第二話 第三幕
あれから幾ばくか時間が経ち、既に深夜と言っても差し支えのないような時刻になった頃――。
俺は一人、釣り鐘に通じる短い石段に腰を下ろしていた。辺り一面が真っ暗闇な中で、どこからともなく虫の鳴き声だけが聞こえてくる。
あの後、あれよあれよと様々な持て成しを受けた俺は、結局夕飯を御馳走になるだけでは済まず、この寺に一泊させていただくことになってしまった。
「……腕、か」
自分の左腕をボーっと眺めながら、ポツリと呟く。俺は何故か、未だに自分がどうすればいいのかを悩んでいた。
その時、ふと俺の名前を呼ぶ声がした。辺りを見回すと、石段の前に、片手にビール缶を持ったアカが立っていた。
「こんなところで何してんの?」
若干ふらふらとした足取りでアカは石段を上り、そのまま俺の横に腰を下ろす。途端に、周りがアルコールの独特な匂いに包まれた。
「別に、何でもない……」
「そう? な~んか、悩んでるように見えるけど?」
陽気に笑いながら、アカは見事に俺の心中を言い当てた。しかし、そのことに対して、俺が特に驚くような素振りを見せることはない。その代わりに、俺は小さな棘を付けたような口調で彼女に尋ねた。
「お前、最初から分かってたんだろ? テンドウさんが、グーラの話をするって」
「あぁ、うん。まぁね」
悪びれた様子も見せずに、アカはあっさりと頷いてみせた。その態度に、俺はついムッとしてしまう。
「何でずっと黙ってたんだよ? 最初、うちに来た時にでも言えばよかったじゃないか」
「そんなの、アタシが話すことじゃなかったからさ。それにあの時は、グーラもいたしね」
その言葉に、俺はハッとなった。
そういえばテンドウさんも例の話をする前、グーラに用事を与えて、あいつを部屋から出していたが――あの話は、グーラに聞かれると何かまずいことがあるのだろうか? グーラも当事者の一人だというのに?
と、そんな俺の考えを読み取ったのか、アカはゴキュッと喉を潤しながら静かに口を開いた。
「グーラは父親との喧嘩の末に家出した――って、前に言ったよね?」
「あ、あぁ……」
「その喧嘩の原因が、おじさんが信太郎にした話にあるんだよ。だからグーラの前で、あの話をするわけにはいかないのさ」
そう言うと、アカは再び酒を呷った。すると、その目は珍しく伏せ気味になり、彼女は深く長い息をつく。その様は、まるで暗い過去を思い出しているかのようであった。
「一体、あの二人に何があったんだ?」
そんなアカに、俺は単刀直入に尋ねた。
あくまで余所者である俺が聞くようなことではないとも思ったが、それ以上に気になってしまったのだ。あの仲の良さそうな親子の間に起こった、喧嘩の理由を――。
案の定、アカは少し戸惑ったような反応を見せた。ポリポリと自身の頭を掻き、ウーンと、唸り声を上げる。
「それ……アタシが言っちゃっていいのかなぁ? 本人に聞いた方が……」
「グーラが家出までしたほどの喧嘩だろ? それを本人に直接聞くなんて、それこそ酷じゃないか?」
「んー……いや、まぁ、そうかなぁ……。じゃあ、アタシが喋ったって言わないでくれる?」
アカの言葉に、俺は即座に首を縦に振ることで答えた。
「ははっ……。そうだなぁ、どこから話せばいいかな……」
わざとらしく少し渇いた笑いをすると、続けて小さな溜息と共に、アカはゆっくりと話し始めた。
「グーラにはさ、同い年の幼馴染みがいたんだ。その子は人間だったんだけどね、二人はすごく仲良しだったんだよ。何をするにも一緒で……そして何をしてても、二人とも、ホンットに楽しそうだった……」
そう語るアカの口元には、ニンマリと笑みが浮かんでいた。さらに、その目は何かを懐かしむように遠くを見つめ、度々、ホゥッと息が漏れる。
もはやアカの表情だけで、グーラとその幼馴染みがどれだけ仲が良く――また彼女達の戯れている光景が、どれほど微笑ましいものであったかが窺えた。
だが、そんなアカの顔に、不意に陰が生まれた。かと思うと、口角は下がり、両目は伏せられ、たちまちに彼女は寂しそうな表情になる。アカでもこんな顔をするのか――そう思わせるほどの変貌ぶりだ。
「でもさ、ある日……その幼馴染みの子の家が、火事になっちゃったんだよね……」
