凛子と運命の人
「落としましたよ」
その声に首筋がぞわりとしたことに、凛子は振り返ることをためらった。
だがここはレストランのホールの真ん中で、バイキング目当てにやってきた客で賑わっている。もちろん凛子もその客の一人だ。
今日は友人と二人連れだってわざわざやってきたのであって、決して誰かに招待されたわけではない。
招待されたわけではないのだが。
「私が気付くのが遅くてせっかくのハンカチが汚れてしまいましたね。よろしければ、お詫びにあちらでお食事でも」
意を決して振り返ると、柔らかな微笑みを湛えた男が凛子が落としたとおぼしき質素なハンカチを大事そうに差し出してくれていた。
派手さはないが、目鼻立ちはくっきりとしていて整った顔立ち、淡く茶色がかった髪を軽く後ろに流した様子は紺色のスーツと相まって軽薄さもなく清潔そうで、好感度は抜群だった。
年の頃は凛子と同じか少し上。しかしどこか大木のような貫禄がある。
凛子は直感した。
(お金持ち…!)
その証拠に男の後ろでボーイが控えている。きっと凛子が頷くけばすぐにでもこのバイキング会場から連れ出すためだろう。
「ありがとうございます。でも間に合っておりますので!」
引きつる口元で笑顔を返し、ひったくるようにハンカチを取り戻した凛子はのんきにケーキバイキングを楽しんでいた友人をレストランから引っ張り出した。
会計を急かしていると案の定、先ほどの男が凛子たちが座っていた場所を覗いている所だった。
間一髪だ。
(ああ、もうこのレストランには来られない…)
十中八九、凛子はレストランの店員に見張られることになる。そしてあの男へと通報されてしまうのだ。
自惚れというなかれ。
これが凛子の経験則というものだった。
「ああ、また出たの?」
高校時代からの友人の琴美は心得たもので、ひょいとレストランで一際目立つ男を眺めて言う。
「あの人知ってるー。このレストランのオーナーだよ。この前、雑誌に載ってたよ。他にもいくつかレストラン経営してるんだって」
「そう…」
溜息混じりに頷く凛子の肩は琴美はぽんぽんと叩いた。
「飲みに行く?」
昼間から飲みに行くことには抵抗があったが、飲み屋でお金持ちと遭遇する確率は比較的少ない。
どうしたものかと唸る凛子を琴美はにやにやと笑う。
「気になる人が出来たって言ってたでしょ。聞かせなさいよ」
うっと呻いた凛子だったが、このじれったいようなくすぐったいような気持ちを誰かに聞いてもらえるなら、と琴美に頷いたのだった。
琴美に聞いてもらいたい気持ちとは、山原とのことだった。
山原との付き合いは順調に進んでいた。
晩御飯を共にすること数回。休日に昼食を共にすることも数回。メールでのやりとりも増えて、今度は山原と初めて遠出する約束となった。
「いいじゃない。行けば」
ビールをジョッキでぐびぐびと飲みながら、琴美はあっけらかんと言った。
馴染みの飲み屋は昼間から飲む二人に奥の席を開けてくれ、苦笑しながら唐揚げとビールを用意してくれた。
冷たいビールのジョッキから汗が噴き出しているのを睨みながら、凛子はぼそりぼそりと打ち明ける。
「だって、私、はっきりと山原さんに言ったわけじゃないのに、何だか、試してるみたいで…」
山原が凛子に好意を持って接してくれているのは、今までの付き合いで何となくは感じられている。幾ら何でもそこまで鈍いわけじゃない。
しかし山原からは、それ以上の関係を望む言葉も行動もない。
うっかりすると男友達が増えたような気にさえなる。
「やっぱり私の勘違い? 友達だと思ってくれてるのに何だか一人だけ舞い上がってるだけ?」
「うーん…」
唐揚げと一緒にやってきた枝豆を口に放り込んで、琴美は唸ったがやがて「ああ、そうよ」と凛子を見遣る。
「お試しでいいのよ。友達になるのか、恋人になるのか。女友達だって似たようなものじゃない。長く付き合える友達なのか、そうでないのか」
「そういうものかな…」
奥歯に物が挟まったような凛子に琴美は「まだ何かあるの」と問いかけてくるので、凛子は思い切ってビールを飲み干し、「実は」と口を開いた。これが一番の悩みごとだったのだ。
「山原さんと一緒の時、お金持ちに遭わないの」
琴美がごとりとビールのジョッキを取り落とし、絶叫した。
「えええええええええええええええええええええええええ!?」
幸いビールはこぼれなかったが、琴美はテーブルに乗りださんばかりだ。
「道を歩けばお金持ちの車に拉致されそうになったり、遊園地に行けば御曹司にナンパされ、修学旅行じゃ社長にクルーザー乗せられたあんたが! お金持ちと遭わない!?」
もちろんいつでもお金持ちと出会うわけではない。ただ月ごとで換算すれば平均で十人はくだらない。街を歩けば日に何度もお金持ちと遭遇してしまう時もある。
そんな凛子がお金持ちと遭わない。
それは異常なことだった。
今までの経験上、お金持ちと出会ったからといって次のお金持ちに遭わないということはない。だからといって山原が実はお金持ちではないという保証はない。
「運命よ、それは! 結婚しなさい!」
琴美が祝杯ともつかない杯を開けるのを眺めながら、凛子は悩みを深めた。
――そして答えは出ないまま、とうとう山原と出かける休日がやってきてしまったのだった。
「おはようございます。佐々木さん」
