君は……今まで幸せだったか?
〝一人でも大丈夫よね〟
今よりずっと子供だった僕は顔を上げ、いつも頷いていた。
休日出勤の母さんはそんな僕の様子を見て優しく頭を撫でる。
それは聞き分けの良い僕へのご褒美だったのか、不安そうな僕を安心させるためのものだったのか、よく分からなかった。
僕はよく、一人で留守番をした。
そんな日は決まって録りためておいたアニメを見た。それはオンエア時にも観たもので、僕は先の展開も敵の黒幕が誰かも知っていた。
アニメを見ながらお絵描きしていたこともある。オモチャで遊んで部屋を散らかしたら、母さんにこっぴどく怒られたこともあった。テレビを点けっぱなしにして、いつの間にか寝てしまったことなんて日常茶飯事だった。
僕はアニメを見続けた。いいかげん飽きたら、適当にテレビでやっていた番組を見た。面白くなくても見続けた。
この感情の正体を僕は知らなかった。
一人でいるときに訪れるこの気持ちの名前を僕は知らなかった。
別に〝苦しい〟とは思わなかった。悲しくて悲しくて泣きたくなる訳でもなかった。
だってこの感情はやり過ごすことができたから。
もう慣れてしまっていたから……
首に熱い何かが触れて、僕は驚いて振り向いた。
薄らと明るくなり始めた空を遮ったのは、真っ白な包帯を巻いた球体だった。
「コーヒー、飲めるか?」
包帯男はそう言って缶コーヒーを僕に差し出す。
僕は黙ってそれを受け取ると、冷え切った両手を温めた。
「……アイツはどこ行った?」
「帰っちゃいましたよ」
「帰った?!!?!!」
包帯男は素っ頓狂な声を出し、次の瞬間には溜息をついた。
「なんて自由なやつなんだ……」
そう呟くと包帯男は口元まで包帯を取る。そして小脇に抱えていたペットボトルを取り出すと、片手でキャップを開けて飲み始めた。脇にはもう一つペットボトルと車を降りたときには持っていなかった大きな白い箱が抱えられている。
「……メロンソーダありましたか?」
「いいや……なかったから俺と一緒のコーラにしといたんだがな……」
「コーラ!?!!」
僕はまじまじと包帯男のペットボトルを眺める。
「……僕もコーラが良かったです」
「……体に悪いからダメだ」
……誘拐犯に体の心配されたんだが、どうすればいい。
「砂浜に座ったら制服が汚れるんじゃないのか?」
「僕もそう思います」
包帯男がじゃあ何で座っているんだとでも言いたげな視線を送って来る。僕はそれを無視して仕方なく缶コーヒーのプルタブを開けた。口に入れたコーヒーは思ったよりも苦くて、少しだけ顔を顰める。
包帯男は車の中同様、必要以上にしゃべろうとはしなかった。
夜は次第に明け始め、赤焼けが水平線を燃やす。
「……なあ、一日っていつから始まると思う?」
唐突に包帯男は呟いた。
「一日は午前零時に始まると思うか?」
僕は隣に立つ包帯男を見た。……いいや、もう包帯男ではなくなっているのかもしれない。だって彼はコーラを飲んだ瞬間から解いた包帯を戻そうとはしなかったのだから。
海から風が吹いて、僕の前髪を揺らす。朝日は自分の存在を誇示するのかのように爛々と、僕の横顔と包帯男の顔を照らした。
「一日は……今日という日は今始まったんだと……そうは思わないか?」
「どうしたんですか? ……なんかセリフが寒いですよ」
「ハハッ、それもそうだな。俺はつくづく映画の観すぎなんだろう」
包帯男はそこで初めて笑ってみせた。
「どうしてアイツがいなくなった時点で逃げなかったんだ?」
〝もう少しだけ先輩に付き合ってやってくれ〟
「……なんとなく……です」
「そうか……」
僕は視線を前方に戻す。太陽が海を照らしてキラキラと光っていた。
「なあ……君に一つ訊きたいことがあるんだ」
包帯男はそう呟くと、また押し黙る。その態度は、中途半端に包帯を取った姿のように何かを躊躇っているみたいだった。
「君はさ。君は……今まで幸せだったか?」
幸せ。
母さんの優しい笑顔を思い出した。
しあわせ。
一人で留守番しているときの、止むことのないテレビの音を思い出した。
シアワセ。
学校の友人や、演劇部の部長のことを思い出していた。
「……誘拐犯にそんなこと訊かれるとは思いませんでした」
僕はそう言ってちょっと笑っていた。
「幸せだと思います。少なくとも、自分が不幸だなんて思ったことはないです」
初めからなかったものを、欲しいとは思わなかったから。
「そうか……」
太陽は昇り切っていて、空は清々しいまでの青色をしていた。
今日はきっと晴れになるだろう。
「……やっぱり、君を誘拐したのは間違いだったんだな」
包帯男はそう呟く。一部しか表情は見えなかったが、なんだか悲しそうに見えた。
「……僕じゃなくても誘拐しちゃだめですよ」
僕はそんな包帯男を睨み付ける。全くこんな訳の分からない奴、母さんがここにいたら……
「タケル! タケル! どこにいるの?」
最初、幻聴なのかと思った。だって車で一晩中移動していたんだ。ここに母さんがいるはずがない。いるはずないのに!
