レネルの姫
リリエラは鬼王の末娘だ。
大陸を四分して力をふるう荒ぶる種。人間を食糧として支配下におき、それゆえ畏怖される四種族。
東にあり地を駆ける邪悪をすべる狼王。
北にあり鱗ある邪悪をすべる水王。
南にあり翼ある邪悪をすべる鳥王。
中でも一番忌避されているのが、西にあり闇の邪悪をすべる鬼王。人間の血と精を啜り、死した後は魂の髄を啜る。
男性体の鬼をレーフ、女性体の鬼をレネルという。
死者の魂をもてあそぶ鬼族は、「死」という人間に残された最後の安寧すらおびやかす存在だ。
人肉を食む三王の地とどちらが住み良いか、一概に答えは出せないだろう。
大陸には常時毒の光が天から降りそそいでいる。
浴びれば焼け爛れ死に至るそれらから、大地や空気を護っているのが四種族だ。
溢れる魔力で天からの毒光を相殺できるのは人外の支配する土地のみ。脆弱なる人間は魔力を持たないため、餌となる境遇に甘んじて生活するほかない。
弱さゆえか人間の繁殖力は非常に強く、同胞を食らわれても倍する数を産む。四王の支配下で数を増やし、街を作り、四王が許す範囲で政治を行っている。鬼王が支配する西の大陸は、人間の国が大小合わせて数十あった。
寿命が長い鬼族は人間で退屈をまぎらわせる。
鬼王も戯れに国同士を争わせたり潰したりを繰り返していたが、あるときふと思いついた。
彼の娘をひとつの国に送り込んだらどうなるのか。
しかし鬼は鬼の国に住んでいる。人間を下等な種とさげすむ鬼の一族に、人間の国で暮らしたがるものなど皆無だった。家畜小屋で豚と寝起きをともにするようなもの。
餌が必要であればみつくろって攫ってくればよいのに、なぜわざわざ出向く必要があるのか、と反発を浮かべる娘たちを見まわし、鬼王は隅で身を縮こまらせている存在に目をとめた。
城から出たことがない末娘。この瞬間まで思い出しもしなかった目立たない娘だ。
生まれて二十を数えるのに成人したレネルが持っているはずの蠱惑的な肢体がない。発育不良の貧弱さは近親相姦も是とする鬼王の気を惹くものではなかったが、彼が手を付けた娘たちは嫌がっているのだから「あれ」でもよいか、と頷く。
視線を受けて真っ青になった娘は、逆らうことのできない父王の命令を受け入れた。
鬼族の興味は移ろいやすい。
娘がただひとりの供をつけて城をたったのち、鬼王は新たに争いを始めた大国へ介入をはじめ、元々地味で目立たなかった娘のことを忘れてしまった。娘の向かった国が居城よりもっとも離れた小国だったこともあるだろう。
父王がすぐに城へ呼び戻してくれるだろう、そんな期待をする末娘の胸中も知らず。
リリエラが降り立ったのは人間国、ブレーズの王城だった。
突如バルコニーに現れた娘に騒然となった人々は、しかし額の角と双黒、鬼の証を見て押し黙った。
黒髪黒目は鬼にしかあらわれぬ色であり、額に一本角があれば女鬼、両方のこめかみに角があれば男鬼と決まっている。
「わたしは鬼王が娘。今日よりこの城で暮らします」
真っ黒のマントを翻し、リリエラは己が横に無言で立つ従者へ腕を伸ばした。
鬼の国から連れてきた長身の男。屈強なその身に赤い血は流れていない。
リリエラが鉱石に魔力をこめて造り出した石人、キラだ。
赤銅色の仮面で顔の上半分を覆ったキラはうやうやしくリリエラを抱き上げると、錆びた声音で主のために部屋を求めた。
落ち着いたところでさっそく面会を求めてきたのはブレーズ国王だった。
決死の覚悟がにじむ顔で現れたが、リリエラがしばらく暮らすつもりであると知ると困惑し、寝る場所と食事以外を求めないというと暗い顔で戻って行った。
「どうしてブレーズ王は落ち込んでいたのかしら」
「主の食事に悩んでいるのでしょう」
「わたしの? 少し花をくれたらいいだけよ?」
