第二話 第二幕
アカがうちのアパートを訪れてから、数日が経った頃。俺は休日を利用して、グーラ、アカと共に電車に乗り込んでいた。
目的地は、グーラの故郷だというT市。それは俺の住む街からも近く、鈍行で十数分程度の所だ。
「久々の里帰りはどんな気持ちかな、グーラ?」
ボックス席でグーラの真正面に座っていたアカが、ビール片手にそう尋ねた。それに対しグーラは、横に座る俺の服の裾をギュっと掴み、小さくいつものフレーズを口にする。
電車の中では、グーラは珍しく終始大人しかった。いつだったか、バスに乗った時は騒音並みにうるさかったというのに――。
やはりグーラとはいえ、一ヶ月ぶりに実家に戻るというのは緊張するものなのか。しかも喧嘩が原因で家出したのだから、余計にそうなのだろう。
「……………………」
俺は何も言わず、グーラの頭にポンっと手を置いた。するとグーラは少し落ち着いた様子で、「あーうー」と短く呟いた。
目的地に辿り着いた俺は、その駅前で、そこから見える町並みをフッと眺めた。
当然ではあるが、そこは普通の町だった。特にこれといった特色もない、田舎の町だ。俺の地元と大差ない。
「後はここからバスに乗れば、グーラの家はすぐだよ。……おっ、ちょうど来たみたいだね」
アカが指差す先では、ちょうど一台のバスが駅前のロータリーに入ってくるところであった。俺達はそのままバスの発着場まで行くと、それに乗車した。
――いよいよグーラの家、か。
そう思うと、ようやく俺の中にも緊張感のようなものが生まれ始めた。
ご機嫌な様子で勝手に喋り続けるアカとは対照的に、俺とグーラはしばらく口を閉ざし、頬杖をつきながら流れていく外の風景を見ていた。
バスを降りた先は、小さな集落のような所だった。辺りには十数軒の住居と、田んぼと畑――それから、小高い山が集落を見守るようにしてそびえているのみである。
そしてそんな集落の奥の方に、グーラの実家――『起福寺』はあった。
「グーラって、お寺の娘だったのか……」
その意外さに、俺は寺の門をくぐりながらポツンと呟いた。
門のすぐ近くには、落ち着いた雰囲気の立派な本堂と、巨大な釣り鐘。奥の方には、まさに田舎の家という感じの木造一戸建てと、それと併せて建てられている二階建ての宿舎のようなものが見て取れる。
「どう、グーラ? 懐かしい?」
「んー。でもー、なんも変わってねーなー」
「ぷっははっ! そりゃそうだよ、一ヶ月しか経ってないんだからさ」
ケラケラケラケラ――アカは笑いだす。
と、その時、向こうの一戸建てから誰かが出てくるのが目に入った。出てきたのは、割烹着を身に纏った女性だ。女性は俺達の姿を見るやいなや、早足でこちらに歩み寄ってきた。
「あぁ! おかえりなさい、グーラ!」
ガバッと――女性は俺の横を通り抜け、そのままグーラに抱きついた。それに対し、グーラも嫌そうな顔は一切見せず、その女性に自身の体を預ける。
「あーうー。ただいまー、おかーさんー」
「うん、うん。おかえり……おかえりなさい、グーラ」
どうやらグーラの母親らしいその女性は、ギュッとグーラを抱きしめたままで、愛しい娘の頭を何遍も撫で回す。娘の方は少しくすぐったがりながらも、一心にそれを受け続けていた。
と、しばらくして不意に女性は愛撫をやめると、静かにグーラから手を放し、俺の方に顔を向けた。
女性は黒髪と白い肌を持った、とても綺麗な風貌をしている。その見た目は――グーラの母親であれば、それなりに御歳も召しているはずなのに――俺と同年代と言われても、疑問に感じられない程に若々しかった。
「はじめまして、信太郎さん。私はグーラの母、モミジと申します」
「あっ、ど、どうも、はじめまして。小野塚信太郎です……」
物腰柔らか――まさに大和撫子といった感じのモミジさん。その美しくお辞儀をする姿に、俺は思わず見惚れて、同時に戸惑ってしまった。
「あら、そんな緊張なさらないで」
俺の緊張を見取ったモミジさんは、クスリと微笑む。
「アカから電話で聞きました。あなたはグーラの恩人……なれば、私にとっても恩人です。その礼と言ってはなんですが、今日は精一杯お持て成しをさせていただきますね」
「はぁ、どうも……」
お持て成し、か。おそらく昼食くらいは御馳走させていただけるのだろう。それにしても恩人と言われると、何だかむず痒いものがあるな。
「それでは、こちらへどうぞ。主人も礼の言葉を述べたいと言っておりましたので」
モミジさんに促されるまま、俺は本堂の方へと足を進めようとする。
しかしその時、ふと後ろから視線が突き刺さってくるのを感じた俺は、首だけで何気なくそちらの方に振り返った。すると、そこにいたのは――
「お、小野塚君……?」
「って……えっ? 木崎さん!?」
俺は目を丸くした。そこにいたのは、大学で俺と同じゼミに所属している、木崎悠美さんだったのだ。
木崎さんは半袖の白いTシャツと短パンを身に付け、細い腕で大きなクーラーボックスを抱えていた。激しい陽射しのせいか、その頬はほのかに赤い。
――何故、木崎さんがここにいるんだ?
