山原と不思議な彼女
初めて彼女を見た時、山原は目を疑った。
特別な場所でも特殊な場所でもない、取引先の会議室で静かにお茶を出してくれた女性に目を奪われたのだ。
こう言っては失礼な話だが、彼女は特別な美人というわけではない。もちろん不美人というわけではないので、男の目を惹くことは十分だと思うが、はっとするような類の美人ではない。ごくごく普通の、可愛らしい女性だ。
そんな彼女に山原が目を奪われたのは、彼女が纏った奇妙なほど頑丈な結界だった。
(まさか、神様でも降りてくるっていうのか?)
山原は誰にも他言したことはないが、官職も消えて久しい陰陽師の一族の末端だ。時代錯誤の慣習で一族の血が混じった者で少しでも人ではないもの――例えば、幽霊やアヤカシの類が見えるような者は特別な勉強をさせられる。
山原もその一人で、子供の頃は恐ろしいものを見ては怖い思いをしたものだ。何せ、彼の両親と妹はそういったものが見えないので、一人で怯えていなければならなかったのだ。
そんなわけで、山原の目には普通の人では見えないようなものも見えるわけだが、取引先で見かけた女性は大概の人ではないものを見てきた彼でさえ驚くような結界に包まれて働いていたのだ。
例えるなら頑丈な鎖と鍵がかけられた頑丈な箱、分厚い鋼鉄で守られた金庫がそのまま動いているように山原の目には見える。
結界に重さがあるなら、ガタンゴトンと彼女が動くたびに音が聞こえそうなほど。
その日は内心呆気に取られて気もそぞろに打ち合わせを終えた。
(いったい、何を守ってるんだ?)
あれほど強力な結界は、特殊な禁域にだってそうそう施さない。
間違って地上に出てきた神様か、はたまたうっかり生まれた大妖怪の先祖がえりか。
浮かんだ予想はどれも現実離れしていて滑稽だったが、彼女の結界はそれほど尋常ではない。
結界に直接触れてみたわけではないので、封じているのか守っているのか分からなかったが、不思議と山原は守っているのだと直感していた。
理由は無かったが、来社するたびに彼女を目で追ってしまうのは見えるもののさが。
そのうち不自然なほどの視線に気がついたらしく一緒に仕事をしていた川口に肘で突かれてしまった。
「なぁ、お前。佐々木さんのことが気になるのか?」
この会社の営業で、入社以来違う会社ながらもずっと付き合いがあるからか川口は気安く話をする間柄だ。彼は聞きもしないのに、にやにやと意地の悪そうな顔で続けた。
「美人ってわけでもないけど、いい人だよ。何でもよく気がつくし、社長も気に入ってて。この前なんか、どこかの社長にも声かけられててさ。プロポーズされたって噂があるけど本当かな」
この会社は大きくもないが小さくもない。そんな会社で社長のお気に入りというのはどういうことなのか。
「あ、社長の愛人ってわけじゃないんだよ。うちの社長は奥さん大事にする人だし」
川口の話によれば、彼女、佐々木凛子という女性は不思議なほど悪い噂の立たない人物だった。
どこで話を聞いても悪口を言う人間はおらず、他社の社長にまで気に入られたりするというのに、羨ましがる人間は居ても妬みや嫉みを向ける人間がいない。
(そんなことってあるのか?)
八方美人とはいうが、全員に好かれる人間などいない。どこかしらから何かが出てくるはずだが、営業の癖なのか耳の早い川口でさえ佐々木凛子の悪い噂を聞いたことが無いという。
それからというもの川口が妙な気を回して、山原が来社するたびに彼女にお茶を頼むようになった。
(余計なことを…)
山原は内心唸ったが、ガタンゴトンと頑丈な結界に包まれてやってくる彼女を間近で見ていた気付いたことがあった。
彼女の周りには、驚くほど悪意のあるアヤカシの類がいない。
どんな場所でも一つや二つそういう人ではないものが居るのだが、それがほとんどいない。おおむね植物のように無害なものばかりだ。
様々なものが入り混じる都会にあって、彼女の周りだけ神社の神域のように静かなのだ。
それがどうしてなのかと首をひねっていたが、その理由は会社の外で彼女を見かけた時に分かった。
その日は午後から川口との打ち合わせで昼休みの最中に山原は来社した。
だがあいにくと川口は食事に出かけているというので、時間を潰すために外へ出た。そして不意に向かいの道に異質な気配を感じて振り返ると佐々木凛子が歩いていて、その後ろを人でも食らってしまうのではないかと思うほど悪意を持った黒い塊がぞわぞわと這っては追いかけている。
(危ない…!)
咄嗟に山原は駆けだしていた。
人では無い物を見慣れた山原であっても冷や汗をかくほどの塊だ。いくら結界があるからといって、普通の人ではひとたまりもない。
しかし往来は車が多くてなかなか渡れず、山原が見ている目の前で塊がぶわりと広がり、佐々木凛子へと覆い被さったが、
ジュワ!