「彼奴らは主の嗜好を知りません」
つまり血と精を啜ると思われているのだろうか……。リリエラは顔をひきつらせた。鬼に生まれながら、彼女の食事は植物から精気を吸うのみで、人間を襲うことはない。
鬼の中でも異質。いや、リリエラの魂は世界中でも異質なものに違いない。
転生者。
ぼんやりと蘇るものがなんであるか、季節が五回廻るまでわからなかった。もし誕生と同時にすべての記憶が蘇っていたら発狂していたかもしれない。
前世の記憶だとわかったのは、この世界がなにもかも元の世界――日本と違ったからだ。
毒を降らせる空。不思議な力をもつ異種族。
なにより自分自身が人間じゃなかった。
鬼という種は親子の情が薄い。放任育児もいいところな鬼の国で姫に生まれたのは運が良かった。五歳までは前世と現世が交錯し、意識が茫洋としていたせいで「うすのろ姫」と揶揄されていたリリエラも最低限の世話だけはされた。取り戻した記憶は高校生の時までしかなかったが、自分で自分のことができる程度の年齢まで思い出せたことは僥倖だった。
城の書庫にこもって文字を学び、知識を得た。元が内向的で人と話すより本が好きな性格だったおかげで、かび臭い書庫で一日過ごすことは苦にならない。司書の老人が鬼としては一風変わったリリエラを「勉強熱心だ」と可愛がってくれた。
王の娘に生まれて良かったことがもうひとつある。
リリエラが「鬼の食事」を行わず植物から得た精気で細々と生をつなぐことができたのは、父王から受け継いだ非常に強い魔力のおかげだ。それでも栄養が足りないので発育不良ぎみであったが、二十年も生きているとそれなりに成長し、王族というだけでちょっかいを出してくる輩が出てきた。腕力に劣るリリエラが守護者として造ったのが石人のキラだ。最初は無言で鈍重なゴーレムもどきだったキラも、番犬強化の必要に迫られ手を入れたおかげで、今では人間と遜色ない動作と思考をおこなえるぐらいに成長した。
「ブレーズ王にもいったけれど、わたしはこの国に長くいるつもりはないわ」
「陛下が帰国を許可されませんと、我らが国の門は通れません」
「キラだけなら通れるかも……」
「主と離れることをこのキラが承服するとお思いなら、今すぐ我が忠誠を御覧に入れましょうか」
「じょ、冗談よ。あなたがいなかったら困るもの。傍にいてちょうだい」
リリエラはあわててキラをなだめた。
熱された石はなかなか冷めないように、忠実な石人を怒らせると後々まで尾を引く。
基本的に出入りが自由な鬼の国だが、王に命じられ人間の地へ赴いたリリエラのことは知られている。父王が呼び戻すまで、もしくは命令に背いたことを許されほどの土産話ができるまで、帰ることはできないだろう。鬼王を一番喜ばせられるものとは、恐らくこの国に阿鼻叫喚の殺戮の宴をくり広げること。
無理だわ……、とリリエラはブレーズ国王に負けず劣らずの暗い顔で落ち込んだ。
レネルの性は血と争いを好むが、前世が一般人であった価値観が鬼の衝動にストップをかけていた。
「……お父様が飽きてしまわれるまで待つしかないわね」
「そう遠い日ではないでしょう」
主従の楽観的観測はすでに外れていたが、二人は知る由もなかった。
ブレーズ国は西の大陸の端にあり、鬼王の居城からもっとも遠い地にある。必然的に庇護が薄くなり土地は痩せている反面、鬼の国から遠いということは鬼族の被害に遭うことも少ない。貧しいながらも比較的平和だった。
突如現れたレネルの姫は国民を震撼させた。牙と爪にかかり、ひとり、またひとりと血祭りにあげられるに違いない。ブレーズの誰もが戸を固く閉ざして脅えていると国王から御触れがあった。
――我が息子、ルーカスがレネルの姫君を歓待する。
