第一話
第一幕
「しんたろー、はらへったー」
俺がせっせと明日の講義の予習をしているという時に、能天気な同居人は、我が家のメインテーブル――四角いちゃぶ台の向こうで不意にそう言った。感情のこもっていないような、平坦で独特な喋り方だ。
「腹減ったじゃなくて、お腹空いた、だろ? 女の子がそんな口の利き方するもんじゃないぞ」
「そんなのどっちでも同じだろー。それよりはらへったー。猫! 猫食いてー!」
「駄目だ。約束したろうが」
この投げ出した足をバタつかせている居候を黙らせるために、俺は愛用のシャーペンをテーブルに置くと、引き戸一枚に隔てられた玄関兼台所へと足を踏み入れた。そして隅に設置してある小さな冷蔵庫を開けると、そこから市販の魚肉ソーセージを一箱分取り出し、バタバタとうるさい居候に向かって放って投げた。
「あーうー……またこれかー……」
「文句言うな。それも肉だ、魚の肉」
「あーうー……」
同居人がぶつくさと文句をたれながらもソーセージの外装フィルムを剥がしているのを確認して、俺は先程と同じ場所――テーブルを間に挟んだ彼女の向かいに腰を下ろした。
さて、ここらで自己紹介をしておこうと思う。
俺の名前は、小野塚信太郎。自分で言うのもなんだが、別に特筆することのない、普通の大学生だ。
そして、俺の向かいであぐあぐと魚肉ソーセージを食んでいるのが、グーラ。この狭いアパートの一室で、俺と共に暮らしている少女だ。
先に言っておく。グーラはあくまで居候であって、カノジョだとか、そういう特別なものではない、断じて。
では、何故そんな何でもない女の子が、この俺と同居などしているのか? その経緯を、今から簡単に話したいと思う。
あれは、もう二週間ほど前だろうか。
うちの近くで、道端に猫の死骸が捨てられているという事件が発生した。しかもただの死骸ではない。腹が裂かれ、臓物が飛び出した、とても凄惨なものだったのだという。
その時の俺は、気味が悪いとは感じつつも、自分には関係ない――そう思って、その事件には何の関心も示さなかった。
しかし事件のあった次の日――夜中にバイト先から帰ってきた時のことだ。
何やらゴソゴソと変な音が聞こえて、俺はアパートと民家との間にある路地裏を、何気なくフラッと覗き込んだ。そこで俺は、不運にも目撃してしまったのだ。
街でたまに見かけるような表面を染めただけのまがい物とは違う、ナチュラルなブロンドの髪。精気をこれっぽっちも感じさせない、土気色の肌。身に付けているのは、いたるところがボロボロの薄汚れた白いTシャツと、簡素な女性用の下着のみ。年の頃は、たぶん中学生くらいだろうか。
そんな女の子が、こちらに背を向けながら、一生懸命にもしゃもしゃと何かを口に運んでいるのだ。
ここまで話せば、もうだいたいの想像はついたろう。
俺の存在に気が付いた女の子は、一瞬ピタリと動きを止め、それからゆっくりとこちらに振り返った。その口には、びったりと赤い液体が付着しており、手には――おそらくもう息絶えているのだろう――ぐったりとした様子の、腹を赤く染めた猫を掴んでいた。
そう。この女の子が、グーラだ。
この衝撃的な出会い――というより、遭遇か?――に、さすがの俺も驚きを隠せなかった。シチュエーションその他諸々全てが謎すぎて、本当に声も出なかった。
そんな俺に、グーラは言った。
「あーうー。だれだー、お前ー?」
状況にそぐわぬ間の抜けた口調に、俺は思わずハッとなった。そしてようやく、喉から声を絞り出した。
「お、お前こそ誰だ? こんなところで……何やってるんだよ?」
「めしー」
「……飯?」
「んー。めし食ってるー」
そう言いながら、グーラは俺に見せびらかすように、手の上の猫を頭上に持ち上げてみせた。
それに対して俺は、得体の知れないものを見る目で、グーラを見ていた。当たり前だ。見た目からして変な女の子が、口元を赤く染めながら、猫を指して御飯だと言っているんだから。
「なー」
