婚約破棄を申し出たら、一種の愛情表現だと勘違いされました 〜私はツンデレなどではございません!〜
「殿下。どうか、私との婚約を破棄してくださいませ」
王宮の薔薇園に、私の声が響いた。
目の前にいるのは、この国の第一王子、アレクシス・フォン・アルヴァレン殿下。
黄金の髪に、澄んだ碧眼。誰もが見惚れる端正な顔立ちに、王族としての気品を兼ね備えた完璧な王子様。
そして、私の婚約者である。
殿下は、しばらく目を瞬かせていた。
「……婚約破棄?」
「はい」
「私と君の?」
「はい」
「つまり、私たちの関係を終わらせたいと?」
「その通りでございます」
よし、完璧だ。
これほど明確に伝えれば、さすがの殿下も理解してくださるだろう。
私は心の中で拳を握った。
私の名前は、エレノア・フォン・ベルクシュタイン。
由緒正しい公爵家の長女であり、王太子アレクシス殿下の婚約者である。
─ ─というのが、現在の私の肩書きだ。
しかし、私はこの肩書きが大嫌いだった。
公爵令嬢だから、淑女らしく振る舞わなければならない。王子の婚約者だから、王妃教育を受けなければならない。公爵家の娘だから、相応しい相手としか交流してはならない。
何をするにも身分、身分、身分。
私の人生は、いつの間にか誰かが決めた規則で埋め尽くされていた。
本当はもっと自由に生きたい。
好きな場所へ行き、好きなものを食べ、好きなことを学ぶ。
できれば、身分を隠して世界中を旅してみたい。市場で値切り交渉をしたり、港町で魚を焼いたり、山奥の村で薬草を探したり。
そんな、どこにでもいる一人の人間として生きてみたいのだ。
だが、王子の婚約者である限り、それは叶わない。
だから私は決意した。
婚約を破棄してもらおう、と。
もっとも、こちらから一方的に破棄を申し出れば、王家の面目を潰してしまう。公爵家にも迷惑がかかる。そこで考えたのが、殿下自身に婚約を諦めてもらうことだった。
嫌われればいい。愛想を尽かされればいい。
そうすれば、殿下の方から婚約解消を申し出てくれるはず。
そのために、私は今日まで様々な作戦を練ってきた。
そして、その第一歩が今なのだ。今回で解決することを願う。
「……エレノア」
「はい」
「君は、私に婚約を破棄してほしいのだな?」
「ええ。心の底から」
「なるほど」
殿下は目を伏せた。
そして、次の瞬間。
「ふっ……」
笑った。
「なるほど。そういうことか」
「……はい?」
「君もなかなか可愛いことをする」
……今、何と?
「普段はあれほど冷静な君が、わざわざ私を呼び出して婚約破棄を申し出るとは」
「ええ、ですから」
「私の気を引きたいのだろう?」
「…………は?」
殿下は、私の手をそっと取った。
「安心するといい。君の気持ちは十分に伝わった」
「いえ、何も伝わっておりませんが?」
「照れなくていい。婚約破棄など、君なりの愛情表現なのだろう?」
「違います」
「私に追いかけてほしいのだな?」
「違います!」
「まったく。君は昔から素直ではないな」
殿下は実に嬉しそうだった。
私は頭を抱えたくなる。
どうして?
どうしてそうなるの?
婚約破棄を申し出たら、愛情表現だと勘違いされた。処罰も懇願も覚悟していたが、これはあまりにも予想外だ。
「……殿下」
「何だ?」
「私は、殿下のことが嫌いです」
「……!」
殿下の瞳が輝いた。
「やはり、君はツンデレだな!」
…………。
この人にこの国を任せて良いのだろうか?