王族が生贄を買って出た。国民の誰もがそう思い、王族の犠牲に敬意を払うとともに一抹の不安を胸に残した。鬼がひとりの犠牲では満足しなかった場合、生贄が増えていくのではないかという恐れを。
それが杞憂であったことは、一年たった今でもルーカス王子が存命で政務に励んでいることで証明された。
「……お父様のお声がかからないわね」
「鬼王のお考えを尋ねて参りましょうか?」
「いいえ、いいわ。虚しい事実を突きつけられるだけに終わりそうだから……」
リリエラは父王が自分たちをすっかり忘れ去っていることにうすうす気づいていた。
あえて確認しないのは、自国より待遇がよいぬるま湯のような生活に首までつかっていたいからだ。
すっかり見慣れた我が家ならぬブレーズ城の貴賓室は、王妃の室より豪奢であると小耳にはさんでいる。
上げ膳据え膳の至れり尽くせり。
ひとりでできないところはなんでもこなすキラが世話を焼いてくれる上、ブレーズの料理はリリエラの口に合った。人間の食物を必要としない鬼族は加工された食物から精気を得ることはできないが、リリエラは料理の味を楽しむことが好きだった。
リリエラはレネルとして生きてきた二十年より、人間として生きた前世の記憶の方に強い愛着をもっている。周囲から遠巻きにされつつも人間に戻ったような気持ちになれるブレーズの生活を愛していた。
この国は同族が血と精と魂を啜る故郷より、何万倍も人間らしく生きられるのだ。
――それに、キラ以外で初めて親しみを感じる人ができた。
ブレーズに降り立った日、「お世話をいたします」とルーカス王子が部屋にやってきた。
ずいぶん煌びやかな侍従がいるものだと感心したが、第一王子と聞いて納得した。女性のピンチには白馬に乗って颯爽とあらわれそうだ。
世話といってもなにをしてもらうのか想像がつかない。気づまりになったリリエラは早々に追い返していたが、王子は朝な夕なに金銀紅玉のプレゼントをもって訪ねてくる。
受け取りを拒めば次は艶やかな百花を。精気をもらうために花だけ受け取れば、朝晩の食事に給仕としてあらわれる。めげない王子に最後はリリエラが根負けした。
次第に彼に慣れ過ごす時間が長くなると、お互いの情報が増えた。
人間と暮らす鬼族がいないため、小鳥の餌程度をつまむだけなのを見て王子は目を丸くしていた。思い出すと笑いがこみあげる。花の精気を触れるだけで奪ったときも彼は驚いていた。
切れ切れながら折に触れ会話を交わすうちに、王子の不安そうな様子に気がついた。
疑問に答えたのはキラだ。もともとが内向的な性格のリリエラは、目立ちたくないので貴賓室に閉じこもっていることが多い。主にかわりキラはちょくちょく貴賓室を離れて情報収集を行っているようだった。
結果、集まったリリエラの評判とはどんなものか。
鬼王の娘であるレネルが部屋に引きこもり、どんな策謀をめぐらしているのか。さては国家滅亡の惨劇を企んでいるのではないか、と周囲が疑心暗鬼に陥っていることを報告してくれた。
血を見るより花から精気を得る方を選ぶのに、「王の頭蓋で酒を呑む日が待ち遠しいと呟いていたらしい」と事実無根の噂を聞いた日には、リリエラが痛む頭を抱えたのも無理はないだろう。
足りていないのはコミュニケーションだと、最上の敬意を払ってくる王子に誤解をとこうと決めた。
意気込んだはいいものの、リリエラの対人スキルは低い。物言いたげに口を開けては閉じるだけのリリエラを助けてくれたのは王子だった。
機知に富む王子の巧みな話術で、リリエラは徐々に素の自分をさらけだせるようになった。
実は小心者で、血の雨を降らそうなんて考えはこれっぽっちももっていないことはわかってくれたと思う。気がつけばこの国に滞在している目的以外、ほぼすべて王子に話してしまった。
