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同棲喰人鬼  作者: 代篠
9/13

最終話 第一幕

 風邪というものは非常に厄介だ。頭痛はするし、鼻はぐずつくし、身体中がダルくて重い。そのせいで、いつもやっていることが満足に出来なくなる。

 しかし、だからといって寝ているわけにもいかない。よほど重症でもない限り、仕事を休むことなど許されないのだ。もっとも、俺――小野塚信太郎にとっては、仕事ではなく大学の講義が相当するのだが。

「はぁ……」

 目の前の机に突っ伏しながら、俺は小さく溜息をついた。微熱を帯びた頬に机の冷たさが伝わり、ひんやりとして気持ちいい。

 教室の一番前では定年間近で頭髪の寂しい教授が、白いチョークを片手に、何やら講義内容には関係のないことを話している。だが、それを聞いている者はほとんどいない。八十名ほどが受講しているこの講義だが、毎週の出席確認さえなければ、講義に出てくるのはその三分の一もいないんじゃないだろうか。

 しかし、そんなつまらない講義でも、黒板前の特等席で熱心に教授の話に耳を傾け続けている者もいる。彼女――木崎悠美さんも、そのうちの一人だ。

「何がそんなに面白いんだか……」

 既に教室内のほとんどの者が前を向いていない。これだけで木崎さんの生真面目さが窺えるだろう。もちろん、その真面目なところが彼女の良いところではあるのだが……。

 と、その時、

「ひゃうっ!?」

 不意に何処からか、ピピピッという軽快な電子音が鳴り響いた。それと同時に、木崎さんが驚いたような甲高い声を上げ、ビクッと体を震わせる。

 当然、皆の視線は一斉に前へと向けられた。教授も話を一旦止め、丸くした目を木崎さんにやっている。多くの視線を感じたからだろうか、彼女が耳を真っ赤にしているのが見て取れた。

「あっ、ひう……!?」

 木崎さんは非常に慌てた様子で、机の横に掛けていたバッグを漁り始める。するとそこから出てきたのは、依然電子音を鳴らし続けている携帯電話であった。

「す、すす……すいません!」

 そのまま木崎さんは脱兎の如く――素早く席を立つと、携帯電話片手に教室を飛び出していった。そして、

「あ、あー……では、今日の講義はこれで終わりにします」

 直後、講義の終了を告げる鐘の音が鳴った。






 本日の講義全てに出席を果たし、俺は一人、大学構内のメインストリートを行っていた。

 チラッと時計を見ると、時刻は十二時を少し回ったところ――。腹も減ってきたので学生食堂に向かいたいところだが、そうもいかない。何故なら、うちには腹を空かせて待っているはずの居候がいるからだ。そいつに昼食を作ってやるためにも、早く家に帰ってやらねばならない。……というか、さっさと布団に入って寝たい。

 と、ちょうど正門に差し掛かった辺りで、俺は見覚えのある人影を見つけた。あれは――

「こんにちは、木崎さん」

「え? あ、お、小野塚君!? ここ、こんにちは……!」

 俺が近づいていって声をかけると、彼女は大層驚いたようにして、こちらに振り向いた。相も変わらず、その頬はほんのりと赤い。もしかしたら、先程の授業からずっと赤面しっぱなしだったのだろうか。

「お、小野塚君は、あの……今から帰るの?」

 少々おぼつかない喋り方で、木崎さんが尋ねる。俺はそれに対して首を縦に振りながら、

「あぁ、うん。今日はもう講義は無いし、それに――」

 その時だった。ふと、俺は木崎さんのすぐ後ろに何やら眼光の鋭い男が立っているのに気が付いた。

 二十代半ば程であろうか――深緑のジャケットを着て、黒縁の四角い眼鏡をかけたその男は、ジッとこちらを睨んできているようであった。その、どこか威圧感を覚えさせる目付きに、俺は思わず一歩後ずさってしまう。