「殿下、私はツンデレなどではございません!」
私はやや食い気味に言い放った。
◆◆◆
翌日。
私は作戦を変更することにした。
直接的な言葉が通じないのなら、行動で示すしかない。
殿下に嫌われるための作戦、第一弾。
─ ─ 徹底的に冷たく接する ─ ─
「おはよう、エレノア」
「……おはようございます、殿下」
「今日も美しいな」
「そうですか」
「その髪飾りもよく似合っている」
「どうも」
「昨日はよく眠れたか?」
「殿下には関係ございません」
「そうか。私のことを考えて眠れなかったのだな」
「どうしてそうなるのですか!?」
駄目だ。
何を言っても都合よく解釈される。
ならば、もっと徹底しよう。
「殿下。私は本日、図書館へ参ります」
「そうか。私も同行しよう」
「お断りします」
「二人きりが恥ずかしいのか?」
「一人で読書をしたいのです」
「分かった。では、離れた席で本を読もう」
「……」
殿下が楽しそうに笑った。
私はこめかみを押さえる。
この人と会話をするたび、寿命が縮んでいる気がする。
それでも、諦めるわけにはいかない。
……私は絶対、自由を手に入れるのだ。
◆
図書館に到着すると、殿下は本当に私から離れた席に座った。
ようやく一人になれた。
私はほっと息を吐き、植物図鑑を開いた。
最近、特に興味があるのは薬草だ。貴族令嬢としての教養とは関係ないが、実用的で面白い。
ページをめくっていると、ふと隣の棚の陰から小さな声が聞こえた。
「……どうしよう」
幼い侍女が困った顔で立っていた。
よく見ると、彼女は最近、私専属になった新人侍女だった。今日は休暇をとっていたはずだが、どうしたのだろう。
「どうしたの?」
「あっ、エレノア様! 申し訳ございません。実は、弟が熱を出してしまって……」
侍女は慌てて頭を下げた。
「お医者様に診ていただいたのですが、薬が合わないようで……。薬師の方にも相談したいのですが、私にはお金がなくて」
「そう」
私は立ち上がった。
「少し待っていて」
「え?」
近くにあった紙とペンを取る。
症状を聞く限り、必要なのは解熱作用のある薬草だろう。だが、素人判断で薬を使わせるわけにはいかないので、薬師に相談できるよう、私名義で紹介状を書いた。
「これを持って、王宮の薬師のところへ行きなさい。相談に乗ってくれるはずよ」
「で、ですが……」
「気にしなくていいわ。弟さん、早く元気になるといいわね」
「……っ、ありがとうございます!」
侍女は何度も頭を下げて去っていった。
彼女を見送った私は、席に戻ろうと振り返る。
「エレノア」
「……何でしょう」
そこには、いつの間にか殿下が立っていた。
げっ、という顔をしなかった自分を褒めたい。
「君は本当に優しいな」
「別に。困っている人を助けただけです」
「そのようなところも好きだ」
「ですから、私は殿下に好かれたくないのです」
「そうか。私にだけは優しさを見せたくないのだな」
「違います!」
殿下は笑った。
……もうやだ、この人。
◆◆◆
翌週。
私は作戦を第二段階へ移行した。
─ ─ 王子の理想の婚約者を辞める ─ ─
これまで私は、王妃教育の一環として様々な役目を果たしてきた。
外交文書の確認、慈善事業の運営、貴族間の調整。
どれも得意ではあったが、好きでやっていたわけではない。
今日からは、それらを一切やめる。
王宮の会議室。
「エレノア嬢、この資料について意見を聞かせてほしい」
「申し訳ございません。私はもう、そのような仕事をするつもりはありません」
「……え?」
「婚約者でなくなる予定ですので」
周囲がざわついた。
殿下はというと、なぜか満足そうに頷いている。
「なるほど。私に頼らず、自分の力で生きていきたいということか」
「はい?」
「素晴らしい心がけだ。だが、無理はしないでくれ」
「殿下、話を聞いておられますか?」
「もちろん。君が私の隣に立つためではなく、自分自身のために生きたいという話だろう?」
少しだけ、驚いた。
私の考えを理解してくれたのだろうか。
しかし。
「だが、君が私の婚約者でなくなることはない」
「なぜですか!」
「君が何を望もうと、私が君を手放すつもりはないからだ」
……前言撤回。
◆
その日の帰り道。
王宮の回廊で、私は殿下と二人きりになった。
「エレノア」
「今度は何ですか」
「少し聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「君は、本当に王妃になりたくないのか?」
思いがけない質問だった。
私は足を止める。
「……はい、もちろんでございます」
「なぜ?」
「……私は、自分の人生を自分で決めたいのです」
言葉にしてみると、胸の奥にしまっていた思いが溢れてきた。
「王妃になれば、行きたい場所にも行けません。会いたい人にも自由に会えません。何をするにも、王家の名を背負わなければならない」
「……」