王子を通じリリエラの評価も少しずつ改善しているようで、キラによると血狂いの鬼姫というありがたくない二つ名も囁かれなくなってきたらしい。
反対に王子のこともたくさん知った。
政務は好きだけれど、宰相が苦手なこと。息抜きには夜空の星を眺めていること。案外ロマンチストだとからかったら、政務が終わると大抵夜中なんですよ、と寂しげに笑われた。
仕事のできる男なのか、できない男なのか、判断に迷うところだ。
王子が来ることが楽しみになってきている、そんな自分に気づいてリリエラは自嘲した。
――彼にとってはやっかい者のレネルにすぎないのに。
++++++++++
一年とひと月がたった。
春の日差しが窓辺をあたためる午後、うたた寝半分に窓から庭園に咲く花を「綺麗ね……」と眺めていたリリエラは、部屋へ訪れた王子に首をかしげた。笑顔なのに雰囲気が暗い。
「外は暖かいですよ、よろしければ散歩に行きませんか。あなたの気鬱を晴らせるかもしれません」
「べつに落ち込んではいませんけれど……?」
「今日は鏡を御覧になりましたか」
すっかり打ち解けている仲だ、寝癖がついているなら直球勝負できてほしい。そろりと頭の上を撫でつけると「違います」といわれた。
気がつかない間に涎がたれていたのかと赤くなりながら口元を拭えば、「そうではありません」といわれた。
すっぴんに遠回しなダメ出しなのかとうつむけば、「顔色が悪く、隈もできています」といわれた。
顔色が悪いのはレネルだからだ。鬼というのは総じて黒髪黒目。肌は雪のように白く、唇は舐めた血のように紅い。血生臭いスノーホワイトが種族的な特徴だった。ブレーズの国民は明るい色の髪と瞳、褐色の肌をもっている。彼らと比べたら鬼族は貧血の重病人になってしまう。
王子も金髪に淡い青の瞳、鍛えた体をより精悍に印象づける褐色の肌。ふいにこぼれる笑顔は少年のように愛嬌がある。話に聞く限り、リリエラのご機嫌伺いと政務で自由になる時間は少ないようだが、手が空けば彼の隣にはすかさず女性が寄ってくることだろう。
「レネルに顔色を問われますか? 青白いのは生まれつきですよ」
「心外ですね。あなたの顔色の良し悪しを、私が見分けることはできないとお思いですか?」
「そうではありませんが……夜は眠れていますし、体調も問題ありません。ご心配にはおよびません」
「お食事はいかがです?」
食事は王子とともにとっている。もちろん料理の方だ。味の感想を毎回言い合っているおかげでリリエラの好みは厨房に知られており、毎回食卓には好物が並ぶし、王子が木苺のタルトに目がないのも知っている。
リリエラの食べっぷりをその目で見ている彼が、なぜ尋ねるのか?
「いつも通りに美味しいです」
「料理長も喜ぶでしょう。しかし今はそちらの食事ではありません」
――レネルとしての。
ドキリとしてリリエラは王子の顔から眼をそらした。
彼にはいっていない。だから知らないはずだ。
リリエラはこの貴賓室から出たことは数えるほどしかない。
レネルを見る人間の視線は、畏怖、脅え、憎しみ。種類は違えど負の感情ばかり。
元人間のリリエラにはひどく堪えた。
日がな一日王子の差し入れである本を読みながら過ごすことは退屈な時もある。けれどもレネルのすぐれた聴覚は囁きかわす人々の声を無意識にひろってしまう。
――鬼の姫が食らうから、庭園から花が消える。
――食われた花は真っ黒に萎びているらしいぞ。恐ろしい。
――本当に食べているのは花だけかしら。夜な夜な街に降りては血を啜っているのではないの?
――気づかれていないだけよ。いずれ王子様も真っ黒に萎びさせるつもりに違いないわ。
――恐ろしいレネル! 早く国からいなくなればいいのに!