 すると、その男は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、おもむろに口を開いた。

「悠美、こいつは?」

 どうやら木崎さんの知り合いであるらしい。一体どういう関係なのだろうか? ……と思うよりも先に、俺はつい、初対面でこいつ呼ばわりされたことに対してムッとなってしまった。おそらく、それは顔にも出てしまっただろう。

 しかし目の前の男は、そんなもの意に関せずといった様子で、木崎さんからの言葉を待った。

「あの……彼は同じゼミの小野塚信太郎君で……」

「小野塚信太郎……? あぁ、もしかして悠美を火事から助けたという――」

 火事。その単語を聞いて、俺はフッと二週間ほど前のことを思い出した。

 あれは、うちに住む居候の実家に言った時のこと――。そこに併設されていた宿舎で火事(というか放火だが)が起こり、そこに偶々サークルの合宿でやって来ていた木崎さんを、俺が助け出したのだ。……いや、正確に言えばその居候と二人で、なのだが。

 と、そんなことを俺が思い出していると、不意に男が俺の手を取ってきた。そして奴は、ピクリと僅かに口角を上げると、

「その節は妹が世話になった。礼を言う」という言葉と共に、俺に向かって小さく頭を下げてきた。

「あ、いや、どういたしまし……妹?」

 いきなりのことに少し戸惑ったものの、フッと出てきたその単語を聞き逃さず、俺はそれを掬いあげた。すると男は俺から手を放し、再び眼鏡のブリッジを押し上げながら言った。

「僕は木崎悠貴。悠美の兄だ」

「え? 木崎さんの……お兄さん……!?」

 ハッと、俺はもう一度目の前に立つ男の姿に目を凝らしてみた。確かにそう言われてみると、どことなく木崎さんと雰囲気……のようなものが似ているような気がしないでもない。もっとも、悠貴と名乗るこの男は木崎さんとは真逆に、いたって堂々とした立ち姿をしてはいるが――。

「……そんなに人様の兄弟が珍しいのか?」

 ジロジロと見やる俺の視線を快く思わなかったのか、悠貴さんは少し棘のある口調でそう言った。その言い方にまたもやムッとしてしまうが、こちらもさすがに見過ぎてしまっていたようなので、素直に頭を下げた。

 どうやら風貌以上に、木崎さんとは性格が違うらしい。まぁ兄妹とはいえ別の人間なのだから、当たり前だろう。

「あー……じゃあ、俺はもう……」

 もう帰るよ――木崎さんにそう告げ、俺は早々にこの場を立ち去ろうとした。彼女には悪いが、俺はどうもこの悠貴という男が苦手である。反りが合いそうにないというのもあるのだが、その前に得体が知れない――そんな感じがするのだ。

 しかし次の瞬間、既に半身を翻しかけていた俺の肩を、ガッと掴む手があった。その手の主は、驚いている俺を余所にグッと顔を近づけてくると、俺の瞳をジッと覗きこんできながら口を開いた。

「最近、周りで奇妙なことが起きていたりしないか?」

「きっ……奇妙なこと?」

 その脈絡のない意味不明な質問に、当然のこと、俺は聞き返す。すると悠貴さんは「そうだ」と短く答え、そのまま続けた。

「小野塚信太郎……お前からは物の怪の臭いがする。醜悪で、反吐が出るような臭いだ。もしかしたら、何か憑い――」

「や、やっ、止めてよ、お兄ちゃん!」

 刹那、その言葉が終わる前に、木崎さんが悠貴さんをグイッと引き戻した。同時に俺を掴んでいた腕が離れ、俺の肩は無事に解放される。

「もうっ! 小野塚君の前で、へ、変なこと言わないでよ!」

 実の兄に対して険しい口ぶりを向ける木崎さんの顔は、本当に耳まで真っ赤になっていた。キッと端を吊り上げた目は悠貴さんを真っ直ぐに射ており、彼女がえらく激昂しているのが見て取れる。

「しかし、悠美……」

「しかしも何もないよ! ほら、用事があるんなら早く行こっ!」

 その様が普段の彼女を見ていると少し意外で、俺は数瞬、思わず呆気に取られてしまった。

 一方、そんな俺は尻目に、木崎さんはグイグイと悠貴さんの背中を押して歩き始める。と、数歩行ったところでクルリと振り返ると、木崎さんは眉を八の字に曲げ、とても申し訳なさそうに、