素直にそう思った俺は、彼女に向かって、そのまま疑問を口にした。
「あ、あの……サークルの合宿で、こちらのお寺さんに……」
まったくもって、なんという偶然だろうか。そういえば、以前グーラとゲームセンターに出掛けた時も、その場で木崎さんとバッタリ出くわしたんだったな。
「お、小野塚君こそ、どうして……?」
「俺は、えっと……」
下手に嘘を言って誤魔化す必要もないだろう。そう判断した俺は、正直にここがグーラの実家であることを木崎さんに告げた。
すると木崎さんは驚いたように目をしばたかせ、俺の横にいるグーラに視線を落とした。
「そ、そうなんだ……。あれ? で、でもグーラちゃんって、お父さんがヨーロッパの方なんじゃ……?」
あっ! しまった……そういえば木崎さんには、グーラは外国人とのハーフだと言っていたんだった。うぬっ……なんて誤魔化そう?
と、その時だった。今まで少し離れた位置で俺達の会話を窺っていたモミジさんが、突然木崎さんに向けて口を開いた。
「えぇ、そうよ。うちの主人は海外の出身で、この寺には婿として入ったの。まぁ、少し顔が東洋人寄りだから、気づきにくかったかもしれないわね」
モミジさんは口元を手で隠すと、ウフフと静かに笑った。そして、チラリと目だけを、一瞬俺の方に向けた。
その目線で俺は気づいた――モミジさんは、俺のためにわざわざ話を合わせてくれているのだ。つまり、あの木崎さんの一言だけで、俺が彼女に嘘を吐いていたということを見抜いたのである。
一方、モミジさんの言葉で木崎さんは顔を赤くすると、クーラーボックスを持ったまま、慌てて頭を下げだした。
「あ、す、すいません! その……お寺の住職さんということで、勝手に日本人だと思い込んでしまって……」
「あら、いいのよ。確かに、外国人で寺の住職を務めているというのは珍しいものね。それに日本人だと思っていただいた方が、主人は喜ぶわ。あの人、日本が大好きだから」
クスクスと笑うモミジさん。同じ『笑う』でもアカのそれとは違い、とても上品で、奥ゆかしさが感じられた。
だが、恐らくこの人も、人間ではない……。俺の横でボーっと宙を見つめている少女と同じ、喰人鬼のはずだ。しかし中々どうして、俺にはモミジさんが鬼だとはとても思えなかった。どうしても、彼女が美しい日本女性にしか見えないのだ。
そして、それはアカも同じだった。常に無礼講状態のアル中だが、彼女も傍から見れば普通の人間と変わりはない。
もちろん見た目だけで言えばグーラもそうなのだが、やはりこの二人は、グーラとは何かが違っていた。言葉遣いとか全体の幼さ以外に、何かが決定的に……。
そんな時、門の方から木崎さんを呼ぶ女の声がした。
「ちょっと悠美、早くドリンク持って来てよ~!」
「ふぇあ!? あ、ご、ごめん!」
木崎さんはその声(おそらくサークルの仲間だろう)に返答すると、
「あ、あの……ま、マネージャーの仕事があるので、これで失礼します」の言葉と共に、モミジさんに頭を下げた。
「そ、それじゃあ、その……小野塚君とグーラちゃんも――」
「あぁ、うん。またね」
俺が軽く片手を上げてサヨナラの意を示すと、木崎さんはコクンと頷き、そのまま慌てた様子で足早に門の向こうへと去っていった。
「……さて。それでは本堂の方に参りましょうか、信太郎さん」
木崎さんがいなくなり、モミジさんはスッと手で、俺に動くよう促した。俺はそれに頷くと、モミジさんの案内の下、やや緊張した足取りで本堂を目指し再び歩き始めた。
ギュッと――歩きながら、グーラが俺の服の裾を掴んだ。
本堂に入ってから通されたのは、畳が敷かれ、その上に木目の綺麗なテーブルと座布団が置かれただけの、シンプルな内装の部屋であった。
