タチアナの思惑
「おはようございます」
突然背後から抱きすくめられ、タチアナは「ヒィ」と驚いた。
ダニエルが目を醒ます前に、こっそり抜け出そうという計画は、これで御破算となった。
「お、おはよう。ダニエルくん」
タチアナはどうしようかと考えあぐねながら、とりあえず挨拶をする。
「タチアナさん。僕、ちゃんと責任とりますからね」
予想外のダニエルの台詞にタチアナは「ええっ?」と驚きの声をあげた。
「責任? いいよ。気にしなくて」
ダニエルに背を向けたまま答える。
まともにダニエルの顔を見る勇気がなかった。
「そういう訳にはいきませんよ。こうなった以上、男としてちゃんと責任とらなくちゃいけません」
「いいってば。お酒の上でのことなんだから」
そう、これは酒の上での過ちだ。
タチアナとしては、昨夜のことはなかったことにしたい。
「そんなのは言い訳になりません」
「言い訳にしていいって。私がいいって言ってるんだからいいの」
「それは筋が通りませんよ。経緯はどうであれ、結果は結果として、きちんとけじめをつけなければいけません」
「そんなに堅く考えなくっていいから」
タチアナはため息をついた。
こういう時に真面目な人間は厄介だ。
この状況はタチアナの方が体裁が悪い。
どっからみても、タチアナは若い男をつまみ食いしたババア。
どうやらダニエルはそこのところを理解していないようだ。
「タチアナさんは僕のこと、お嫌いなんですか?」
「そういう訳じゃないけど……」
どのように言ったらダニエルを追っ払えるのか、タチアナは二日酔いで痛む頭を懸命に回転させていた。
「僕を弄んだんですね・・・・・・」
ダニエルの一言に、タチアナはギクリとした。
「弄ぶって……」
冷や汗が噴きだす。
「責任とって下さい」
「はぁ?」
「僕を弄んだ責任をとってもらいます」
「なにそれ」
先ほどまでとは正反対の展開にタチアナは戸惑った。
訳が分からない。
もしかしたら、ダニエルののほほんとした雰囲気に騙されていたのではないか。
タチアナは背筋が寒くなった。
「僕、ちゃぁぁんと覚えてますよ。昨夜のこと」
「え?」
「誘ったのはタチアナさんの方でしたよね?」
「えっと、それは……」
できれば思い出したくない出来事が、タチアナの脳裏に蘇る。
たしかに、バーに誘ったのはタチアナだ。
そういえば、自宅に送ってもらった際に、先に手を出したのも、残念なことにタチアナだった。
言い逃れできない。
「僕の気持ちを知っていたくせに、あんなこと……」
「いや、だから、それは、なんていうか、勢いで……」
そう、あれは完全に酔った勢いだ。
お酒とそして素晴らしい舞台に酔ってしまっていたのだ。
「タチアナさんは、勢いで男を連れ込む方なんですか?」
「違うわよ」
タチアナは即座に否定した。
いくらなんでも、そこまでふしだらではない。
「なら、僕のこと好きだったんだ」
「どうしてそうなる?」
ダニエルの言っていることが、さっぱり分からなかった。
どこをどう解釈すれば、そういう結論に達するのだろうか。
それに、なんでそんなに自信満々に断言できるのだろう。
タチアナはそんなことは一言も言っていない。
多分、言ってないはずだ。
「やっぱり僕のこと好きだったんですね。だからあんなに激しく乱れて……」
「ちょ、ちょっと待って」
これ以上、昨夜の失態をぶちまけるのは勘弁してほしかった。
タチアナはダニエルの口をなんとか塞ごうと、くるりと身体を反転させ、手を伸ばした。
ダニエルがタチアナの手首をガシッと掴む。
「僕、しっかり覚えてますよ。タチアナさんが僕にしがみつきながら言った言葉を」
そう言って、ダニエルはニヤリと艶を含んだ意味深な笑みを浮かべた。
タチアナの脳裏にうっすらと記憶がかすめ、タチアナは眉間にしわを寄せる。
「あ、あれは、その……」
「その、なんです?」
至近距離でダニエルに問い詰められ、タチアナは口ごもった。
ああいう状況での台詞を引き合いに出すのは反則だ。
「タチアナさん。往生際が悪いですよ」
ダニエルはタチアナの額に自分の額をくっつけて、ささやくように言った。
「ダニエルくん。あんた、けっこう性格悪いわね」
タチアナは至近距離のダニエルの瞳を半眼でにらみながら、低い声で言った。
「気づいちゃいました?」
ダニエルは額を離すと、クスリと笑った。
「気づいちゃったって、あんた……」
「タチアナさん。僕の師匠は、あのニコラス先生ですよ?」
悪びれもせずに言うダニエルに、タチアナは絶句状態になった。
灰色の道化師・ニコラス。
魔術師協会きっての変人師範魔術師。
その乞食のような格好も個性的だが、口を開けば相手を自分ペースに誘い込み、まんまと金品をだまし取る、天才詐欺師でもある。
何度も逮捕されたこともあり、協会としても扱いに苦慮しているニコラス。