「自分勝手ですが、私は、誰かの期待に応えるためだけに生きたくないのです」
殿下は黙っていた。
「それに、私は殿下を愛しているわけではありません」
これは少し、嘘だった。
殿下のことは嫌いではない。
むしろ、幼い頃から一緒に過ごしてきた相手だ。彼の良いところも、悪いところも知っている。
けれど、それと婚約を続けることは別の話だ。
「だから、どうか私を解放してください」
殿下はしばらく私を見つめていた。
やがて、困ったように笑う。
「君は本当に、難しいことを言う」
「難しいことではありません」
「そうか。では、少し考えさせてくれ」
そう言って、殿下は去っていった。
私はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
……ようやく少しは伝わっただろうか。
◆
翌朝。
王宮に一枚の掲示が出された。
そこには、第一王子アレクシス殿下の署名があった。
『王太子妃候補の選定方針について』
嫌な予感がした。
急いで内容を確認する。
『今後、王太子妃候補に対して、王妃教育の強制を行わないものとする。また、候補者本人の希望を尊重し、本人の意思に反する婚姻を認めない』
……何だこれは。
私は慌てて殿下の執務室へ向かった。
「殿下!」
「おや、エレノア。どうした?」
「これは何ですか!」
「見ての通りだ」
「王太子妃候補の選定方針を変更するなんて……!」
「君が望んでいたことだろう?」
「そうですが!」
「君だけでなく、ほかの令嬢たちも同じような思いをしているかもしれない。ならば、変えるべきだと思った」
私は言葉を失った。
「もちろん、すぐにすべてを変えられるわけではない。だが、少なくとも私の代からは、本人の意思を無視した婚姻はなくしたい」
「……」
「それに」
殿下は少しだけ顔を赤くした。
「君が自由に生きたいというのなら、私はそのためにできることをしたい」
「……っ!」
この人は、こういうところがずるい。
私が嫌われようとしていることなどお構いなしに、いつも優しい。
だが、それでも。
「それでも、私は婚約を続けるつもりはありません」
「そうか」
殿下は頷いた。
「では、君が納得できるまで、何度でも話し合おう」
「……殿下」
「何だ?」
「私のこと、諦めてください」
「無理だな」
即答だった。
私は天を仰いだ。
◆◆◆
数日後。
私は思い切って、殿下を王宮の外へ連れ出した。
市井での私を見れば、王妃に相応しくないと判断してくれるだろう。
それこそが、殿下に嫌われるための作戦、第三弾。
─ ─ 素の私を見てもらう ─ ─
「今日はどこに行くのだ?」
「市場です」
「市場?」
「ええ。私は殿下の婚約者を辞めたら、各地を旅して暮らしたいと思っています。ですから、まずは平民の暮らしを知っていただこうかと」
「なるほど。私に君の理想の生活を教えてくれるのだな」
「違います。私が殿下にふさわしくないと理解していただくためです」
「楽しみだ」
市場には多くの人々が行き交っていた。
果物を売る商人、焼き菓子を並べる店主、荷物を運ぶ職人。
私は思わず足を止める。
「わあ……」
目の前には、色とりどりの果物が並んでいた。
「お嬢さん、リンゴはどうだい? 今日のは甘いよ!」
「では、二ついただけますか?」
「まいど!」
私は財布から銅貨を取り出そうとした。
しかし、その前に殿下が金貨を差し出していた。
「これで」
「ちょ、殿下!」
「何だ?」
「市場で金貨なんて使わないでください!」
「そうなのか?」
「そうです!」
私は慌てて金貨を引っ込めさせ、銅貨で支払いを済ませた。
まったく、これだから王族は。
「殿下、平民の暮らしというのは、こういうものです」
「なるほど。勉強になる」
「それに、値段交渉も大切なのですよ」
「分かった」
その後、私たちは屋台で焼き菓子を買い、広場の噴水のそばで休憩した。
殿下は初めて食べる庶民の焼き菓子に、少し驚いていた。
「美味しいな」
「でしょう?」
「君はこういうものが好きなのか」
「ええ。高級な菓子も悪くありませんが、こういう素朴な味も好きです」
「そうか」
殿下は焼き菓子を見つめていた。
「……私は、君のことを何も知らなかったのだな」
「……そんなことは」
私は、殿下の突然の自責に驚くと同時に、否定しようと言葉を紡ぐ。
殿下とは長い時間一緒に過ごしてきた分、さまざまな私を見せてきた。私が、殿下の良いところや悪いところを知っているように、殿下も、私の良いところや悪いところをきっと知っているはずだ。
「私はずっと、君が王太子妃になることばかり考えていた」
「……」
「でも、君は君自身の人生を望んでいた」
「……」
「ならば、私は君の望みを叶えるべきなのだろうな」
殿下は静かに笑った。
その笑顔は、いつもの余裕たっぷりなものとは違う、真剣なものだった。
「……殿下?」
「いやなに。少し、考えがまとまっただけだ」
二人の間にそよ風が流れ、長い沈黙が訪れる。