凛子の住むマンション近くに止まった車を見て、凛子は少し面食らった。
「……その車で大丈夫?」
その車は面白いほど、山原に合っていなかったのだ。
丸い曲線を描くその車は、軽自動車が流行りの昨今でも滅多に見かけないほど小さい。ハンドルも細く、計測器の類は速度メーターだけ。あらゆる機器を削ぎ落したといえば聞こえはいいが、あまりにもその車は簡素で古く、大柄の山原には小さ過ぎた。
「嫌い? この車」
ペタンと小さな車の屋根を撫でて、山原は苦笑した。車のボディは白でも黒でもなく、目の醒めるようなスカイブルー。
どちらかといえば目立つとはいえ、素朴な印象の山原が選ぶとは思えない色合いだった。
凛子は首を横に振って、
「山原さんが選びそうにない色だと思って」
そう言うと山原は頬を掻く。
「祖父さんの愛車だったんだけど、もう乗らないからって免許をとった祝いに俺がもらったんだ」
古そうとはいえ車を一台ぽんと与えるとは。
「……山原さんのご実家って…?」
もしかしてお金持ちなのか。
不安そうな凛子の顔をどこか不思議そうに見遣って山原は笑った。
「古いだけの家だよ。親戚は多いけどね。俺は街生まれの街育ちで団地住まい」
それだけ言って「行こうか」と山原は車のドアを開けてくれる。
その小さな車に乗り込むと、見た目よりも更に狭い。
山原が乗り込むと凛子と肩が触れそうになって、柄にもなく凛子は胸がドキドキと鳴って落ち着かなくなった。
今までもお金持ちたちにあらゆる車に乗せられてきたが、こうも狭くて運転席の近い車は初めてだ。
「シートベルト、付け方分かる?」
おまけに山原が何でもない顔をして近付いてくるものだから、凛子の緊張はピークになる。
「だ、大丈夫です!」
顔を赤くしながらガチャガチャとシートベルトを引っ張り出す凛子を、山原が苦笑するものだから彼女の顔はますます火照る。
(おかしい。何でこうも落ち着かないの)
そわそわとする凛子を後目に山原は「じゃあ、行くよ」と静かに車を発進させた。
スカイブルーの車は見た目通りスピードは出なかった。
公道はまだしも、高速道路ではあれよあれよと抜き去られてしまう。
その様子を半ば唖然と見ていた凛子に山原はまた苦笑をもらした。
「遅くてびっくりした?」
「い、いえ…」
言い当てられて引きつる凛子を、山原は油断なく前を向いたままのんびりと笑う。
「手入れもいるし、手間もかかるし、スピードも出ないし、乗り心地もあんまり良くないけど、俺、この車が好きなんだ」
どうみても山原の長い脚には合わないアクセルを踏み込んだまま、彼は細いハンドルを撫でてはにかむように苦笑する。
「デート向きの車じゃないんだけどね」
デート。
その言葉に凛子は目をぱちくりとさせる。
そうか、デートなのかこれは。
けれどそれが間違いの言葉ではないように思えて、再び凛子の胸をそわそわとさせる。
今日の山原はポロシャツにチノパンの軽装だ。何でもない格好がシルバーの腕時計やら少し焼けた腕に映えて、大らかで気負いのない彼らしく見せていた。
加えて凛子の恰好といえば、飾り気のないボーダーのシャツにコットン地のカッターシャツといったパンツスタイル。
おまけにオモチャのように小さなスカイブルーの丸い車とくれば、何だか古い映画に迷い込んでしまったようだ。
山原と凛子の様子は、言われてみれば確かにデートにしか見えない。
(ど、どうしよう。恥ずかしい)
また一人思い悩んだ凛子を他所に、山原が彼女を連れてきたのは街からほど近い山の上。
高台の公園にはレストランもあったが、凛子は天気もいいからと張り切って作った弁当を山原に広げた。
公園のベンチで広げる弁当は凝ったものなど何もなかったが、山原は「おいしい」と言ってくれる。
山原はおっとりとしているようで、自分のことをはっきりと口にする人だ。
思ったこと、感じたことを凛子にすぐ伝えてくれるので、どちらかといえば何事も自分の中に溜めこみがちな凛子にとって山原は新鮮だった。
そして何より、お金持ちと出会わない。
いつもであれば、こうした山の上だろうとお金持ちの一人とでも遭いそうなものだが、その気配もない。
この落ち着いた時間を過ごせることで、山原につい心を寄せてしまうのかもしれない。
それが利害なのか、親愛なのか。
凛子は自分の気持ちを計りかねているのだ。
もやもやとしながらも凛子は山原と高台の公園を散策して歩き、気付けば展望台で夕日を眺めていた。
もうこんな時間かと心地よい疲れに微笑むと、山原が急に笑みを潜めた。
「……山原さん?」
凛子が山原を振り返ると、彼はいよいよ意を決したような顔をして、
「佐々木さん」
大きくもない声に気圧されて、凛子もつい居住まいを正す。
「――あなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしていただけませんか」
――運命よ!
リーンゴーンとどこかで鐘の音がする。
耳の奥ではいつかの友人の声がこだました。
山原の真剣な顔を見つめて、凛子は鳴り響く予感に震えそうになっていた。
(運命かもしれない)
今にも駆けだしてしまいそうな自分を押しとどめて、凛子ははっきりと頷いた。
「はい…よろしくお願いします…!」
この山原という人が、運命の人かもしれない。
そのことに、奇妙なほど胸の高鳴りを覚えながら。