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同棲喰人鬼  作者: 代篠
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最終話 第二幕

 恐怖感から必死に逃げるグーラ。そして何が何でも彼女を捕らえようと、それを追う悠貴さん。元々備わっていたのであろう身体能力に気持ちも乗っかり、二人の足は速いの一言であった。

 無論、俺と木崎さんも懸命に走り、二人に並ぼうとしたのは間違いない。しかしどれだけ走っても距離は縮まらず――むしろ時間が経てば経つほど、俺達はどんどん引き離されていく。決して俺達の足が遅いわけではないのだが、それほどまでに前を行く二人は俊足だった。

 それに加えて、俺の頭には先程からすっかり抜け落ちてしまっていることがあった。何を隠そう、しばらく走っているうちに体がどんどん重くなっていくのだ。息も荒くなり、胸が締め付けられるように苦しくなる。

 そうしていよいよ目の前が霞み始めた時、俺の意思に反して足は止まり、全体重は民家の壁についた手で支えられた。

「だっ、大丈夫、小野塚君!?」

 既に俺の少し前を走っていた木崎さんが、驚いたような顔をして俺に駆け寄ってきた。オロオロとして、まるで自分のことのように心配してくれているのが見て分かる。

「大、丈夫……。ちょっと、目眩がしただけだから……」

 空いている方の手をヒラヒラと振ってみせて、俺は前方――木崎さんのさらに向こうにチラッと視線を飛ばした。

 グーラと悠貴さんの姿はもう見えていない。いや、そもそも二人を見失ってからもう数分ほどが経過していた。その数分間、俺と木崎さんは手掛かりも一切ないままにグーラ達を捜して走り回っていたのだ。気が付けば、俺達は何処とも分からぬ住宅街に迷い込んでいた。

「で、でも顔色悪いよ……?」

 顔色が悪い――そう言う木崎さんの顔こそ青ざめている。それがずっと走っていたからなのか、それとも本気で俺の心配をしてくれているが故なのかは分からない。でも、もし後者なら――俺は感謝と共に変な罪悪感を覚え、彼女の心配を少しでも和らげるために、この場で少し休憩しようと申し出た。

 木崎さんは一瞬僅かに安堵の表情を見せると、無理はしないでねという言葉を添えながら俺の背中を優しく擦ってくれた。

 けれども、それにちょっとでもドキッとする余裕は、今の俺にはない。木崎さんを心配させまいと言ったつもりの台詞だったが、もしかすると単純に俺の心の声だったのかもしれない。

 早くグーラを見つけなければいけないのに――そう思うと、チクリとした痛みが微かに俺の胸を突いた。

「……悠貴さんって、何者なんだ?」

 胸の痛みと苦しみを少しでも紛らわせたくなり、俺はそのままの体勢でかねてからの疑問をポツリと呟いた。その瞬間、木崎さんの手がピクッと震えたのが背中から伝わった。

 そのまま木崎さんは声を詰まらせた。それは言いにくい……というよりも、説明のための言葉を選んでいる――そんな感じだ。モゴモゴと口を閉じたままで何かを呟き、微かに眉をひそめている。

 それから少ししてようやく選び終わったのか、木崎さんはゴクッと喉を鳴らしてから、ゆっくりと口を開いた。

「す、少し説明しにくいんだけど……私の家って、神社なの。それも結構由緒正しくて――ご先祖様にね、悪霊とか物の怪退治なんかでそれなりに名の知れた陰陽師の人がいるの」

「お、陰陽師……?」

 思ってもみなかった言葉が飛び出し、俺は僅かに目を張った。

「それで、その陰陽師の血筋のせいかは分からないんだけど……お兄ちゃんには昔から、他の人には見えないものが見える力があったの。そうしたらそれを知ったお父さんが凄く喜んじゃってね、まだ幼かったお兄ちゃんに陰陽師になるための修行を積ませたの。その結果――」

「本当に物の怪を退治出来るようになった……?」

 コクリと、木崎さんは小さく頷いた。

 陰陽師――そんな話を聞いても、二ヶ月前の俺なら確実に信じていなかっただろう。しかし今は違う。グーラと知り合い、鬼という存在を知った今の俺には、陰陽師という存在を信じるのは造作もないことだった。