そのとき、広場の向こうから小さな女の子が走ってきた。
「お母さーん!」
女の子は勢いよく転びそうになった。
私は慌てて駆け寄り、その身体を支える。
「危ないわよ。大丈夫?」
「うん……!」
「よかった。お母さんは?」
「あっち!」
女の子の母親らしき女性が、慌ててこちらへ走ってきた。
「申し訳ありません! ありがとうございます!」
「いいえ。怪我がなくてよかったです」
女の子は私のドレスの裾を握った。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして」
女の子が去っていく。
私は笑顔で見送った。
そして振り返ると、殿下が私を見つめていた。
「……何ですか?」
「やはり、君は優しい」
「普通のことをしただけです」
「君はいつもそう言う」
殿下は少しだけ笑った。
先程の真剣な笑みでもなく、普段の笑みでもない。愛おしいものを見つめるような笑みだった。
「私は、そんな君が好きだ」
心臓が跳ねた。
……不意打ちは卑怯だ。
私は顔を逸らす。
「そ、そういうことを簡単に言わないでください」
「簡単ではない。ずっと思っていることだ」
「もう!」
私は歩き出した。
殿下が後ろからついてくる。
「エレノア」
「何ですか!」
「顔が赤いぞ」
「市場が暑いのです!」
「そうか。では、日陰に行こう」
「そういう意味ではありません!」
……もう、本当に。
この人といると調子が狂う。
◆◆◆
それから数日後。
私は父に呼び出された。
「エレノア。王家から話があった」
「……婚約のことでしょうか」
「ああ」
父は少し困った顔をしていた。
「王太子殿下から、正式に婚約解消の申し出があった」
「……え?」
思わず聞き返した。
「殿下は、君の意思を尊重したいとおっしゃっている。王家としても、今回の件を認めるそうだ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
……本当に?
あれほど頑なだった殿下が?
「そう、ですか」
私は小さく頷いた。
嬉しいはずだった。
これで自由になれる。好きな場所へ行ける。好きなことをして生きていける。
望んでいたことが、ようやく叶うのだ。
なのに。
どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
「エレノア」
「はい」
「本当に、それでいいのか?」
父の問いに、私は答えられなかった。
◆◆◆
婚約解消の手続きは、王宮で行われることになった。
当日。
私は殿下と向かい合っていた。
「エレノア」
「はい」
「君の望みは叶った」
「……ありがとうございます」
「これで、君は自由だ」
殿下はいつものように穏やかに笑った。
「好きな場所へ行くといい。好きなものを学び、好きな人々と出会い、君の人生を歩んでほしい」
「殿下は……」
「私は王太子だ。王国を、国民を守る責任がある」
殿下は少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「だから、君を私の隣に縛りつけることはしない」
その言葉を聞いた瞬間、私は気づいた。
彼は、ただ単に『エレノア』という一人の少女のことが好きなだけだったのだ。
「殿下」
「何だ?」
「どうして、そこまでしてくださるのですか?」
「君が望んだからだ」
「それだけですか?」
「それだけではない」
殿下は私を見つめた。
「君が幸せでいてくれることが、私の一番の望みだからだ」
……ずるい。
そんなことを言われたら。
そんな優しい顔をされたら。
「……殿下は、意地悪です」
「そうか?」
「そうです」
私は俯いた。
「私がどれだけ嫌いになろうとしても、殿下はいつも優しくて」
「うん」
「私がどれだけ冷たくしても、勝手に喜んで」
「うん」
「婚約破棄を申し出たら、愛情表現だと勘違いして……!」
「それは、少し反省している」
思わず声が大きくなった。
殿下は困ったように笑う。
「だが、君が私を嫌いになろうとしていたことには、気づいていた」
「……」
「君は昔から、嘘をつくのが下手だからな」
殿下は私の手を取った。
「私に嫌われようとして、わざと冷たくしていたのだろう?」
「……」
「それでも、困っている侍女を助けたり、子供が転ばないよう支えてあげたり。なにより君は、私の独り善がりな態度に一度も文句をつけなかった」
「君はどうしても優しさを隠せなかった」
「……」
「そんな君のことが、私はどうしようもなく好きなんだ」
……ああ、私はなんてことをしてしまったのだろう。
こんなにも、私のことを大切に思ってくれている、優しいこの人に、
どれだけ非道いことをしてしまったのだろう。
「……ごめん、なさい。今まで、本当にごめんなさい」
「……ああ」
涙が溢れた。
どんなに謝っても、殿下に与えた苦痛とは比べ物にならないだろう。それでも、謝らざるを得なかった。
