凛子と山原
ぱんぱん、と鏡の前で顔を叩いて凛子は家を出た。
社会人は前の晩散々泣いたからといって会社を休めるほど甘くない。
(――でも、こんなことってあるのかしら)
今日はたまたまマルベーリックではなく元の懐かしい自社に呼ばれて帰ってきていた。様々な打ち合わせと共に、社長直々に激励までいただいた。
仕事は一生懸命やっている。
だが、これが凛子の運気の補正なのだとしたら。
また一つ余計なことに気がついて唇を噛んだところだったというのに、事務所の階段を降り切ったところで凛子は今日という日を恨みたくなった。
「……久しぶり」
山原がやってきていたのだ。
スーツ姿で資料を抱えているところを見ると、これから事務所で打ち合わせらしい。咄嗟に今日の茶葉はちゃんと良いのが残っていただろうかと考えて、凛子は俯いた。
「……お久しぶりです」
凛子はこれから再びマルベーリックに戻るのだ。山原のお茶を出すことはできない。
(お茶を出せたからって何を言うの)
今の凛子はマルベーリックに見合うようにと仕立てられた出来のいいスーツを着て、格好だけならいかにも上等そうだ。
靴だってピカピカで、髪だって前みたいなひっつめではなくバレッタで品良くまとめている。
これでは、いつだって逃げてきたお金持ちそのもの格好。
「――婚約」
山原の声にはっと顔を上げると、彼の優しげな顔が苦く歪んでいた。
「マルベーリックの社長と、婚約したんだって?」
「……どうして、それ…」
婚約の話はまだ身内以外は知らないはずだ。偽装とはいえ、事が大きくなり過ぎるのはよくないからと真川が手を回したはずだった。
凛子の様子に山原は少し口の端を上げて、
「会社では噂になってるよ」
人の口に戸は立てられないということか。
それも覚悟したはずだったのに。
凛子はみるみる内に自分の顔が熱くなっていくのを感じていた。
怒りたいわけじゃない、悲しいわけでもない。
(恥ずかしい)
ただただ、山原に知られていたことが恥ずかしい。
そんな凛子の様子を山原は何か言いたげに見ていたが、口にしかけた言葉は消えた。
「――凛子!」
パァン!
どこかでガラスでも割れるような音が聞こえたかと思えば、凛子が悲鳴を上げる間もなく辺りが真っ暗になってしまった。
「な、何…?」
目を凝らしても薄明かりさえ見当たらない闇の中では頼るものもない。
何か無いかと手で暗闇を探っていると、誰かにぐっと手を掴まれた。
「きゃ…」
「……佐々木さん」
そばで人の気配がしたかと思えば、ふわりと辺りが明るくなる。
目が眩むほどの光だと思ったが、目が慣れるとそれはライターの明かりだと分かった。
ライターの明かりのそばで山原がそっと苦笑した。
「大丈夫?」
掴まれていた手はそっけなく放されたが、山原は凛子を優しく見つめてくる。
その瞳に何か見いだそうとするのは、凛子のわがままだろう。
(それに名前…)
佐々木さん、と山原は改めていた。お付き合いをする以前の呼び方だ。
思わず俯いた凛子だったが「ごめん」と山原が呟くように言うので顔を上げた。
「また、巻き込んでしまったみたいだ」
どうやら、山原の領分である不思議な世界にまた迷い込んでしまったようだ。
ライターの明かり越しに山原が苦笑するので、凛子もまったく別のことを口にする。
「ライター、持ってるんですね」
言葉にしてみると、自分の方も随分と他人行儀な言葉遣いだった。
以前は確かにあったはずのものがぷっつりと切れてしまったようだ。
山原は凛子の横目で見遣って頬をかく。
「……実は、煙草を少し」
凛子の前では山原は煙草の臭いをさせていたこともない。
(あのお嬢さんの前では、吸うのかしら)
この前、山原と腕を汲んで歩いていた綺麗なお嬢さん。山原があんなに寛いだ顔をしていたのだ。きっと凛子の知らない山原の顔を知っているだろう。
煙草を吸ったわけでもないのに口の中に苦みが走って、凛子は再び口を噤む。
「それよりここから出ないと…」
凛子の様子を少し見遣った山原はライターを暗闇にかざした。しかしライターの明かりでも暗闇の果てが見えない。
「あの、ここがどこだか分かりますか?」
「うん。腹の中だよ」
晩御飯の献立でも応えるように山原が言うので、凛子は一瞬「そうなんですか」と頷きかけたが、
「腹!?」
都会にくじらはいないはずだ。
そもそも何に呑まれたというのか。
「佐々木さん、何かに遭ったでしょう」
再びライターを凛子との間に返した山原はのんびりと問いかけてくる。
何かとは、何だ。
困惑して山原を見上げると、彼は苦笑する。
「あなたは何かに遭って、返事をした。だから狙われてたはずだ。俺はそういう物を引き付けやすいから一緒に呑まれた」
そう考えるのが素直かな、と山原はうーんと唸る。
「”はい”でも”いいえ”でも何かしら返事をするのは良くないよ」
それなら思い当る節がある。あの、ホテルのそばで遭遇してしまった骸骨だ。
あの日はあの山の主は現れず、凛子は引き込まれそうになったのだ。
そういうことであるなら、
「巻き込まれたのは、山原さんの方じゃない!」
凛子が思わず口にするが、山原は緩く首を横に振る。
「どのみち俺は一緒に呑まれてたよ」