「あ、あの、ゴメンね、小野塚君。うちのお兄ちゃん、ちょっと変な人だから、その……さっきのは、あ、あまり気にしないで! そ、それじゃあ!」

 そのまま木崎さんは兄を押しながら、慌ただしく正門を後にしていった。そんな彼女の背中を見送りつつ、俺は思わず二、三度ほど目をパチクリとさせると、小さく首を傾げるのであった。






 木崎さん達と別れてから十数分――。

 重い足を引きずって、ようやく自宅のアパート前までやって来た俺は、フゥと小さく息を吐いた。

 もう少しで布団に潜れると思うと、自然と足が速くなる。そう、あと少し……後はうちにいるはずの居候に昼飯を作ってやるだけだ。それだけで、俺は安息の夢の中へと行くことが出来るのだ。

 肩掛けの鞄から部屋の鍵を取り出しつつ、俺はアパートの一階にある自室を目指して歩いて行く。

 と、その部屋の扉が眼前にまで迫ったところで、俺はふと違和感を覚えた。

 異臭がする。風邪のせいで鼻詰まりを起こしている俺ですら感じられるほどに、何かが焦げ臭い。

「……まさか……!?」

 フッと嫌な予感が頭をよぎり、俺は慌てて目の前の穴に鍵を差し込んだ。ガチャッという音がすると同時に、ノブを回して、それを思い切り手前に引く。

 刹那、俺の目に飛び込んできたものは大量の黒い煙だった。その異様な光景に圧倒され、一瞬、俺は顔を引き攣らせながら動きを停止してしまう。が、直後に部屋の中から聞こえてきた声で、俺の体は再び始動した。

「あー。おかえりー、しんたろー」

「ぐ、グーラ! ちょっと退け!」

 俺は靴を履き捨てると、そのまま煙に包まれた台所へと入っていき、こちらに駆け寄って来る居候を手で遮った。そのままコンロの火を止め、煙と異臭の原因である鍋をすぐ横のシンクに放り込むと、蛇口を目一杯に捻って水を放出させたのである。

 ジューッという音を横に聞きながら、続けて換気扇を回す。さらに近くの窓を全開にし、最後にグーラに向かって玄関の扉を開けっ放しにするよう命じたところで、ようやく俺は一息をついた。

「グーラ……。お前、一体何やってたんだよ……?」

 ドバドバと水が溢れ、ようやくまともに触ることが出来るようになった鍋を見ながら、俺はポツンと呟いた。鍋の底は見事なまでに真っ黒く焦げついており、もはやスポンジ程度では落ちそうにもない。

「あーうー……。ごめん、しんたろー……」

 事を起こした張本人は玄関の扉を手で押さえたままで、珍しくションボリとうな垂れている。それでも、どこを見ているのか分からない焦点の合わぬ目と、抑揚のない特徴的な喋り方は変わらずだが。

 ハァ――と、溜息を一つ。そしてもう一度、一体何をやっていたのかと優しく問いかけた。

「あーうー。お粥作ろうとしたー……」

「お粥? 何でまた、そんなものを?」

「お母さんから聞いたー。風邪の時は、お粥が良いってー」

 その回答に、俺は思わずキョトンとしてしまった。見れば、グーラの手には絆創膏が、これまた雑に貼り付けられている。

「まさか……俺のために……?」

 コクリと、グーラは小さく頷いた。

 ……まいった、これじゃ叱るに叱れない。料理なんてしたこともないくせに見様見真似で――それも風邪を引いている俺のためだと言うんだから、例えその結果としてボヤ騒ぎになりかけたとしても、俺にはもうグーラを叱れそうにはなかった。

「しんたろー、ごめん……」

 そんな俺の思いも知らずに、グーラはずっと頭を下げ続けていた。旋毛のところでピョコンと飛び出している毛が、その度にユラユラと揺れる。その様子が何故だか可笑しくて、俺は思わずクスッと笑い声を漏らした。

