凛子とお金持ち
私は、きっと他人が思うほど特別な人間ではない。
と、佐々木凛子は思う。
仕事はただの事務だし、特売は好きだし、休みの日には溜まった洗濯物をまとめて洗ってしまう。(この癖は何とか直したい)
友達とバーゲンに行くし、ちょっと甘いものを食べすぎて太ることもあるし、可愛いものも奇麗なものもそれなりに好きだ。
背は高くないし、顔もそんなに整ってる方じゃないからお化粧には気を使ってる。
そういうどこにでも居そうな、平凡な女だと思うのだ。
けれど、
「君の瞳に僕が映っているって、うぬぼれてもいいかな」
そりゃ目の前に座っていますしね。
フレンチのおいしい料理とセットでにこやかに眼前で微笑むのは、いかにも上等な男だ。良い仕立ての三つ揃いにきりりと締まったかかとの減っていない皮靴。ちらりとそで口から覗くカフスも趣味のいいネクタイも、きっと一度聞いても覚えられないブランドものだ。
ざっと見ただけでも、向かいに優雅に座る男は、確かに上等だった。
比べてこちらの貧相なことと言ったら比べるのも申し訳ない。
着替えてきたとはいえ、彼のスーツに比べればしわの寄ったスーツは紺で、履いているパンプスもいつ買ったとも知れない黒で光沢はすでにない。おまけにヒールを何度も直しているから不格好この上ない。髪はおろして申し訳程度に髪留めで装っているが、顔には太セルの黒ぶち眼鏡。
貧相この上ない。
どうしてこんな貧相な女とは対極にある男とフレンチレストランでフルコースをつついているのかというと、とどのつまりは彼がうちの会社のお得意様なのだ。
どういうわけか、凛子はこの上得意さまに気に入られ、フレンチをごちそうになっている。
直属の上司からは「くれぐれも粗相のないようにね」と含み笑いを頂いている。
すでに課内でお局になろうかというただの事務女子社員に巡ってきた最後の玉の輿を応援してやろうという、それだ。
話を目の前のお得意さまに戻すと、彼は御堂茂。弱冠三十二歳の御堂物産の若き副社長で次期社長候補なんだそうだ。なんでも古いだけが取り柄のうちの会社(江戸時代から続く実直が売りの乾物屋だ)とは長い間昵懇で、信用と実績では類を見ないらしい。
らしいというのは、そういうのは営業課の敏腕営業マンの担当であって、一介の事務員が関わりのある話ではないからだ。
ともあれそういう、紙の上から浮かび上がってきたような王子様がどうして凛子のような事務員にフレンチをごちそうしてくれているのかというと、ちょうどデパ地下に出店している我が社の店舗に営業のお手伝いとして出向していた時、凛子を見かけてしまったそうだ。
「おいしい?」
着ているものが上等な副社長はそのお姿も上等だ。どこぞのモデルのような長身に、すっと鼻筋の通った外人みたいな甘い顔立ち。にっこりと微笑めば、きっと女はたちどころに彼の虜になるだろう。
「はい。このテリーヌのソースがなんとも」
当たり障りのないように凛子は答える。ただし、と心の中で加えながら。
美味しいものはカロリーなんて考えてくれないから、しばらく甘いものは控えなければならない。
「良かった。気に入ってくれて」
王子様は微笑んで、
「良ければ僕も気にいってくれると嬉しいな」
あなたのような王子様を嫌う女はいないでしょう。
静々と運ばれてくるフレンチを胃に大事に仕舞いながら、凛子は続いている美辞麗句を聞き流した。
小鳥のような、実はまめに仕事ができる僕の可愛いキティちゃん。
ああ、少しワインに酔った?
だったら、部屋を用意させるよ。だってここはホテルだからね。
王子様が妖しく微笑んだので、凛子はすかさず、デザートまできちんと食べてから、営業用の笑みを張り付けた。
「ごちそうさまでした」
あいにくと、凛子はザルなのだ。
おごってくださるという副社長の好意に甘えて支払ってもらったところまでは良かった。けれど、厭味なのか朴念仁なのか、まだ慣れていないらしいレストランの従業員は優雅に礼をしつつこうのたまった。
「またのおこしをお待ちしております。佐々木さま」
よりにもよって、副社長の名前を先に言わずに凛子の名前を先に出すとは。
ぎろりと横に連なっていた支配人に睨まれ、副社長は驚いたように凛子を眺めた。
それでも動揺を隠した王子様にエスコートされながら後ろを振り返ると、新人従業員が他の従業員に連行されていくところだった。憐れな。
だが、その憐れな従業員の二の舞に凛子も見舞われる。
「……君は、ここによく来るの?」
にこやかながらも何処となく険を含んだ眼差しが凛子に突き刺さる。
正直に言ってしまえば彼の言う通りだ。
一度や二度の頻度ではなく、それはもう、従業員に顔を覚えられるほど。
一介の事務員にこのホテルのレストランで食事をすること自体は非常にお財布に厳しい。
それが奢りでもなければ。
「凛子!」
レストランからエレベーターまでの廊下に、たった一声だけでも魅力的な男の声が響いた。
とっさに凛子は振り返り、そしてげんなりと肩を落とした。
颯爽と、という言葉がふさわしい男だ。日に焼けた長身に派手だが落ち着いたチャコールグレイのスーツはもちろん上等で、ゆるくウェーブのかかった黒髪に白い歯が覗けば、それはもうどこぞの皇太子のようだった。
彼は非常に魅力的な笑みを凛子に落とし、
「来てくれたんだな! ……そちらは?」
鋭く副社長と視線を交わすこの男は、このホテルのオーナーで、会長息子だ。
だからこのホテルは嫌だって言ったんだ。
凛子は二人の男に挟まれながら、人生幾度目かの修羅場に腹をくくった。
―――そう。凛子は、なぜか金持ちに気に入られてしまうのだ。