他に何か特徴はないものかと、俺はテーブル前の座布団に胡坐を掻きながら、軽く辺りを見回してみる。
前方の壁には、水墨画が描かれた一枚の掛け軸が飾られていた。その逆方向と左方向には無地の襖があり、両方ともピタリと閉じられている。右側からはガラス戸越しに外の風景が窺え、そしてすぐ目の前のテーブル上には、冷たい麦茶が布のコースターを間に挟んで置かれていた。
「……なぁ、アカ。モミジさんも、喰人鬼……なんだよな?」
モミジさんが旦那さんを呼びに行っている間に、俺は後方で足を伸び伸びとさせているアカに向かって、そう尋ねた。するとアカは、「そうだよ」の言葉と共に、コクリと首を振った。
「当たり前だろ、グーラの親なんだからさ」
「……そう、だよな……」
返しながら、俺は横でチョコンと座っているグーラに目を落とした。
グーラは一見、いつもと変わらぬ様子だった。いつもと同じで、その焦点の合わぬ目で、何処か明後日の方向を見つめている。
だが、よくよく見るとその顔には、うっすらと緊張の二文字が刻まれていた。一ヶ月ぶりに喧嘩別れをした父親と再会――ここに来る途中もそうだったが、さすがのグーラでも平静ではいられないらしかった。
「……ところでさ、信太郎」
「うん? 何だ?」
不意のアカの呼びかけに、俺は麦茶を口に含みつつ反応を示した。グーラを見ていると、こちらもより一層喉が渇いてきてしまったのだ。
「さっきの……木崎だっけ? あの子ってさ、信太郎の彼女?」
「ぶほっ!?」
いきなり飛んできた予想の斜め上から脇腹を抉り込んでくる質問に、俺は思わず麦茶を噴き出した。しかも口からだけでなく鼻からも僅かに出ていってしまったために、その奥がツーンと痛くなる。そのうえ気管にも数滴入ってしまったものだから、意図せず俺はゲホゲホと咳き込んでしまった。
そんな俺の様子が面白かったのか、アカはケタケタと笑いながら、
「信太郎、汚い~」と、こちらを指差しながら囃し立てた。
「お、お前がいきなり変なこと言うからだろ!」
部屋の隅にあったティッシュを使い、テーブルに飛び散ってしまった液体を拭き取りつつ、俺は反論する。
「そんな変なことは言ってないよ~。女ってのは、どんな時でも色恋沙汰が気になっちゃうものなんだからさ」
「どんな時でもって、それにしたってタイミングがあるだろ!」
「あはは。まぁまぁ、ちょっとした冗談なんだから、そんなに怒んないでよ。それに、ほら」
アカが顎でグーラを指す。目を移すと、グーラはこちらを見ながら、両手を小さく上下に揺れ動かしていた。
「あーうー。しんたろーとあかねぇ、楽しそうー」
そう言うグーラの顔からは、不思議と、先程よりも緊張の色が薄れているように見受けられた。
「信太郎も、どう? 少しはリラックス出来た?」
「アカ……」
そうか。アカは、俺とグーラの緊張をほぐすために、わざと場違いな発言をしてくれたのか。たしかに、俺も今の流れのお陰で、少しばかり平常に戻れた気がする。これは、感謝しておいた方がいいな。
「アカ、ありが――」
「んでさ、あの木崎って子は信太郎の彼女さんなの? ほらほら、早く教えなよ~」
「……お前……」
溜息一つ。そしてニヒヒッと笑うアカに対して、俺は口を閉ざした。
それからしばらくして――不意に、スッと左側の襖が開けられた。そしてそこから現れた人物に、俺達は思わず身を固くした。
白っぽい作務衣を着た、三十代半ばといった感じの男性。背丈はかなり高く、百八十……いや、百九十はあるだろうか。細身だがガッチリとした体格で、頭髪はない。彫りの深い凛々しい顔立ちに、太くキリっとした眉が印象的だ。
「お待たせしてしまって申し訳ない。裏山の畑を見に行ってしまっていたもので……」