「……あーうー?」

 するとそれに気が付いたグーラが、今度は不思議そうに俺を見上げ始めた。独特で虚ろな瞳がクエスチョンマークを孕みながら、こちらを見つめている。

 そこで俺は彼女の前まで歩いて行くと、おもむろにその金の髪を撫でてやった。少し乱暴に、クシャクシャと――。

「あうっ? あーうー? しんたろー……?」

「んっ。グーラ、ありがとうな。その気持ちだけで嬉しいよ」

「あーうー……」

 俺を見上げるグーラの頬が、少しだけ紅潮する。かと思うと次の瞬間、グーラが急に腕を伸ばし、俺に抱きついてきた。ちょうど腰の辺りに腕を回した状態だ。

 いきなりのことに、俺は思わず戸惑った。しかし突き放すようなことはせず、そのまま彼女の頭を撫で続ける。……勘違いかもしれないが、グーラの肩が僅かに震えているような気がした。

 それから数分して、ようやくグーラが離れてから、俺は台所の片付けを再開した。とはいえ鍋の焦げつきを落としたこと以外は、グーラが率先して手伝ってくれたこともあり、そう大変なことではなかった。

 しかし、ただ一つ頭を悩ませることと言えば――

「……グーラ、全部使ったのか……?」

「んー……」

 つい先日に補充したばかりだというのに、冷蔵庫の中が物の見事に空っぽになっていた。食べられるようなものは、もう何一つない。そもそもグーラは、お粥を作るつもりだったんじゃなかったのか? 俺の記憶が正しければ、麺類や漬物も入っていたはずなんだが……。

 はぁ――小さく溜息を漏らしつつ、俺はバタンッと冷蔵庫を閉めた。

 まだ少しでも残っていれば良かったのだが、こうなっては今から買い物に行かざるを得ない。でなければ、このままだと昼食どころか夕飯も無しだ。

 そう思って買い物に向かう準備を始めると、ふとグーラが棚に置いてあるエコバッグを取り出して、それをギュッと抱え出した。しかもそのままの状態で、ジーっとこちらの方を見つめている。

「どうしたんだ、グーラ? ほら、買い物に行くんだからバッグを……」

「あーうー。グーラも行くー、手伝うー」

 いつもは、こちらから手伝えと言っても首を横に振るくせに……。今し方の片付けも含め、ちゃんと責任は感じているようだ。

 俺はフッと笑い、

「それじゃあグーラには重~い荷物を持ってもらおうかな」と、冗談混じりに彼女の申し出を受け入れた。






 近所のスーパーにやって来た俺達は、そこでさっさと用事を済まし、今は買った物の袋詰め作業を行っていた。

 買い物中もグーラは珍しく良い子で、たまに付いてきた時はいつも高い牛肉を買ってくれとせがむのに対し、今日は終始俺の後に付いて回ってその手伝いに勤しんでいた。

 そしてそれはまだ続いている。俺が今さっき物を詰めたバッグを自ら進んで持つよう言いだしたのだ。風邪で辛い俺にとっては正直かなり助かる上、何よりずっと手伝いをしてくれているグーラが素直に嬉しかった。

 しかし、まだたったの一、二ヶ月しか経っていないというのに、すっかりこいつの保護者の目線になってしまっているな、俺は。そういえば、あいつにもグーラの母親みたいだなんて言われたっけ……。

「よしっ。じゃあ帰るか、グーラ」

 卵や特に重いものを詰めた方のバッグは自分で持って、俺はグーラに呼びかけた。グーラも両手で別のバッグを持ち、「あーうー」といつもの変な口癖で返事をする。が、不意にピタッと動きを止めると、妙にもぞもぞとした態度を見せ始めた。