酸で溶けだしたような煙が上がったかと思えば、黒い塊がしゅうしゅうと消えていく。
ものの五分ほどで黒い塊は消えさって、彼女は平然と会社へと戻っていった。
(……嘘だろ)
呆然と見送った山原だったが、自分が目にした光景が信じられなかった。
(触れなかったんだ…)
黒い塊を消したのは金庫のような結界だ。だが、そもそもあの塊は彼女に触れることさえできなかったのだ。
結界に触れる手前であの塊は確かに怯んだ。
「――なんだ、お前は見える人間か」
突然、声が聞こえたかと思えば車の音も往来のざわめきも消えて、山原は見慣れない山奥に放り込まれていた。
ぐるりと見回してみるが、緑の深い木々に阻まれて夜なのか昼なのかも分からない。
だが外回り用の皮靴が踏みしめたのは枯れ葉と湿った土だ。
顔を上げると笹と木に囲まれた一筋の道が出来ていた。
(……何かに捕まったな)
とりあえず進んでみようと足を踏み出した山原に、木々がざわざわと囁きあう。
「ひとじゃ…」
「ひとのこがおる…」
「しかしみょうなにおいがする…」
道を進みながら、厄介なことになったと溜息をついた山原の目の前に、やがて祠が現れた。
ぎぃ、と誘うように開かれた観音扉を開けて御堂に入り込むと、暗い堂内の奥で白髪の男が脇息にもたれていて、こちらを見てにやりと笑う。
「これまた面白い客が来たな」
そう笑う男の頭にはキツネのような耳があって、ゆったりとした着物の背では長い尻尾が揺れている。
これはますます不味いと山原が顔を引きつらせていると、男はのんびりと口を開いた。
「陰陽師なんぞ、とっくの昔に滅んだと思っていたが、まだ居たのか」
男の言葉に、彼の周囲がざわりとうごめいた。
「おんみょうじ!」
「主さま、あぶないよ」
「食ってしまおう!」
暗闇だと思っていた場所には所狭しと人ではないものがひしめいているではないか。
だが主と呼ばれた男は「こんなもの食っては腹を壊すぞ」とからからと笑って、
「お前、あの娘を見つけたな?」
問われた意味を計りかねた山原だったが、はっと彼女のことが浮かんで引きつっていた唇を引き締めた。
「――彼女をどうする気だ」
山原の思いのほか低い声に、男は笑うように目を細める。
「お前はあの娘がどういうものか知らんのか?」
にやりとまたひと笑いして、「ああ、結界があって見えんか」と一人肯いた。
確かに結界があっては山原には佐々木凛子が何物なのかほとんど見えないと言っていい。あの綺麗過ぎるほどの身辺を不可解に思うぐらいだ。
「見えなくとも気付いたことを褒めてやるさ。――ひとつ教えておいてやろう」
男はそう長い爪を山原に向けた。何か呪いでもかけられるのかと身構えた山原だったが、男は淡々と言う。
「あの娘は特別だ。儂のようなものには極上の餌に見えるし、人間にとっては金塊かそれ以上の魅惑的なものに見える。そういう星に生まれたんだろうな。突然変異というやつだ」
普段は結界に阻まれてほとんど普通の人間と変わらない。
だが、強いアヤカシや強い力を持った人間には彼女がとても魅力的に見える。
「忌々しいことに二十年前、あの娘を見つけた陰陽師が頑丈な結界をあの娘にかけてしまってな。儂ですら手を出せん」
無防備な彼女を見て不憫に思ったのだろう。
たまたま陰陽師のような特殊な人間に出会ってしまうことも驚きだが、事なかれ主義の山原であっても彼女のような人は気の毒に見える。
彼女自身は、普通の女性であっても、その身にある不思議な力とも言えない引力のせいで望む望まない関係なく色々な物を惹き集めてしまうのだ。
「少し話し過ぎてしまったか」
男がぱちんと指をならす。
「うわ!」
気付けば山原は御堂の外に放り出されていた。
たまらず地面に転がった彼を嘲笑う男の声が森に響く。
「まぁ、そばで見ているがいいさ。この儂が二十年かけて結界を少しずつ剥いでやったから、そろそろお前にもあの娘の正体が分かるようになる」
起き上がった山原はスーツの汚れも忘れて唇を噛んだ。
(結界を解くだって…!)
あの結界を解いてしまえば、どうなるのか。
彼女の日常に人の世界の厄介事だけではなく、アヤカシも入り込むようになるだろう。
悪意あるものを近寄らせないほどの正体が明らかになれば、一体どうなるのか想像もつかない。
今でさえ、彼女の周りは神域のようだというのに。
(人間じゃいられなくなる)
いつの間にか森の主からはじき出されて、山原は道に立ちつくした。
人でいられなくなるなんて、普通の人間では耐えられない。
きっと、彼女は彼女でいられなくなる。
汚れたスーツで来社した山原を川口は笑ったが、いつものようにお茶を持ってきてくれた佐々木凛子は少し笑ったものの自分の手を差し出した。
「良かったら貸してください。打ち合わせにあいだに埃を払っておきますから」
思えば、まともに会話したのはこれが初めてだ。
汚れた上着を脱いで渡して「すみません」と謝った山原に、彼女は「いいえ」と笑う。
「次の取引先に汚れたスーツじゃ行けないでしょう?」
上着を受け取って会議室を後にした彼女の後姿を山原は少し呆然と見送った。
彼女には次の取引先があることなんて一言も告げていないのに。
時折、やってくる山原が大きな鞄を抱えているのを見てそう思ったのだろうか。
「惚れるなよ?」
川口の茶化した声に、山原の腹は決まった。
(俺にできることで、彼女を守ろう)
山原のできることは限りなく少ない。
だが、佐々木凛子という女性は少しだけ知っている。
丁寧に入れてくれるお茶も、何気なく気遣ってくれる優しさも、特別なことは何もない。
会社でのごく一面しか知らない赤の他人だが、それだけで構わなかった。
山原には彼女の特殊な部分が見え、そしてもしかしたら何かできるのかもしれないのだから。
それが偽善なのか、奉仕なのか。どちらでも構わない。
――数日後、少しでも接点を持とうと決死の覚悟で凛子に食事を申し込んだ山原が、これじゃあまるで告白だと気付くのはすぐのこと。
それから、彼女が不思議な人から大事な人に変わるまで三か月先のこと。
この時の山原にはあずかり知らないことである。