下種な噂通りに殺してしまいましょうか、と眉を顰めたキラに首を振り、リリエラはベッドにもぐりこんだ。
レネルの自分が傷つくことはない。
何をいわれようと鬼に生まれた事実を変えようはないのだから。
花から精気を奪い萎びさせるのは本当のことだ。怒ったり悲しんだりするのは筋違いだろう。
「……食事はいただいておりますわ」
微笑んで答えたはずなのに、王子の目つきは見たことがないほどに鋭く尖った。
青色のナイフのようだ。ちらっとリリエラの顔に視線を走らせた後、首から下をじっくり眺め下ろされた。
不躾な観察に居心地の悪さを感じ、こちらも不愉快を引き結んだ唇に表して王子を見返す。
「――痩せましたね。いえ、やつれているといった方が正確でしょうか」
「いつから仕立て屋に? それとも王宮医かしら。ドレスの上から何がわかるというのでしょう」
「自信はありますよ。しかし実証をお求めになるならば、ドレスを脱がせて確かめさせてくださいますか?」
「王子っ……!?」
自分の耳が信じられなかった。
こんな冗談をいわれたことはない。
驚くリリエラに平然とした顔で「王子などと、どうぞルーカスとお呼びください」と慇懃に礼をとる。
「キラ殿に教えていただきました。あなたはレネルとしての食事をもうひと月もとられていない」
「そんなことはないわっ」
「自分で調達するからと私の花をお断りになった。それはいいでしょう。ではどうしてこの部屋にはただの一輪も花がないのですか?」
レネルとしての食事は王子から贈られる花だ。精気を奪った花が黒く萎びて手の中に残ったとき、リリエラは胸が苦しくなった。召使たちの噂話が脳内に蘇り、ぎゅっと握った拳の中で水気を失った枝がポキリと折れた。
おいしい料理を食べても満たされず、美しい盛りの花々を萎れされる自分。
人間のように暮らしていたから、いつの間にか人間になった気でいた。願望と現実をすり替えていたのだ。
生まれてから今まで少しづつ軋みをあげていた心と身体をつなぐ歯車が、決定的に噛み合わなくなった瞬間だった。
王子からの花を断った。
庭園の花も摘まなくなった。
かわりに積極的に“人間の料理”を食べるようになった。
「……一輪もないのがそんなにおかしいでしょうか? わたしはレネルです。花は眺めるより味わう方が好きですから、いつまでも飾っておくことなどできません」
「心にもないことを。あなたが食事をしたあとの塵はどうされているのです?」
「キラに捨ててもらっているの。ねえキラ?」
あろうことか、主に一番忠実であるはずの石人は「いいえ。私は存じません」と否定した。
睨むリリエラにかまうことなく、赤銅色の仮面を王子へと向けた。
「動くならば今日だぞ、人間。我は待たぬ。主も待てぬ。もはや猶予は与えん」
「わかりました。ですが、本当によろしいのですか?」
「……認めるは業腹だ。ゆえに約成らぬときはその首落とし、魂までも引き裂いてやろうぞ」
石人の性質のごとく冷たく固い声。
対する王子はおびえることなくまっすぐにキラを見返している。見つめ合うというにはきつすぎる視線の交錯は睨み合いにひとしい。
「あのっ! キラ!? 王子もっ! いったい何の話ですか!?」
物騒なやりとりをくり広げていた二人は、割り込んだリリエラに「なんでもありません」とそろって答えた。
懐疑の目を向けると真面目くさった声でキラがいった。
「ご自身でもお気づきでしょう。主の身体はこのひと月でひどく衰弱した。精気の供給なしに魔力ばかりを費やしているのが原因でしょう。お傍にお仕えする私も魔力を奪っておりますが……」
「キラがいなかったらわたしは生きていけないわ」
皆までいわせなかった。石人はリリエラの魔力を糧に動く。彼は守護者であり、兄弟のように育ち、苦楽をともにしてきた家族だ。もし魔力が枯渇するとわかっていてもキラを手放すつもりはない。離れるとすれば、それはリリエラが死ぬときだ。
仮面に覆われていない口元がほころんだ。「主がいなければ生きていけないのは私です」といったキラは跪き、リリエラの手を取り指先に忠誠の口づけを贈った。
「――妬けますね」
ぽろりとこぼれた呟きに顔を上げると、キラに捕らわれたままの手にじっと視線を落としていた王子が射ぬくようにリリエラを見据えた。
「キラ殿。守護者の許可をいただいた、そう解釈して良いのでしょう?」
「ふん、突然その気になったか?」