ダニエルはそのニコラスの愛弟子だった。
あの変人と渡り合えるのだから、ダニエルも普通の神経の持ち主ではないのかもしれない。
とんでもない男に手を出してしまった。
タチアナは激しく後悔したが、今さらどうにもならない。
とにかく、なんとか言いくるめて丁重にお引き取りを願おう。
「僕、師匠に似て、一度手に入れたモノは絶対に手放したくない性質なんです。だから、もうあなたを放しませんよ」
ダニエルはそう言いながら、すかさずタチアナの背中にまわした腕に力を入れる。
「そんなことを堂々と宣言されても・・・・・・」
半ば呆れながらも、タチアナは一生懸命頭を動かしていた。
気をつけなければならない。
相手を唖然とさせて自分のペースにのみ込んでいく手法は、ダニエルの師・ニコラスの常とう手段だ。
気を抜けば、こちらがまるめこまれてしまう。
「タチアナさんが僕と結婚してくれるって言うまで、絶対放しません」
ダニエルのいきなりの飛躍に、タチアナは軽い眩暈を覚えた。
「困るって。仕事に行かなきゃ」
適当な理由をつけて何とか逃げようともがいたが、ダニエルはタチアナをしっかりとホールドして離さなかった。
「ダメです。どんなに頑張っても、僕をふりほどくなんてできませんよ。僕のが力も魔術も上なんですから」
確かにダニエルの言う通りだった。
男性の腕力に敵うはずはなかったし、師範魔術師であるダニエルに、25年以上も訓練をほとんどしていない、上級魔術師のタチアナが勝てる筈もなかった。
「それって脅迫・・・・・・」
「はい、脅迫です」
あっさり肯定され、タチアナはガックリと脱力した。
「私はダニエルくんよりもずっと年上。お母さんぐらいの年だよ。今はまだおばちゃんだけど、すぐにおばあちゃんになるわ」
「心配はいりません。僕の初恋はレイラ師匠ですから」
最後の抵抗を試みたタチアナだったが、あっさり潰された。
霧の魔女・レイラはニコラスの師匠だ。
ダニエルが入門した時点で、レイラはすでに70歳を超えていたはずである。
おそらくダニエルは、70代もストライクゾーンだと言っている。
タチアナは完全に手詰まりとなった。
ダニエルには何を言っても通用しない。
5年ほど前のダニエルとはまるで別人のようだ。
あの時はいとも簡単にあしらえた。
だから、今回も何とかなるとタカをくくってた。
一晩だけ、甘い夢を見させてくれればいいと、そう思っただけだ。
もう夜は明けた。
夜が終われば夢はさめるはずだった。
「分かった。観念するわ……」
タチアナはため息まじりに言った。
「タチアナさん。僕と結婚してくれるんですね」
ダニエルは明るい声を出す。
「ええ。するわ。結婚してあげる」
タチアナは顔を上げ、ダニエルの額を上目づかいで見つめ、恥じらうように視線を落とした。
そして目を閉じ、その胸に額をよせた。
「僕、一生かけてあなたを大切にします」
ダニエルは感極まったように言いながら、タチアナをぎゅっと抱きしめ、その髪に顔を埋める。
「嬉しい……」
甘えるようなささやき声を出しながら、タチアナの胸の奥がチクリと痛んだ。
出来ればこんな手は使いたくなかった。
後できっと恨まれるだろう。
でも、仕方ない。
とりあえず、今の状態から抜け出さなかければならない。
解放してもらうには、この方法しか思い浮かばないのだ。
分かっている。
悪いのはタチアナだ。
ダニエルには何の非もない。
過ちは昨夜ではない。
そもそも、5年前にあんな風に適当にあしらってしまったのが悪かったのだ。
あの時、ダニエルの告白はダニエルの本心であると、タチアナには分かっていた。
それなのに、ダニエルがお世辞で告白してると勘違いをしたフリを装った。
分かっていていながら、分からないフリをした。
タチアナは逃げたのだ。
真正面から向き合うのが億劫だった。
若い子は熱しやすく、冷めやすい。
歯牙にもかけない態度をとれば、そのうち飽きてくれるだろうと、甘く考えていた。
だが、違った。
ダニエルは本気だった。
あれからもずっとタチアナのことを想い続けていたのだ。
きちんと決着をつけてあげるべきだった。
タチアナはダニエルのことが嫌いではない。
好きか嫌いかと問われれば、好きだと答えるだろう。
ダニエルことは、初級魔術師の頃から知っている。
真面目で一生懸命で、大抵のことはそつなくこなすが、のんびりとした抜けたところがあり、そこがかわいかった。
気性は穏やかで、声を荒げた姿はみたことがない。
そんな優しいダニエルの心を、タチアナはまた傷つけてしまうことになるだろう。
申し訳なかった。
こんなに自分を慕ってくれているのに。
おそらく、この先、もうまともに言葉を交わすことはないだろう。
タチアナはダニエルのぬくもりを手放し難くて、しばらくの間、しがみつくように、ダニエルの胸に顔をうずめていた。




