外伝 公園の褐色少女
鬼とはつまり人に害為す物の怪だ。僕はずっと、父親からそう教えられてきた。
そして僕にはそれを祓う力がある。それが意味することはただ一つ――だからこそ、僕はずっと修行を積んできた。今はほとんど失われてしまった陰陽師としての修行を――。
なのに、どうだろう? 僕は鬼を見逃した。邪悪であるはずの鬼を祓わず、奴らに背を向けてしまった。一体どうして、この僕が……?
『昔話なんかよりも、私は目の前のものを――自分自身を信じる!』
悠美の言葉が、何故かずっと耳に残っている。自分自身――悠美は人間である自分と共に、あの鬼の娘を信じたというのか。害悪である鬼なんかを……。
……そういえば物の怪を見逃したのは、これが初めてではなかったな。そう、確かあれは僕が小学生の頃だ――。
それは暑い日だった。夏休み――今となっては懐かしい響きだ。
クラスメートの者は皆、仲の良い友人達と共に日差しでその肌を黒く焼いていた。その様は、まさに遊び回るという表現が正しいだろう。子供の特権とはよく言ったものである。
だが僕にとって、そんなものは無縁でしかなかった。来る日も来る日も陰陽師となるための修行を積むだけの生活だったのだ。もっとも、それを苦に思ったことは一度も無い――少なくとも僕自身は。
ところが母はどうやら、少しの休みも与えないまま子供に修行をさせる夫に我慢がならなかったようだ。
「勉強や修行もいいけど、遊ぶことも子供にとっては同じくらいに大事よ」とは、母の弁だ。
かくてある時を境に、僕には週に三日の暇が出来てしまったのである。
しかし、暇――それは僕にとって真に文字通りの言葉だった。何せ他の子供達と同じように公園に行ってみても、何をするわけでもなく夕暮れを待つだけなのだ。
当然だ。ずっと修行だけを続けてきた僕に、友人などいるはずもなかった。
そんな僕はいつも一人で公園の遊具場脇に置いてあるベンチに何するわけでもなく座っていた。さすがに苦痛を感じなくはなかったが、これも精神修行の一環だと思うことで何とかやり過ごしていた。
そして今日もまた、いつもと同じ――そう思っていた矢先、一人の少女が不意に僕に話しかけてきた。
「……ねぇ、一緒に遊ぼうよ?」
それは不思議な子だった。日本人とは掛け離れた真紅の髪に、健康的な褐色の肌。そしてボヤッとして焦点の合っていない目が、ジッと僕を見つめていた。
「はぁ? いきなり何――ッ!?」
その瞬間、僕の鼻腔は僅かな違和感を覚えた。この少女からは何か人間離れした臭いを感じる。悪臭とまでは言わないが、何かがおかしい。
この時、まだ力の弱かった僕にはそれが物の怪の臭いだとは断定出来なかった。ただその少女から漂う不思議な臭いに不信感を抱くことで精一杯だったのだ。
一方、そんな僕の心の内を知らぬ少女は、ふと僕の手をギュッと握り締めた。突然のことに驚きを隠せない僕をよそに、彼女はニッと口を横に広げてみせると、
「あたしの名前はね、****。あなたは?」
「……木崎、悠貴」
「じゃあ、あっちで遊ぼう、ゆーき!」
「ちょっ、おい……!?」
そのまま彼女は、力いっぱいに僕をベンチから引き剥がしたのである。すっかり混乱していた僕は抵抗することも出来ず、ひたすら彼女に手を掴まれたまま引っ張られていく。
そうして辿り着いたのは遊具場の一角――何てことはない、普通の砂場だった。
「ほら、お山作ろっ! でっかーいやつ!」
そう言うと、少女はせっせと砂を集め、それを下から盛り始めた。そして何が何だか分からないうちに、僕はそれを手伝わされる羽目になってしまったのである。
僕は彼女と向かい合いながら、その間にあるこんもりと盛られた砂をさらに大きくしていく。
少しすると、少女は不意に「完せーいっ!」と大声を出しながら嬉しそうに手を上げた。二人で盛って固めた砂の山は、二、三十センチメートルほどの高さになっていた。
「んじゃ、次はブランコ! ぶらぶらっ!」