男はそう言いながら小さく頭を下げると、テーブルを挟んだ俺の向かいに腰を下ろした。そのピンとした背筋、姿勢に釣られて、俺も思わず胡坐から男と同じ正座に切り替えてしまう。
なるほど山に行っていたと言うだけあり、その額には玉のような汗を滲ませ、さらに衣の方には染みが点々と出来ていた。
「……あの、あなたが……?」
「はい。私がグーラの父、テンドウです。この度は娘が大変世話になったそうで……本当にありがとうございます」
そう言うと、テンドウさんは座ったままで、もう一度頭を下げた。そうして再び頭を上げると、次は俺の横にいるグーラに目を向ける。
「グーラ……おかえり」
「……ただいまー、おとーさんー」
テンドウさんがフッと見せた笑顔に、グーラは未だ微かに抱いていた不安を、今まさに完全に払拭したようであった。その顔からは緊張が消え、ホッと安堵するように息をつく。
だがその一方で、俺は一向に気持ちを平常に戻せないままでいた。せっかくアカに一度ほぐしてもらったというのに、まるで意味がない。
するとそんな俺の様子を感じ取ったのか、テンドウさんは微笑んだままで口を開いた。
「ハハッ。信太郎君、もっと楽にするといい。どうぞ、足も伸ばして」
「あ……す、すいません」
その言葉で、俺は再び胡坐に戻った。だが、それでも背筋だけは努めてピンとさせる。
ほぼ間違いなく、俺は目の前の男に、ある種の畏怖の念を持っていた。実際に経験したことはないが、『彼女』の親に挨拶をする時の感覚に、幾らか似ているのかもしれない。
「……時に信太郎君。キミは、何が好物なのかな?」
「え……えっ!? こ、好物……ですか?」
それは意外な質問だった。会って間もないのに、いきなり好物を尋ねられるなんて、完全に予想外だったのだ。
「いや、お礼というほどではないんだが……せめて今晩は、恩人であるキミに美味しいものを食べてもらいたいと思ってね」
「は、はぁ……ありがとうございます」
昼食くらいは頂けるだろうと思っていたが、どうやら向こうは晩飯まで御馳走してくれるつもりらしい。
と、俺がテンドウさんに言葉を返していると、横に座っていたグーラが急に、
「ねーこー! グーラ、ねこ食べたいー!」と言って、ウキウキと体を揺らし始めた。
グーラ……こいつは不安が無くなった途端にこれか……。しかも、猫は食べないと約束したはずだろう。
そう思って俺が溜息を漏らしていると、テンドウさんが顎に手をやりながら、うーん、と短く唸った。
「猫か……。でもなぁ、グーラは猫に勝手にマヨネーズ付けるからなぁ」
「あーうー。ねこにはマヨネーズだよー。ねこマヨー」
「いぃや、猫には中農ソースと昔から決まっている! 信太郎君とアカも、そう思うだろう?」
「へっ……!?」
まさかこの話が続くとは思ってもおらず、しかもソレをいきなり自分の方へと振られたものだから、俺は当然の如く声を詰まらせた。
するとそんな俺の後方から、さらに追い打ちをかけるような言葉が飛ぶ。
「あ、すいませ~ん、おじさん。アタシ、バター醤油派なんで~」
「むっ、そうか……。では、信太郎君は? 信太郎君はもちろん中農ソース派だよね?」
「い、いや、俺は……」
テーブルから身を乗り出してグッと前に出てくるテンドウさんに気圧されて、俺は口元を引き攣らせながら上半身をのけ反らせる。
すると不意に――テンドウさんはハッと我に返った様子で、気まずそうに元の位置に座り直した。
「すまなかった、信太郎君……。変な話をして申し訳ない」
そう言って、テンドウさんはこちらに向かって深々と頭を垂れる。
正直、頭を下げられても困るのだが……。
「いや、大丈夫です。気にしないでください」
「……そうかい? そう言ってくれると、有り難いよ」