「うー。しんたろー、おてあらいー」

「はいはい。ほら、荷物持っててやるから早く行ってこい。出口のところで待ってるからな」

 コクリと頷いてバッグを俺に手渡すと、グーラはそのままトイレを目指して走っていった。それを少し見送ってから、俺も出口へ向かって歩き出す。

 しかし偶然にも、ふとそこで俺自身も尿意を覚えた。家まで我慢は出来るだろうが……まぁ、トイレは出口の近くにあったはずだから丁度いい。

 俺はそのまま歩いて行くと、おそらくグーラが入っていったであろうトイレの向かい――男性用トイレのドアの前にバッグを置き、中に入った。

 トイレに入るとすぐ右に洗面台があり、左の方には個室と小水用の便器が二つずつ設置されている。俺はそのうちから奥にある小便器を選ぶと、そこで用を足し始めた。

 と、その時だった。俺が開けた時と同じように、ガチャッという音を立てながらトイレのドアが開いた。そしてそこに姿を見せたのは――

「……ん? また会ったな、小野塚信太郎」

「悠貴……さん」

 木崎悠貴は俺の隣にやって来ると、俺と同様に用足しを始めた。変に気まずく思った俺は沈黙し、さっさと用を済ませてトイレから出ていこうとする。ところが、それを邪魔するかのように不意に悠貴さんが口を開いた。

「やはり間違いない。小野塚信太郎、お前からは物の怪の臭いがする。それも、とても濃い」

「……さっきも言ってましたよね、それ。物の怪どうのって」

「物の怪は例外なく人に害を為す、邪悪な憑き物だ。心当たりがあるなら、早く祓った方がいい。そのままにしておけば近い内に破滅するぞ」

 それだけ言うと、悠貴さんはそのままジーンズのファスナーを上げ、洗面台で手洗いを済ませた。そしてトイレのドアに手を掛け、今まさに出ていこうとしたその時――ふと、彼は動きを止めた。

 一体どうしたんだ? その動かない背中を見つめながら、俺は心の中で呟いた。五秒……十秒……悠貴さんはまだ動かない。

 と、そこでようやく目の前の男に動きがあった。悠貴さんはこちらに背を向けたままで、ポツリと口を切った。

「……鬼だ」

「え?」

 突如飛び出したその単語に、俺は思わずドキッとした。一方、悠貴さんはこちらに振り返り、やや興奮した様子で言葉を続ける。

「思い出した、鬼の臭いだ。小野塚信太郎、お前からは鬼の臭いがする。それも、悠美に付いていたのと同じ――しかし、それとは比べようもないほどに濃い……」

 ブツブツと呟きながら、悠貴さんはどんどん俺の傍に近寄って来た。目をカッと見開き、その目で俺の顔のさらに奥を覗き込むようにしながら――。

 それがあまりにも凄い勢いだったために、俺は慌てて悠貴さんを手で制した。するとハッと落ち着きを取り戻した悠貴さんは、俺から距離を取りながら眼鏡のブリッジを指で押し上げて、

「あぁ、悪かったな。僕としたことが、少し興奮してしまった」

「はぁ……。と、ところで今の、鬼って……?」

 鬼――俺の知っているものと悠貴さんの言っているものが一致しているのかは不明だが、俺はそれに十二分に心当たりがあった。しかし、それでも俺はあえて鬼という存在をまるで知らないような態度を示した。

 理由は幾つかある。だが何より、僅かに眉をひそめたその表情が、彼が鬼というものに対して嫌悪感を抱いているように見えて仕方がなかった。

「桃太郎を知っているだろう? いや、それに限らず日本の童話の多くに鬼というものが登場する。僕が言ったのは正にそれだ。人を喰らい、人を害して、人に倒される……。一般的には知られていない――もとい、忘れされてしまったことだが、鬼は実在する」

 実在する、人を喰らう鬼……。それはやはり、俺の知っている鬼のことを言っているのだろうか? それにしても、この人は一体……?