砂だらけの手で再び僕を掴むと、少女はまた強引にその手を引いた。そしてブランコの前にまでやってくると、彼女はおもむろにそれに腰を落としながら、
「最初はあたし! ゆーき、押して押して!」
「何だって僕がこんなことを……」
溜め息混じりに文句を零しながらも彼女の後ろに回ると、僕はその自分と比べて一回りか二回りも小さい背中をトンっと押した。途端に、少女はキャッキャと笑いながらブランコを漕ぐ。
それからその背中を何度か押してやっていると、ふと少女はブレーキをかけ、ブランコから降りた。
「次はゆーきの番ね! あたしが押したげる!」
「なっ!? ぼ、僕はいい! ブランコなんて子供染みたもの……」
「いーから、いーから! 遠慮しないで~」
これまた強引に、少女は僕をブランコに座らせた。そして素早く後ろに回りこむと、大きな掛け声と共に勢いよく僕の背中を押す。すると僕は、そのままほんの少し上昇したところでバランスを崩し、つんのめるようにして地面に転がったのである。
「だ、大丈夫、ゆーき!?」
心配したように、少女が僕の傍に寄ってくる。一方、体勢を戻した僕はそんな彼女に対して眉をひそめると、大人気もなく(子供だが)声を荒らげた。
「だから僕はいいって言ったんだ! だいたい最初に乗り方を教えたらどうだ!?」
言ってから、僕はしまったと思った。
「……もしかして、ゆーきってブランコ乗ったことないの?」
「わ、悪いか?」
正直な話、ブランコだけでなく公園で遊ぶこと自体、今日が初めてだった。もちろん他人がブランコに乗っているのを見たことはあるが、自分でやってみると意外に難しかったのである。
僕が少し恥を感じて俯いていると、いきなり少女が僕の手を掴んだ。次は何かと見上げると、彼女はニンマリと笑って、
「じゃあ、あたしが教えてあげるね、ブランコの乗り方!」
そのまま引っ張り起こされて、僕は再びブランコに座らせられた。それから数十分――僕は彼女からブランコの乗り方をみっちりレクチャーさせられたのである。
しかもそれだけで終わりではない。そこからさらに彼女の勢いには拍車がかかり、僕は様々な遊具で遊ぶ彼女に強引に付き合わされた。気が付いた時にはもうすっかり日が落ちかけており、周りの子供達は続々と家路についていた。
「もうこんな時間か~。えへへっ。楽しかったね、ゆーき!」
「僕は疲れただけだ……。もう帰るぞ」
ようやく解放される――そう思い、僕は深く溜息を吐いた。そしてそのまま彼女に背を向けて歩き出す。
だがその途中で、不意に彼女が僕の名を呼んだ。うんざりしながらも何気なく振り向いた僕は、思わず目を見開いた。
「ゆーき! また遊ぼうねっ!」
夕陽をバックに少女は笑っていた。夕陽の赤が彼女の髪の色と重なって、とても似つかわしい。
僕はそれに言葉を返すことはせず、すぐさま首を元に戻した。そしてそのまま前だけを見つめて、その場を去っていく。背後からは少女のバイバイという声がいつまでも飛んできていた。
……太陽の下でこんなにも長時間遊んでいたのは初めてだ。だからだろう――何故だか顔がほんのりと熱かった。
その二日後――僕はまた公園のベンチに座っていた。別に他意はない。ただ……そう、ただ家にいても暇だっただけだ。だから公園にフラッとやって来ただけなのだ。
そして――
「あっ、ゆーき! ねぇ、今日は何して遊ぶ?」
そして僕は、今日も偶々この少女と遊ぶことになった。そう、偶々――ただの偶然だ。僕が暇で公園にいたことと、彼女が公園にいたこと――その二つの偶然が重なっただけの出来事である。
偶然ならば仕方ない。僕は肩を竦めながら、その偶然が起こる度に彼女の遊びに付き合ってやることにした。
「最近、悠貴はどこに行っているんだ?」
ある日の晩の食卓で、不意に父がそう言った。いきなり何を言っているのかとも思ったが、横からの母の付け足しで、それが修行の無い日の僕の動向を聞いているのだと気が付いた。
「どこって……別に。ただ公園に行ってるだけだよ」