 だがそれでも、驚きがないと言えば嘘になる。当たり前だ――信じはするが、現実味がない。もっとも、それは鬼も一緒か……。

「……木崎さん。実はさ、グーラって俺の親戚じゃないんだ。っていうか、その、グーラは……鬼、なんだ。人間じゃなくて、鬼」

「え、えっ? お、鬼……?」

 いきなりの俺のカミングアウトに、木崎さんは困惑したように目をしばたたかせた。別に他意はない。ただ、木崎さんにもこちらの事情を知ってもらっておいた方が、話を進めやすいと思っただけだ。

 案の定、木崎さんも驚きはしたものの、すぐに何かに納得したような表情を浮かべてみせた。悠貴さんが鬼の存在を知っていたのと同じように、木崎さんもきっと話だけは父親なりから聞いていたのだろう。

「鬼……。そっか、ちょっと変だなって思うところはあったけど……そういうことだったんだ」

「うん。ごめんね、今まで嘘吐いてて」

「う、ううん、いいよ! 私も同じ立場なら、きっと黙ってたと思うし……」

「……ありがとう」

 今、こうして一緒になって走り回ってくれていること――突拍子もない話を簡単に受け止めてくれたこと――それらを全部含めて、俺は軽く礼を述べた。思えばグーラと出会ってから、彼女とは妙な縁がある。

「そ、そ、そんな! あ、ありがとうなんて、その……私の方こそ、あ、あり、ありが――」

 しかしまったく、その縁が回り回って変なところに行き着いてしまったものである。悠貴さんは陰陽師で、物の怪を祓う力なんてものを本当に持っている……。となれば、なおさらのこと一刻も早くグーラを保護してやらなければ……!

「よしっ! そろそろ行こう、木崎さん」

「ひゃへっ!? あ、う、うん……。でも小野塚君、大丈夫なの……?」

「あぁ。木崎さんが背中擦ってくれたお陰で、大分楽になったよ」

 正直に言えば、このままずっと休んでいたかった。顔が熱い――風邪がこんなにも辛いものだと知ったのは、今日が初めてである。

 だがこんなもの、グーラが味わっている恐怖感に比べたら何て事はないはずだ。あいつは今、正に命の危険に直面しているのだ。風邪程度、少し我慢さえすればどうにでもなる。

 しかし行こうとは言ったものの、どうやってグーラを捜せばいいだろう? また先程と同じように闇雲に動いたって、到底見つけられるとは思えない。何か手掛かりはないか――くそっ、グーラに携帯電話でも持たせとくべきだったかな。

 と、その時、

「小野塚君、携帯……」

「え?」

 木崎さんに言われて、俺は初めて自分の携帯電話が鳴っていることに気が付いた。ジーンズのポケットの中で、購入以来設定を変えていない電子音が小さく響く。

「っ。誰だ、こんな時に――」

 携帯電話を取り出して、着信画面に表示される名前も見ないままに俺はそれを耳に当てた。するとそこから飛び込んできたのは、少し意外な奴の声だった。

『あっ。もしもし、信太郎? あんた、今どこにいるの?』

「はぁ? ……っていうか、アカか?」

 アカはグーラの姉貴分であり、彼女と同じ鬼だ。朗らかによく笑う女性で、いつも片手に持った酒がトレードマークの、少し変わった奴である。

 そんなアカの声は、若干慌てているような雰囲気を漂わせていた。心なしか、少し息が荒いようにも感じられる。

『実は今さっき変な男に追いかけられてるグーラを見かけてさぁ、信太郎にも言っといた方がいいかと……』

「なっ!? そ、そっちこそ今どこにいるんだ、アカ!?」

 それは正に願ってもない情報だった。変な男――悠貴さんのことで間違いないだろう。ということは、少なくとも今はまだグーラは捕まっていないらしい。

『えっと……若葉公園って分かる? そこの遊具場のところ走って――』

「分かった、今行く!」

 アカの言葉を途中で遮り、俺はブツッと着信を切った。別にわざと遮ったわけではないが、それほどまでに僅かな時間も惜しかったのだ。

「木崎さん、若葉公園ってどこか分かる?」

「わ、若葉公園……? う、うん。それなら私、行ったことあるよ」

「じゃあ案内してくれ! そこにグーラがいるらしいんだ!」

 俺は木崎さんの手を取ると、そのまま再び走りだした。木崎さんも少しよろけながらも、それにちゃんと付いてきてくれる。

 目指すは若葉公園。グーラ、今すぐ助けに行ってやるからな……!!






