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婚約破棄を申し出たら、一種の愛情表現だと勘違いされました 〜私はツンデレなどではございません!〜

作者: 藤ゴリラ
掲載日:2026/10/31


「殿下。どうか、私(わたくし)との婚約を破棄してくださいませ」


 王宮の薔薇園に、私の声が響いた。


 目の前にいるのは、この国の第一王子、アレクシス・フォン・アルヴァレン殿下。

 黄金の髪に、澄んだ碧眼。誰もが見惚れる端正な顔立ちに、王族としての気品を兼ね備えた完璧な王子様。

 そして、私の婚約者である。


 殿下は、しばらく目を瞬かせていた。


「……婚約破棄?」

「はい」

「私(わたし)と君の?」

「はい」

「つまり、私たちの関係を終わらせたいと?」

「その通りでございます」


 よし、完璧だ。

 これほど明確に伝えれば、さすがの殿下も理解してくださるだろう。

 私は心の中で拳を握った。


 私の名前は、エレノア・フォン・ベルクシュタイン。

 由緒正しい公爵家の長女であり、王太子アレクシス殿下の婚約者である。

 ─ ─というのが、現在の私の肩書きだ。


 しかし、私はこの肩書きが大嫌いだった。


 公爵令嬢だから、淑女らしく振る舞わなければならない。王子の婚約者だから、王妃教育を受けなければならない。公爵家の娘だから、相応しい相手としか交流してはならない。

 何をするにも身分、身分、身分。

 私の人生は、いつの間にか誰かが決めた規則で埋め尽くされていた。


 本当はもっと自由に生きたい。

 好きな場所へ行き、好きなものを食べ、好きなことを学ぶ。

 できれば、身分を隠して世界中を旅してみたい。市場で値切り交渉をしたり、港町で魚を焼いたり、山奥の村で薬草を探したり。

 そんな、どこにでもいる一人の人間として生きてみたいのだ。


 だが、王子の婚約者である限り、それは叶わない。

 だから私は決意した。

 婚約を破棄してもらおう、と。


 もっとも、こちらから一方的に破棄を申し出れば、王家の面目を潰してしまう。公爵家にも迷惑がかかる。そこで考えたのが、殿下自身に婚約を諦めてもらうことだった。

 嫌われればいい。愛想を尽かされればいい。

 そうすれば、殿下の方から婚約解消を申し出てくれるはず。


 そのために、私は今日まで様々な作戦を練ってきた。

 そして、その第一歩が今なのだ。今回で解決することを願う。


「……エレノア」

「はい」

「君は、私に婚約を破棄してほしいのだな?」

「ええ。心の底から」

「なるほど」


 殿下は目を伏せた。

 そして、次の瞬間。


「ふっ……」

 笑った。

「なるほど。そういうことか」

「……はい?」

「君もなかなか可愛いことをする」


 ……今、何と?


「普段はあれほど冷静な君が、わざわざ私を呼び出して婚約破棄を申し出るとは」

「ええ、ですから」

「私の気を引きたいのだろう?」

「…………は?」


 殿下は、私の手をそっと取った。


「安心するといい。君の気持ちは十分に伝わった」

「いえ、何も伝わっておりませんが?」

「照れなくていい。婚約破棄など、君なりの愛情表現なのだろう?」

「違います」

「私に追いかけてほしいのだな?」

「違います!」

「まったく。君は昔から素直ではないな」


 殿下は実に嬉しそうだった。


 私は頭を抱えたくなる。

 どうして?

 どうしてそうなるの?


 婚約破棄を申し出たら、愛情表現だと勘違いされた。処罰も懇願も覚悟していたが、これはあまりにも予想外だ。


「……殿下」

「何だ?」

「私は、殿下のことが嫌いです」

「……!」


 殿下の瞳が輝いた。


「やはり、君はツンデレだな!」


 …………。

 この人にこの国を任せて良いのだろうか?