「んっ、そうか……。公園に……」
そこで父は一度口を閉ざした。しかし少し経つ毎にチラチラとこちらに視線を飛ばしてくるので、僕はつい眉間に皺を寄せた。
普段から口下手な父親ではあるが、今日はいつになくハッキリしない。何か言いたげではあるが、口に出さなくては伝わらないだろうに。
と、そこでふと母が口を開いた。母は小さくクスクスと笑いながら、
「心配いらないわよ、お父さん。悠貴は友達と公園で遊んでるみたいだから」
「そ、そうか! それなら良かった」
母の話を聞いて、父は満足そうにご飯を頬張った。
どうやら父は、僕がずっと一人でいるのではないかと心配していたようだ。あまり親らしい人だとは思っていなかったが、父は父で、友達を作る機会が皆無だった僕のことを気にしていたらしい。
しかし、そこから食卓の話題は変なところに着地した。
「今日も嬉しそうに水着を持って遊びに行ってたわ。ほら、若葉公園に大きなプールがあるでしょ?」
「あっ。私、見たよ。お兄ちゃんが女の子とプールで泳いでるの」
「あら、友達って女の子だったの? 悠貴も隅に置けないわね~」
「なっ!? べ、別にあいつは友達じゃない! ただ、偶々いつも遊んでやってるだけだ!」
いつもそれほど会話があるわけでもない家なので、こんな俗っぽい話題が食卓に上がるとは思ってもいなかった。しかも、それに僕が関与することになるとは……。
はぁ――僕は溜息を吐くと、箸を置いた。そしてズルズルと今の話を続けられても敵わないので、御馳走様の言葉と共に、そのままその場を後にしたのである。
それにしても、女とは何故ああも俗的な話が好きなのだろうか? それに僕は彼女と遊んでやっていただけなのに、どうして隅に置けないのかが理解出来ない。
そもそも母の言った友達という単語も適切ではない。自分でも否定したように、僕と彼女は、あくまで友達なんかではないのだ。ただ一緒に――
「遊んでるだけで……」
自分の部屋へと向かう途中で、僕の心にふと何かがよぎった。今まで感じたことのない変な気持ちだ。少しだけ、胸の内が苦しい……。
一体何なんだろう、これは? 自分と彼女は友達ではないと思う度に苦しみは強くなっていく。友達なんかじゃないはずなのに、それを否定するのが辛い。
……いや、きっと疲れだろう。今日も彼女に振り回されっぱなしだったからな。一眠りすれば良くなるはずだ。
そう思い、僕は自分の部屋へと入った。そして少し早いが布団に潜り込む。
――どうせ明日も彼女は公園にいるんだろうな。だったら、また遊んでやってもいいかもしれない……あくまで暇だから。
頭の隅でそんなことを呟きつつ、僕はそのまま夢の中へと堕ちていった。
だが明くる日、いつものように公園に向かった僕がその少女に出会うことはなかった。さらに次も、またその次も――彼女が公園に姿を見せることはなかった。
そしていつしか、僕も公園には足を向けなくなっていった。暇な時は家で読書なんかをするようになったのである。
気が付けば、夏休みは既に最終日に差し掛かっていた。
八月も最後だというのに、その日は特に日差しが厳しかった。ギラついた太陽の光が雲に阻まれることなく降り注ぐ。
そんな真夏日に、僕は自宅横に併設されている武道場で精神修行に勤しんでいた。と言っても、大したことをするわけではない。ただジッと目を閉じたままで集中し、周りの空気や気配を感じ取っていくだけである。
と、その時、遠くの方から誰かが近付いてくるのに僕は気付いた。足音の間隔や重さからして、おそらく父だろう。
「悠貴、いるか?」
案の定、それは父の声だった。僕はスッと目を開くと、正座をしたままで顔だけを声のした入り口に向けた。
「何、父さん?」
「あぁ、悠貴。実はお前に使いに行ってもらいたいんだが……」
そう言う父の手には一通の封筒があった。まさか使いというのは、あの封筒を出しに行って欲しいということなのだろうか。