ふぅ、と小さく一息をついて、テンドウさんはゆっくりと顔を上げた。
……それにしても、やはりこの人も、鬼なのか。……当然だ、グーラの親なのだから。だが、テンドウさんも他の二人と同様に、グーラとは何かが違っていた。
と、その時、ふとテンドウさんがグーラに言葉を放った。
「そうだ、グーラ。ちょっと、母さんを手伝いに行ってやってくれないか?」
「あーうー? 手伝いー?」
「あぁ。今頃、きっと昼食の準備をしているだろうからね。グーラも、早くご飯を食べたいだろ?」
「んー、わかったー」
コクコクと首を縦に振ると、グーラは勢いよく立ち上がった。そしてそのまま左側の襖を開け放つと、風のように素早く部屋を飛び出して行った。
ドタドタという騒がしい足音が、次第に遠ざかっていく。
すると次は、後ろでずっと酒を呷っていたアカが、おもむろに腰を上げた。
「んじゃ、アタシもちょっと出てくるわ」
「え? どこ行くんだよ?」
「あー……その……そう、お酒買いに行ってくるんだよ。今のうちから、よ~く冷やしとかないとね」
アカは喋りながら俺の横を通ると、先程グーラも通過して行った敷居をまたいだところで、クルリと振り返った。
「じゃあ、また後で」
軽く片手を上げてから、アカは開けっぱなしになっていた襖をスッと閉めた。襖の向こうから、人が歩いて行く音が小さく聞こえた。
そして気が付けば、部屋には俺とテンドウさんの二人だけになっていた。未だ委縮していた俺の心が、シュンと、さらに縮むのを感じる。
けれども、緊張しているのは、どうやらテンドウさんも同じようであった。その証拠に、態度にこそ出てはいないが、額にうっすらと新しい汗が滲み出ている。
それからしばらく、男二人の間には微妙な沈黙が流れた。その間、テンドウさんは何かを考え悩むように眉をひそめ、一方で俺は、この状況で自分がどうしたら良いものか分からずに途方に暮れていた。
もしかしたら、昼食の用意が出来るまで、このまま互いに黙ったままなのか――。そんな重苦しい不安が頭をよぎる。
しかし、その沈黙を不意にテンドウさんが破った。
「……信太郎君」
さっきまでとは異なる、低く押し殺したような声。さらにテンドウさんは、すぐに言葉は続けずに、ジッと真正面から俺の目を見据えてきた。
「……何ですか?」
一瞬、目を逸らそうかとも思った。だが一心に見つめてくるテンドウさんの瞳にただならぬものを感じ、俺はあえて、それを真っ向から受け取った。
「実は、キミに頼みたいことがあるんだ」
「え? 頼みたいこと……ですか?」
「あぁ……」
小さく頷いたかと思うと、テンドウさんはモゴモゴと口ごもった。よほど言いにくいことなのか、何度も言おうか言うまいかという悩みの表情を見せる。
それからは、また沈黙だった。俺はテンドウさんが再び口を開くのを、ただジッと背筋を伸ばした状態で待つ。ピリピリとした緊張感が、俺の肌を突っついた。
「……信太郎君」
もう一度、テンドウさんが沈黙を破る。その声は先程よりも掠れ気味ではあったが、目には決心の色が灯っていた。
はい――と、俺は短く相槌を打ち、テンドウさんに続けるよう促す。
すると次の瞬間、テンドウさんは座ったままの状態でススッと二、三歩ほど下がると、前傾姿勢で畳に両手を着き、
「信太郎君、頼む! あの子に……グーラに食べられてくれ!!」
そのまま、額を畳に擦りつけた。
俺は何を言われたのかを理解できず、呆け、言葉を失った。少しして、ようやく意識を取り戻し、今しがた告げられた台詞を心の中で反芻する。しかしいくら噛み直しても、今一つその言葉の意味が分からないままであった。
「あの……え、っと……食べ……って、その……?」
「……そうだね。いきなりこんなことを言われても、混乱するに決まっている……」