 それから数分ほどで辿り着いた若葉公園は、中々に敷地面積の広い所だった。大きな総合体育館に、屋内プール、テニスコート――芝生の生え揃った緑の広場に、向こうの方には木々の生い茂った森まで見える。

 その中にある沢山の遊具が設置された場所で、俺達はつい先程電話で連絡を取り合ったばかりのアカと合流を果たした。

「おっ、信太郎……と、確か木崎ちゃん、だったかな?」

「あ、グーラちゃんの家にいた……。えっと、木崎悠美です」

「自己紹介は後! アカ、グーラはどうしたんだ?」

 俺は鼓動の早い心臓を押さえつけるように胸に手を当てながら、相変わらず片手にビール缶を持っているアカに尋ねた。するとアカは缶を持ってない方の手で後頭部をポリポリと掻きながら、眉をひそめた困り顔を作り、

「ごめん。実は、あの後すぐに見失っちゃってねぇ……」

「見失ったって……アカっ!」

「ちょっ、そんなに怒らないでよぉ~。それより、まだこの辺りにいるはずだから手分けして捜そうじゃないか」

 事情を知らない故か、アカの態度はまだどことなく軽い。おそらく全部を説明すれば、その褐色の顔も一瞬で青ざめるんだろうが――そんな余裕は一時もない。

 とにかくアカが見失ってしまった以上、彼女の言葉の通りに手分けをして捜索した方がいいだろう。それにあの電話の後に見失ったというのなら、グーラがまだ公園内を逃げ回っている可能性は高い。

「ところでさ、あの男って何なの? 何でグーラを追っかけてたのさ?」

「その説明も後だ! ともかくグーラを見つけたら、すぐに保護してやってくれ!」

 言うやいなや俺は二人に背を向け、思いつくままに足を走らせた。その直後、後方で足音が二方向に分かれたのが聞こえる。

 さてしかし、仮にあいつがまだ公園内にいるとしても、俺はどう捜せばいいだろう? ここは初めて訪れた場所であり、地理的な情報は持ち合わせていない。

 なら……そう、グーラが思わず向かいそうな方向を考えてみたらどうだろうか? ここから見えるだけの客観的な情報を基に、グーラが行きそうな場所を推理するのだ。あくまでグーラの思考で――単純でいって独特な、あいつの考え方を想像して――。

 ……体育館。普通に考えるなら、誰かしら人がいるであろう体育館に逃げ込む可能性は最も高い。だがグーラの思考となると、どうもしっくりこない気もする。

 ……広場。公園に入り、まず目につきやすい場所ではある。が、如何せん逃げ場がない。いくらグーラでも、もう少し逃げやすい所を選択するのではないだろうか。

 ……森。傍から見ても緑の木が茂っており、木々の合間をジグザグに走って逃げれば追手を撒くことが出来るかもしれない。もちろん森の中を素早く移動するにはそれなりの体力が必要だが、グーラなら大丈夫だろう。

「……森、か」

 思考の結果、俺は森が見える方向に足先を向けた。その途中で周りにも気を付けながらも、そのまま走って森へと向かう。

 そうして辿り着いた森は、遠くから見ていたよりも薄暗く、鬱蒼としていた。確かにここなら、人を撒くには打ってつけだ。

 ふぅ――深く息を吐きながら額に浮かんでいた汗を手の甲で拭うと、俺はおもむろに一歩を踏み出した。さらに一歩、また一歩――辺りの様子を窺い、耳に神経を集中させながら森の中へと入っていく。

 すると森の奥へと進むにつれ、先程まではまるで気付かなかった周囲の音が耳を突っつき始めた。風に揺れる葉っぱの音。森に巣くう小鳥達の囀り声。そして森のさらに奥から聞こえてくる、何かが草を掻き分けて走っているような音――。

 小動物か? ……いや、違う。やはりグーラはこの森にいるんだ!