「いや、すまん。悠美も母さんもいなくてな。父さんも仕事があるし、悠貴に頼まざるを得んのだ」
「……分かった」
僕は正座を解いて立ち上がると、父から封筒と小銭を受け取った。どうやらポストに投函するのではなく、直接郵便局に持って行かなければならない書類らしい。確かここから一番近い郵便局なら、公園の辺りにあるはずだ。
「じゃあ行ってくる」
落とさないようにしっかりと小銭をズボンのポケットに仕舞い、僕はそのまま武道場を後にしようとする。しかし、そこに父が待ったを掛けた。
「それが終わったら、今日はもう自由にしなさい」
「え? でも、まだ修行が……」
「あ、その……今日は忙しいから、悠貴の修行を見ていられないんだ。だから今日はこれで終わり――公園にでも遊びに行ってきなさい」
それだけを言うと、父はそそくさと社務所の方に去っていった。だが僕は、その言葉の最中で彼の目が僅かに泳いでいたのを見逃さなかった。
忙しいというのは、おそらく嘘だろう。そして修行を見られないというのも嘘だ。大方、最近になってめっきり外に出なくなった僕に気でも遣ったのだろう。えらく不器用な上に、いらぬ世話だ。
とはいえ父に珍しく気を遣わせてしまった手前、用事だけを済ませてさっさと家に帰ってくるわけにもいかない。僕は小さく溜息を吐くと、靴を履いた。
それからおよそ十数分。郵便局でやることなどは、たかが知れている。職員に封筒を渡し、代金を払って――気が付けば、僕は公園の遊具場脇のベンチに腰を下ろしていた。
周りでは子供達が無邪気に遊び回っている。それをぼんやり眺めていると、ふと懐かしい気分になった。つい先日までは、ここで今と同じように座っていたはずなのに――まるでずっと昔のことのように感じられる。
そういえば、あの日もこれくらい暑かった気がする。灼熱を帯びた恒星の光が、真上からギラギラと――。
ふと見上げた太陽があまりにも眩しくて、僕は目を細めた。一瞬、視界が白だけで埋め尽くされる。
しかし次の瞬間、不意にその白が黒に変わった。誰かが後ろから僕の目を覆い隠したのだ。突然のことに僕は思わず声を上げ、跳ねるようにしてベンチから立ち上がった。
「へへ~っ。びっくりした、ゆーき?」
背中からの聞き覚えのある声――ハッと振り返った僕は、目の前の少女の姿を確認するや否や口を開いた。
「お前……っ!? な、何で――」
「いやぁ、実は家の用事で最近遊べなかったんだ~。ごめんね、ゆーき。遊んであげられなくて」
「ぼ、僕がお前と遊びたくて仕方がなかったみたいな言い方はやめろ!」
僕がその次の言葉を紡ぐよりも先に、彼女は明るく笑いながらこちらの疑問に答えてみせた。その屈託のない笑顔は、以前と何も変わっていない。それを見た瞬間、自分でも気付かぬうちに、僕は心の中でホッと安堵の息を吐いていた。
「アハハ。じゃあ、せっかく久々に会えたんだから早速遊ぼうよ、ゆーき!」
「し、仕方ないな……。ところで、家の用事って何かあったのか?」
「あぁ、実は明日で別の街に引っ越しちゃうんだ、あたし。その準備とか、お部屋の片付けで忙しかったんだよね」
「……え?」
数瞬、僕は彼女が言っていることを理解出来ないでいた。ただ雷に打たれたような衝撃だけが体を駆けるのみである。そんな僕に否応でも現実を突き付ける一言を、彼女は続けて放った。
「だから、ゆーきと遊べるのは今日で最後なんだ」
「そう、なのか……」
「うん。ほら、最後なんだからいっぱい遊ぼうよ! まずはすべり台へゴーゥ!」
そのまま僕は手を取られ、すべり台へと向けて走る少女に引っ張られていった。
それからずっと彼女が笑顔を絶やすことはなかった。遊んで、はしゃいで――むしろその笑みは益々輝きを増していく。
一方で、僕の心には黒いモヤのようなものが掛かっていた。どうしてかは分からないが、チクリとした痛みが頻りに胸を突いた。
そうして気が付いた時には、あんなにも高く昇っていた太陽はもう西の街並みに沈みかけていた。昼間とはまるで顔を変えた紅い光が、続々と家路につく子供達を照らしている。