 と、その時、不意に悠貴さんが俺の腕をグッと掴んだ。その握力は意外に強く、俺は思わず顔をしかめる。だがそれに対する謝罪は一切ないままに、悠貴さんは言葉を続けた。

「今からお前の家に行くぞ」

「はっ……はい?」

 突拍子もないその言葉に呆然としつつ、俺は目をパチクリとさせた。しかし悠貴さんが手を緩めることはなく、彼はその気迫こもった瞳で真っ直ぐに俺を見つめながら、

「お前は鬼に憑かれている可能性が高い。今すぐに対処してしまわなければ、今日にでも喰われてしまうかもしれん」

 そのまま俺の腕を引き、ドアに手を掛けた。すぐさまガチャッという音がして、ドアはいとも容易く開けられる。

「ちょっ、ちょっと……!?」

 悠貴さんに引っ張られる形でトイレから出た俺は、そこでようやく彼の手を振り払った。

「どうした? 早くしないと手遅れになるかもしれんぞ?」

「ど、どうしたも何も……! いきなり引っ張られて家に行くなんて言われたら、誰だって困惑するに決まってるでしょうが!」

 真っ当な意見だ。そう、俺は世間一般を代表するようなことを言ったはずである。なのに目の前の男ときたら眉間に皺を寄せ、まるで俺の言っていることを理解できていないように首を傾げてみせた。

「小野塚信太郎。お前は今、自分が何をしなければいけないのか理解しているのか? 下手をすれば取り返しがつかないんだぞ?」

「あ、あんたこそ自分が何言ってるのか分かってるんですか!? さっきから意味不明なことばかり……。だいたい、その鬼を見つけてどうするつもりなんですか?」

 俺の発言に対し、悠貴さんはさも当たり前のように、

「そんなの、祓うに決まっているだろう。鬼を生かしておく道理はない。肉の一片までこの世から消してしまわなければ、奴らは必ず人に害を為す」

 その刹那、俺は理解した。目の前の男とグーラを対面させてはいけない。この木崎悠貴という男が何者かは分からないが、こいつは危ない奴だ。その曇りのない目が、奴の本気を窺わせる。

 となれば、どうにかして悠貴さんを此処から遠ざけなければいけない。グーラはおそらく、まだトイレに入ったままだ。しかしあと少しもすれば、すぐそこにあるドアを開けて出てくるだろう。その時にこの男がまだいれば、面倒なことになるのは目に見えている。

「ゆ、悠貴さん、あの……」

 俺はとりあえず声を発した。この男を具体的にどう誘導すればいいのかは思いついてないが、とにかく何とかしてこの場から去ってもらわなければ……!

 だがその時、俺の思いも空しく、女性用トイレのドアがガチャリと中から押し開けられた。俺はハッと振り返り、音のした方に目を向ける。しかし、そこに姿を現したのは――

「あっ。お、小野塚君、こんにちは……」

 やや顔を赤らめながら現れた木崎さんの姿に、俺は驚きと安堵感を一緒くたにして口から息を吐き出した。

 そうか、ここに悠貴さんがいるのなら、先程一緒に大学を後にしていった木崎さんがいてもおかしくはない。

 ……待てよ。そういえばあの時、悠貴さんが物の怪どうのと言った途端、木崎さんは怒って俺の前から悠貴さんを引き剥がしていった。ならば今までの経緯を彼女に報告すれば、恥ずかしがり屋の木崎さんならきっと再び激昂して悠貴さんを連れて行っていってくれるのではないだろうか。

 瞬間的に希望を見出した俺は、すぐさま木崎さんに向かって口を開こうとした。しかし木崎さんのすぐ後ろにいた人影に気が付いた瞬間、その希望は脆くも崩れ去った。

「あーうー。しんたろー、ゆーみにハンカチ貸してもらったー」

「グーラ……」

 その瞬間、俺は半開きになった口を引き攣らせていただろう。だがそんなことはお構いなしに、グーラはパタパタと俺の元に駆け寄って来た。

 不味い……。悠貴さんが臭いとやらで鬼の存在が分かるというのなら、このままではグーラが鬼であることがバレてしまう。そうなると、あの男がどういう行動に出るのか分かったものではない。