 その瞬間、俺は走った。ただグーラがそこにいることだけを信じて土を蹴る。

 さすがに多種多様な木々が生い茂るだけあり、遊歩道は樹木に合わせて少々複雑に曲がりくねっていた。さらに分かれ道も所々に見られ、思っていた以上にややこしい作りをしている。

 それに加え、確実に俺の体は限界へと近づきつつあった。動くたびに熱を帯びた骨や筋肉が痛みを訴え、平衡感覚を失ってしまいそうなほどに頭の中はクラクラと回る。正直、今すぐにでも膝を突いてしまってもおかしくない。いや、突きたい……。この膝を折ってしまいたかった。

 だが俺は止まらない。道が無ければ切り開くと言わんばかりに、高く鋭い草を掻き分け、地面から突き出た木の根を飛び越え――草で皮膚を切ろうとも、隆起した根っこに足を引っ掛けようとも、構わずに進み続ける。

 ――思い起こせば、グーラと出会ってからこっち、大変な目に遭ってばかりだ。痛い思いをしたことも少なくない。

 そういえば、俺は何でこんなにもグーラのことで一生懸命になっているんだろう? グーラの両親に、彼女の本能を抑えるとまで約束して――どうして出会ってから二ヶ月にも満たないあいつのことを……?

 考えてみると不思議な話だ。気が付けば、俺はグーラのことをとても大切に思っている。どうして――いや、きっと理屈ではないのだろう。どうしてという過去の言葉は、もはや何の意味も成さない。あるのはただ、俺にとってグーラが大切な人であるという事実だけだ。

 だからこそ俺は走る。彼女を守りたい――守らなければならない。その一心で、ひたすらに森を駆ける。

 そしてどれだけの草を掻き分けた頃だろうか。すっかり道と言えるものはなく、木々の僅かな合間を縫うように走っていた俺の目の前が不意に開けたのだ。

 刹那、その視界に飛び込んできたものを確認するよりも早く、俺は声を発した。

「グーラっ!!」

「あうっ!? しんたろっ……?」

 そこには砂利の敷かれた広めの道があった。おそらく、これも公園内のどこかだろう。ただし道は確かにあるものの、それは線の向こう――この森との確固たる境界でもある有刺鉄線の向こう側だ。グーラはあたかもその行き止まりに背中を預けるようにして立っている。

 そしてもちろん、俺の目の前には奴もいた。俺とグーラに挟まれるような形になったその人は、ゆっくりと首だけで振り向くと、意外そうに目をパチクリとさせながら口を開いた。

「小野塚信太郎……? まさかここまで追ってきたのか?」

「悠貴さん、お願いですから話を聞いてください。グーラは――鬼は、あんたが思ってるような悪い奴らじゃないんだ」

 はぁはぁと息を切らせ、肩で呼吸をしながら、俺はどうにか搾り出したような声でそう言った。それを聞いてから、悠貴さんはようやくこちらに体を向ける。

「確かに遥か昔なら、鬼は悠貴さんが思ってるような凶暴な化け物だったかもしれない。でも今は違う! 現代に生きている鬼は人間と何も変わらない――自分を律する理性も知能も持っているんだ! だから……」

「何を言うかと思えば世迷言を……。鬼が理性を持つだと? 馬鹿な。理性とは人間を人間足らしめるもの――言わばこの世で人間にのみ宿るものだ。それを鬼が有するなど、笑止千万。鬼と人間は違う! それとも、鬼が人間になるとでも言うのか?」

「ッ!? た、確かに鬼と人間はイコールではないし、鬼は人間にはならない。しかし、だからって人間と鬼が共存出来ないわけじゃない! 現に俺とグーラは二ヶ月間も一緒に暮らしてきたんだ!」

「それはお前がこの鬼の娘に魅入られているだけのこと。それに例えそうでないとしても、たった二ヶ月で何が分かる? いずれ本性を表した鬼に喰われるのが関の山だ」

 そうなる前に祓わねばならない――そう言って、悠貴さんはスーパーでも見せていた白い御札を一枚、懐から取り出した。瞬間、彼の向こうにいるグーラがビクッと肩を震わせ、不安な表情を覗かせる。

 やはり駄目か。悠貴さん――この人は、まるで俺の言うことを聞き入れようとしない。あくまで鬼は邪悪だと押し通すようだ。

 それなら、俺が次に取る行動はただ一つ……!

