婚約者に「聖女を傷つけるな」と言われたので、治癒契約を今日で切ります
「エリアナ。彼女を傷つけるな」
王太子レオンハルト殿下は、わたしではなく、隣に立つ少女の肩を抱いていた。
王宮の聖堂には、朝の光が差している。
白い石の床。古い柱。祈りの燭台。七年前から毎朝見てきた景色だった。
けれど、その日だけは、知らない場所のように冷たかった。
殿下の隣にいる少女は、ミレイユと名乗った。
辺境の礼拝堂で見つかった、神に愛された娘。
そう説明された彼女は、薄桃色の髪を揺らしながら、怯えたように殿下の袖をつかんでいる。
わたしは、何もしていない。
ただ、王太子の額に浮かんだ呪傷を見て、いつものように祈りを捧げようとしただけだった。
「殿下。今朝の傷は、いつもより深く出ています」
「必要ない」
殿下の声は、短かった。
「ミレイユが癒やしてくれる。彼女こそ真の聖女だ」
聖女。
その言葉が聖堂の天井に吸われていく。
わたしは自分の指先を見下ろした。
七年間、祈りを刻み続けた指だ。夜明け前に聖水を汲み、古い契約の文言を読み、殿下の呪傷と王都の結界を保ってきた。
その間、わたしが聖女と呼ばれたことは一度もない。
べつに、呼ばれたかったわけではない。
婚約者として、王家に嫁ぐ者として、それが務めなのだと思っていた。
「わたしは、ミレイユ様を傷つけるつもりなどありません」
「ならば、彼女を疑うな」
「疑っているのではなく、殿下の傷が」
「しつこい」
殿下が眉を寄せた。
「お前はただの婚約者だろう。聖女の奇跡に口を出すな」
ただの婚約者。
七年分の祈りが、胸の奥で音もなく冷えていく。
ミレイユが、気まずそうにわたしを見た。
彼女の手のひらには、淡い光が宿っている。確かに治癒の力だ。擦り傷や熱ならば消せるだろう。
けれど、殿下の呪傷は違う。
十二年前の北境戦で受けた、魔獣王の牙による傷。
肌に残った傷ではない。魂に食い込んだ呪いだ。
一度癒やして終わるものではない。
毎日、少しずつ抑えるしかない。
王都の結界も同じだった。
王家の血と、聖祈術師の契約。
それを合わせて、外の魔を遠ざけている。
「殿下」
「まだ何かあるのか」
わたしは、深く息を吸った。
今日が、契約更新の日であることを、殿下は覚えていないのだろう。
七年前、十三歳だったわたしは、この聖堂で王家との治癒契約に署名した。
王太子妃となる日まで、殿下の呪傷と王都の結界を支える。
その代わり、王家はわたしを未来の妃として尊重し、祈りに必要な聖域を守る。
そういう契約だった。
「いえ」
わたしは小さく頭を下げた。
「ただの婚約者として、わきまえます」
殿下は満足したようにうなずいた。
ミレイユはほっとした顔をした。
わたしだけが、その場で終わりを決めていた。
その夜、王宮の契約室には誰もいなかった。
古い羊皮紙が、机の上に置かれている。
王家の紋章。わたしの家、レイヴェル伯爵家の紋章。そして、聖祈術師の印。
毎年この日に署名を重ねることで、契約は続いてきた。
今年も、侍従は当たり前のように羽根ペンを準備していた。
当たり前のように、わたしが署名すると思っていたのだろう。
わたしは羽根ペンを手に取らなかった。
かわりに、首から下げていた銀の聖印を外した。
祖母から受け継いだものだ。
王家の聖堂に預ければ、契約は完全に閉じる。
指先が少し震えた。
七年間続けたことをやめるのは、思ったより怖い。
明日の朝、殿下の傷は開くかもしれない。
王都の結界も薄くなるだろう。
それでも。
わたしは、ミレイユを傷つけるなと言われた。
聖女の奇跡に口を出すなと言われた。
ただの婚約者だと言われた。
ならば、ただの婚約者は、王家の治癒契約を背負わなくていい。
「契約更新を、辞退します」
誰もいない部屋で、わたしは告げた。
聖印を机に置く。
銀色の印が、淡く光り、すぐに消えた。
胸の奥に張りついていた細い糸が、ふつりと切れる。
痛みはなかった。
ただ、少しだけ息がしやすくなった。
翌朝、王都の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
魔獣避けの警鐘だった。
わたしは王宮ではなく、レイヴェル伯爵家の馬車の中でその音を聞いた。
夜明け前に王宮を出て、家へ戻る途中だった。
御者が不安そうに振り返る。