「目の前でこうも煽られれば、秘めたる炎とて岩を焼き尽くすほどに燃えましょう」
「それほどに大きな焔だったか? 我が主は合点がいかぬようだが」
「あなたがそれをおっしゃるか。どのような隙も与えなかったというのに」
「我は主の石人。やわな護りでは用をなすまい」
「彼の方に触れられるは風か花、ということですか」
跪いていてもこの場の誰より尊大な従者と、おもねるようでいて棘が感じられる王子。
意味不明な応酬に、「……あの、何の話ですか?」というリリエラの問いかけは黙殺された。
「主。この場に花を持ってきたとしても、召し上がることはないのでしょう?」
「キラ……」
そう、たとえ百種の花を用意されても、リリエラは手に取れなかっただろう。
黒く萎れる花を想像すると、指が震えてしまう。わかっていると石人が頷く。
「主の意志は固い。もしも覆せることがあるのならば――それは人間、お前だけだ」
立ち上がったキラがシャッとカーテンを引いた。
鬼族に気遣って作られたカーテンは緞帳と呼んでも問題ない厚さで、光はもちろん音すら遮断してしまう。
「キラ!? いきなり何をするの。王子はわたしたちと違うのよっ」
「……よいのです。闇はあなたに属するもの、私はこの闇に慣れたいと思っているのです」
突然暗くなった部屋に人間である王子は瞳を瞬かせて闇を見通そうとしている。リリエラは王子が不用意に動いて怪我をしないよう、その腕を軽く押さえた。
ぽうっと光源が生まれた。見るとキラが手燭に蝋燭を立てていた。
ゆらり、ゆらり、と橙色の炎が揺れている。
「ありがとうございます、キラ殿」
「お前のためではない。お前の不手際で主が傷つかないためにだ」
愛想のない返事にも王子は黙って頭を下げるのみ。
リリエラは疑問を覚えた。息の合った会話といい、妙に通じ合っている態度といい、キラと王子は以前から親交があるようだ。いつの間に、と首をひねっていると王子の腕に置いていた手を逆に握られた。
「やっとあなたに触れることができた」
レネルは夜目が利く。
本当にうれしそうに相好を崩した王子にリリエラは言葉を失った。
蝋燭の炎が青い瞳に映りこんでいる。
違う。よく見ると炎は王子の瞳の中で燃えているのだ。
ゆらり、感情という名の炎が揺らめいている。
「こうして触れられることを私がどんなに待ち望んでいたかご存じないでしょう? 夢に見、現で惑い、手を伸ばしかけてはあなたの守護者に睨まれていた。――大きな瞳が本当に零れ落ちてしまいそうですよ、姫」
「……な、何をいっているのか、わからないのですが……」
「言霊にするのも許されなかった。石人の護りは真実、岩のように強固ですね」
見せつけるようにゆっくりと手を引かれ、一瞬たりとも視線を逸らさないまま、キラに受けたのとは反対の手の甲に口づけを贈られた。呼気が肌をくすぐり、唇が押し当てられる。
すぐに割れた隙間から熱く濡れた感触が肌を這った。
リリエラは羞恥に頬を染めて腕を引き抜こうとするが、王子は意に介さない。
「王子っ……!」
「私の忠誠は必要ありませんか?」
「そういう意味ではなくっ! もうっ、手を放してくださいな!」
「どうして? 拒絶ではないのでしょう? 忠誠の口づけは指先にするものと決まっています」
つう、と甲をすべり指の股にもぐりこむ。薄い皮膚をぬるりと上下する舌先に背筋が戦慄いた。
一瞬震えたリリエラを見て王子は瞳を細めると、パクリとリリエラの指先を咥えた。
口づけどころではない、完全にしゃぶられている。
ぴちゃぴちゃと故意に立てられる水音に耳を塞ぎたいのに、片腕しか動かない。
「王子っ……おうじ、……ぃや!」
舌は付け根から指先へと絡みつき、やんわりと噛みつく歯が新たな刺激を送ってくる。
やっと放された手。
恥ずかしさと困惑に涙ぐみながらリリエラが見ると、ムスッと一文字に口元を引き結んだキラが王子の腕を押さえていた。
「調子に乗るなよ人間。お前は喰われる側だ」
「――もちろんです。これ以上姫に飢えを味わわせるなど、私も耐えられませんから」
そんな話は聞いていない、と顔を強張らせるリリエラの身体が宙に浮いた。
軽々と彼女を横抱きにした王子は、キラの勝手な案内に従って続きの間へと足を向ける。扉が開かれ、置かれている燭台に炎が移されると蝋燭の燃えるにおいがした。
「どこへ行くのですか王子っ!」
「花壇に花が咲くように、食卓に料理が並ぶように、あなた(レネル)の食事はベッドの上で。ね?」
ね? ではない!
