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凛子と青い車  作者: ふとん
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凛子と青い車

 大きくくり抜かれた窓辺に座って、凛子は大きく溜息をついた。

 

 高層階から見下ろす都会の景色はどこか無機質で、吸い寄せられるように街路樹の緑を眺めてまた溜息をつく。


 平日の、まだ日の高い時間に会社にも行かず何をやっているのかというと、ドレスの試着だ。

 真川との結婚式の。


 社長との婚約はどういうわけだかトントン拍子に進んでいた。

 元々、偽物の婚約だからと公表や紹介はやってはいないのだが、庶民の凛子との婚約は何故か彼の両親も受け入れてくれ、今度は凛子の両親に挨拶しようという運びにまでなっている。

 非常にまずい状況だ。

 真川と本物の恋人である麗子のトラブルは未だ解決していない。

 正直言ってここまで手こずるとも思っていなかった。このままではズルズルと愛のない結婚だ。

 

「やぁ。綺麗だね。妖精でも降りてきたみたいだ」


 ドレスの試着を終えてそのままぼんやりと係の人を待っていた凛子に、一人やってきた真川が相変わらずの軽口を昇らせる。

 思わずうんざりとした顔になったのはご愛嬌だろうか。

 そんな凛子に真川は苦笑して、


「……すまない。君には迷惑をかけてばかりだな」


 真川は会うたびに凛子に謝罪を繰り返している。

 今日も仕事の合間に急いで駆け付けたのだろう。わざわざ時間を作っては凛子に謝りに来るのだ。


「まぁまぁ、やっと来たのね!」


 壮年の女性が少し怒りながら、部屋に入ってきて真川の肩を叩く。


「あなたがいつまでも自分の花嫁を放り出しているから私が連れてきてあげたのよ」


 ねぇ、と水を向けられても凛子は曖昧に笑うしかない。

 彼女は真川の母親だ。今日は彼女に連れられて、ホテルの貸衣装にやってきたのだ。ドレスを借りるためではない。ドレスを作るために、どんなドレスが似合うか試着に着たのだ。――この先のことを思うと憂鬱になる。


 真川の母はとても気さくな方で、庶民の凛子では苦労も多いだろうとこうしてドレスのことや靴のことを気にかけてくださる。

 迷惑だと言葉にするのは簡単だが、息子の花嫁をあれやこれやと気にかけてくれる真心を無碍にもできない。これほど可愛がってくれる姑も珍しいのではないだろうか。


「少し休憩できるのでしょう? 少しは自分の花嫁を褒めてさしあげなさい」


 嬉しそうに部屋を出ていく彼女に、実は偽物なんですと告げるのは今から気が重い。


「――お仕事、忙しいんですか?」


 部屋に再び二人っきりになったことを確認してから口を開くと、真川は苦笑した。


「まぁね。……他のこともあるから」


 他のこと、というのは恋人の麗子のことだろう。

 こうやって恋人でもない他の女にドレスを着せて、祝福されるのはどんな気分なのだろうか。

 しかし、


「……佐々木くん」


 いつの間にかそばに真川が立って、凛子を見下ろしている。

 その顔はいつもと変わらず美形で身形も上等だったが、どこか疲れて見えた。そのくせ向けられている目にいつもと違う熱のようなものがあって、凛子は眉をひそめる。


「綺麗だよ」


「レンタル用ですが高価なドレスなんです」


「いや、君が綺麗なんだよ」


 凛子の軽口にそう、どこか低く答えて真川は彼女の肩に手を置いた。今の凛子はノースリーブのドレスで、肩が剥き出しになっている。

 素肌に男の手をじかに感じて鳥肌が立つ。


「もしも君が本当に…」


 溜息を吐くような声が熱い。

 

 ぞわり、と凛子は冷や汗が流れた。


 見上げた真川の目が、常と違う。何かに犯されたように濁った瞳が凛子を見下ろして離れないのだ。

 


――お前は生まれながらにして金を背負った魚だ。



 いつだったかあの山の主が言っていた。

 凛子に惹かれた者は求めることを止めないし、手に入れた者は手放そうとしない。


 今の真川は、求める者の目だ。


「凛子…」


 まるで強い酒にでも酔っ払ったように真川は強い力で凛子の両肩を掴んで抱きこもうとする。

 そんなことでは凛子は手に入らない。しかし凛子がもがけばもがくほど真川は彼女の肩を強く掴んだ。

 

「いや…っ」


 抵抗など無いかのように抱きこまれて、凛子に苦しいほどの欲望と無力感が襲ってくる。


(山原さん…!)



 本当なら山原にこうして抱きしめて欲しかった。

 彼は初めから両手を広げてくれていたはずだ。

 それを裏切ったのは凛子の方で。



カッ!



 奥歯を噛んだ凛子の懐が光ったかと思えば、今度は消火器を振りまわすような煙が大きく噴き出した。


「な、なんだ…!」


 一瞬で濃い煙に囲まれた凛子は真川の手が慌てたように離れたことをいいことに、咄嗟にその場を逃げ去った。


(火事…!?)