依然、最大級の懇願のポーズを取ったままで固まっていたテンドウさんは、ゆっくりと体を起こした。そしてもう一度、先程まで使用していた座布団の上に座り直す。
「すまない。少々、焦り過ぎていたようだ」
「あ、いえ……。で、さっきの……」
「あぁ、今から説明するよ。最初から、ね」
コホンと、咳払いを一つ。そしてテンドウさんは、おもむろに口を開いた。
「キミは、グーラのことを妙だとは思わないかい?」
「妙、と言うと?」
「そうだな……。一言で表せば、『幼い』に尽きるかな」
「あぁ、それなら――」
グーラが異様に幼いというのは、彼女と出会った時から感じていた。見た目は中学生くらいなのに、その言動たるや小学校の低学年か、もしくはそれ以下なのだ。
しかし俺は今まで、それを特に気にすることはなかった。鬼というのはそういうものなんだろう――アカと会うまでは、そう思っていたからだ。
「あの幼さには理由があるんだ。我々……人間とは違う、鬼の理由がね」
少し間を置いて、テンドウさんは続ける。
「大昔、鬼というのは愚かな生き物だった。人よりも遥かに低い知能で、ただ本能に身を任せるだけの、獣だった。それがある時、とあるモノを食した途端に、彼らは『考える頭』を得たんだ」
「……とある、モノ?」
「……人間だよ」
その単語に、俺は思わず息を呑んだ。しかし、テンドウさんはそんな俺を気にかけることなく、さらに続ける。
「そして現代――。我々は長い時間の中で、人間と同程度にまで脳を発達させた。しかし、それでもやはり鬼は鬼。人間のようになれはしたが、我々は決して人間にはなれない」
そう静かに語るテンドウさんだったが、語尾に近づくにつれて、その声は段々と小さくなっていった。同時に、部屋を包み込む異様な緊張感からか、咳払いを繰り返すようになっていく。
そんなテンドウさんに、俺は自分の目の前にある麦茶を飲むように勧めた。
それはキミのために用意されたものだ――そう言って最初は拒んでいたテンドウさんだったが、次第に喉の渇きに耐えられなくなり、最終的に彼は申し訳なさそうにそれを受け取った。
露のたっぷりついたコップに注がれている少し温くなってしまった麦茶を、テンドウさんは一気に飲み干す。半分以上残っていたのに、その全てを飲んでしまうとは、よほど口の中が渇き切っていたのだろう。
「……ふぅ。すまない、信太郎君。ありがとう」
コップを再びテーブルの上に戻しながら、テンドウさんは俺に向かって礼を言った。
「いえ。それで、話の続きは……」
コクリと頷き、テンドウさんは話を再開した。
「幾らか頭が良くなっても、我々は所詮、本能に生きる獣だ。だから我々は人間社会に隠れ溶け込んでいく為に、幼少期に『理性』を得る。……どうやってかは、言わなくても分かるかな?」
「……人間を食べて、ですか?」
自分で言いながら、少しゾッとした。
「その通りだ。私も、妻も、そしてアカも……小さい頃に人間を食べ、そして理性を得た」
言いながら、テンドウさんは自身のこめかみの辺りを、人差し指でトンッと叩いた。おそらくその指差す先は、『知』の象徴とも言える脳であろう。
「だが、グーラは……あの子は、未だそれを経験していない。グーラの年であれば、とっくに通過しておかなければならないというのに、だ」
「……なるほど。それで、俺にあんなことを頼んできたんですね。でも、何で俺なんですか?」
俺は率直に、自分の抱く疑問を口にした。
グーラが理性を得るために、人間を食べなければいけないというのは分かった。が、何故その相手に俺を選んだのか――それが分からなかった。何か特別な理由があるのか? それともただ単純に、俺が手頃だからなのか?
