凛子と電話
「誰がここを最後に出たんだ」
静かな課長の声に誰もが口を噤んだ。
うららかな昼休み、静まり返った事務所の奥で、いつもはおっとりと腰かけている課長が今はねめつけるようにして部下たちを見回している。まるで罪人を探す鬼のようだ。
「いったい誰が、三日前、マルベーリックの社長とお話したんだ!」
事務所にかかってくる電話は多岐に渡る。よほど重要でない限りメモをしてハイ終わり。三日前の電話のことなどすでにおぼろげだ。それが覚えていられるのなら、うだつの上がらない事務員などでは収まっていないだろう。
凛子は漏れなく覚えてない方に入る。三日前のことで覚えているのはやたら他社の営業がやってきたのでその接待に忙しかったことぐらいか。
しかも、マルベーリックの社長さまはご自分の御身分を明かさずにお電話をくれたらしい。若い男の営業など腐るほど居る。分かるはずが無かった。ここで私かも、などと思えたならおめでとう、あなたは小説の主人公だ。けれど現実にそんなことがあろうはずもなく、事務所は水を打ったように静かなままだった。ここで喋れたら勇者だ。
しかしそんな三文小説のようなことを、マルベーリックの社長さまはしたいらしい。
――話は三日前に遡る。
それは一本の電話だった。
マルベーリックは今、通販事業で注目を集める新進気鋭の上場企業だ。話題の社長さまはまだ二十八歳の若き俊英。
比べて我が社は古いだけが取り柄の乾物屋。
派手な経歴の社長様が好みそうな物件ではないはずだが、彼はまぎれもなく我が社に電話をかけた。
それは、マルベーリックという社名と自分の名前、それから我が社と是非取引したいので一席設けていただきたいが、という営業のお願い。珍しくとも何ともない電話だが、不況の昨今にあってありがたいお話だ。
社長とは知らず応対した事務員はとても丁寧に彼の質問に答え、営業と話をしてみると応えてくれたらしい。その際にも社長への質問も忘れずに。実態のない会社とは取引はできないからだ。
その事務員とのやりとりはその電話の一度きり。
しかしほどなくマルベーリックに我が社の営業から連絡がいき、今は順調に仕事の話が進んでいるらしい。何でも我が社が扱っている昆布を通販で扱いたいらしい。
そこまでならただの目出度い営業成果なのだが、話はここからややこしくなる。
その社長様、あろうことか一度きり、電話越しで話した事務員のことが忘れられなかったらしい。しばらくは詮無い事と自分で放置していたらしいが、気になりだすと気になって仕方なくなるのは人の性ということか、とうとう社長は我が社に尋ねてきたらしい。
この前の事務員は誰か、と。
しかもこれはただの人探しではない。マルベーリックの社長さまは、その事務員を自分の秘書にと望んでおられるのだ。絵に描いたような中小企業の事務員では考えられないような金額の給料と高待遇。それにその社長様はロマンス小説に出てきそうなイケメンらしい。これを栄転と呼ばずして何と呼べようか。
仕事を選べる時代に時代錯誤的な人身御供とも取れる話だが、会社も必死だ。昼休みだというのに三日前に電話応対したと思しき社員を集めて、課長自ら問いただすという事態にまで陥っている。
そわそわしているのは集められた事務員も同じだ。
弁当を食べたばかりのでちょっと浮ついた雰囲気で居るのは女子社員が大半で、彼女らだって少しでも良い仕事に就きたいと頑張って就職したのだから、マルベーリックの秘書がどれほど良い物件かは言わずもがな。中には自分のスケジュール帳や仕事用のメモなどを手繰る者も居る。
課長の一声から一転、即席で人を集めた会議室はざわざわとした静かな熱気に支配されようとしていた。
(……お弁当)
手にしたままだったコンビニの袋の中身を思いやって、凛子はバレないように溜息をつく。コンビニから帰ってすぐ、凛子は他の昼食を終えて帰ってきた事務員たちと共に会議室へと押し込められた。そして、この奇妙なロマンスの行方を占うオーディションに強制参加させられたのだ。
何だか一様にそわそわとしている事務員たちを眺めながら、凛子はつい遠い目になる。
何だって、こんな大掛かりな人探しとなったのだろうか。事務員一人探し出すことに会社の命運がかかっているといわんばかりだ。
――実際かかっているのかもしれない。
いくら堅実に仕事をしていても不況の煽りは容赦がない。販路の開拓は絶対で、会議室へ向かう前に見た営業たちはマルベーリックに誰が行くかと真剣に議論を交わしていた。
「――佐々木さんも電話前に居たんじゃない?」
どこか自分とは関係のない話だとほとんど聞いて居なかった凛子に、ざっと視線が集まった。
「え?」
「佐々木さん、三日前も事務所に居たよね?」
