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凛子と青い車  作者: ふとん
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凛子と泥棒猫

 普通に働いて暮らしている社会人にとって、会社帰りにお嬢様に待ち伏せされて修羅場に陥る場面を何度も経験することなどあるだろうか。


 深々と頭を下げた凛子を呆然と見遣るお金持ち、その彼にすがるお嬢様。そしてその三人を面白そうに傍観するこれまたお金持ち。誰からどう見ても、修羅場だった。

 お金持ち同士のもっと本格的な諍いには巻き込まれたことはないが、お金持ちに関する問題にはしばしば巻き込まれてしまうのだ。こんな風に。




――その日、凛子は定時に仕事を終えて帰宅しようとしていた。

 今日は珍しく残業する者もなく、すでに事務所に人はいない。鍵を締めて守衛室に返したところを、凛子は呼びとめられた。

 長い髪に上品な着物姿のお嬢さんだ。後ろに執事らしき男性を従えて、そのうるんだ瞳で凛子をきつく睨み据え、


「この、泥棒猫!」


――これも慣れた言葉だと言ったら、人格を疑われるだろうか。


「……どちら様でしょうか」


「なんてふてぶてしい!」


 怒った人間には何を言っても無駄だ。思わず黙りこんだ凛子を見かねたのはお嬢さんの後ろに控えていた執事が尋ねてくる。


「佐々木、凛子さまでしょうか」


「そうですが…あなたがたは?」


 名前を偽る必要もないので頷いたものの、凛子には後悔が残った。厄介事の匂いしかしない二人なのだ。無視しても良かった。


「申し遅れました。わたくしどもは大宮と申します」


 そっと差し出された名刺には大宮グループと書かれてある。詐欺でなければ、日本でも屈指の大企業だ。


「本日はこちらの美鶴さまがあなたとの個人的な話し合いをされたいとおっしゃって…」


「わたくしの婚約者である茂さまにちょっかいを出さないで!」


「……悪いようにはいたしませんので」


 申し訳なさそうな執事は小声で「お付き合いいただけませんか」と申し出てくる。

 ちらりと横目で守衛室を見遣ると、当番の守衛が凛子たちを野次馬している。会社で問題を起こしたと噂になってはたまらない。


 不承不承ではあるが凛子は二人に頷いた。

 

 とりあえず場所を変えようと執事に言われて車に乗せられやってきたのは、設えも雅な平屋の豪邸だ。自動で開く門に車ごと吸いこまれ、何人もの使用人に睨まれながら一室に通された。庭のよく見える和室だ。季節がらよく手入れされた緑がとても美しい。

 大人しく畳に正座した凛子を見遣ってお嬢様は不審げに眉をひそめる。


「……随分、大人しいこと。これからどんな目に遭うかと不安になりませんの?」


 今まで凛子は、幸いなことにこうして攫われて暴行などを受けたことがない。それに経験上、こういったお嬢様が繰り出してくる攻撃は一つだった。


「まぁいいわ。これで、茂さまと縁を切ってくださらない?」


 手前のやっぱり重厚な座卓につ、と差し出されたのは小切手。ひぃ、ふぅ、みぃとゼロの数を数えてみると、ちょうど一千万円あった。


「ご希望ならもっと差し上げます。このお金で、茂さまと別れなさい!」


 美少女が台無しにならんばかりに叫ばれても凛子は「はぁ」と頷くしかない。何せその茂さまとやらが見当もつかないからだ。

 今まで出会ったことのあるお金持ちを必死に検索しているところへ、どたどたと部屋の奥から足音が響いてくる。


「凛子さん!」


 ぱーんと、開けられた襖の奥から現れたのは、


「茂さま!」


 いつかの、ホテルでダブルブッキングしてしまった副社長だった。


「これはどういうことだ、美鶴!」


「あなたが悪いのです、私という婚約者がありながらこんな女に現を抜かして…!」


 ああ、始まってしまった。

 凛子は頭を抱えたい心地で少しだけ身を引いた。

 婚約者が居ましたパターンは女が絡むので厄介だ。

 どうしようかと考えを巡らせていると、言い争いを続ける副社長とお嬢様の後ろから、


「まぁまぁ、茂。お客様の前だろう。落ち着けよ」


 副社長の肩を叩く影がいる。

 今時珍しいぐらい真っ黒な長めの髪を後ろに流した男だ。副社長と同じスーツだが、彼の場合はどこか和風に見える。

 

(やばい!)


 やっぱり帰りますと腰を浮かしかけた凛子を黒髪の男はそっと眺めて「へぇ」と目を細めた。

 

(……目が合ってしまった)


 これはいけない、最悪だ。

 凛子は内心冷や汗をかきながら務めて黒髪の男から視線を外す。


「お兄さま! これは美鶴と茂さまの問題ですわ!」


「だからといって、頭ごなしに何でも押さえつけるのはよくない癖だよ。美鶴」


 兄と呼ばれた黒髪の男は美鶴と凛子を見比べて、やがて凛子を見つめた。


「妹が悪かったね。失礼だけど、あなたが佐々木凛子さん?」


(アウトー)