「殿下、私はツンデレなどではございません!」


 私はやや食い気味に言い放った。

 


◆◆◆



 翌日。

 私は作戦を変更することにした。

 直接的な言葉が通じないのなら、行動で示すしかない。


 殿下に嫌われるための作戦、第一弾。

 ─ ─ 徹底的に冷たく接する ─ ─


「おはよう、エレノア」

「……おはようございます、殿下」

「今日も美しいな」

「そうですか」

「その髪飾りもよく似合っている」

「どうも」

「昨日はよく眠れたか?」

「殿下には関係ございません」

「そうか。私のことを考えて眠れなかったのだな」

「どうしてそうなるのですか!?」


 駄目だ。

 何を言っても都合よく解釈される。

 ならば、もっと徹底しよう。


「殿下。私は本日、図書館へ参ります」

「そうか。私も同行しよう」

「お断りします」

「二人きりが恥ずかしいのか?」

「一人で読書をしたいのです」

「分かった。では、離れた席で本を読もう」

「……」


 殿下が楽しそうに笑った。


 私はこめかみを押さえる。

 この人と会話をするたび、寿命が縮んでいる気がする。

 それでも、諦めるわけにはいかない。

 ……私は絶対、自由を手に入れるのだ。



◆



 図書館に到着すると、殿下は本当に私から離れた席に座った。


 ようやく一人になれた。

 私はほっと息を吐き、植物図鑑を開いた。

 最近、特に興味があるのは薬草だ。貴族令嬢としての教養とは関係ないが、実用的で面白い。


 ページをめくっていると、ふと隣の棚の陰から小さな声が聞こえた。


「……どうしよう」


 幼い侍女が困った顔で立っていた。

 よく見ると、彼女は最近、私専属になった新人侍女だった。今日は休暇をとっていたはずだが、どうしたのだろう。


「どうしたの?」

「あっ、エレノア様! 申し訳ございません。実は、弟が熱を出してしまって……」


 侍女は慌てて頭を下げた。


「お医者様に診ていただいたのですが、薬が合わないようで……。薬師の方にも相談したいのですが、私にはお金がなくて」

「そう」


 私は立ち上がった。


「少し待っていて」

「え?」


 近くにあった紙とペンを取る。

 症状を聞く限り、必要なのは解熱作用のある薬草だろう。だが、素人判断で薬を使わせるわけにはいかないので、薬師に相談できるよう、私名義で紹介状を書いた。


「これを持って、王宮の薬師のところへ行きなさい。相談に乗ってくれるはずよ」

「で、ですが……」

「気にしなくていいわ。弟さん、早く元気になるといいわね」

「……っ、ありがとうございます!」


 侍女は何度も頭を下げて去っていった。

 彼女を見送った私は、席に戻ろうと振り返る。


「エレノア」

「……何でしょう」


 そこには、いつの間にか殿下が立っていた。

 げっ、という顔をしなかった自分を褒めたい。


「君は本当に優しいな」

「別に。困っている人を助けただけです」

「そのようなところも好きだ」

「ですから、私は殿下に好かれたくないのです」

「そうか。私(・)に(・)だ(・)け(・)は優しさを見せたくないのだな」

「違います!」


 殿下は笑った。

 