グイッと、アカは缶の中身を飲み干した。
「え……? そ、それで、その子は?」
「亡くなった」
アカはあっさりと、そう言った。抑揚のない口調で、淡々と――。
おそらくは、そうでもしないと当時のことを思い出し過ぎてしまうのだろうか。先程の様子から見ても、どうやらアカ自身も、その亡くなった子とは仲が良かったようであるし……。
しかし、今更ここで話を終わらせるわけにもいかない。俺はアカに向かって、話を続けるよう軽く促した。
「その子の通夜が終わり、葬式が終わり……そして皆が、少しずつ日常へと戻っていく頃――。不意に、二人の喧嘩が始まった。発端は、おじさんの愚痴さ」
「愚痴?」
意外だった。あのテンドウさんが愚痴をこぼしているという様子が、容易には思い浮かばなかった。
「そっ、愚痴。グーラの『理性』が遠のいてしまった――そう言ったらしいよ」
「理性って、どういう……あっ! もしかしてテンドウさんは……」
「そう、信太郎の思ってる通り――おじさんはその幼馴染みの子に、グーラに食べられてもらおうと考えてたのさ」
それを聞いた俺は、テンドウさんが言っていた『食べられる条件』を思い出していた。その条件とは、鬼自身が思い入れを持つ特別な人間であること。グーラの幼馴染みで仲も良かったというその子は、特別な人間であると言えないわけがなかった。
「グーラにはさ、親友を自分に食べさせようとしていた父親が、どうにも嫌に感じられたらしいよ。『理性』って呼ばれ方も、きっと癪に障ったんだろうね。なのに、おじさんときたら……ことあるごとに、新しい『人間』の友達を作れなんて言っちゃってさ。それで、グーラは怒って家出したんだよ」
アタシが知ってる話はこれで終わり――そう最後に付け加えたアカの様子は、すっかり元に戻っていた。笑ってこそはいないものの、
「皮肉にも、親が娘を思う気持ちが裏目に出ちゃったんだよね」などと冗談めかしく言うほどである。
一方、アカの話を聞き終えた俺は口元に手を当てると、少し猫背になりながら自分の考えを巡らせ始めた。
グーラは単純な奴だ。俺はずっと、そう思っていた。変で、悩み事なんかなさそうで、お気楽――そんな奴だ、と。
でも今の話を聞く限り、それは大きく違った。
あいつは、確かに変わってはいる。だがそれは側面だけで、グーラは、普通の女の子だった。親友のことで怒り、たとえその相手が親であっても歯向かう――年相応な、友達想いの女の子なんだ。
……そんな彼女は今、『理性』についてどう思っているのだろう? おそらくはテンドウさんと喧嘩した時と変わらず、親友を食べてまで欲しくなんかない――そう思っているんじゃないだろうか。
では、俺は? 俺が相手なら……グーラは、『理性』を欲しがるのだろうか?
「グーラは……グーラ自身は、『理性』が欲しいと思ってるのか?」
丸くした背を伸ばしながら、俺は問いかける。
アカは、ン~と、短く唸りながら、
「それは、本人に聞いたらどうかな?」
そう言って、微笑混じりに前方を顎でクイッと指した。
すると、それと同時に、俺の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「あーうー。しんたろーとあかねぇ、いたー。二人とも、こんなところにいたのかー」
噂をすれば何とやら。石段の前――そこには、いつもと変わらぬ様子のグーラが立っていた。グーラは嬉しそうに両手をブンブンと振ると、軽い足取りで俺達のすぐ目の前にまでやって来る。
「二人で何やってんだー? グーラも遊ぶー」
ちょこんと石段の上でしゃがみ込み、彼女は俺の手をグイッと取った。俺は一瞬よろけかけてしまうが、何とかそれを堪える。
グーラに引っ張られながら、俺はほんの少しだけ動揺していた。もしかしたら、今の話を聞かれていたんじゃないか――そんな考えが、頭をよぎった。
と、その時、横にいたアカが俺に向かって視線を送ってきた。何かを促すような視線――それが何を言っているのか分かった時、俺は思わず身を固くした。
「……しんたろー? どうしたんだー?」
俺の些細な変化に気付いたグーラは、小首をかしげて、俺の顔を覗き込んできた。その焦点の合わぬボーっとした両目が、俺を包む。
