凛子と憂鬱
自分の強運のお陰で山原と出会えた、と思えたらどんなに良いだろう。
――それは詭弁だ。
凛子はこの持って生まれた運とやらにこの上もなく振り回されてきた。
いくらお金持ちに出会うからといって、凛子自身が特別なわけではない。
そのはずだった。
それが、強い運気にお金持ちに留まらず妖怪変化のような人ではないものまで寄ってくるとは聞いてない。 ……誰が教えてくれるはずもないのだが。
そして凛子の運気は、安い感傷の時間さえ作ってはくれないのだ。
「――俺はお前に出会うために生きてきたのかもしれないな」
一生に一度聞けばいいと思うその言葉を凛子は幾度聞いただろう。
それほど価値のある人間ではありません、と声を大にして言いたいが、今の凛子にはできない。
応接間に美形と二人きりで取り残されている。
普段ならば大声でも上げて一目散に逃げ出しているのだが、これには事情がある。
彼は我が社の大口取引先なのだ。
下っ端社員である凛子に自社の社長直々のお願いを断れるだろうか。――できません。
所詮、社会人は社畜です。
真っ当なお給料いただいている限り社会人には越えられない壁あるのです。
どこか遠くを見たいと躍起になっていた凛子だが、改めて現実に目を向ける。
隣には、嘘のような美形が座っている。
すらりとした長身、仕立ての良いスーツ。体格が良いのだろう。肉厚の肩は近くで見ると思いのほか分厚く、シャツから覗く首はしっかりとしていて無駄に色気がある。軽く撫でつけた黒髪は濡れたようにしっとりとして艶やかだ。さっぱりとした切れ長の瞳は、常なら他人を威圧するほど鋭いのだろう。
しかし凛子を覗きこむ瞳はぞっとするほど甘い。
決して安くはないが高くもないソファセットがこの美形が座っていると一級品に見えるから不思議だ。
――いつか、突然電話をかけてきたという、マルベーリックの社長さまである。
彼は一時、我が社から女性社員を引き抜いていったのだが、結果として彼女は社長秘書を辞めることとなった。
何でも、一生懸命に社長に秋波を送り続け、すげなく断られると会社を辞めてしまったのだという。
そもそも、彼女は社長の電話を取った社員ではなかったらしい。
辞表を手にそう本人が叩きつけていったというから大した肝だ。
しかし彼女の度胸が後に残したのは我が社への不審だけである。
今度はその時の通話記録まで調べ上げられ、結果、弾きだされたのが、
「――佐々木凛子くん。これからよろしく」
凛子であった。
凛子の役目は秘書ではない。さすがに秘書に引きいれるのは躊躇したらしいが、凛子は我が社とマルベーリック社の橋渡しとしてかの本社に出向と言う形になる。
すでに決定事項なのは、凛子の雇い主の方の社長から直々に頼みこまれたからだ。小さいながら頑張って会社を大きくしてきた社長だ。見た目は小心者のおじさんだが、不況の中、雇ってくれた恩もある。
「……よろしくお願いいたします」
さりげなく握られた手を自分に取り戻しながら、凛子は目の前の新たな雇い主ににっこりと微笑んだ。
こうして勤続五年目にして、凛子は慣れ親しんだ昆布会社から離れることとなった。
――結局、凛子は迷わなかったのだ。
色々なことに理由をつけて、少しでも離れたかったのかもしれない。
山原との思い出の残る場所から。
山原とはあの日以来、連絡を取っていない。
彼の方も思うところがあるのか、取引先であるにも関わらず会社でも顔を合わせることがなく、連絡もない。
彼の履歴が携帯から消えて久しい。
マルベーリックの社長様のディナーのお誘いを丁重にお断りして退社する途中、凛子は道の真ん中から浮かんできたものに息を呑む。
何もないはずの道の真ん中から、どういうわけだかキツネが現れたのだ。
ぴょんと飛び跳ねるように道路へと着地したかと思えば、こちらに向かって器用にお辞儀するとおもむろに口を開く。
『佐々木凛子さまとお見受けいたします。どうかわたくしと共においでいただけませんでしょうか。我が主があなたさまとの面会をお望みです』
またか。