 ……もうやだ、この人。



◆◆◆



 翌週。

 私は作戦を第二段階へ移行した。

 ─ ─ 王子の理想の婚約者を辞める ─ ─


 これまで私は、王妃教育の一環として様々な役目を果たしてきた。

 外交文書の確認、慈善事業の運営、貴族間の調整。

 どれも得意ではあったが、好きでやっていたわけではない。

 今日からは、それらを一切やめる。


 王宮の会議室。


「エレノア嬢、この資料について意見を聞かせてほしい」

「申し訳ございません。私はもう、そのような仕事をするつもりはありません」

「……え?」

「婚約者でなくなる予定ですので」


 周囲がざわついた。

 殿下はというと、なぜか満足そうに頷いている。


「なるほど。私に頼らず、自分の力で生きていきたいということか」

「はい?」

「素晴らしい心がけだ。だが、無理はしないでくれ」

「殿下、話を聞いておられますか?」

「もちろん。君が私の隣に立つためではなく、自分自身のために生きたいという話だろう?」


 少しだけ、驚いた。

 私の考えを理解してくれたのだろうか。

 しかし。


「だが、君が私の婚約者でなくなることはない」

「なぜですか!」

「君が何を望もうと、私が君を手放すつもりはないからだ」


 ……前言撤回。



◆



 その日の帰り道。

 王宮の回廊で、私は殿下と二人きりになった。


「エレノア」

「今度は何ですか」

「少し聞いてもいいか?」

「どうぞ」

「君は、本当に王妃になりたくないのか?」


 思いがけない質問だった。

 私は足を止める。


「……はい、もちろんでございます」

「なぜ?」

「……私は、自分の人生を自分で決めたいのです」


 言葉にしてみると、胸の奥にしまっていた思いが溢れてきた。


「王妃になれば、行きたい場所にも行けません。会いたい人にも自由に会えません。何をするにも、王家の名を背負わなければならない」

「……」

「自分勝手ですが、私は、誰かの期待に応えるためだけに生きたくないのです」


 殿下は黙っていた。


「それに、私は殿下を愛しているわけではありません」


 これは少し、嘘だった。

 殿下のことは嫌いではない。

 むしろ、幼い頃から一緒に過ごしてきた相手だ。彼の良いところも、悪いところも知っている。

 けれど、それと婚約を続けることは別の話だ。


「だから、どうか私を解放してください」


 殿下はしばらく私を見つめていた。

 やがて、困ったように笑う。


「君は本当に、難しいことを言う」

「難しいことではありません」

「そうか。では、少し考えさせてくれ」


 そう言って、殿下は去っていった。


 私はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

 ……ようやく少しは伝わっただろうか。



◆



 翌朝。

 王宮に一枚の掲示が出された。

 そこには、第一王子アレクシス殿下の署名があった。


『王太子妃候補の選定方針について』


 嫌な予感がした。

 急いで内容を確認する。


『今後、王太子妃候補に対して、王妃教育の強制を行わないものとする。また、候補者本人の希望を尊重し、本人の意思に反する婚姻を認めない』


 ……何だこれは。

 私は慌てて殿下の執務室へ向かった。


「殿下!」

「おや、エレノア。どうした?」

「これは何ですか!」

「見ての通りだ」

「王太子妃候補の選定方針を変更するなんて……!」

「君が望んでいたことだろう?」

「そうですが!」

「君だけでなく、ほかの令嬢たちも同じような思いをしているかもしれない。ならば、変えるべきだと思った」


 私は言葉を失った。


「もちろん、すぐにすべてを変えられるわけではない。だが、少なくとも私の代からは、本人の意思を無視した婚姻はなくしたい」

「……」

「それに」


 殿下は少しだけ顔を赤くした。


「君が自由に生きたいというのなら、私はそのためにできることをしたい」

「……っ!」

 