「タケル!!」
僕は声のする方を振り向いた。そこには……決して見間違えようのない自分の母親の姿があった。
「母さん!」
母さんは息を大きく吸いながら肩を上下させ、僕のことを見つめていた。
そして僕と目が合うと、砂浜をハイヒールで駆け出す。
僕は次の瞬間には抱きしめられていた。……こんな風に抱きしめられたのは小学生以来だ。
嬉しいけれど、なんだかすごく恥ずかしかい……
「よかった、変なことはされないだろうとは思っていたけど……」
「えっ?」
母さんは、そう呟くと、名残惜しそうに僕から離れる。
そして……突っ立ったままの包帯男に対峙した。
「人の子を誘拐するなんて犯罪よ。逮捕されたって文句は言えないんだからね」
「そうだね……俺は君に逮捕されちゃうのかな」
母さんは早足で包帯男のそばまで近づく。
そして、母さんは思いっきり包帯男の腹を蹴り飛ばした。
包帯男が、一メートル後方に飛んで倒れると、呻き声を上げる
僕は目の前で何が起きているのか分からなくて、茫然とただただ突っ立ていた。
ここは頬をひっぱたくとか、その程度にしておけばいいのに。
母さんは本気だ。あれだけ強い母さんが本気だ。
「……色々と私たちのこと調べたみたいね」
「ああ。……驚いたよ。会社やめて警察官になっているとは思わなかった。思えば昔から正義感が強くて、実際強かったもんな」
「……そこまで分かっていてタケルを誘拐したのは私に殺されてもいいってことかしら?」
母さんがコキコキと両手の骨を鳴らし始める。
「そうでもしなけりゃ、タケルと……会せてくれなかったろう?」
母さんが包帯男の頬をグーで殴り飛ばす。……包帯男の頬には一瞬にして青痣ができた。半分だけ巻かれていた包帯は、均衡を崩して解けていく。
「当たり前でしょ? そしてあなたにタケルを呼び捨てにする資格なんかないわ」
「母さん……やりすぎだよ。僕、別にひどい目とかにあってないから」
これじゃどっちが犯罪者か分からなくなってしまう。
包帯男はフラフラとした足取りで立ち上がる。いや、もうその男の包帯は全て解けていたから、包帯男ではなくなっていた。
右頬に青痣を作った男の顔は、やけに清潔感に溢れる、現実味の薄い整った顔していた。まるでテレビに出てくる俳優のような……
あれ? 待てよ。この顔どこかで……
「だいたい〝息子は誘拐した、心配するな〟ってバカな犯行声明出さないでくれる? 映画の観すぎなのよ。それとも作り過ぎかしら。さっさと海外かどこかに行ってしまえばいいんだわ」
「どうしてもタケル……くんに会いたかったんだ。……そして君に謝りたかった」
彼は強い眼差しを母さんに向ける。
「あのとき逃げてごめん」
「怖かったんだ。あの時は僕には何もなくて、将来君たちと生きていける自信がなかった。……ただあの時の……一心不乱に映画という夢を追い続ける日常を失いたくなかった。僕は……どうしようもなく弱かったんだ」
「今は、強くなったとでも言いたいの?」
母さんの声はとても冷たいものだった。
「成功したから……あなたに余裕ができたから……私たちに会いに来たんじゃないの?」
母さんは俯く。背後から眺めている僕には、母さんがどんな表情をしているのか分からなかった。
「それってあまりに都合が良すぎるんじゃない?」
母さんはそう言い残すと、また足早に彼から離れていく。
「タケル、帰るわよ」
「えっ」
僕は母さんに強く手を引っ張られる。
「待ってくれ!」
叫び声を上げた男を母さんは容赦なく睨み付けた。