殿下は笑い、寛容に謝罪を受け止めた。
そして、私の手をそっと離した。
「もう、君は私の婚約者ではない。だから、最後に一つだけ頼んでもいいだろうか」
「……何でしょう」
「いつか、私のことを一人の男として見てくれないか」
私は息を呑んだ。
「王太子でも、婚約者でもなく。ただのアレクシスとして」
彼は真剣だった。
「君が自由に生きた先で、もし私を選びたいと思ってくれたなら、そのときはもう一度、君に求婚したい」
私は何も言えなかった。
ただ、胸が熱かった。
ずっと欲しかった自由。そして、ずっと隣にいた人。
その二つを天秤にかける必要など、本当はなかったのかもしれない。
「……考えておきます」
「ああ」
「ただし、返事は期待しないでください」
「分かった」
「本当に、期待しないでくださいね」
「もちろんだ」
殿下は、いつもの笑顔で頷いた。
私はその笑顔を見て、思わず小さく笑ってしまった。
……ああ。
やっぱり、この人には敵わない。
◆◆◆◆◆◆
それから半年後。
私は公爵令嬢という身分を捨てたわけではないが、王宮を離れ、領地の外で暮らし始めた。
父の許可を得て、身分を必要以上に明かさず、薬草や植物の研究をしながら各地を旅している。
行きたいところへ行き、食べたいものを食べ、会いたい人に会う。
毎日が新しい発見の連続だった。
そして、今日。
私はとある港町の市場で、薬草を選んでいた。
「お嬢さん、こちらの薬草はどうだい?」
「ありがとうございます。では、こちらを三束ください」
「まいど!」
買い物を済ませ、荷物を抱えて歩き出す。
そのとき。
「エレノア」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
黄金の髪に、碧い瞳。
少しばかり質素な服を着ているが、どう見ても王族の気品が隠しきれていない。
「……殿下?」
「久しぶりだな」
「どうしてここに?」
「休暇を取った」
「王太子がそんなに簡単に休暇を取っていいのですか?」
「君に会うためなら、多少の無理はする」
「そういうところですよ」
私は呆れた。
しかし、殿下は楽しそうに笑っている。
「それで、今日は何のご用ですか?」
「君に会いに来た」
「それは分かっています」
「では、一緒に食事でもどうだ?」
「……自分で払ってくださいね」
「もちろんだ」
「金貨は駄目です」
「分かっている」
私たちは市場の端にある食堂へ向かった。
そこで昼食を取り、町の様子を眺めながら、他愛のない話をした。
殿下は王宮の近況を話し、私は旅先で見つけた珍しい植物について話した。
不思議だった。以前なら、こんな時間を過ごすことさえ許されなかった。
今は違う。私は自由だ。誰かに決められた役目ではなく、自分の意思でここにいる。
「エレノア」
「はい?」
「君は、今幸せか?」
「ええ。とても」
「そうか」
殿下は嬉しそうに笑った。
私は少し迷ったあと、口を開いた。
「……殿下は?」
「私か?」
「はい」
「君に会えたから、幸せだ」
「またそういうことを……」
私は顔を逸らした。
「それに」
殿下は続けた。
「君が自由に生きている姿を見るのが好きだ」
「……」
私は目の前の青年を見つめた。
昔から、少し変わった人だった。
私の言葉を都合よく解釈するし、妙なところで頑固だし、時々どうしようもなく鈍感だ。
けれど。
私の自由を尊重してくれた。
私のために、変わろうとしてくれた。
そして今も、私を縛ろうとはしない。
◆
その日の帰り際。
殿下は、私の手に小さな花を一輪置いた。
「これは?」
「市場で見つけた。君に似合うと思って」
「……ありがとうございます」
「また会いに来てもいいだろうか?」
「自由にすればいいじゃありませんか」
「では、そうさせてもらう」
殿下は嬉しそうに頷いた。
私は花を胸元に抱き、彼の背中を見送った。
……まったく。
これでは、まるで私が彼を待っているみたいではないか。
いや違う。
私は自由なのだ。誰かに縛られることなく、自分の意思で生きている。
だからこそ、いつか彼を選ぶとしても、それは私自身が選んだ道になる。
「……次に会ったら、もう少し素直に話してみようかしら」
ぽつりと呟く。
その瞬間、遠ざかっていた殿下が勢いよく振り返った。
「エレノア! 今、何と言った!?」
「な、何でもありません!」
「私に素直になってくれるのか!?」
「聞こえていたのですか!?」
「もちろんだ!」
「もう! 殿下の馬鹿!」
私は顔を真っ赤にして歩き出した。
背後から、楽しそうな笑い声が聞こえる。
……本当に、どうしようもない人。
「やはり君は、ツンデレだな!」
そんな声が聞こえてきた。
私はそれに、ふふっと笑った。
「殿下、私はツンデレなどではございません!」
[ あとがき ]
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