同じ事務で少し年上の先輩がそんなことを言いだしている。驚いた凛子を他所に「じゃあ、佐々木も出てこい」と課長に手招きをされる。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、他の社員は仕事場へと戻されたが、凛子たちは会議室に残された。
凛子の他に課長の前に立たされたのはあと二人。いずれも女子社員だ。
課長は凛子を加えた三人を見回して「三日前のことだ。よく思い出してくれ」と告げてくる。
食べ損ねた弁当がいよいよ惜しまれる。今、凛子に足りないのは糖分だった。
他の二人を横目で見遣ると、一人は諦めたのか首を横に振り、もう一人は熱心に自分の手帳まで取り出して考え込んでいる。
(三日前、ねぇ…)
呼び出された以上思い出さなければならないのが社会人だ。とりあえず三日前の出来事を凛子は思い出してみることにした。
(あの日は…営業さんが多かったわよね。幾らお茶出ししたのよ私。その合間に電話応対したかもしれないけど…)
その日はとにかく席を立つことが多くて仕事がはかどらなかったことを良く覚えている。
(おまけに、いきなり事務所にかけてきた営業も居て…)
一応名乗ってくれたが、我が社の営業を通さない電話は飛び込み営業に近い。珍しいことだと思ったが、営業へ回す前にそのまま凛子は自分の知る限りの売り込みをしたのだ。こういう時、販売の現場にまで派遣されることに感謝する。商品のことをよく覚えられるから。
あとはとりあえず自分がよく明細をもらう営業の名前を伝えておいたはずだ。
(……ん?)
その飛び込み営業をしてきた会社は何と言う名前だったか。自分の机に帰ればメモぐらいはまだ残っているかもしれない。
「佐々木さんは、俺たちにお茶出しに来てくれてたよな」
はっと声のする方へと顔を向けると、そこには馴染みの営業マンが会議室を覗いていた。
「川口さん」
ドア先で彼は凛子に手を振った。背もほどほどに高く爽やかな外見と人懐っこい性格で成績も良い彼は凛子と年も近く、よく事務書類を渡される。
「俺たちの時、ちょっと時間掛かったから佐々木さんほとんど事務所に居なかったんじゃないかな」
川口に言われてそういえば、と凛子も思い出す。
会議室に川口と取引先に茶を出しに行ったら、取引先とも凛子は顔見知りでつい新商品の昆布のことで話しこんでしまったのだ。川口は営業の一環だからと言っていたが、凛子にすれば世間話もいいところだ。
余計なことをバラされてしまったと思ったが、川口の次の言葉で課長は言及しなかった。
「ずっと電話応対していたのは、田沢さんじゃなかったですか。俺が事務所の前通った時も居たし」
――結局、この川口の証言と、熱心に手帳を繰っていた田沢の「ずっと事務所に居た」という証言で、彼女は無事にマルベーリックの社長への対面権を手に入れた。
後日の話ではすぐに退職というわけではなく、出向という形でマルベーリックへ行くことになったらしい。
意気揚々とした様子で課長と話している姿を最後に、彼女は栄転していった。
と、ここまでは会社の大事件の顛末である。
マルベーリックとは良い取引が出来ているようで、おっとりとした課長がここ最近にこにこしている。
何だそれだけかとお思いだろうが、中小の企業にとってこんな大騒ぎは稀だし、田沢の身に起こった出来事はそれこそ恐ろしい確率が出揃った奇跡だ。現実では絶対にありえないと、目の当たりにしなければ凛子だって笑い飛ばしていただろう。
この大事件が集束した、そのまた数日経ったある日。
凛子にとっての大事件が起こった。
「佐々木さん」
その日も、昼休みのことだった。
茶を忘れた凛子が、渋々コンビニへ行こうと事務所を出るその寸前。
狭い会社の玄関口にその人は居た。
大きな犬のような優しげな笑みを湛えた長身が、凛子の前に立ったのだ。
「今日もコンビニですか?」
大型犬、山原はその穏やかな微笑みを凛子に向けてくるので挨拶もそこそこに「今日も営業ですか」と世間話に尋ねてみると彼は「いいえ」と言ったが、
「あ、違わないかな」
はにかむように頭を掻く。その頬が少し赤い。
「あの、佐々木さん」
「はい」
何だか子供を見守るような気持ちになって、そのまま山原を見上げていると、彼は凛子をきっと見つめて改めて口を開く。
「今度、晩飯でも一緒にいかがですか」
それは、そのつまり。
「もちろん、二人で」
こちらを見つめてくる山原をそのままにして、凛子は逃げ出したくなるほど身が竦んだ。
山原の方は顔が真っ赤だ。
いい年をした大人が二人して固まった人通りの少ない玄関口に、午後の日差しが柔らかに降り注いでいる。
それはまるで季節外れの春を運ぶように。
――凛子にとって、これがお金持ち以外から受けた初めての食事のお誘いだった。