「これを! これをタケルくんに渡したかったんだ。だって今日は、今日はタケルくんの誕生日なんだろ?」
男は白い箱を拾い上げて、懸命に掲げる。
「違うわよ」
刃のような冷え切った声が、男の喉元を捕えた。
「タケルの誕生日は一か月後よ! あなたは数を一つ間違えたんだわ。昔からぬけているところがあったものね。つまりはそういうことよ。あなたにとってタケルはその程度の存在なのよ」
母さんの言葉は、彼の喉元を掻き切った。彼はその場にへたり込む。
「行くわよ、タケル」
母さんは駐車場の方へと歩き出す。へたり込んだ彼を振り返ろうとはしなかった。
僕も母さんの背を追う。
会いたいと、思ったことはなかった。
それは初めからなかったもので、僕の人生には必要ないものだった。
きっと、これから先もそうなるだろうと、そう思っていた。
僕はその場に立ち止まる。
気付くと、制服の上に着ていた黒のジャンパーを強く握りしめていた。
*
「あの男の人って、最近話題になっている長田修一郎だよね。監督の」
「そうよ」
母さんは一言だけそう呟いた。
その冷たい声色に後部座席に座る僕は、その先の質問を続けることができなかった。
〝あれが、僕の父親なのか〟と。
母さんは、シングルマザーだ。一人で僕を産んで、一人で僕を育てた。十三年間ずっとずっと一人で。
その孤独はきっと僕のようにはやり過ごせなかっただろう。
誰も救ってはくれなかっただろう。
今まで一度だって父さんの話はしなかったし、訊いたこともなかった。
知る必要なんてなかったから……
僕は徐に白い箱を取り出す。
あの黒いジャンパーを返したとき、僕はあの箱を……一か月後の誕生日プレゼントをもらっておいたのだ。
ゆっくりと、誕生日プレゼントにしては素っ気ない白い箱を開ける。
中にはコウモリのぬいぐるみが入っていた。
〝君変わっているよね〟
〝そうですか? でもほら、近くで見ると案外カワイイ顔しているじゃないですか!〟
〝……まあ、そうかもしれないけどさ〟
飼育員さんの、あの苦笑いを思い出す。
どういうことだろう。僕が動物園にコウモリを観に行っていることまで調べたんだろうか。そんな些細なことを?
それとも……
僕は母さんの運転する姿を一瞥する。
母さんでさえ当てることのできなかった僕の好きな動物を、あの人は当てて見せたとでも言うのだろうか?
可能性としてはどう考えても前者の方が高いと思う。
けれど、もしも後者だとしたら……
〝先輩に会いたいって思ったら連絡してよ〟
僕はポケットから取り出した紙切れを手の平で弄んだ。
……僕は果たして、あの人に会いたいと思うときが来るんだろうか……
あの人は僕に幸せかどうか訊いてきた。
きっと自分のせいで僕が不幸な人生を歩んでいるのではないかと、自責の念ってものに駆られて質問してきたのだろう。
僕は幸せだ。少なくとも不幸だなんて思ったことはない。
その答えは今も昔も、この先だって変わることはないと思う。
でも、もしもあの人が僕たちの人生に参入したとして、それが単純な足し算じゃないにしろ、今までの幸せにプラスアルファをもたらしてくれるなら……
それはちょっと素敵なことのように思えた。
だって僕は知っているから。
母さんの目が今赤いことを。
泣いている姿を見られたくなくて、僕があの人から白い箱を貰っているのを止められなかったことを。
それを見逃していたことを。
母さんは素直じゃないってことを、知っているから。
ここで一旦一区切りになります。