい願っています。レオル先生もレクラス先生もレイラ先生も。ディミトリアス先生だって、とても心配なさってましたよ。あなたには分かっているはずです。そうでしょ?」

 ダニエルはタチアナの肩に手を置いた。

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