結末
「私、怖いの……」
タチアナは小さな声で呟いた。
「私、レオルの顔も声もほとんど思い出せないの。あんなに大好きだったのに……。このまま忘れちゃうんじゃないかって。いつか本当にレオルのこと忘れてしまうんじゃないかって。怖くて怖くて……」
シーツをギュッと掴み、声を震わせる。
ダニエルはうずくまるタチアナの肩をそっと抱いた。
「タチアナさん。僕に話してくれましたよね? はじめて歌劇に行ったときのこと。恋人が連れて行ってくれたって。それってレオル先生でしょ?」
優しく問いかけると、タチアナは「そうよ」と頷いた。
「昨夜と同じ『落日のラステルーム』。その時のミルレット姫役はどなたでした?」
「ロザーリア」
「ベルマン将軍は?」
「クリストフェル」
「すごい。ゴールデンコンビですね。もしかしてあの『ラステルームの落日』ですか?」
感嘆するような声を上げ、ダニエルはタチアナを覗き込んだ。
「そうよ。ロザーリアの出世作。あの舞台で彼女はトップスターに躍り出たの」
タチアナはムクリと起き上った。
「素晴らしかったわ。ロザーリアのアリア」
胸に両手をあて、思い出すかのように目を閉じて、うっとりとした表情を浮かべながら、タチアナは続けた。
「静まり返った客席には、啜り泣きだけが聞こえていたの。終わった後もしばらく立ち上がることができなかった。あの時の指揮はジャンマリア。彼もまだ新人だったのよ。レオルがね、ジャンマリアに注目してて。いい舞台になる予感がするから見に行こうって。それで一緒に行ったの。お席もいいお席でね。なかなか取れないわよ、あの席は。ほら、一番音がよく調和するっていわれてる・・・・・・」
タチアナはそこまで言うとハッと目を開けた。
ダニエルが「クスクス」と忍び笑いをもらしていたからだ。
「ダニエルくん?」
「覚えてるじゃないですか、ちゃんと。座席までしっかり」
笑いながらダニエルが言った。
「え?」
ダニエルの言っている意味か分からず、タチアナはキョトンとした。
「レオル先生との初めてのデートはどこでした?」
「ローイリアム」
頭に疑問符がわいた状態なのに、当然のようにに問いかけられ、タチアナは思わず即答する。
「ローイリアムかぁ。確か、あそこって大きな湖がありますよね。もしかしてボート乗ったりしました?」
詠うようにゆったりと語りかけられて、タチアナの脳裏にあの日の懐かしい日が、まるで昨日のように蘇ってくる。
晴れ渡った青空。
キラキラ光る湖面には、何艘ものボートが浮かんでいた。
穏やかな風が、タチアナの長い髪を揺らしていた。
「ええ。乗ったわ。レオルが漕いでくれてたんだけど、私が漕ぎたがったんで代わってくれたの。でもね、ちゃんと漕げなくって、その場でぐるぐる回っちゃって。レオルったら大笑いしちゃって・・・・・・」
タチアナは両手を合わせて口元にもっていき、小首を傾げ、はにかみながら微笑んだ。
「妬けるなぁ。今、僕、レオル先生に嫉妬しちゃってます。そんなに可愛らしく微笑むタチアナさんなんて、はじめて見ました。全然忘れてないじゃないですか。その時のお気持ちまで、しっかり覚えてらっしゃる」
ダニエルの質問の意図をなんとなく分かりかけたような気がしたタチアナだったが、まだスッキリしなくて、首をかしげた。
「もっと確認しましょうか? 初めてのキスは?」
ダニエルは、ニヤニヤしながら、タチアナを覗き込んでくる。
「もうやめてよ」
タチアナは真っ赤になって、ダニエルを軽く押しのけ、ダニエルのクスクス笑いに、不快感たっぷりの瞳で抗議した。
「覚えてるんですね? 何一つ忘れてないじゃないですか」
ダニエルはふと真剣な顔になった。
「僕、レイラ師匠の顔も声も全然覚えていませんけど、一度も忘れたなんて思ったことないですよ? だって、レイラ師匠が僕に教えてくださったことは、しっかりと覚えてますから。魔術も音楽も、物事のとらえ方も・・・・・・。今の僕、それからうちの師匠だって、レイラ師匠がいたからこそ今がある。レイラ師匠は僕の中で生きていらっしゃいます。レクラス先生もそうですよ。僕が出会った方々は大なり小なり、僕に影響を及ぼしています。たとえ意識にあがってこなくても、僕の中に何かしらのものを残してくれています。タチアナさんはレオル先生からたくさんのモノを受け取ったはずです。そしてそれは消える事は無い。あなたが生きている限り、あなたのどこかに存在する。あなたは決してレオル先生のことを忘れることはありません」
「ダニエルくん・・・・・・」