「あ……あ? な、何だ?」
「マヨネーズくれー」
「……マヨネーズ?」
「んー、これに付けるー。猫マヨー」
「ねっ……!?」
とてつもなく不穏な単語にギョッとなる俺をよそに、グーラは「マヨー、マヨー」と、猫を空高く持ち上げたまま、その場でグルグルと回りだした。まるで邪神か何かを讃える儀式的な舞踊のようである。やってる本人はとても楽しそうだが。
そしてそんなグーラを、俺はどういうわけか、部屋に招き入れてしまった。
それは何故か? そう問われると、少し返答に困る。俺自身、どうしてこの少女と関わろうとしてしまったのか、本当によく分からない。
でもおそらく……その他の感情、気持ちと比べて、奇しくも好奇心が勝ってしまったんだろう。
かくしてグーラを部屋に入れた俺は、マヨネーズを渡す前に、お前は一体何者なのかと尋ねた。するとグーラはあっさりと、相変わらずの抑揚のない喋り方で答えた。
「グーラは、しょくじんきだー」
「……しょくじんき?」
喰人鬼。グーラが言うには、人だとか動物の肉を食べて生きる鬼で、人間ではなく妖怪――化け物の類らしい。
そんな返答をされ、俺も最初は、まさかと思った。鬼なんてものが現実に存在するはずがない――そう思った。
しかし、目の前の少女は確かに存在する。そしてその少女の情事を見てしまったのは、他ならぬ俺である。もはやこれは、いくら突拍子もない話とはいえ、信じざるを得なかった。無論、百パーセント信じたというわけではないのだが……。
「お前……もう、その……猫とか食うのは、やめろよ」
グーラの話を信じた上で、俺はそう言った。なけなしの正義感というか……ふとした感じで出た言葉だ。
「あーうー? なんでだー?」
「何でって……他の人の迷惑になるだろう? 別に猫を捕まえなくても、スーパーに行けば肉なんかいくらでも売ってるじゃないか」
「あーうー……グーラ、かね持ってねー」
「……じゃあ、どうやって生活してるんだよ? というか、親は?」
「おやー? ……しらねー。いつもは、公園とかで寝てるー」
どうやらこの若さで、ホームレス生活をしているらしい。どこかで聞いたような話だ。……まぁもっとも、あの芸人も、いくら何でも猫は食ってないだろうがな。
「……あーうー……でも、猫食うの、やめてもいーよー」
「え? いいのか、そんなあっさり……?」
「んー。そんかわりー、泊めろー」
「……は?」
グーラの言葉に、思わず俺は聞き返した。
「グーラ、雨きらいー。だから泊めろー」
「泊めろって……ここに? 俺の部屋にか!?」
グーラはこくりと頷いた。
猫などの動物を捕食するのをやめるから、その代わりに居候させろ。それがグーラの要求だった。
結果だけ言おう。俺は、この要求を呑んだ。
何故かは聞かないでくれ。俺も分からない。気が付いたら、勢いで承諾してしまっていたのだ。……夜遅くまでのバイトで、心身ともに疲れていたのかもしれない。とにかく俺は、この鬼娘と同居することになった。
それから二週間――。
意外にも、こいつとの生活にはもう慣れた。俺の順応能力が高いのかもしれないが――何にせよ、人間、なんとかなるものである。
ちなみにグーラがマヨネーズを付けようとしていた猫は、俺が責任を持って近くの公園に埋めてやった。墓標つきで。
「あーうー……。しんたろー、ひまー」
メシを食い終えたかと思えば、お次はそんなことを言い出した、この居候は。
俺は溜め息混じりに、シャーペンをテーブルに置く。
「暇って……何だ? 遊んでほしいのか?」
「んー。外、あそび行きてー」
外、か。当初――うちに住み始めて数日は、テレビに夢中で、部屋の外には全然出たがらなかったくせに……。ま、二週間もすれば、さすがに飽きたのかな?
「それなら遊びに行けばいいじゃないか、勝手に。別に俺はお前を監禁してるわけじゃないぞ?」
「あーうー。場所わかんねー」
ん? 場所ということは……ただ単純に外に出たいんじゃなくて、どこか特定の所に行きたいのか?