「……何をするつもりだ?」

 俺が拳を握り、それを体の前で構えたのを見て、悠貴さんはポツリと尋ねた。それに対し俺は、「決まってるでしょ」と短く答える。

「ふんっ。そこまで囚われているのか、この鬼に。げに恐ろしい……、まさに心酔だな」

「あんたがちゃんと話を聞いてくれたなら、俺だって平和的に行きたかったんですけどね……っ!」

 そう、あくまで平和的に、穏便に――俺にとってもそれが一番だった。理性を持つ人間だからこそ、話し合いによる決着が何より大事なはずである。

 しかしそれが叶わないのなら――それも、決して譲れないものがあるのなら致し方ない。何も生まないと言われているものではあるが、自分にとって掛け替えの無いものを護ることは辛うじて出来るはずだ。

 だから、俺は目の前の男を――悠貴さんを殴る!

「隙がありすぎる。てんで駄目だ」

「えっ……!?」

 殴る――つもりだった。しかし実際には俺が手を出すよりも早く、悠貴さんの手の平が俺の顔をピシャリと打った。鼻先を打たれた痛みと驚きに、俺は反射的に体を後ろに仰け反らせる。

 それを悠貴さんは見逃さなかった。いや、むしろそうなることが分かっていたかのように、流れるような自然な動きで俺の脚を掬い上げたのである。当然、俺はそのまま上半身から崩れ落ち、後頭部を地面に激しく打ちつけた。

 倒れ転んだ所がちょうど柔らかい土だったのが、せめて幸いだったと言える。とはいえ痛みが無いわけではなく、俺は後頭部を手で押さえながら悶絶する寸前にまで陥った。

 ――正直な話、悠貴さんに勝つなどということは微塵も考えてはいなかった。彼のポテンシャルは不明だが、俺自身は喧嘩などほとんどしたことがなく、尚且つ今は風邪を引いている状態だ。勝てる見込みなど無いに等しい。

 だがそれでも、せめてグーラが再び逃げて、木崎さんかアカに保護されるまでの時間は稼ぐつもりだったのに……。

「安心しろ、小野塚信太郎」

 悶え苦しむ俺を見下ろしながら、悠貴さんは口を開く。

「お前は悪い夢を見ているだけだ。だから僕が、すぐにお前の目を覚まし――ッ!?」

 その時だった。それは不意に起こった。

 只ならぬ空気が何処からともなく漂う――それを背中で感じ取ったのか、悠貴さんは途中で言葉を切り、ハッと後ろに振り返る。その一方で俺は瞳を開きながら、視界の隅にいる彼女の名をポツリと呟いた。

「……………………」

 眉間に皺寄せ、眉の端を吊り上げて、その焦点の合った目は真っ直ぐに自分自身をここまで追い詰めた者を射抜いている。その表情は、先程とはまるで違う。恐怖から怒りへ――彼女の中の何かが切れ、そして僅かな理性が、大きな本能に押し潰されていた。

「……ようやく本性を表したか」

 悠貴さんはサッと身構える。左手の指で御札を挟み、右手は握るか握らないかの曖昧なところを行き来する。

 それに対し、グーラはギリッと歯を鳴らした。ただの歯ではない、鬼の歯だ。どんな肉をも噛み千切る――まるで大型肉食獣のように鋭く尖った牙だ。

 そして次の瞬間、グーラが地面を蹴った。

「ぐっ、グーラ……!?」

 俺の呼び声も空しく、グーラは悠貴さんに襲い掛かる。その動きはまるで野獣のようだ。およそ体の小さな少女の動きとは思えない。この異常な身体能力は鬼の本能が成せる業なのだろうか。

 そしてそれに相対する悠貴さん――彼の身体能力も並ではない。グーラの猛攻は悠貴さんの右の平手によって捌かれ、逆に悠貴さんがグーラに御札を貼り付けようとしても、それは彼女に掠ることもない。