 この人は、こういうところがずるい。

 私が嫌われようとしていることなどお構いなしに、いつも優しい。

 だが、それでも。 


「それでも、私は婚約を続けるつもりはありません」

「そうか」


 殿下は頷いた。


「では、君が納得できるまで、何度でも話し合おう」

「……殿下」

「何だ?」

「私のこと、諦めてください」

「無理だな」


 即答だった。

 私は天を仰いだ。



◆◆◆



 数日後。

 私は思い切って、殿下を王宮の外へ連れ出した。

 市井での私を見れば、王妃に相応しくないと判断してくれるだろう。

 それこそが、殿下に嫌われるための作戦、第三弾。

 ─ ─ 素の私を見てもらう ─ ─


「今日はどこに行くのだ?」

「市場です」

「市場?」

「ええ。私は殿下の婚約者を辞めたら、各地を旅して暮らしたいと思っています。ですから、まずは平民の暮らしを知っていただこうかと」

「なるほど。私に君の理想の生活を教えてくれるのだな」

「違います。私が殿下にふさわしくないと理解していただくためです」

「楽しみだ」


 市場には多くの人々が行き交っていた。

 果物を売る商人、焼き菓子を並べる店主、荷物を運ぶ職人。

 私は思わず足を止める。


「わあ……」


 目の前には、色とりどりの果物が並んでいた。


「お嬢さん、リンゴはどうだい? 今日のは甘いよ!」

「では、二ついただけますか?」

「まいど!」


 私は財布から銅貨を取り出そうとした。

 しかし、その前に殿下が金貨を差し出していた。


「これで」

「ちょ、殿下!」

「何だ?」

「市場で金貨なんて使わないでください!」

「そうなのか?」

「そうです!」


 私は慌てて金貨を引っ込めさせ、銅貨で支払いを済ませた。

 まったく、これだから王族は。


「殿下、平民の暮らしというのは、こういうものです」

「なるほど。勉強になる」

「それに、値段交渉も大切なのですよ」

「分かった」


 その後、私たちは屋台で焼き菓子を買い、広場の噴水のそばで休憩した。

 殿下は初めて食べる庶民の焼き菓子に、少し驚いていた。


「美味しいな」

「でしょう?」

「君はこういうものが好きなのか」

「ええ。高級な菓子も悪くありませんが、こういう素朴な味も好きです」

「そうか」


 殿下は焼き菓子を見つめていた。


「……私は、君のことを何も知らなかったのだな」

「……そんなことは」


 私は、殿下の突然の自責に驚くと同時に、否定しようと言葉を紡ぐ。

 殿下とは長い時間一緒に過ごしてきた分、さまざまな私を見せてきた。私が、殿下の良いところや悪いところを知っているように、殿下も、私の良いところや悪いところをきっと知っているはずだ。


「私はずっと、君が王太子妃になることばかり考えていた」

「……」

「でも、君は君自身の人生を望んでいた」

「……」

「ならば、私は君の望みを叶えるべきなのだろうな」


 殿下は静かに笑った。

 その笑顔は、いつもの余裕たっぷりなものとは違う、真剣なものだった。


「……殿下?」

「いやなに。少し、考えがまとまっただけだ」


 二人の間にそよ風が流れ、長い沈黙が訪れる。


 そのとき、広場の向こうから小さな女の子が走ってきた。


「お母さーん!」


 女の子は勢いよく転びそうになった。

 私は慌てて駆け寄り、その身体を支える。


「危ないわよ。大丈夫?」

「うん……!」

「よかった。お母さんは?」

「あっち!」


 女の子の母親らしき女性が、慌ててこちらへ走ってきた。


「申し訳ありません! ありがとうございます!」

「いいえ。怪我がなくてよかったです」


 女の子は私のドレスの裾を握った。


「お姉ちゃん、ありがとう!」

「どういたしまして」


 女の子が去っていく。

 私は笑顔で見送った。

 そして振り返ると、殿下が私を見つめていた。


「……何ですか?」

「やはり、君は優しい」

「普通のことをしただけです」

「君はいつもそう言う」


 殿下は少しだけ笑った。

 先程の真剣な笑みでもなく、普段の笑みでもない。愛おしいものを見つめるような笑みだった。


「私は、そんな君が好きだ」

 

 心臓が跳ねた。

 ……不意打ちは卑怯だ。

 私は顔を逸らす。


「そ、そういうことを簡単に言わないでください」

「簡単ではない。ずっと思っていることだ」

「もう!」


 私は歩き出した。

 殿下が後ろからついてくる。


「エレノア」

「何ですか!」

「顔が赤いぞ」

「市場が暑いのです!」

「そうか。では、日陰に行こう」

「そういう意味ではありません!」


 ……もう、本当に。

   この人といると調子が狂う。

   


◆◆◆



 それから数日後。

 私は父に呼び出された。


「エレノア。王家から話があった」

「……婚約のことでしょうか」

「ああ」


 父は少し困った顔をしていた。


「王太子殿下から、正式に婚約解消の申し出があった」

「……え?」


 思わず聞き返した。


「殿下は、君の意思を尊重したいとおっしゃっている。王家としても、今回の件を認めるそうだ」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

 ……本当に?