 しかし煙を吸い込んでしまっても息苦しくならない。まるで深い霧の中に迷い込んでしまったようだ。

 前も後ろも分からないが、ふと凛子は自分の手の中に異物が握られていることに気付いて手で探る。


「ビー玉…?」


 指先ほどのつるりとしたガラス玉がころりと凛子の手の平で収まっている。

 元からこんなものを持っていた記憶はない。

 だが捨ててしまおうなどとも思えずじっと眺めていると、次第に煙は薄まっていく。


 やがて何かに吸いこまれるようにして消えた煙のあとには、真川と凛子が取り残されていた。

 不思議そうに部屋を見回していた真川は、部屋の隅にまで逃げていた凛子を見つけて首を傾げる。


「ん? どうしたんだ、佐々木くん」


 真川はまるで何事も無かったかのように言って、


「今日は母に付き合って疲れただろう。うまく言っておくから少し休んでいくといい」


 そう椅子まで勧めてくるではないか。 

 しかし容易く近付くことも出来ずに凛子がその場で頷くと、真川はあっさりと引き下がる。

 彼は「俺は仕事に行くよ」と微笑みさえ残して踵を返したが「そうそう」と振り返る。

 

「やっぱり女性のウェディングドレス姿は綺麗だね。君の未来の花婿より先に見てしまったのは申し訳ないけれど」


 そう茶化した真川の顔には、先ほどの狂気めいた様子が嘘のように消えていた。


 いったい何があったのか。


 唖然とする凛子を他所に、真川は部屋を去って行ってしまった。


(何だったの…?)


 どっと疲れを感じて椅子に座りこんだ凛子だったが、再び視界が曇っていくのを感じて思わず手の平を見遣ると、自分の手から煙が噴き出しているのに気付いた。


「きゃあ!」


 咄嗟に振り払うと、ぽーんと何かが手を飛び出していく。

 握りこんだままだったビー玉だ。

 宙を舞ったまま煙を吐き出していたビー玉だったが、やがて煙に消えてしまう。


『――言った通りになったな』


 煙の中から声がしたかと思えば、ぶわりと煙が一息に消え、代わりに男が現れた。


「言ったはずだぞ。お前は金を背負った魚。魅入られれば倫理も理屈も越えて、手段を選ばずお前を欲するようになる」


 気流し姿の長い白髪、金の瞳で凛子を見下ろし男はにやりと笑う。

 山の主だ。

 ゆったりと気流しの裾に腕を差し入れ、面白がるような顔を少し引っ込め目を細めた。


「儂が守ってやらねば、今頃どうなっていたことか」


「守る…?」


 訝る凛子に山の主は懐から見覚えのあるビー玉を取りだした。


「お前にやったこれで守ってやろうと思っていたが、やはり役に立ったな」


 そう言われて「あっ」と凛子も思い出す。そのビー玉は確か山の主の森から逃げてきた時に、凛子の鞄に入っていたものだ。

 山原に持っていても構わないと言われたので家のタンスの上に転がしておいたはず。


「どうだ? 分かったか。――お前のような者は人の世では生きにくい」


 山の主の言葉に凛子に悪寒が蘇る。

 確かにあのままではどうなっていたか分からない。

 真川の目は普通ではなかった。


「人の世にあってはいつ食われるか、いつ襲われるかと怯えながら暮らさなければならないぞ。――儂と共に来い。儂のそばなら、何の心配もいらないぞ」


 いつになく優しい響きの男の声に脅されている気がして、凛子は口を噤んで視線を逸らせた。

 口を開けばみっともなく山の主に助けてくれと乞うような気がしたのだ。


「お前を傷つけるようなことはしない。儂と来い」


――そうやって手を差し出して欲しかった人はこの人じゃない。


 差し出された手を凛子はじっと見つめた。


 凛子は、普通ではないかもしれないが、今まで普通に暮らしてきた。

 厄介事ばかりだが、家族も友達もいる。

 

 好きな人だって。


 別れを告げられて泣いたことを忘れたことはない。

 今だって胸がしくしくと痛む。


――結局、名前を呼んでくれなかったね。


 そうじゃない、と言えなかった。


 彼の名前ならずっと前から知っていた。

 たまに会社にやってくる彼が優しそうな人だな、と思っていた頃から。

 

 忘れていたわけじゃない。

 ずっと呼んでみよう、名前を呼んでいいか聞いてみよう、と思っていた。

 

 けれど凛子はトラブルメーカーで、山原には迷惑ばかりかけている。

 

(全部言い訳だわ)


 呼べなかったのは事実だし、最初に裏切ったのは凛子の方だ。


 差し出された手から目を逸らせて、凛子は人の営みが走る窓の外へと目を向ける。

 

 凛子は人間だ。

 けれど、本当にここに居てもいいのだろうか。

 

 余計なお金持ちを呼び寄せてしまうし、人ではないものには付け狙われているし、真川のように近くに居る人をおかしくしてしまうのかもしれない。

 


――ふと、青いものが目に入った。



 一瞬、空と見間違えたのかと思ったが、それは地上にあった。

 目の覚めるようなスカイブルー。

 

