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凛子と青い車  作者: ふとん
7/17

凛子と疑惑

 改めて始まった山原との関係は、告白から三か月経っても以前とあまり変わらないものだった。

 メールをして、食事を共にして、時々一緒に出かける。

 そして不思議なことにそのどの日もお金持ちと出会わない。

 だからこうして凛子の方から電話をして誘うことも増えた。


『今度の日曜日?』


「そう。久しぶりに水族館でもどうかなって」


 すっかり敬語も消えた関係となったが、山原は凛子に指一本触れない。

 それが少しもどかしくなったこともある。

 最近の凛子は山原に少しわがままだ。

 

 今も電話口で山原が「ちょっと待って」と断りを入れている。スケジュール帳でも確認しているのかもしれない。

 彼は約束をする時、必ず日にちを確認するのだ。

 仕事が忙しいのかもと思ったが、休日出勤はむしろ少ないと知ったのも最近のこと。


(浮気…)


 不穏な考えがよぎるのは仕方が無かった。  


『……お待たせ。ごめん。日曜日はちょっと無理だな。その次の日曜日じゃ駄目?』


 そう言われてしまうと凛子が逆に断る理由がなかったが、今日の彼女は頷かない。


「ごめんなさい。次の日曜日は友達と出かける予定なの」


 嘘ではない。嘘ではないが、山原が断りを入れてくることも見越して先に予定を入れた。

 山原は電話の先で「そっか…」と唸ったが、やがて「よし」と独り言のように頷いて、


『いいよ。どうにかしてみる。迎えに行くのは、朝何時ぐらいがいい?』


 いつものように優しく頷いてくれたのだった。



 山原は大抵のわがままは叶えてくれた。

 それというのも凛子の方があまり大それた、高価なものをねだって困らせたりということが少ないためだが、今まで甘えた経験が少ない彼女にとって、山原の意見を正当な理由もなく覆すことは大きなわがままだ。

 それに今回は山原を試している。


 彼が浮気をしているのかどうか。


 友人の琴子に相談したところ、彼女が教えてくれた方法は三つ。

 一つ目がこの日にちをこちらが設定すること。

 突然であればあるほどいい。断りの理由が休日出勤や出張などというもっともらしい理由になればなるほど怪しいらしい。

 


 そうして罠を張った日曜日を迎えた朝、いつものように山原は凛子を迎えにやってきた。今日もシャツにジーパンといった軽装だ。

 いつもの青い車は丸いフォルムで朝日を照り返している。


「今日は無理言ってごめんなさい。何か予定があった?」


 少しだけ張りきって華やかなワンピースにレギンス姿の凛子を迎えながら、山原はあっさりと笑う。


「祖父さん家に行ってこの車の整備しようと思ってただけだから」


 実家よりもあちらの方が設備が整っていると笑って、山原は拍子抜けするほど素直に白状した。その顔にまるで嘘が見られない。


――そう。琴子に教えてもらった二つ目は、こうしてカマをかけてみること。


 咄嗟のことには目が泳いだりするのが人の子だ。

 しかし山原の顔には清々しいほど何もない。


「凛子さんこそ、疲れてない? 仕事が最近忙しいって言ってたけど」


 出てきたのは凛子に対する気遣いだけ。

 車に乗せられた凛子は申し訳なくて胸の内側で小さく謝った。



 だが、その日の山原はいつにもまして不思議だった。


「あ、そっちは今は駄目。後にしよう」


 水族館の案内を眺めながら、ルートを細々と指示したかと思えば、


「もうちょっとここに居よう」


 電気うなぎの水槽の前でしばらく凛子を押しとどめたりする。

 凛子と鉢合わせしてはよくない人でも居るのかと見回してみるが、水槽の周りには何の空白時間か休みの日だというのに誰もいない。

 そしてクラゲの水槽の前はまるで凛子を誰かから庇うように足早に通り過ぎてしまったりした。

 案内表示に沿わない彼のルートはぐるぐると同じところを行ったり来たり。

 そうしているうちに凛子の方が疲れ果ててしまった。

 ようやくアザラシの水槽の前に来るとぐったりベンチに座り込む。


「大丈夫?」


 近くの自販機で買ったらしいコーヒーを差し出してくれた山原を凛子は少し睨んでしまった。


「……同じところをあんなにぐるぐると…そんなにピラニアが見たいなら言ってくれればいいのに」


 先ほどから山原はピラニアの水槽の前を行ったり来たりしながら順路を遡ったり戻ったりして凛子を散々連れ回したのだ。


「あー、ピラニアも結構可愛い顔してるよね」


 山原は「あはは」と今思い出したかのように笑って、凛子の隣に座る。

 そういえば、とふと凛子は辺りを見回して首を傾げた。ここも人がまばらだ。

 アザラシは水族館の目玉だと言ってもいい。だが休日の水槽とは思えないほど眺める人は少なく、泳いでいるアザラシの方が多いぐらいだ。


「疲れたなら、もう帰ろうか?」


 自分のコーヒーの缶を開けて飲む山原は少し焦っているようにも見える。


(……今日は、本当は別の人と会う予定だったとか)