「お嬢様、王都の結界が」
「ええ。薄くなっていますね」
「よろしいのですか」
「契約は、昨夜で終わりました」
それだけ言うと、御者は口を閉じた。
幼いころから仕えてくれている人だ。わたしが毎日どれほど疲れていたかも、彼は知っている。
王宮から使者が来たのは、昼前だった。
最初の使者は、侍従だった。
契約室の書類に署名がない、至急戻るように、という内容だった。
わたしは返事を書いた。
契約更新は辞退いたします。
必要な手続きは、昨夜すでに済ませました。
二人目の使者は、宮廷神官だった。
顔色が悪かった。
「エリアナ様、王太子殿下の呪傷が再発しました」
「そうですか」
「ミレイユ様の治癒では、表面の熱を下げることしかできません」
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、では困ります!」
神官は悲鳴のような声を上げた。
「王都の結界も弱まっています。外門の魔石が三つ割れました。あなた様の祈りが必要です」
「王都には、真の聖女様がいらっしゃるのでしょう」
「あの方の力は、まだ不安定で」
「わたしはただの婚約者です。聖女の奇跡に口を出すなと、殿下から命じられています」
神官は言葉を失った。
少しだけ胸が痛んだ。
この神官が悪いわけではない。
彼は、わたしの祈りが結界を支えていることを知っていた数少ない人だった。
けれど、知っていたのなら、なぜ昨日まで黙っていたのだろう。
わたしが「ただの婚約者」と呼ばれている間、なぜ一度も、それは違うと言ってくれなかったのだろう。
「契約は、双方の敬意で成り立つものです」
わたしは静かに言った。
「王家がわたしを必要としていたのは、祈りだけだったのでしょう。ならば、祈りだけを差し出す契約は、もう終わりにします」
三人目の使者は、夕方に来た。
王太子レオンハルト殿下本人だった。
その少し前に、王宮では評定が開かれていたらしい。
これはあとから、宮廷に残っていた侍女が教えてくれたことだ。
玉座の間には、王族、神官長、騎士団長、財務大臣、そしてミレイユが集められていた。
王都の外門では魔獣が二度も結界に触れ、東区の魔導灯は半分が消えた。
なにより、王太子殿下の額の呪傷が、人前で黒く開いた。
「聖女ミレイユ、王太子を癒やせ」
国王陛下に命じられ、ミレイユは震えながら手をかざした。
淡い光が生まれる。
それは確かに美しかった。
けれど光は、殿下の額に触れた瞬間、煙のように散った。
殿下が膝をついた。
玉座の間が凍りつく。
神官長は、そこでようやく古い契約簿を開いた。
「王太子殿下の呪傷、および王都中央結界の補助維持は、レイヴェル家の聖祈術師エリアナ様との契約により保たれておりました」
「なぜ、それを今まで言わなかった」
国王陛下の声は低かったという。
神官長は答えられなかった。
財務大臣が青ざめながら、契約更新の欄が空白になっていることを読み上げた。
「昨夜、エリアナ様は聖印を返却されました。契約は、終了しております」
その場にいた者たちは、みな理解した。
真の聖女だと持ち上げた少女ではなく、ただの婚約者だと軽んじた令嬢が、王都を守っていたのだと。
ミレイユは泣き出し、殿下は立ち上がろうとして、また傷の痛みに顔を歪めた。
そこで初めて、わたしを連れ戻せという命令が出た。
応接室に入ってきた殿下は、昨日よりずっと顔色が悪かった。
額からこめかみにかけて、黒い傷が枝のように伸びている。
その傷を見ると、反射のように祈りの言葉が舌に乗りそうになった。
わたしは、カップを両手で持った。
祈らないために。
「エリアナ」
「ごきげんよう、殿下」
「戻れ」
謝罪ではなかった。
やっぱり、と心のどこかで思った。
「王都が混乱している。結界も、私の傷も、お前がいなければ保たないらしい」
「はい」
「ならば戻れ。契約書に署名すればいい」
「お断りいたします」
殿下の目が見開かれた。
「何を言っている」
「契約更新を辞退します」
「これは命令だ」
「わたしは、ただの婚約者です」
昨日、殿下がわたしにくれた言葉を、そのまま返した。
殿下は苦しそうに唇を噛んだ。
「昨日のことなら、言い過ぎた」
「そうですね」
「ミレイユは不安がっていた。私は彼女を守ろうとしただけだ」
「ええ」
「お前なら、わかってくれると思った」