赤くなるべきか青くなるべきか、顔を強張らせてジタバタと暴れ始めたリリエラの身体をやんわりと抱きすくめ、王子は「暴れないでくださいね。あらぬところに手が触れてしまうかもしれません」と卑猥な脅しを囁いた。肋骨から身体の前へ向かって意味深に滑らされた指先。胸へとたどり着く前に「動きませんから!」と叫ぶと動きは止まった。
残念、と聞こえたのは幻聴に違いない。
続き間の扉がギッと軋み、キラ、とこぼれた声は閉ざされる扉に消える石人の背には届かなかったようだ。
王子と二人、仄暗い闇にとり残される。
続き間は寝室として使っている部屋だ。クッションの効いたベッドにリリエラを下ろし、そのまま乗り上げてきた王子に愕然とする。
蝋燭の明かりはそれほど王子の視界を助けはしないだろうに、ひたりとまじわる視線。
緊張に喉が鳴る。
すっと下がった視線はリリエラの鎖骨あたりで留まった。
「水や果汁を飲むあなたを見て、私が何を思い描いていたかわかりますか」
目を合わせないまま、王子は妖艶に微笑んだ。本能が聞いてはいけないと警鐘を鳴らしている。
「べ、別に教えていただかなくてもけっこうですわっ」
「……そうですね。知ればあなたは国に逃げ帰ってしまうかもしれません」
絶対に聞きたくないと、ブルブル首を横に振るリリエラの頬に手が触れる。青い瞳は嬉しげに細められ、「今はあなたに触れられるのだから、想像よりもずっといい」と吐息のようなかすかな囁き。
「あなたの身を損ねたくはないのに、国に帰したくもない。思えば愚かな葛藤に無駄な時間を費やしてしまいました。このままブレーズに留まっていただくにはどうすればいいか、キラ殿にお尋ねしたのです。あなたに不足しているのは精気なのですね?」
ちがう、と答えるには王子はリリエラを知りすぎている。痩せて精彩を欠く姿では信じてもらえまい。
そうだ、と答えるのもおそろしい。もし花を与えてくれる気ならば、手ぶらでリリエラを押し倒す意味がわからない。
「私の精気を差し上げます」
「ひ、必要ありませんっ。精気なら花からっ……」
「浅ましくも願うなら、私以外から精気を摂取していただきたくはないのです。たとえ心をもたぬ植物であっても」
口づけは焼けるように熱かった。薄い皮膚一枚で接触しただけなのに、その下に脈打つ命の水を感じる。無意識に開いた唇は鬼族の本能だった。ぴちゃりと絡んだ舌から、リリエラは生まれて初めて人間の精気を吸った。
熱くて熱くて。舌先が炎にあぶられているようだ。刺激の強さに引っ込めようとすれば、追いかけてきた舌が叱るように絡め取り、逆にきつく吸い上げられた。与えられているのか奪っているのか、王子は貪るような口づけをほどこした。
口腔の粘膜を介し、溢れて滴りそうになり飲みこんだ唾液から、王子の精がそそがれる。
王子が恨めしい。
花の精気など、人に比べれば万倍に薄めた砂糖水。薄甘いそれになぜ腹が膨れたと錯覚していられたのだろう。この濃厚な甘さを、鼻に通る芳香を、身体の隅々にまで染み渡る活力を、味わわぬままなら人間のふりをしていられたのに。夢中で唾液を嚥下し、次に離れた唇を追いかけたのはリリエラの方だった。
口づけだけでどれほど時間が過ぎたのか。やがて離れた唇を再度追いはしないぐらいに、人心地ついていた。
王子の髪が乱れている。夜目の利くリリエラだからわかるほどに、褐色の肌は上気していた。熱っぽい視線で彼女を捉えたまま、王子は唇をぺろりと舐めた。
「私はあなたの食事に適いそうですか?」
しらない。
答えを知っている彼の問いかけに黙ってそっぽを向けば、「これでも不安なのですよ」と苦笑して、大きな手がリリエラの頬を包んで正面へと戻す。