それがどういう理由なのかと訊きたいが、彼はそれ以上応えたくないようで、言葉を切って再びライターの明かりを暗闇に向ける。
「……元彼とこんな場所で二人っきりっていうのは、気分が良くないかもしれないけど、しばらく一緒に居てね」
山原はこちらを見ない。
凛子の中で何かが弾けていく気がした。
「……違うの」
良いのか悪いのか分からない。
それでも、山原には言っておかなければならなかった。
それを、意地になって先延ばしにしていたのは凛子の方だ。
「婚約は、嘘なの」
ああ、言ってしまった。
「嘘?」
怪訝そうな山原の顔から目を背けたい気分だったが、留まった。
「頼まれたの。……本物の婚約者が居るのよ」
山原に話さなければ。
その一心だけだった。
「社長には、お嬢様の婚約者が居るの。そちらが本命。でもお嬢様の実家が今ごたごたしてて、社長も両親から他の婚約者を押しつけられそうになっていて、私がしばらく偽物の婚約者になることになったの」
お相手のお嬢様のお家騒動が終われば凛子の役目は終わりだ。
凛子は婚約を解消し、その後お嬢様が婚約する。
「私は、こんな体質だし、社長のご両親も何故か騙せて、うまくいって…」
上手くいきすぎて自己嫌悪に陥るほどだった。
まるで笑い話だ。
けれど、凛子は笑おうとして失敗した。
そして山原の顔はみるみる内に眉が釣り上がって威嚇するように顔が歪んだ。
「……そんな馬鹿なこと、君は悩みもせず引き受けた?」
静かな声が震えているようだった。
怒りで。
(――私、馬鹿だ)
こんな馬鹿げた理由を、どうして言おうと思ったのだろう。
(許してもらおうと思ったの? 辛かったねって言ってくれるとでも?)
そんなことあるわけがないのに。
唇をきつく噛んだ。
気を緩めると涙がせり上がってくるようで、それだけはしてはならないと思った。
「――俺は」
何かを抑えつけるような低い声だった。
「佐々木さんにしてみれば普通の人間じゃないかもしれないけど、俺にだって分かるよ」
山原が普通の人間じゃないなどと思ったことはない。
顔を上げると、彼はやはり今までにないほど顔をしかめていた。弛む気配はない。
「偽装婚約なんて馬鹿なことだ。誰も幸せになんかならないよ」
分かってる。
分かっていたはずだ。
だから何か言わなくては、と唇を動かしてみるものの言葉にはならなかった。
「佐々木さんは、自分のことをよく分かってない」
山原はスーツの内ポケットから紙きれのようなものを取り出して、それをライターでじりじりと燃やす。
「人間は鈍感だからね。敏い人しかあなたには気付かない。でも人では無いものや俺みたいな人間には、あなたは全然違って見えるんだ」
火のついた紙きれが燃えきる前に、山原はそれを暗闇へと放った。
ボボッ! と何かが燃え上がるような音がしたかと思えば、ぐつぐつと暗闇に不穏な音がし始める。
「佐々木さん」
ライターを仕舞った山原が凛子の腕を掴んで自分へと引き寄せる。ぐっと力強く、しかしまるで荷物でも引き寄せるような様子に彼の気持ちは一つもない。
それが山原の答えのように思えて、凛子の心に冷や水が降る。
(ああ、この人はもう…)
山原に引き寄せられていると、次第に周りの暗闇に穴が開き始めて光が射し込んでくる。
また彼に助けられてしまった。
せめて礼を言わなければと思って顔を上げると、山原が堅い顔でこちらを見下ろしていた。
「……あなたのいう、お金持ちみたいな敏い人が一度あなたを見つけたら、目が離せなくて手に入れたくなる。人ではないものはもっと強く欲しがるだろう」
山原の優しい瞳の色が黒とも茶色ともいえない不思議な色をしている。
「――俺たちには、あなたは眩し過ぎる」
緩やかに細められた不思議な色の瞳が凛子をまるで羨望しているかのようで、凛子は泣きそうになった。
なぜ。
(なぜそんな目で私を見るの)
凛子は普通の女だ。
可愛げがなくて、言いたいことが言えなくて――いざという時、好きな人に何も言えない。
『いまいましい! 陰陽師め!』
穴だらけで消えかけている暗闇の洞が吠えた。どこかで聞いた声だと思えば、あのいつかのしゃれこうべだ。もしかしなくてもここはあのしゃれこうべの腹の中なのか。
低い男の声が威嚇するように響き渡る。
『大人しく私の腹におさまっていればいいというものを!』
わんわんと響く声に山原は少し顔をしかめただけだ。やれやれといった様子で、凛子の腕を放す。
「とにかく、偽装婚約なんてやめるんだ。あなたを欲しがる人はいっぱい居るんだから。――幸せになって」
とん、と凛子は山原に肩を押された。
すると驚くほど体が傾いで、暗闇の消えた光へと彼女の体は放り出されていく。
「……山原さん!」
手を伸ばして山原を掴もうとするが、彼は苦笑しただけだった。
「結局。最後まで俺の名前、呼んでくれなかったね。凛子さん」
優しい、凛子の大好きだった優しい顔で、山原は残酷に告げた。
「さようなら。凛子さん」
声にならない凛子の叫びを呑みこんで、光と闇は分かれて消えた。
気がついた凛子は会社の事務所の前で座り込んでいた。
我慢していたはずの涙が溢れて、いつまでも止まらなかった。