わたしは、そこで初めてカップを置いた。
「殿下」
「なんだ」
「わたしは、あなたの傷を隠す包帯ではありません」
殿下の顔から、色が消えた。
「わたしは七年間、毎朝あなたのために祈りました。王都のためにも祈りました。それを務めだと思っていました。けれど、務めは、軽んじられても黙って差し出し続けることではありません」
声は震えなかった。
不思議だった。
あれほど怖かったのに、言葉にすると、胸の中が少しずつ澄んでいく。
「あなたは、わたしに聖女の奇跡に口を出すなとおっしゃいました。では、聖女様に祈っていただいてください」
「ミレイユには無理だ」
「それは、わたしのせいではありません」
「エリアナ」
「復縁も、契約更新もいたしません」
殿下は立ち上がった。
その拍子に、額の傷が黒く脈打った。
わたしは手を伸ばさなかった。
「後悔するぞ」
殿下の声は、かすれていた。
「いいえ」
わたしは首を横に振った。
「後悔なら、昨日までに十分しました」
殿下が帰ったあと、応接室には静けさが戻った。
窓の外で、夕暮れの光が庭の白薔薇を染めている。
わたしは、長く息を吐いた。
扉が控えめに叩かれたのは、そのすぐあとだった。
入ってきたのは、隣国ルシェルの神官騎士、オルディス卿だった。
銀の髪を後ろで束ねた、静かな目をした人だ。
王宮の聖堂で何度か顔を合わせたことがある。
「突然の訪問をお許しください、レイヴェル嬢」
「オルディス卿。どうしてこちらへ」
「あなたが王家との契約を閉じたと聞きました」
噂が早い。
そう思ったけれど、彼の顔に興味本位の色はなかった。
「責めに来たのですか」
「いいえ」
オルディス卿は、深く頭を下げた。
「七年間、お疲れさまでした」
それだけの言葉だった。
胸の奥が、急に熱くなった。
責められると思っていた。
戻れと言われると思っていた。
王都のために我慢しろと言われると思っていた。
けれど、彼はただ、労ってくれた。
「ルシェルでは、聖祈術師を探しています」
「わたしを、ですか」
「はい。ですが、祈りのためだけに来てほしいとは申しません。あなたが望むなら、研究院に籍を置き、契約術を学び直すこともできます。休むことから始めても構いません」
休む。
その言葉の意味を、わたしはすぐに理解できなかった。
七年間、朝が来れば祈るものだと思っていた。
熱が出ても、夜会の翌日でも、殿下と喧嘩をした日でも、祈るものだと思っていた。
休んでいい。
その選択肢を、わたしはいつから忘れていたのだろう。
「すぐに返事はできません」
「もちろんです」
「けれど」
わたしは、窓の外を見た。
王都の鐘は、もう鳴っていない。
結界は薄いままだろう。
殿下の傷も、今夜また痛むかもしれない。
でも、それはもう、わたし一人が抱えるものではない。
「自分の祈りを、自分で選べる場所なら、行ってみたいです」
オルディス卿は、少しだけ笑った。
「では、そのように準備を」
翌日、王宮から正式な書状が届いた。
王太子とレイヴェル伯爵令嬢の婚約は、双方合意の上で白紙に戻す。
そう書かれていた。
双方合意、という言葉には少し笑ってしまった。
でも、もう訂正する気にもならなかった。
同じ日、ミレイユが聖女の称号を辞退したという噂も届いた。
彼女は泣きながら、あんな傷を癒やせるなんて聞いていない、と言ったらしい。
彼女を憎む気持ちは、不思議と薄かった。
彼女もまた、誰かの都合のいい奇跡にされかけただけなのかもしれない。
王都はしばらく混乱するだろう。
レオンハルト殿下は、自分の傷と向き合わなければならないだろう。
けれど、わたしも同じだ。
自分の傷と、ようやく向き合う。
三日後、わたしはルシェル行きの馬車に乗った。
膝の上には、祖母の聖印がある。
王宮から返却されたものだ。
銀の表面には、もう王家の契約光は宿っていない。
ただ、わたし自身の祈りだけが、静かに息づいている。
馬車が動き出す。
王都の尖塔が、少しずつ遠ざかっていく。
わたしは聖印を握り、目を閉じた。
誰かの傷を隠すためではなく。
誰かの恋路を支えるためでもなく。
わたしが選んだ未来のために。
はじめて、自分のために祈った。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