 ……いや、諦めるのはまだ早い。そうだ、トイレの前に置きっぱなしにしてあるバッグを拾って、さっさとグーラと共にこの場を後にしてしまおう。若干不自然な形になっても、走って逃げてしまえば――

「……悠美、その子は?」

 後頭部の向こうから聞こえてきたその声はとても落ち着き、そしてとても冷たい印象を俺に与えた。思わず振り向くと、その男はまるで虫を見下ろすかのような目でこちらを見やっていた。ゾクリと、俺の背筋に悪寒が走った。

「あ、この子は小野塚君の親戚の子で……お兄ちゃん?」

 木崎さんもその冷たい視線に気付いたようで、少しビクついた表情を見せながら一歩、小さく後ずさる。

 そして、その不穏な空気はグーラにも伝わったらしい。彼女はその瞳に微かな緊張を滲ませて、俺の服の端っこを小さな指でギュッと摘まんだ。

「悠貴、さん?」

「……こいつか」

 俺の呼びかけとほぼ同時に、彼はポツリと呟いた。そして刹那、悠貴さんはジャケットの内側から白い紙を手早く取り出すと、こちらとの距離――数歩足らずを一気に詰め、その取り出したものをグーラの額にピシャッと貼り付けたのである。

「あう……?」

 カクン――次の瞬間、グーラの膝が折れた。そのまま地面に吸い込まれるかのように、グーラはその場にへたり込む。その顔からは、自分の身に起こったことをまるで理解出来ていないのが窺えた。

「グーラ!?」

 とは言え、今の一瞬を理解出来ていないのは俺も同じであった。だがそれでも、グーラに何かしらの敵意が向けられた――それだけを理解した俺は、彼女を抱えるようにして悠貴さんから距離を取ると、その額に貼られた御札のようなものをすぐさま引っぺがした。

「なっ!? 何をする、小野塚信太郎! この醜悪な臭い……少女のなりをしているが、そいつは間違いなく人を喰らう鬼だ! せっかく隙をついて呪符を貼り付けたというのに……」

 眉を吊り上げて、悠貴さんは鋭い眼光でこちらをキッと睨みつけてきた。俺はグーラを抱えたまま、彼女を庇うように悠貴さんに背を向けて、

「そんなもん、事情も聞かないままにいきなり襲われたら、抵抗するに決まってるでしょ! 悠貴さん、あんたが何者かは知りませんが、まず俺達の話しを聞いて――」

「なるほど。小野塚信太郎――お前は既に、その鬼に魅入られてしまっているのか。ならば尚更のこと、その鬼を祓ってしまわねば……!」

 俺がいくら説得しようとしても、悠貴さんはまるで聞く耳を持たない。俺が魅入られているだとか何とかと自己の内で勝手に決め付け、懐から先程と同じ白い紙を何枚も扇のように取り出したのである。もはや彼の目には、鬼を祓うということ以外は映っていなかった。

 と、その時、俺は自分のすぐ傍で小さな悲鳴を聞いた。見れば、グーラが俺の肩越しに向こうをジッと見つめている。その目に映っているのは、他の何ものでもない――恐怖だ。あのグーラが、目の前の男のことを怖いと思っているのである。

「あうっ……!?」

「あっ、グーラ!」

 次の瞬間、グーラは俺の体を離れた。悠貴さんから逃げるように、彼女はスーパーの出口に向かってダッと走り出す。

 しかしそれを見逃すような男ではなく――悠貴さんもまた、グーラを追うようにして走りだした。俺には目もくれずに横を走り抜け、そのまま二人は出口の扉をくぐり、スーパーの外へと出ていった。

「くっそ……!」

 もちろんグーラを放っておくわけにはいかない。あの男の好きにさせていると、ともすれば大変なことになってしまうかもしれないのだ。

 俺は二人の後を追うために、瞬間的に膝を伸ばした。すると、

「お、小野塚君! 私も行く!」

 僅かに遅れて、背中の方から木崎さんの声が飛んできた。俺は首だけを彼女に向けて小さく頷くと、木崎さんと共に先行く二人を追いかけてスーパーを後にした。

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