観劇の夜に 後編
「今日はありがと。気をつけてね」
「はい。では」
「うん。またね」
タチアナはゆらゆら揺れながら手を振った。
ダニエルは軽く会釈をしたあと、元来た道を戻ろうとしたが、なんとなく心配で振り返った。
とっくに家に入っていると思っていたタチアナは、まだドアの前に立っていた。
不思議に思って、じっくりと様子をうかがうと、何やらバッグの中をごそごそとやっている。
「タチアナさん、どうかしたんですか?」
ダニエルはタチアナに近づいて声をかけた。
「んー。鍵が見つかんなくて」
タチアナは揺れながら、バッグの中を掻きまわしている。
「鍵ですか?」
ダニエルの問いに、タチアナは「うん」と頷いた。
「いつもはここにいれてるんだけど、おっかしいなぁ。無意識にどっかに入れちゃったのかしら」
「バックの中身、出してみたらいかがです?」
「そうね。ちょっとこれもってて」
タチアナはバッグの中からポーチを取り出す。
「わかりました」
ダニエルはそれを受け取ったが、その後もハンカチや懐紙など次々に持たされた。
「みつかりました?」
しばらくたってから、覗き込むようにしてタチアナに尋ねる。
「んー。ない。どうしてぇ」
タチアナは真っ赤になって、泣きそうな声を上げた。
「ちょっといいですか?」
ダニエルはそう言って手を出した。
「うん。お願い」
タチアナは素直にバックを渡し、引き換えに中身を受け取った。
「これです?」
ダニエルはバックの中から鍵を取り出すと、確認するかのようにタチアナにみせた。
「えー。どこにあった?」
タチアナが覗き込む。
「ここに」
ダニエルはバックの中にあるポケットに指をいれてみせた。
「うそー」
タチアナは信じられないというように目を見開いた。
「本当です」
「そこ、何度もみたのに……。あ、ありがとね」
「はい」
ダニエルはニッコリ笑うと、タチアナに鍵とバックを渡す。
タチアナは受け取ると、バックの中に無造作にモノをつっこんだ。
そして鍵を構えると同時に、バックを手放した。
ダニエルは驚いてバックを拾い上げる。
タチアナは気にも留めずに、揺れながら、鍵穴に向かって鍵を差し込む。
「うーん」
タチアナは眉間にしわを寄せながら唸った。
「タチアナさん? 大丈夫ですか?」
「入らない……」
「え??」
ダニエルは思わず聞き返した。
「何で逃げるのよ!」
タチアナはドアに向かって鍵をつきだしながら怒鳴った。
「タチアナさんが揺れてるんですよ。大丈夫ですか?」
ダニエルは、盛大に揺れながら怒っているタチアナに冷静に声をかけた。
しかし、タチアナはまるで聞こえていないかのように「むー」と憤慨しながら鍵を何度もつきだしていた。
「僕が開けましょうか?」
ダニエルがそういうと、タチアナは頬を膨らませ、ドアを睨んだまま、鍵をダニエルの前に出した。
「承知しました」
鍵を受けとったダニエルは、タチアナと場所を交換した。
そして鍵を開けて、ドアが開くことを確認し、振り向いた。
「タチアナさん、開きましたよ」
「んー」
タチアナはドアの横の壁に寄りかかって目をつぶっていた。
「ダメですよ、そんなとこで寝ちゃ」
ダニエルは声をかけながら、タチアナの肩を抱き、ドアの前に誘導する。
「ドア開けますよ。どうぞ」
ゆっくりとドアを開け、タチアナから手を離した。
タチアナはそのまま中に入ると、玄関にドサッと前のめりに倒れ込んだ。
「ちょ、タチアナさん」
ダニエルは仰天してタチアナのそばに屈んで様子を確認する。
タチアナは目をつぶったまま、気持ちよさそうに何やら「むにゃむにゃ」と口を動かしている。
ホッとしたダニエルはタチアナの肩を叩いた。
「そんなとこで寝たら風邪ひきますよ」
タチアナは薄目を開けてニッコリ笑って、再び目を閉じてしまった。
「タチアナさーん。起きて下さい」
ダニエルは耳元で少し大きな声で優しく呼びかけた。
「んー」
タチアナはゴロンとひっくり返って仰向けになると、薄目をあけて口をとがらせた。
「ムリぃ。動けないぃ」
「しょうがないですね」
幼い子どものように甘えた声を出すタチアナに、ダニエルは肩をすくめて、息を吐いた。
「僕、上がっちゃいますよ。お邪魔します」
「どーぞ」
返事だけはきちんとするタチアナに苦笑を浮かべながら、ダニエルはタチアナの身体の下に腕をいれて抱え上げた。
「世界が揺れてるぅ。アハハ」
タチアナは宙に浮いた頭と腕をゆらゆら揺らしながら、楽しそうな声をたてた。
「タチアナさん。大人しくして下さい。どちらに運べばいいんですか?」
ダニエルは引きつった笑いを浮かべながら、揺れるタチアナが落ちないようにしっかりと抱えた。
「右のドア、あ、左かな? 逆さまだからわかんなーい」
タチアナは頭を仰け反らしたまま、「キャハハ」と上機嫌に笑った。
「……僕、帰っていいですか?」
ダニエルはジト目になった。
「ダメ。帰っちゃイヤ」
タチアナはそう言うと、ダニエルの首に両腕を絡み付け、満面の笑みを浮かべた。
酔ったせいか目元は少し朱く染まり、濡れ光った瞳は、まるで獲物を狙う獣のようだった。
「タ、タチアナさん?」
戸惑うダニエルにタチアナの顔が近づいていく。
少し開いた唇の間から、紅い舌先がチラリと覗いている。
「ちょ、ちょっと待っ」
ダニエルは逃れようとしたが、両手を塞がれた状態で、どうすることもできなかった。
二人の唇が重なる。
「はぁん。ごちそうさま」
タチアナは口を離すと、艶やかな瞳でダニエルをじっと見つめて、にやりと笑った。
ダニエルは甘い吐息をついた。
「ダメですよ、タチアナさん。僕、送り狼になっちゃいますよ?」
クラクラしながらも、なんとか理性を保とうと、ダニエルは冗談めかしていった。
「なっちゃっていいわよ」
タチアナは妖艶な笑みを浮かべると、再びダニエルの口を吸った。
「んんっ。素敵よ、ダニエルくん」
うっとりとした表情を浮かべながら、悩ましい吐息をつく。
「タ、タチアナさんっっ」
ダニエルの理性は一気にはじけ飛んだ。