 あれほど頑なだった殿下が?


「そう、ですか」


 私は小さく頷いた。

 嬉しいはずだった。

 これで自由になれる。好きな場所へ行ける。好きなことをして生きていける。

 望んでいたことが、ようやく叶うのだ。


 なのに。

 どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。


「エレノア」

「はい」

「本当に、それでいいのか?」


 父の問いに、私は答えられなかった。



◆◆◆



 婚約解消の手続きは、王宮で行われることになった。

 当日。

 私は殿下と向かい合っていた。


「エレノア」

「はい」

「君の望みは叶った」

「……ありがとうございます」

「これで、君は自由だ」


 殿下はいつものように穏やかに笑った。


「好きな場所へ行くといい。好きなものを学び、好きな人々と出会い、君の人生を歩んでほしい」

「殿下は……」

「私は王太子だ。王国を、国民を守る責任がある」


 殿下は少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「だから、君を私の隣に縛りつけることはしない」


 その言葉を聞いた瞬間、私は気づいた。

 彼は、ただ単に『エレノア』という一人の少女のことが好きなだけだったのだ。


「殿下」

「何だ?」

「どうして、そこまでしてくださるのですか?」

「君が望んだからだ」

「それだけですか?」

「それだけではない」


 殿下は私を見つめた。


「君が幸せでいてくれることが、私の一番の望みだからだ」


 ……ずるい。

 そんなことを言われたら。

 そんな優しい顔をされたら。


「……殿下は、意地悪です」

「そうか?」

「そうです」


 私は俯いた。


「私がどれだけ嫌いになろうとしても、殿下はいつも優しくて」

「うん」

「私がどれだけ冷たくしても、勝手に喜んで」

「うん」

「婚約破棄を申し出たら、愛情表現だと勘違いして……!」

「それは、少し反省している」


 思わず声が大きくなった。

 殿下は困ったように笑う。


「だが、君が私を嫌いになろうとしていたことには、気づいていた」

「……」

「君は昔から、嘘をつくのが下手だからな」


 殿下は私の手を取った。


「私に嫌われようとして、わざと冷たくしていたのだろう?」

「……」

「それでも、困っている侍女を助けたり、子供が転ばないよう支えてあげたり。なにより君は、私の独り善がりな態度に一度も文句をつけなかった」

「君はどうしても優しさを隠せなかった」

「……」

「そんな君のことが、私はどうしようもなく好きなんだ」


 ……ああ、私はなんてことをしてしまったのだろう。

 こんなにも、私のことを大切に思ってくれている、優しいこの人に、

 どれだけ非道いことをしてしまったのだろう。


「……ごめん、なさい。今まで、本当にごめんなさい」

「……ああ」


 涙が溢れた。

 どんなに謝っても、殿下に与えた苦痛とは比べ物にならないだろう。それでも、謝らざるを得なかった。


 殿下は笑い、寛容に謝罪を受け止めた。

 そして、私の手をそっと離した。


「もう、君は私の婚約者ではない。だから、最後に一つだけ頼んでもいいだろうか」

「……何でしょう」

「いつか、私のことを一人の男として見てくれないか」


 私は息を呑んだ。


「王太子でも、婚約者でもなく。ただのアレクシスとして」


 彼は真剣だった。


「君が自由に生きた先で、もし私を選びたいと思ってくれたなら、そのときはもう一度、君に求婚したい」


 私は何も言えなかった。

 ただ、胸が熱かった。


 ずっと欲しかった自由。そして、ずっと隣にいた人。

 その二つを天秤にかける必要など、本当はなかったのかもしれない。


「……考えておきます」

「ああ」

「ただし、返事は期待しないでください」

「分かった」

「本当に、期待しないでくださいね」

「もちろんだ」


 殿下は、いつもの笑顔で頷いた。


 私はその笑顔を見て、思わず小さく笑ってしまった。

 ……ああ。

   やっぱり、この人には敵わない。



◆◆◆◆◆◆



 それから半年後。