ゴクン――俺は唾を飲み込み、意を決した。グーラの腕を逆に掴み返し、真っ直ぐにその瞳を見つめる。俺はゆっくりと口を開いた。
「……グーラ。お前に聞きたいことがあるんだ」
「あーうー?」
グーラは頭上にクエスチョンマークを浮かべる。
「その……その、グーラは……」
もしも……もしもグーラがその首を縦に振ったならば、俺は――。
「グーラは、『理せ――」
「ちょいストップ、信太郎」
その刹那、促した本人であるはずのアカが、いきなり俺の言葉を遮ってきた。予想だにしていなかったことに、俺は呆気に取られた。
しかし、そんなことは全く気にしていないという様子で、アカはおもむろにその場で立ち上がった。怪訝そうな表情で、鼻をスンスンとしきりに動かしている。
「話の腰折って悪いんだけどさ……何か、焦げ臭くない?」
「はぁ?」
俺は意図せず眉をひそめていた。決死の覚悟をあっさりと潰されたのが、どうしても快く思えなかったのだ。
だが、そんな俺の嫌悪感はすぐに消えてなくなった。俺の嗅覚も、アカが言っているのであろう焦げ臭さと同じものを感じ取ったのである。
俺はグーラから手を離し、アカ同様に立ち上がると、この臭いがどこから漂っているのかと辺りを見回した。鼻を頼りに右、左、と。
その時、不意にアカが、アッと大きな声を上げた。
「あそこ、煙が出てるよ!」
真っ暗闇で見えづらいが、アカが指差す先には確かに白っぽい煙が立ち昇っているようであった。
そこは、ここから離れた位置にある二階建ての宿舎である。確か、木崎さんが所属しているサークルの皆が宿泊している筈だ。
「っ!? あ、アカはテンドウさん達に知らせてきてくれ!」
次の瞬間、俺はアカの返答も待たずに走り出した。目指す場所は唯一つ――怪しげな煙を発する建物だ。
「あーうー。グーラも行くー」
それから僅かに遅れ、グーラもバッと腰を上げると、俺の横に並んだ。
そのまま俺達は、目的地に向けて全速力で駆けた。
光源など何一つない宿舎の裏手は暗い――はずだった。
だがしかし実際には、その場所はボゥッと明るかった。それもこれも、煙と共に建物の隅から上がっている赤い火のせいである。
火の無い所に煙は立たぬ。まさに文面通りの意味であった。
「……あーうー?」
パチクリと目をしばたたかせながら、グーラは首を横に傾けた。突然のことで、何が起こっているのか理解出来ていない――そんな感じだ。
その一方で、俺は彼女が見やっているものとは別のものに対して、目を見開いていた。
それは、人だ。木造の宿舎を侵食するように燃え盛っている火の前で、一人の男が突っ立っているのである。
男は黒いパーカーにキャップを目深にかぶり、その手には百円ライターと、中身の入っていないペットボトルを持っている。帽子のせいで、その顔色は分からない。
「あ、あんた、一体何を……?」
依然驚いたままで、俺は目の前の男に尋ねた。すると男は、こちらの質問に答える代わりに、二、三歩ほど後ずさる。
と、その時だった。俺はふと、以前にテレビで聞いたニュースのことを思い出した。それは、前々からT市で立て続けに起こっているという連続放火事件のことである。
「まさか、お前……!?」
次の瞬間、男は俺達に背を向けると、一目散にその場から逃げだした。
「ち、ちょっと待て、おいッ!」
奴を逃がしてはいけない。直感的にそう思った俺は、グーラをその場に残し、男の後を追った。
幸い、奴が走るスピードはそれほど速くない。これなら俺でも追いつける。
俺は、慌てた様子で必死に逃げる男の背中に徐々に近づいていくと、ある程度行ったところでダッと地面を蹴った。そしてそのまま、男の腰の辺りに飛びつくようにして掴みかかった。
「おわっ!?」
ズザーッというような音を立てながら、男は前のめりになって地面に転がる。しかし、それは男に飛びかかった俺も同じだった。
「げほ、げほっ!」
転んだ瞬間に口の中に砂が入り込んだのを感じ、俺は思わず咳き込んだ。おそらく勢いよく地面に倒れ込んでしまったせいで、土が巻き上がってしまったのだろう。
だがしかし、男の衣服の端を掴み取っているこの手だけは放さない。せっかく放火犯かもしれない男を捕らえたというのに、再び逃がしてなるものか!