 普通の車よりも少し小さなそれは、青い車だった。


 青い車がちょうどホテルの前を横切って、テールランプを灯して止まった。



 凛子は部屋に視線を戻した。


「――私の名前、知っていますか?」


 改めて差し出された手に尋ねてみると、山の主は両腕を広げた。


「人の世での名前など、すぐに役に立たなくなる。儂が新しく名付けてやろう」


 気持ちのいいほど尊大な言葉に凛子は思わず微笑んだ。


「あいにくですが」


 笑いを噛んで席を立つ。


「私の名前はちゃんとありますので、お断りします」


 真っ直ぐ見上げた金の瞳が丸くなったが、いつものように面白がるように細くなる。


「断ったこと、すぐに後悔するぞ」


 低い声に凛子は「いいえ」と首を横に振る。


「好きな人がいるんです。人間のままでいたいです」


 そのままウェディングドレスの裾を持ち上げ、凛子は部屋を走り出た。



 





 は、は、と息を切らせて廊下を走り抜ける。

 

 少なくは無い行き交う人たちが彼女を振り返ってはぎょっとしたように驚く。

 当然だ。

 花嫁姿をした女が廊下を全力疾走しているのだから。

 

 驚いて道を譲る人たちをどこか可笑しく思いながら、一番おかしいのは自分だと凛子は笑い出したくなる。


 貸衣装の、それも偽物の婚約のために着たウェディングドレスを着て、ホテルを飛び出そうとしているのだ。

 あとでどんなことになるのか想像もしたくないが、分からないわけではない。

 けれど、今着替えてもたもたしていては、居なくなってしまうかもしれないのだ。



 あの青い車が。



 いつのまにかハイヒールは脱げて裸足で凛子はホテルを飛び出した。

 ちょうどドアボーイが他の客を迎えたところで、あつらえたように凛子は外へと抜け出せたのだ。

 車寄せにやってきた客が「うわ!」と驚いた声を上げて、ドアボーイが「お客様!」と悲鳴を上げるのが聞こえたが、すでに背中の遥か向こう。

 ホテルの前の歩道に駆け出て真っ直ぐ走る。


(居た!)


 やっぱり、と凛子は今更胸を撫で下ろした。

 人違いだったら目も当てられないというのに、確認さえしないまま凛子は飛び出してきてしまったのだ。


 その長身は折りたたまれるように青い車に乗り込むところだった。



「――待って!」



 びくり、と長身が揺れ、恐る恐るといった様子で上げられた顔は見る間に驚きで染まる。

 その様子は目を丸くした大型犬のようだと凛子は荒い息を吐きながら笑ってしまった。

 

  

 しかし笑ってばかりもいられない。


「あの」


 息を整えながら呼びかけると、その人は驚きを宥めるようにしてこちらに向き直る。


「……いったい、何があったんですか? ――佐々木さん」


 付け加えられた呼び方に凛子の心はずきりと痛むが、構っていられない。

 何のために恥も外聞も捨てて走り出てきたのか。

     

 久しぶりに見る目の前の長身は、見た目は元気そうだった。

 あの、しゃれこうべの腹の中から無事に抜け出せたようだ。

 髪は少し伸びただろうか。

 ワイシャツに背広といった格好だから、これからどこかへ行くのだろう。

 優しい目がこれ以上なく戸惑っていて可哀想だったが、話を聞いてもらわなくては。


「……山原さん」


 呼びかけると、山原は愛車のスカイブルーの屋根に手をかけて目に浮かんでいた戸惑いを消した。


「はい」


 覚悟を決めたような声に今度は凛子が逃げ出したくなるが、堪えた。

 

 そして山原と青い車をじっと見つめる。   

 ここで失敗すれば、彼らを見るのは最後になるかもしれないのだ。

 

(それでも言わなきゃ)


 臆病風に吹かれて後悔するのはもうたくさんだ。

 後悔するなら、全部伝えてからのこと。


 山原に、好きだと。


「山原さん!」


 リーンゴーンと鐘が鳴ったのは聞き間違いではないはずだ。

 結婚するのなら、この人と。




「私と、結婚してください!」




――ガランゴロンとどこかで鐘が耳障りに鳴っている。

   

 落ちたな、と自分の声が遠い。



(……今、私は何を…)


 好きだと言うはずだったのに。

 まさかプロポーズを口走ったのでは。

 ウェディングドレスをばっちり着て?

 

 凛子が伝い落ちる冷や汗を拭うことも出来ず、山原を見上げると、



「あっはっはっはっはっは!」



 彼は真っ赤な顔をして笑い崩れた。



「あ、ああ、あの…」


 今度は凛子の方が顔を真っ赤にしなければならなかった。


 穴があったら入りたい。


 何もかもすっ飛ばしてプロポーズする女がどこにいる。


……ここに居るけれど。



「……占いも、たまには当たるもんだな」


 そう山原は大笑いの余韻を残したまま呟いて、車のドアを閉めた。そのまま鍵をかけると凛子のそばにやってきて、


「とりあえず、謝りに行こうか」


 まったくの正論を言って、にっこりと笑ってくれた。




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