「あなたの空腹を満たせないのなら、私は身を切るより辛い選択をしなくてはいけません。あなたに他の男を紹介することにでもなれば……」
どうなるというのだろう。淡い青も闇の中では濃さを増す。凄味を帯びて輝く瞳にリリエラはゴクリと唾を呑み、「花と比べものにならないぐらいに美味しかったです……」と正直に感想を告げた。とたんに王子の表情は嬉しげにゆるむ。
「レネルは粘膜や皮膚からも精気を吸えるそうですね。ですが忠誠の口づけはあなたのお気には召さなかったようですから、別の方法を試みてみましょう」
それは触れたものからむやみに精気を奪わないようコントロールしているだけであって、誤解だという前に彼の手は自身の服にかかっていた。むき出しになった褐色の肌はなめらかで、鍛えられた筋肉が熱を発している。
「なっ……! 何をするんですかっ!?」
手を掴まれ、ぺたりと彼の胸板にあてがわれた。ドクドクと速い脈は王子のものかリリエラのものか、どちらのものでもあるのかもしれない。一度王子の精気を吸った身体は「いけない」と思う理性を振り切って、しゅわしゅわと表面で弾ける精気を吸いこんでしまう。口で味わうより軽くて、炭酸のように沁みとおる。
――もっと、濃い味を知っている。彼の命の味を知っている。
牙が疼く。すっと滑ったリリエラの手は心臓を目指し、褐色の上を這い回った。指に突起が当たり、はたと我に返ったリリエラがおそるおそる伺うと、王子は興味深そうに彼女を見下ろしていた。
「精気は吸えましたか?」
「ご、ごめんなさいっ」
火に触れたように手を離し、リリエラは真っ赤な顔で身をよじった。羞恥で逃げ出そうとするリリエラを、そこではじめて自身の体重をかけて動きを封じ、王子は火照る耳に囁いた。
「あなたは私の愛しき主。いついかなるときにもこの血と身体を捧げます。存分にこの身を味わってください」
「わたしはっ、わたしは……王子のことをご飯だなんて思っていません」
行動と言葉が乖離していて説得力はないだろうけれど、血に飢えた獣のように人間を襲ったりしないと唇を噛めば、王子はリリエラの髪を撫でつけ、頬に瞼に、額の一本角にと口づける。しゅわ、しゅわ、とあたたかな精気がそそがれた。瞬いて王子を見上げる。
「餌としてでも、退屈しのぎの話し相手でもかまわないのです。私があなたに何かして差し上げたい。あなたの望みを叶えたい。あなたの役に立つ存在でいたいのです」
青い瞳は優しいのに、奥底に強い感情を潜ませている。
視線を逸らすこともできず、リリエラは息を飲んで王子の瞳を見つめていた。
「人間の情にわずかなりと心を砕いていただけるなら、私をあなたのお傍においてくださいませんか?」
鬼族としても生きられず、人のふりをして生きることもできない女鬼。
美しい花を萎れさせ、人間の精気を吸うリリエラに、王子は寄り添いたいという。
人間でありたいと強く願ったのはこの国に来てからだった。萎れた花に遣る瀬無い想いを抱き、陰口に傷ついたのは、誰にどう思われたいからだったのか。
自分の心を探り、答えを引き当てたリリエラは顔を両手で覆った。潤みはじめた瞳が熱い。
嗚咽をこらえながら頷くと、「泣かないでください」とそっと両手をはがされる。
あふれる涙を唇で拭った王子は、軽く目を瞠り、悪戯っぽく微笑んだ。
「あなたの涙は蜂蜜のように甘いのですね。私が男鬼なら、頭から齧ってしまうかもしれません」
「……王子だって、とても甘いです」
「では、お好みの場所からどうぞ召し上がってください」
――ひと月ぶりに飢えを満たしたリリエラは、かつてないほどの満腹感を感じながら釈然としない思いを抱えていた。どうしてレネルである自分の方が、あちこち齧られ吸い上げられてしまったのだろう……と。