 根拠もない不安が凛子に唐突に押し寄せる。

 自分の妄想だと分かっていてもそれが不安になるほど、凛子は山原を大切に、いや、好きになっている。

 それを自覚するほど凛子はすぐには方針を変えられなかった。


「ううん。イルカショー、見に行きたいの」


 この水族館の目玉中の目玉。イルカは純粋に見たい。

 そう訴えた凛子だったが、返ってきた山原の顔は途端に曇った。


「うーん…。イルカか…」


 彼は何かとても難しい問題を出されたかのような顔で考え込んでしまう。


(もしかして、イルカが嫌いなのかしら?)


 そんな人はいないと断言できるほど人気だと思っていたが、中には苦手な人もいるかもしれない。山原はあの厳ついピラニアの顔が可愛いという人なのだ。


「あの、駄目なら私一人で見てくるから…」


 若干萎んだ気持ちで凛子が断りを入れたが、山原は「いや」と首を横に振った。


「俺も行くよ。一緒に行こう」


 渋っていた自分を追い払うように、山原は凛子の手を引いて開演間近のイルカショーの水槽へと向かったのだった。


 イルカショーは概ね歓声を上げて楽しんだ。凛子は子供のようにイルカ達に見入って、そして少しだけ油断した。


「わぁ!」


 前寄りだった凛子達の席にイルカからの水しぶきが降ってくる。

 水しぶきのかかるラインぎりぎりだったためか傘も合羽も用意がない。

 そのまま水を大いにかぶってショーは終幕した。


「――よろしければどうぞ」


 不意に差し出されたハンカチ。

 それが女性の声だったこともあって、凛子は素直に受け取った。


「ありがとうございます」


 そう言って改めて見遣った女性は、


「いいえ。楽しかったですわね」


 世にも珍しいほど美しい造作をした黒髪の美女だった。

 庶民向けの水族館におよそ似合わないツーピースを臆することなく身につけて、腰かけているのは簡素なベンチだというのにまるで女王さま。


 呆然とした凛子だったが、美女が凛子に渡したはずのハンカチを取ってしまうので思わず「あっ」と追いかけてしまった。


「濡れてしまっているじゃない。早く拭かないとせっかくのワンピースが台無し」


 そう言って美女が恭しく凛子の髪を拭き始めてしまうものだから、もう逃げられない。


(この人、お金持ち――!)


 目が合ってすぐ分かった。

 この人は紛い物でも目立ちたがりでもない。

 正真正銘のお嬢様。


 案の定、


「お嬢様!」


 ショーを観終わって帰る人の波を掻きわけてこちらへやってくる男が居る。

 こんな場所だというのに場違いなスーツを着た若い男だ。


「お嬢様、お探しいたしましたよ! お時間です!」


 やってきた若い男は黒髪の美女にそうまくしたてると、ふと凛子の方へと目を向ける。


「……そちらの方は?」


「イルカショーって本当に水がかかるのね。こちらのお嬢さんが頭からかぶってしまっていたから拭いてさしあげているの」


 黒髪美女の言葉に反論もせず、若い男も美女と同じように凛子をじっと見つめたかと思えば、「そうでしたか。それは大変でしたね」と頷いてしまった。


「そちらの男性の方はお連れ様ですか? よろしければこれをどうぞ」


 どこから取りだしたのかハンカチを取り出しかけたが、


「大分濡れてしまっているようですね」


 若い男の言葉に凛子もはっと隣を振り返る。

 何をどうして水をかぶったのか、山原は頭から大量の水をもらってしまったらしくシャツの肩口が透けるほど濡れて、髪からはしずくが滴っていた。


「あら、大変ね。差し出がましくなければ、着替えを用意しましょうか?」


 初対面の人にどうしてここまでというほど、黒髪の美女もその部下か何かの若い男も親切だ。


(これは、まずい!)


 凛子はやんわり美女の手を避けて、ざっと立ちあがる。

 どうしたものかとこちらも思案顔だった山原の手を取って彼も促すと、


「大丈夫です! ご親切にありがとうございました!」


 そう叫んで、山原を引きずるようにその場を走り去ったのだった。



 お金持ちに誘われることはよくあることだ。

 そしてそれは始めが肝心なのだ。

 一番初めに強烈な拒絶をしなければ、なし崩しに彼らの世界へと連れこまれてしまう。


 どこをどう走ったのか。

 山原の手を引いて、廊下を進むうちに水族館を出てしまった。

 気付けば水族館の前に広がる海が見える。

 テトラポッドの積まれた海岸まで出てしまったようだ。


「凛子さん」


 声をかけられてようやく凛子は山原の手を離す。

 思えばこうして彼の手を握ったのは何度目だろう。

 大型犬に良く似たその手の持ち主は凛子をこの上もなく大事にしてくれているのは分かるが、大きなその手は必要のない限り凛子に触れようともしない。


「――ご、ごめんなさい」


 顔を上げられなくなって凛子は思わず俯いた。

 好きな人と居て辛いなんて。

 こんなことがあるのだと、この年になってようやく思い知った。


「さっきの人たち、知り合い?」


 訊かれてしまうと分かっていても、凛子の体はびくりと震える。

 本当のことを言ったら笑われる?