 凛子の名を呼んだ黒髪男の目に確かな色を見なかったことにしたい。

――彼は、すでに凛子に興味を持ってしまったのだ。


 今までの経験から、一番最悪のパターンが凛子の前で展開されようとしていた。




「義明には関係ないだろう!」


「おっと、お前は一目惚れを信じないのか? 茂」


「お兄さまも茂さまもどうしてあんな女のことを…!」


「美鶴も十分魅力的だけど、僕もあのお嬢さんに興味がある」


「お兄さまに相応しい女ではありませんわ!」


「凛子は素晴らしい女性だ!」


 副社長は凛子を大切な人だと言い、お嬢様は凛子を泥棒猫と呼び、何故か参戦しているお嬢様の兄は凛子に一目惚れしたと言い張った。

 もうカオスだ。


 このパターンが一番いけないのは、凛子がいつまで経っても帰れないことだ。

 座卓に置かれた小切手を受け取るわけにもいかない。食事のようなものと違って、お金が絡むと途端にきな臭くなるのが人間だ。

 両親からもお金や物だけは何が何でも受け取ってはいけないと言われて育ったものだ。

 凛子は意を決して正座のまま頭を深く下げた。

 いつだったか母に嗜みが必要だとお茶の稽古をさせられたお陰で凛子の座礼は様になっている。


「申し訳ありません。私にはやはり分不相応なお付き合いでした」


 付き合いといっても食事を一度したきりなのだが。

 頭を下げ続ける凛子に一番に反応したのは副社長だった。


「顔を上げてくれ、凛子さん! あなたが謝る必要は無い!」


 この言葉を待っていた。


「お気になさらないでください。私はもうお暇いたします」


 凛子は場違いなほどにっこり微笑んだ。

 茶番はもうこりごりだった。



 いささか失礼の域になる凛子の申し出は、あっさりと許可された。

 お嬢様の方もさすがに行きすぎたと思ったのか、小切手を置いて帰った凛子にもう何も言わなかった。

 副社長や兄からの送り狼攻勢を何とか切り抜けて豪邸から抜け出した頃には、凛子は疲れ切っていた。


(……晩御飯、何にしよう)


 お嬢様付きの執事が凛子を送ってくれると申し出てくれたがそれも断ってしまったのだ。まさか高級車でコンビニに横付けしてもらうわけにもいかない。

 とぼとぼと高級住宅街を歩いていると、不意に携帯が鳴った。

 その表示は、山原。

 彼とは、一応連絡先を交換したのだ。だから電話がかかってきてもおかしくはない。おかしくはないのだが、凛子は通話ボタンに指をかけたまま迷った。

 山原の食事の誘いは、結局のところ保留になったのだ。

 彼の中学生日記のようなお誘いのあと、互いに無言になってしまい、昼休憩が終わってしまった。その後、山原も凛子を忙しく、食事の約束の返事はうやむやになっている。

 このままではいけないことは分かっていたが、凛子はなかなか返事をすることができずにいた。


(…ええい!)

 

 いつか返事をしなければならないなら、今でも一緒だ。

 幾つかのコールの後、凛子は迷いながらも電話を取った。


『――佐々木さん?』 

 

「はい…」


『今、大丈夫ですか』


「はい…」


 はい、しか言わない凛子に山原は電話の向こうで苦笑した。


『忙しいのなら、後でかけ直します』

 

「いえっ、大丈夫です!」


 どうしたんだろう、と凛子は上手く言葉が出てこないことに戸惑った。

 先ほどまでお金持ちたちとやりあっていた自分はどうしたのだろう。

 これではまるで初心な中学生並だ。


 凛子の葛藤を他所に山原は『良かった』と電話越しに笑う。それが耳元で聞こえることに柄にもなくドキドキしながら「あの」と口にすると、彼は『すみません』と続けた。


『なかなか連絡できなくて。ちょっと、最近忙しくて…』


「いいえ、私の方も最近はばたばたしていて…」


 社会人にありがちな当たりさわりのない理由をのぼらせていると、何だかおかしくなって凛子は我知らず口の端が上がっていた。


『それで、その…前のお話した、食事の件なんですが』


 いつもの上手い話し方が鳴りを潜めたように、山原は単刀直入だ。

 それに驚きながらも、凛子も「はい」と応えていた。


『今度の、金曜日にしようと思うんですが、どうですか?』


 都合は合いませんか、と申し訳なさそうな様子に、大型犬のような山原が大きな体を竦めるようにしている姿が目に浮かぶようで、凛子の方がどこか申し訳なくなった。


『いえ、あの、本当に食事だけですから! ええと…ああ、何言ってるんだろう』


 ははは、と何とか誤魔化そうとする山原に、ほっとする自分を見つけて凛子は意外に思った。

 山原がどういうつもりかは分からないが、彼が向けてくるのは少なくとも好意だ。


『――佐々木さん』


 不意に訪れた真面目な声に、見えるはずもないのに凛子も思わず姿勢を正してしまった。


『俺みたいな、よく知らない他社の人間と食事をすることを警戒するのはもっともだと思います。だから、すぐに俺を信用しないでください』


「え…?」


『でも、チャンスをもらえませんか。佐々木さんに、俺を知ってもらうチャンスを』      


 普段なら断っていたかもしれない。

 だが、凛子は山原の言葉に頷いていた。


 そうして、凛子は初めてお金持ちではない男性と食事に行くことになったのだった。




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