微笑む人
その図書室からは桜がよく見えた。
入学してすぐのオリエンテーションで、司書に連れられて案内された図書館は、大学自慢のゴシック様式の旧校舎の一角にあった。桜の枝が大きな窓にカーテンのように垂れこんで、その間から零れる陽光が室内を明るく照らしている。皆友人と思い思いの話をしながらぞろぞろと連れ立つ中、みはるがふと目をやると、一人吐息を漏らしながら本棚を眺めている背の高い男がいた。
その顔は喜びに満ちていて、宝物でも見つけたような表情で上から下まで本の背表紙を追っている。その書棚は時代小説のコーナーだった。ふわっとした髪を何とか押さえつけているような無造作なスタイル、細い目に薄い唇。取り立てて特徴的でもないのだが。幸せそうな顔に思わずこちらも笑顔になる。その高い背がさらに引き立つような姿勢のよさ。立ち姿がきれいだと思った。名前は何だったか。確か出席番号が近くだったはずだ。うっとりと書棚を眺めるその人を、みはるはしばらくの間眺めていた。
「あの人、なんていう人だっけ」
斉藤みはるは、同級生の斉藤美鈴に話しかけた。同じ大学、同じ学部の新入生、名前の順で隣だった二人はそのまま行動を共にしていた。とりあえず映画は好きだし、あまり厳しくなさそうという理由で入った映画研究会。入ってみれば、予想通り、映画を見たり、8ミリビデオで映画を撮ったり、飲んだり、飲んだり。予想と違っていたのは、あの立ち姿がきれいな、書棚をうっとりと見ていた彼が一緒だったことだった。
「はるちゃん、あの人に興味あるの?」
そういう美鈴は鈴ちゃん。「斉藤み」まで同じだから二人はそう呼ばれていた。みはるは自分の名前が気に入っていたので、はるちゃんと呼ばれるのはちょっと不満だった。
「だって、あの人も新一年生でしょ?」
「そうだけど。『山形くん』だよ?」
美鈴はあざ笑うように言った。
「『山形くん』?」
そんな名前だったろうか?
「ほら、あたし達みたいに、佐藤って男3人いたじゃん。一馬くんが『杉並』、俊介くんが『横浜』、それで」
美鈴が親指で彼を差して、
「『山形』が佐藤信吾」
背の高い彼は部室の隅で窮屈そうに座って映画雑誌をめくっていた。
「良く本読んでるからさ、何読んでんのって聞いたら、いまどき時代小説だって。ちょっとおじん臭いよね。あんまりしゃべんないし」
美鈴は流行に敏感で、乗り遅れることを異常に嫌う娘だった。マイペースなみはるは、我が儘な美鈴の言うことを半分は聞きながらも流されずにいるという術を早々に身につけて、トラブルを回避していた。時代小説、渋いじゃない。山形ってどんなところなんだっけ?みはるは彼に興味が湧いたが美鈴の手前黙っていた。
毎年みはるたちの大学祭は10月に行われる。新入生はクラブ対抗戦にかり出され、歌やダンスなど趣向を凝らして競い合う。順位次第では賞金が手に入るので、先輩たちからはかなりのプレッシャーをかけられていた。
映画研究会の新入生は5人。みはると美鈴の他に「山形くん」佐藤信吾と男子が2人。ここでも美鈴パワーが炸裂して、みはると美鈴がアイドルの格好をして歌い踊り、男性陣が早着替えや小道具のチェンジを手伝う、ということになった。美鈴のこだわりは凄かった。演劇衣装の店や貸衣装屋を回って、それらしい物を見つけてきた。予算オーバーだと文句が出ると「賞金がもらえれば安いもんよ」と笑った。
事件は当日起きた。衣装にアイロンをかけて持ってくる、といって持って帰った美鈴が当日待ち合わせの時間になっても現れない。いらいらしながら部室で待っていると、美鈴は青い顔をして入ってきた。
「遅かったじゃないか」
「どうしたの?」
口々に言うが、美鈴は黙って下を向く。焦って皆が詰め寄ると、ついに、わあっと泣き出した。
「電車に衣装の入った袋を置いて来ちゃったの!」
「何〜!?」
大きな声が上がって、周りからの視線が集中した。
「何処だよ、場所分かったのかよ」
「分かったんだけど、折り返して終点までいっちゃってて」
美鈴は今まで見たこともないような情けない顔をしていた。
「これから取りに行ったら片道一時間はかかるの。絶対に間に合わない」
みはるたちは呆然とした。何より衣装に力を入れていた美鈴が。あきれて返す言葉もないが、さしあたってはクラブ対抗戦だ。先輩達の手前棄権することなど許されそうになかった。
「歌だけでも歌ったら?」
「だめよ、衣装がないのに、こんな格好で歌ったって恥かくだけよ!」
張本人がどうにも動かない。みはるも他の男性部員もいらだちを隠せなかった。
「・・・出られれば、いいんだろ」
その時口を開いたのは佐藤信吾だった。