が、その考えが仇となった。
「くそっ、放せ!」
「あ……ぶあっ!?」
倒れても俺に掴まれたままだと気付いた男は、その手を放させるために、力いっぱいに俺の側頭部を殴りつけてきた。さらに頬の辺り、先程とは反対側の側頭部――と、続けざまに奴は俺を攻撃する。
逃げ損ねたことで若干パニックを起こしているのか、その攻撃には一切の容赦がなかった。
「くっ……おらっ! さっさと、放しやがれっ!!」
そしてとうとう、男が持てる力全てを込めた肘鉄が、俺の頭を貫いた。ガンッ! という鈍い音と共に、強烈な衝撃が脳を突き抜ける。まるで電気ショックを受けたかのような痺れる痛みだ。
「がっ!?」
一瞬、俺は気を失いかけた。目の前が真っ暗になりかけた。しかし、辛うじてそれだけは免れる。だがその代わりに、俺は奴を捕まえていた手の力を、フッと弱めてしまった。
しめた、と言わんばかりに男は薄ら笑う。そして地に手を着きながら急いで立ち上がると、そのまま走り、俺の手の範囲から抜け出していった。
「ま……待てぇ……!」
全身に力を入れて起き上がろうとするが、上手くいかない。下半身が地面から離れない。ただ弱々しい声が喉から漏れるだけである。
若干霞む視界の中で、黒いパーカーはどんどんと遠ざかっていく。追わなければと思っても、未だ地面を這ったままの俺ではもはや無理だ。
俺はギリッと歯軋りをすると、悔しさと諦めを一緒くたにして、硬く握った拳で地面を叩いた。
と、その次の瞬間、何かが横を走り抜けていったのを俺は感じた。風が巻き起こり、砂煙が一直線に走る。そしてその見覚えのある後ろ姿に、俺は目を張った。
「ぐ、グーラ……」
驚嘆の混じる声で、俺はその名を口にした。
グーラは俺には目もくれず、ただ真っ直ぐに駆けていく。その先には、門を目指し走るパーカーの男がいた。
「なっ……んだ、おい!?」
ものすごい速さで追ってくるグーラに気付き、男はたいそう驚いている様子だった。
そして、そんな男の背中に、グーラの跳び蹴りが炸裂した。
ダンッ! と衝撃音が響き渡り、男は前方に向かって吹き飛ぶ。その際にどうやら顔を地面に強く打ちつけたようで、そのまま男は動かなくなった。
一方、グーラは男とは対照的に、見事に着地してみせた。
「やっ……た……」
グーラの蹴りが入った瞬間、俺は目をパチクリさせながらも、片方の手を小さくグッと握った。しかし同時に、胸の奥でズキッとした痛みが走ったかと思うと、途端に俺の心には一つの不安が染み広がる。
グーラは何するわけでもなく、立ったままでジーっと自分が打ち倒した男の方を見ていた。つまり、こちらには背を向けていた。当然、俺にはその表情を窺い知ることは出来ない。
「グーラ……? おい、グーラ!」
嫌な予感に後押しされ、俺はつい先程まで動かなかった体を、どうにかして起き上がらせた。ズキズキと痛む頭部を手で押さえながら、彼女の名前を何度も呼ぶ。
するとその声が届いたのか、グーラはゆっくりとこちらに振り返った。
「グ……っ!?」
不安は的中していた。いつかの時と同じである――グーラの目の焦点が合っているのだ。ハッキリと、彼女が今どこに目を向けているのかが見て取れる。
その目に気圧されて、俺は思わず後ずさりをした。
「……………………」
こちらに少し目をやっただけで、グーラは一言も発しなかった。そして再び俺に背を向けると、彼女は悠然と、ゆったりとした足取りで歩きだした。
「ぐ、グーラ!」
叫ぶように、俺はその名前を呼ぶ。しかし今度は、彼女がこちらを気にかけるような素振りはない。
その様子は、いつもの能天気なグーラとは明らかに違っていた。おそらくこれが、テンドウさんの言っていた『本能に支配された状態』なのだろう。どういう切っ掛けでそうなったのかは分からないが、グーラの持つ小さな理性は、巨大な本能に押し潰されてしまったのだ。
そんな本能のみの鬼は、依然として足を休めようとはしなかった。ゆっくり、ゆっくりと、地に伏したままの男の元へと向かおうとしている。
これも前と同じだ。あいつは多分、あの男を喰おうとしている。
だが、そんなことをしても何の意味もない。グーラがあの男を食べたところで、意味など何一つないのである。
ならば今、俺がやらなければいけないことは唯一つ……!