 その双方一歩も引かない高レベルな争いを、俺は未だ地に伏したままで呆然と見ていた。本能に支配されたグーラはもう既に何度か見ているが、それでも目の前の光景は夢見心地だ。まるでドラマか映画でも見ているように実感がなかった。

 しかしこれが現実であるとふと思い出した刹那、俺の心の中には焦りが滲み出してきた。二人を――グーラを何とかして止めなければ、という焦りだ。

 グーラが本能に支配されてしまったら、身を挺してでも彼女の内なる鬼を抑える――それが、俺が自分自身に課した義務であり約束だ。それにこのまま放っておいて、彼女と悠貴さんを衝突させ続けるわけにはいかない。

 俺は、グーラを護るためにここまで追ってきたんだ!

 そう思った途端に、俺の手足には僅かながらに力が湧いた。全身が、今すぐに立ち上がれと急かす。

 と、その時、俺は悠貴さんが吐き捨てるように悪態をつくのを耳にした。見ると、いつの間にか悠貴さんは背中に樹木を置いており、その直線上にはグーラの姿――その口は大きく開けられ、鋭い歯を剥き出しにしている。言わずもがな、その視線は一直線に彼を捉えていた。

 それを確認するや否や、俺は二人の間に割って入った。何か考えがあったわけではない。ただ咄嗟に、自然と体が動いた結果だった。

 そして悠貴さんへと向かって今まさに飛び出そうとしていたグーラは、そのまま俺の体にしがみ付き、その右肩にガブリと犬歯を突き立てたのである。

「いぎっ、つあっ……!?」

 俺の肩に――肉に、グーラの歯が深々と突き刺さる。それはもはや激痛なんてものじゃない。その痛みだけで気を失ってしまいそうだ。

 だけどまだ気絶するわけにはいかない。俺は搾りきったような声で、グーラの名前を何度も呼び続けた。何度も何度も、名を呼ぶことが彼女の理性を呼び覚ますことに繋がると信じ、

 グーラ! グーラっ! グーラっっ!! と。

「――…………しんたろー?」

 次の瞬間、フッと俺の全身から力が抜けた。倒れこむ瞬間に見えたグーラの目は、いつもの如く焦点が合っていない。……良かった。

「……しんたろー? しんたろー!?」

 うつ伏せに倒れる俺の体を、グーラが必死にゆさゆさと揺する。しかしもはや意識と共に感覚も手放し始めていた俺にとっては、それはあまり意味を成さなかった。

 ただ耳に、グーラの涙混じりの声が聞こえるだけである。だがそれも、次第に小さく消え入っていく。

「……愚かだな」

 そんな中で、ふとグーラ以外の声が俺の耳を突いた。

「やはり鬼は害悪でしかない。お前がどれだけ必死にこの鬼を庇おうと、結果はこれだ。これでもまだ、この鬼に理性があるとでも言うのか?」

 それは俺に問いかけているのだろうか? しかしどちらにせよ、もう俺の口は動きそうにない。

「……とは言え、小野塚信太郎――お前に免じて、この鬼を見逃してやらんこともない。僕にも情というものはあるからな。この鬼の娘がもう二度と人間の前に姿を現さないというなら、祓わずにいてやる」

 数歩分の足音――そして少し離れた所から、悠貴さんの言葉は続く。

「貴様も祓われたくなければ、さっさと元いた場所に帰れ。害しか与えぬ鬼と人間が交わることなど、土台無理な話なんだ」

 そのまま足音は遠のいていった。その間もずっと、グーラが俺の名前を呼び続ける。嗚咽混じりに、その声はまるで言葉になっていない。

「やだ! しんたろー!! グーラ、やだっ!!」

 やだ……やだ――あぁ、俺もグーラがいなくなるなんて嫌だぞ。でも安心しろ、俺が守ってやるから。悠貴さんが文句を言ってきて、またお前に何かしようとしても、俺が絶対に守ってやる。

 だから……そんなに泣くな、グーラ――。

「しんたろーっ!!」

 その直後、プッツリと俺の意識は切れて堕ちた。

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