目を見開いて見つめるタチアナに、ダニエルはニッコリと笑いかけた。
「タチアナさん。もう他にはありませんか? 僕、あなたが何を言っても論破しますよ。そろそろ観念したらどうなんですか?」
タチアナは考え込むように視線を落とした。
不思議だった。
25年以上もの歳月をかけて、複雑に絡み合ってもつれていた糸が、いとも簡単にほどかれてしまった。
あまりにもあっさりしすぎていて、なんとなく釈然としない。
25年というのはそれくらい長い年月だった。
「タチアナさん。僕、実はレオル先生の生まれ変わりなんです」
突然、ダニエルがひどく真面目な顔をしていった。
「はぁ??」
なんの脈絡もなく飛び出した荒唐無稽な言葉に、タチアナは素っ頓狂な声を出した。
意味が解らない。
どうやったら、この流れで「生まれ変わり」という言葉が飛び出てくるのか見当もつかない。
おとぎ話や、三文芝居じゃあるまいし、いい歳をして「生まれ変わり」などとは、ダニエルは冗談でも言っているつもりなのだろうか。
冗談にしても、笑えない冗談だ。
「だって、僕、レオル先生が亡くなった後に生れたんです」
「それはそうだけど・・・・・・」
確かに、今年25歳になるダニエルはレオルが亡くなった翌年あたりの生まれだ。
だからといって、それが証拠になるわけではない。
そんなことが証拠になるとしたら、この世はレオルの生まれ変わりで溢れてしまう。
「それに、僕、タチアナさんを一目見た瞬間に運命の人だって思ったし。ね? 辻褄が合うと思いませんか?」
「それって、ただのこじつけ・・・・・・」
タチアナは唖然としながら眉根を寄せた。
「事実は小説より奇なりっていいますよ? 僕、あなたのために生れてきたんです」
ダニエルは自信たっぷりと言わんばかりに胸を張る。
「はぁ・・・・・・」
タチアナはどう対処していいのかわからずに、少し引き気味になった。
「タチアナさん。これで納得しちゃいましょう」
ダニエルはニカッと笑って、タチアナの両肩をガシッと叩いた。
タチアナは真意を窺うようにダニエルに瞳をまっすぐ見つめる。
ダニエルは口元をほころばせてはいたが、瞳の奥は真剣そのものだった。
二人はしばらくじっと鋭く見つめ合った。
「あなたには勝てないわ」
タチアナは「フッ」と笑った。
完敗だった。
荒唐無稽な「生まれ変わり」ではあったが、それがあることは誰も証明できないし、ないことも証明できない。
ダニエルが「レオルの生まれ変わりだ」と言い張っても、それを否定する根拠はない。
嘘か真実か、タチアナには判断できない。
ダニエルは、タチアナが拒む理由を潰すだけでなく、受け入れる理由まで強引に作ってしまったのだ。
「当然です。だって僕、あなたにふさわしい男になるために、うちの師匠の容赦ない修行に耐えきりましたからね。血反吐を吐くどころじゃなかったんですよ。精神が崩壊する一歩手前まで行きました。同世代の師範の中で、僕ほどきつい修行をした人はいないんじゃないかなぁ」
ダニエルは腕を組んで尊大に豪語した。
「ダニエルくん・・・・・・」
タチアナはこそばゆいような不思議な心持ちでダニエルを見つめる。
「ご褒美貰わないと、僕、かわいそう。そう思いませんか? ねぇ、タチアナさん」
ダニエルはニッコリと微笑むと、いきなりタチアナを押し倒した。
突然の出来事に、タチアナは一瞬茫然としたが、慌ててダニエルを押しのけようともがく。
「ちょちょっと、ダニエルくん、ダメだって。今日は」
「定休日です。僕、事務局の定休日くらい知ってますよ」
「うっ」
ダニエルは意地の悪い笑みを浮かべた。
「タチアナさん。僕、もうあなたのウソには騙されません。今日は許しませんからね」
そう宣言すると、タチアナの首筋に唇を這わせる。
タチアナは抵抗せずにゆっくりと目を閉じた。
完全に逃げ道を封じられた。
いい加減観念しよう。
ダニエルはここまでお膳立てをしてくれたのだ。
自分の気持ちに素直になる最後のチャンスなのかもしれない。
「ダニエルくん。私をしっかり捕まえておいて」
タチアナはしがみつくようにダニエルの背中に手をまわす。
「タチアナさん……」
甘い吐息を吐きながら、ダニエルはタチアナを強く抱きしめた。
「逃しませんよ、僕。絶対に離しません。死ぬまで離さない」
「嬉しい。好きよ、ダニエルくん」
「あぁタチアナさん。やっと言ってくれましたね。僕、幸せ」
ダニエルはぽわーんとした声でそう言うと、タチアナの髪に顔をうずめた。