「グーラっ!!」
俺は駆け足でグーラに近寄ると、後ろからガバッと彼女の体に腕を回し、その歩みを強引に止めさせた。しかし、それでもグーラは構わず前に進もうとする。その小さな身体に似合わぬ異常なパワーに、俺は思わず引き摺られそうになった。
だが、負けるわけにはいかない。ここで彼女を行かせたら、取り返しのつかないことになる――そんな予知にも似たものが、俺にはあった。
「グーラ! しっかりしろ、グーラ! グーラぁッ!!」
名前とは、理性の証拠である。だから俺は、グーラが元に戻ってくれることを祈って、必死にその名前を呼び続けた。
と、その時、そんな俺の祈りが届いたのか、グーラの動きが不意に停止した。ピタッと、まるでおもちゃの電池を抜いたかのように――。
そんなグーラに向かって、俺はもう一度だけ小さく名前を呼んだ。ところがそれに対し、グーラが反応を示すことはなかった。
……もしかして、彼女はまだ元に戻ったわけではなく、ただ単に標的をパーカーの男から俺に変えただけなのではないだろうか?
嫌な考えが頭をよぎる。しかし、それは十分に考えられた。
「……………………」
「……………………っ」
沈黙が流れた。かつて、グーラと共にいて、これだけ静かだったことがあっただろうか。それもこれも、今のグーラが、ただの鬼だからなのだろうか。
……もし、まだグーラが元に戻っていなかったとすれば、俺はほぼ確実に喰われてしまうだろう。何故なら、俺の両腕は今、彼女の口のすぐ前にあるからである。グーラがその気になれば、俺の腕は彼女から離れる間もなく、ガブリ、だ。
だがそうなると、グーラには理性が宿ることになる。テンドウさんの言っていたことを信じればだが、おそらく……。
そして理性が宿りさえすれば、グーラは確実に元に戻ってくれるのだろう。しかも、それだけではない。今後一切、彼女が本能に潰されることはないのだ。
そう――俺が少しだけ犠牲になってしまえば、全てが丸く収まる。なら……ならば、いっそのこと、俺は――。
「グー……ラ……」
フッと、俺はグーラを縛り付けていた両腕から力を抜いた。これでもう、グーラは自由に動けるはずだ。
……もちろん未練はある。俺にだって、将来やりたいことがある。だが不思議と、後悔の念はあまりなかった。
自然と、俺は目をつぶった。そして歯を食いしばった。食まれる痛みがどれほどのものかは分からなかったが、きっと相当なものだろうという予測は容易に立ったからである。
「っぐ……!」
さぁ、来るなら来い! そう心の中で叫び、全身に力を入れた。
……しかし、何も起こらない。いつまで経っても、目蓋の裏の暗い空間が見えるだけで、周りからは何の音もしなかった。
どうなっているんだ? グーラはまだ、動いていないのか? それとも俺の腕をくぐり抜け、再びパーカーの男に向かって歩き出しているのか?
何も分からない。分からないのが、怖い。ならば目を開けばいい。だが、目を開けるのも怖かった。
けれども、それでは何も変わらない。それに、もしもパーカーの男がグーラに襲われていたとしたら、俺が止めなければいけないんだ。
俺が、グーラを――。
「……グーラ!」
俺は意を決し、カッと目を開いた。その刹那、俺の視界に飛び込んできたモノ――それは、『目』だった。
「あーうー。どーしたんだー、しんたろー?」
焦点の合わない、ボーっとした印象を与える大きな目が、俺のことを見上げていた。それは確かに、間違いなく、グーラの目であった。
「……戻っ……た?」
途端に俺の身体の各所からは、力が抜けていった。抜け過ぎて、つい膝がガクガクと笑いだす。それを、俺は両手で抑え込んだ。
そうか……グーラは、元に戻っていたのか。そうか……。
「……良かった」
「うんー? しんたろー、何が良かったんだー?」
小首を傾げて、頭部を中心にクエスチョンマークを衛星のようにクルクルと回すグーラ。俺はそんな彼女の小さな頭にポンッと手を置くと、その金髪をクシャクシャ撫でながら、言った。
「……うん。良かった」