 私は公爵令嬢という身分を捨てたわけではないが、王宮を離れ、領地の外で暮らし始めた。

 父の許可を得て、身分を必要以上に明かさず、薬草や植物の研究をしながら各地を旅している。

 行きたいところへ行き、食べたいものを食べ、会いたい人に会う。

 毎日が新しい発見の連続だった。


 そして、今日。

 私はとある港町の市場で、薬草を選んでいた。


「お嬢さん、こちらの薬草はどうだい?」

「ありがとうございます。では、こちらを三束ください」

「まいど!」


 買い物を済ませ、荷物を抱えて歩き出す。

 そのとき。


「エレノア」


 聞き覚えのある声がした。

 振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。

 黄金の髪に、碧い瞳。

 少しばかり質素な服を着ているが、どう見ても王族の気品が隠しきれていない。


「……殿下?」

「久しぶりだな」

「どうしてここに?」

「休暇を取った」

「王太子がそんなに簡単に休暇を取っていいのですか?」

「君に会うためなら、多少の無理はする」

「そういうところですよ」


 私は呆れた。

 しかし、殿下は楽しそうに笑っている。


「それで、今日は何のご用ですか?」

「君に会いに来た」

「それは分かっています」

「では、一緒に食事でもどうだ?」

「……自分で払ってくださいね」

「もちろんだ」

「金貨は駄目です」

「分かっている」


 私たちは市場の端にある食堂へ向かった。

 そこで昼食を取り、町の様子を眺めながら、他愛のない話をした。

 殿下は王宮の近況を話し、私は旅先で見つけた珍しい植物について話した。

 不思議だった。以前なら、こんな時間を過ごすことさえ許されなかった。


 今は違う。私は自由だ。誰かに決められた役目ではなく、自分の意思でここにいる。


「エレノア」

「はい?」

「君は、今幸せか?」

「ええ。とても」

「そうか」


 殿下は嬉しそうに笑った。

 私は少し迷ったあと、口を開いた。


「……殿下は?」

「私か?」

「はい」

「君に会えたから、幸せだ」

「またそういうことを……」


 私は顔を逸らした。


「それに」


 殿下は続けた。


「君が自由に生きている姿を見るのが好きだ」

「……」


 私は目の前の青年を見つめた。

 昔から、少し変わった人だった。

 私の言葉を都合よく解釈するし、妙なところで頑固だし、時々どうしようもなく鈍感だ。


 けれど。

 私の自由を尊重してくれた。

 私のために、変わろうとしてくれた。

 そして今も、私を縛ろうとはしない。



◆



 その日の帰り際。

 殿下は、私の手に小さな花を一輪置いた。


「これは?」

「市場で見つけた。君に似合うと思って」

「……ありがとうございます」

「また会いに来てもいいだろうか?」

「自由にすればいいじゃありませんか」

「では、そうさせてもらう」


 殿下は嬉しそうに頷いた。

 私は花を胸元に抱き、彼の背中を見送った。


 ……まったく。

 これでは、まるで私が彼を待っているみたいではないか。


 いや違う。

 私は自由なのだ。誰かに縛られることなく、自分の意思で生きている。

 だからこそ、いつか彼を選ぶとしても、それは私自身が選んだ道になる。


「……次に会ったら、もう少し素直に話してみようかしら」


 ぽつりと呟く。

 その瞬間、遠ざかっていた殿下が勢いよく振り返った。


「エレノア! 今、何と言った!?」

「な、何でもありません!」

「私に素直になってくれるのか!?」

「聞こえていたのですか!?」

「もちろんだ!」

「もう! 殿下の馬鹿!」


 私は顔を真っ赤にして歩き出した。

 背後から、楽しそうな笑い声が聞こえる。

 ……本当に、どうしようもない人。


「やはり君は、ツンデレだな!」


 そんな声が聞こえてきた。

 私はそれに、ふふっと笑った。


「殿下、私はツンデレなどではございません!」


[ あとがき ]

ここまで読んでくださりありがとうございました。

励みになるので、ぜひ、評価やコメントをよろしくお願いします。

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