そんな中で、少女は満足そうな笑顔を浮かべながら衣服に付いた土を払い落していた。そしてニッコリと僕に笑いかけて、
「えへへっ、楽しかったね」
「あ、あぁ……」
それは自分でも分かるほどに僕らしくない返事だった。彼女もそれを不思議に思ったのか少しだけ首を傾げたが、すぐさま先程までと同じ朗らかな笑顔に戻ると、僕の前にスッと手を差し出した。
刹那、それが何を示しているのか僕は分からなかった。彼女が握手を求めているのだと気が付いたのは、それから数秒経ってからだった。
僕はソッと、差し出されたその手を握った。すると少女はそれをギュッと握り返し、
「さよなら、ゆーき。元気でね」
そのまま静かに手を離し、彼女は僕に背を向けた。
夕陽に向かって去っていくその背中は、僕の見ている前で次第に小さく――そして遠くなっていく。その距離が開く度に、僕の胸の内は何故だかグッと締め付けられていった。
この苦しみは一体何なんだ? 何かの病なのか? 激痛というわけではないが、まるで耐えられそうにない。こんな痛み――苦しみは、まるで初めてだ。
……いや、初めてではない。そうだ、以前の食卓に彼女の話が上がった時――彼女は友達なんかではないと否定した時も、似たような苦しみを感じたんだ。
――友達……。
次の瞬間、僕はいつの間にか彼女を追いかけていた。そして驚いて振り向く彼女の腕を掴むと、僕は言葉を詰まらせながら尋ねた。
「僕は……僕達は、友達か?」
自分で言ったはずなのに、まるで意味が分からなかった。どうしてこの僕が、いきなりこんなことを口にしたのか――自分の口が、体が、自分のものじゃないようだった。
それに対し、彼女はその質問にあっさりと答えた。
「もちろん。あたし達は友達だよ、ゆーき」
その答えを――笑顔を目にした途端に、僕を締め付けていた苦しみはスッとどこかへ消え去った。それが何故かは分からない。けど……その苦しみと入れ替わりに暖かいものが胸の奥底から滲み出てくるのを、僕は確かに実感していた。
「ゆーき、ほら」
少女は僕の目の前に、小指だけを立てた右手を差し出した。一体何かと僕がそれを見つめていると、
「指きり。あたし達が、ずっと友達だっていう証」
「証……」
僕は同じように右手の小指だけを立たせると、それを彼女の小指に引っかけた。
――指きりげんまん。嘘ついたら針千本飲ます。
それは、僕が初めて結んだ約束の印だった。
◆
青年は公園のベンチに座りながら、昔を懐かしむように目をつぶっていた。昔の自分――およそ子供らしいとは言えないが、まだ純粋だった自分――そして、名も忘れた少女のことを。
その時、青年はふと鼻腔に違和感を覚えた。目を開けて見てみると、そこには彼にとって忌々しい存在が立っていた。
「あっ。あんた、悠美ちゃんの兄貴……」
向こうもこちらに気付いたようで、ビール缶を片手に持った女性は露骨に嫌そうな顔を青年に向けた。青年は軽く眉をひそめると、
「あの時の鬼か……」
ポツリと呟いて、静かにベンチから腰を上げた。そして一瞬だけ目の前の女性を威嚇するように睨みつける。
「いいか、僕がお前達を見逃しているのも今のうちだ。何かあったらすぐにでも祓ってやる」
それだけを言うと、青年はそのままどこかへと去っていった。残された女性はまるで子供のように、去りゆく青年の背中に向かってベロを出す。
それから少しして青年が見えなくなると、女性は何かを考えるように顎に手を添えながら、先程まで青年が腰を落ち着かせていたベンチを見つめ出した。そしておもむろに、そのベンチに腰を落とす。
「なんか懐かしいなぁ、ここ……。あー……そういえばあの男の子、何て名前だっけ?」
そう言って右手の小指を眺めながら、女性はゴクリとビールを呷った。
これで同棲喰人鬼は完結となります。
ここまで読んでくださった方、本当に、本当に! ありがとうございましたっ!