「それなんだが、ただ人間を食べればいいというわけではないんだ。食べる本人が思い入れを持つ、特別な人間でないと駄目なんだ」
「特別な人間って……俺が、ですか?」
「あぁ。キミは、一ヶ月近くもグーラと共に過ごしてきた。十分『特別』に値すると、私は考えている」
そう言って、テンドウさんはジッと、熱い眼差しで俺を射抜いてきた。先程、同じように見つめられた時にはそれを受け取った俺だったが、今度はその視線から目をサッと逸らした。
その状態で、俺は次の疑問を口から出す。
「そもそも、本当に『理性がない』んですか? グーラは確かにちょっと変わったところもありますが、動物と一緒には見えません」
「……信太郎君は、グーラの中の『鬼』を見たことがあるかい?」
「えっ?」
グーラの中の『鬼』――その言葉で、俺はふと、先日のアミューズメント施設での一件を思い出した。
「確かにキミの言う通り、グーラと動物は完全にイコールではない。あの子にも少なからずとも、理性はある。だが、それは『僅かな』理性だ。そんなものでは、ふとした切っ掛けで本能に支配されてしまう。我々に必要なのは、本能を完全に押さえつけるだけの理性なんだよ」
言い終わると、テンドウさんはおもむろに立ち上がった。その巨体の高い位置に取り付けられた双眸で俺を捉えたまま、彼はテーブルを迂回し、俺の目の前で静かに正座をする。
そして前方に向かって八の字に手を置くと、前屈みの状態のままで、再び口を開いた。
「私はあの子に……グーラに、普通の生活を送ってもらいたいんだ。普通の、人間のような生活を……。勝手なことを言っているのは分かっている。だが、キミしかいないんだ! キミしか、グーラに理性を与えることは出来ないんだ!」
次の瞬間、テンドウさんは頭を下げた。
「信太郎君、頼む!! 食べるといっても、命まで取るわけじゃない。足……いや、腕一本で十分なんだ! あの子のために、信太郎君の腕を譲ってくれっ!!」
その姿は、必死と言う他なかった。自分の娘のために、プライドなどという邪魔なものは全て捨て去り、テンドウさんは若造である俺に向かって土下座をし続けたのである。
なのに、俺はそれに何の反応も示さなかった。肯定も、否定の意思すらも見せることはなかった。ただジッと、懇願しているテンドウさんの姿を黙って見つめていた。
どうしてだろうか……。俺は、悩んでいた。
「……悩んでくれて、ありがとう」
少し時が経って、不意にテンドウさんがそのままの体勢で呟いた。その声は穏やかで、同時に安堵の息を漏らしていた。
「そう、すぐに結論を出す必要はないんだ。是非とも、ゆっくり考えてくれ」
テンドウさんはゆっくりと面を上げた。言いたいことを全部言い切ったが故だろうか、その口元には微小な笑みを浮かべ、先と同じ余裕を持った大人の顔に戻っていた。
その一方で、テンドウさんに短く相槌を打つ俺の顔には、うっすらと陰りが現れ始めた。
何故、俺は悩んでしまったんだろう……。
その後悔にも似た思いが正直に表情に出てしまった気がして、俺はサッとうつむいた。
と、その時、遠くから聞き覚えのある騒がしい足音が響いてきた。その足音が段々と近づいてくるので、俺とテンドウさんは、ほぼ同時に一番近くの襖に目を向ける。
すると次の瞬間、足音がピタッと止んだかと思うと、スパンッという気持ちの良い音を立てながら襖を開け放たれ、グーラが姿を現した。
グーラは、その焦点の合わない目で俺達を確認すると、緊張感の欠片もない口調で喋り始めた。
「二人ともー、ごはんできたぞー」
「おぉ、そうか。よし、では行こうか、信太郎君」
テンドウさんは素早く立ち上がると、未だ腰を下ろしたままの俺に、その大きな手を差し出した。
俺は数瞬、その手を見つめていた。そしてテンドウさんが親切で出してきてくれたというのに、結局、俺は自分だけの力で腰を上げた。
勝手な思い込みだが、この手を取ることはつまり『肯定』を意味することになってしまう気がしたのである。
「あぁ、そうそう。普通は謙遜するところをあえて言わせてもらうが、妻が作る料理はとても美味いぞ。信太郎君、期待してくれ」
ハハハッと、白い歯を見せて笑うテンドウさんは、俺の無礼などこれっぽっちも気にしていない様子であった。これが大人というものか――と、俺は心の中で密かに思う。
そのまま、グイグイと腕を引っ張っていくグーラに連れられ、俺達は畳の部屋を後にした。