子供のようなキツネの声に凛子はうんざりとなった。
幸いか偶然か、凛子の他に道に人はいないので、キツネに向かって膝をついて目線を合わせた。するとキツネの方は少したじろいだものの、お行儀よく頭を下げる。
『どうか』
「ごめんなさい。あなたの主に伝えて。私は人だから、あなたたちとは交わらないのよ」
静かな凛子の声に、キツネは渋々といった様子で頷いた。
このキツネはなかなか物分かりのいい方だ。
「そうじゃそうじゃ。凛子は人間だからの。そう焦ることはない」
またしても降ってきた男の声に、凛子は今度こそ顔をしかめた。
ぎろり、と気迫を込めて睨んだにも関わらず、男の方は片眉を上げてとぼけた顔をしただけだった。
目鼻立ちは整った男だがその髪は雪のように真っ白だ。格好こそシャツにジーパンといったラフな格好だが彼は浮いていた。
「……あなたにもついていく気はありません」
凛子の言葉に男の方はますますおかしげに笑うだけだった。厄介な男だ。
「いいさ。気長にやる。儂の方はあと八十年ぐらいどうということはないからな」
人の寿命を勝手に量ったこの男は、あの不思議な森に凛子を引きこんだアヤカシだ。山原と連絡を取らなくなってからというもの、他のアヤカシが凛子にちょっかいをかけてくるたびに顔を出してくる。
しかも真実助けてくれるわけではなく、凛子がどうにか断りを入れてからやってくるものだから、他への牽制というよりも弱った凛子を上手く落そうという魂胆らしい。
(油断も隙もない)
おかげで凛子は会社を出てからも休まる時間がない。
お金持ちにはどうやらそういうアヤカシが近寄れないオーラでも出ているのか、彼らのような人では無いものが寄って来ないが、お金持ち自身が凛子にとってはアヤカシと同じだ。
「あやつとはまだ会っておらんのか」
こうしてアヤカシが話相手だというのだから、凛子は先のことを思うと暗澹たる心地になった。前門のアヤカシか後門のお金持ちかといったところだ。
「あなたに応える義理はありません」
凛子のにべもない応答にも機嫌を損ねないアヤカシの方も変わっているといえば変わっているのだが。
案の定、彼は楽しそうに笑って、
「あまり可哀想なことをしてやるなよ。儂のようなものは寛容だが、人は違うだろう?」
時間はかけるなよ、と意味深なことを言い残してふっと消えてしまう。
どういうことかと凛子が尋ねる隙もない。
そもそも凛子の疑問に彼が応えてくれるとは限らないのだが。
アヤカシの消えた道の真ん中をしばらく眺めていたが、やがて凛子は歩き始めた。
――山原と連絡を取らなくなって、一か月が経とうとしていた。
三か月前、あの不思議な森に迷い込んだ直後は、山原からのメールは確かに着ていた。だが、彼の方もそう暇ではない。出張だのと色々続いてメールは減り、とうとう無くなった。
凛子の方も考えさせてと言ったものの、ぽつぽつと返信だけはしていた。しかし一度会おうという山原の誘いは断り続けていて、山原の今度から出張だというメールを最後に返信を絶っていた。勝手にこちらから返信をやめておいて、山原からのメールが来ないとふてくされているつもりはなかったが、
(出張の邪魔になるかも)
そんなことを思っている凛子は、やはり意地になっているのかもしれない。
山原と会わなくなると、今度はお金持ちだけではなく、アヤカシ達も現れるようになったから凛子は凛子で心身共にやや疲れている。
アヤカシ達の方も、お金持ち達と同じで強引に凛子を連れ去ろうという者はいなかったが (もしかしたら、事あるごとに現れるあの白髪のアヤカシのお陰なのかもしれないが) それでも突然壁の中や道の真ん中か忽然と現れる彼らには驚かされるし、肝が冷える。
(……早く帰って寝よう)
誰にも相談する気にもなれなくて、友人からの誘いも断っている。
夜道を照らす外灯すら何だか明るく光ってうんざりしてくるのだから、今は相当よくない状態なのだ。
そんな様子だったからかもしれない。
その後、凛子の運命は思いもよらないことになってしまったのだった。