 しかし、


(いつか言わなきゃならないことだもの)


 思い切って顔を上げると、思いのほか真剣な顔をした山原がこちらを見下ろしていた。

 幸いなことに今この海岸には誰もいない。


「あの人たちは、知らない人」


「知らない人?」


 山原の問いかけに頷いて、凛子は腹をくくった。


「――あの、私ね。実はおかしな体質なの」

     

 凛子の視線に山原のそれが絡まった。


「何もしていないはずなのに、お金持ちに好かれてしまうの」


 山原はぱちぱちと瞬いて、そうして改めて凛子を見つめる。


「さっきの人たち、お金持ち? 分かるの?」


 凛子が迷いなく頷くと、山原は半信半疑らしく、


「会ったばかりの人がお金持ちかどうか分かるの?」


「うん。何となくだから、上手に隠してる人は分からないんだけど、私に寄ってくるタイプはほとんどが分かりやすいから」


 凛子の答えに「ああ…」と山原は先ほどの女性たちを思い至ったのか、納得したような顔になった。


「お金持ちと出会うことは良くないこと? すぐ逃げ出してたけれど」


「逃げないと、すぐに分不相応な接待とかプレゼントをされちゃうから」


「プレゼント?」


「小学二年生の時に、小銭拾ってあげただけのおじいさんからグランドピアノもらったことがあるの」


 それを聞いた山原は盛大に顔をひきつらせたかと思うと、次に大きな溜息をついて自分の手で顔を覆ってしまった。


「なんてじいさんだ…」


 くぐもった言葉に今度は凛子の方が驚いた。


「信じてくれるの?」


 こんな話で信じてくれる人はいないのだ。琴子でさえ、学生時代に何度も同じ目に遭って初めて信じてくれた。

      

 溜息をもう一つついた山原は顔を覆った手を降ろして、いつものように大らかに笑う。


「凛子さんは、今までそうやってお金持ちから逃げてきたから、こうして俺をここまで引っ張ってきてくれたんでしょ?」


 だったら、と山原は目を細めて笑みを深めた。


「凛子さんは俺を守ってくれたんじゃないか」


 思わず息を呑んだ凛子を山原は掬い取るように見つめる。


「――俺は、信じるよ。今まで大変だったね。凛子さん」

      

 信じてくれた。

 こんな短い時間で。


 その安堵と嬉しさが一気に噴き出して、凛子の顔は見る見る内に歪んだ。


「わ、凛子さん!?」


 慌てる山原を後目に凛子はあふれ出てきた涙を堪え切れなかった。


――この人を好きになって良かった。

 

 心の底から、そう思った。 

 




 それからしばらく凛子の涙は止まらず、結局そのまま帰途に着くことになっても山原は怒らなかった。

 怒るどころか凛子が泣きやむまでそばでじっと居続けて、大きな手で頭を撫でさえしてくれた。結局抱きしめてはくれなかったが、優しい手に癒されて凛子はようやく泣きやんだ。


 そうして帰りの車の中で、不意に山原が凛子に自分の携帯を乗せた。

 ちょうど凛子の住むマンションに着いたところで、改めてお礼を言おうと顔を上げた凛子に山原はにっこり笑って言った。

 

「見ていいよ」


「え?」


「見たかったんじゃないかな、と思って。俺の携帯」


 確かに友人の琴子に教えてもらった方法の三つめがこれだ。

 隙を見て携帯の中身を覗くこと。


 しかしこうしてあっさりと手に乗せられてしまっては見ように見られない。

 まるで凛子の方が尋問されているようだ。

 しどろもどろに目を泳がせていると、


「――俺が浮気してるか、疑ってたでしょ」


 どうして分かったのかと山原を仰ぎ見るが、彼は苦笑する。


「疑われてるのは知ってたけど。不安にさせてごめん」


 そして凛子に渡した携帯を指さして、


「これからは会うたびに俺の携帯見せるから、それで信じてくれないかな」


 彼氏の方から携帯を渡してくるパターンは聞いてない。


(ど、どうしたらいいの…!)


 友人への声無き救難信号は結局誰にも届かず、凛子は会うたびに山原の携帯を渡されることとなった。

 しかし凛子はすっかり忘れていた。

 

 山原が、本当に少し不思議な人だということを。




 

――その日、定時に会社を後にした凛子は目の前に広がった風景に目を疑った。

 だがそれは、仕事の疲れが出たのかと目をこすっても変わらない。 


 目をこらしてもそこにあるはずの公園やビルは無く、ただ深い森が広がっていた。



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