「何だ? 一体どこに行きたいんだよ?」
「えーとー……げーむせんたー」
「……ゲーセン?」
「げーせんじゃねー。げーむせんたーだー」
それからグーラは、げーむせんたーげーむせんたーと、手をブンブンと振り回しながら連呼し始めた。こいつなりに、駄々をこねているんだろうか、この仕草は……?
ふむ、それにしてもゲームセンターか……。えらくグーラらしからぬ単語が出たな。話を聞いてる限り、こいつはゲーセンだとかカラオケだとか、そういう娯楽施設には無縁そうだが……。
「てれびで言ってたー。おもしれーとこだってー」
なるほど、テレビからの知識か。どうやらこの二週間で、現代文明の利器から様々な情報を得たらしい。
「あと、えーがかんとー、でずにーらんどとー、いちまるきゅーとー、めーどきっさとー、ほすとくらぶとー、きゃばくらとー、らぶほてるとー、そーぷとー……」
……最後の方は、一体どんな番組を見て得た知識なのか……。とりあえずグーラ、後半は全てお前には関係のない場所だから即刻忘れろ。
しかし、ゲーセンか……。まぁそこなら、この常識はずれ――というか規格外?――の鬼娘を連れて行っても、きちんと見ていれば、特に何の問題もないだろう……多分。
「グーラ。それじゃあ行くか、ゲームセンター?」
「おー。行く行くー。げーむせんたーげーむせんたー」
「ただし今日はもう遅いから、明日、俺が大学終わってからな」
「あーうー。わかったー。ぜってーだぞー」
「あぁ」
俺が頷くと、グーラは嬉しそう――なんだろう、多分。表情があんまり変わらないから分かりにくいけど――に両手を頭上高くに持ち上げて、当選議員よろしく、元気に二度三度と万歳を繰り返した。
……そういえば……こいつの服、どうしよう……?
第二幕
今思えば、今日ほど外出に適した日はない。
講義は――午後の講義が休講になったおかげで――午前に一つあるだけで、バイトも入ってない。さらに天気は日本晴れときた。
せっかくのこの良き日を、ゲームセンターだけで潰すのはもったいない。ついでにユニ○ロにでも行って、グーラの服も買ってやることにしよう。いつまでも、あのボロボロのTシャツだけというわけにはいかないからな。
「――それじゃあ今日はここで終わります」
唯一の講義もたった今、終わりを告げられた。さて、それじゃさっさと家に帰るとするか……。
「あの……お、小野塚くん」
「ん……?」
教室を立ち去ろうとしたところで不意に呼び止められ、俺は声のした方に振り返った。
「……木崎さん?」
俺は振り向きざまに、その先で立っていた人物の名を呼んだ。
彼女――木崎悠美さんは、俺と同じゼミに所属している同期生だ。だから何度も面識はあるのだが、逆に言うとゼミで数回会話を交わした程度の仲でしかなく、こうやって講義が終わった後に話しかけられるなんてことは皆無だった。
「何か用?」
俺の問いに、木崎さんは心なしか顔を少し赤くして、若干恥ずかしそうに体の前で組んだ指をもじもじとさせながら、小さくか細い声で答えた。
「あ、あのね……今日、午後の講義が休講になったでしょ? そ、それで、ゼミの皆で遊びに行こうって話になったんだけど……お、小野塚くんも行かないかなって……」
「あぁ、ごめん。俺、午後から予定あるんだ」
「え? そ、そうなの? あ……あはは。じ、じゃあ、無理だよね……ご、ごめんね、引き止めちゃって……」
「いや……。じゃ、また今度」
「あ、うん……またね……」
俺は木崎さんに背を向けると、そのまま教室を後にした。
……断る時の言葉が、少し無愛想だっただろうか? また今度誘って、くらい言えば良かったな……。
「あーうー。おせーぞー、しんたろー」
大学から自転車をかっ飛ばして帰って来た俺を、グーラはそう言って出迎えてくれた。その恰好は、いつものボロボロTシャツとパンツのままだ。
「じゃー行くぞー。げーむせんたー」
「ちょっ……!? 待て、グーラ!」
元気よく玄関から外に飛び出そうとするグーラの服の襟を掴み――少々乱暴になってしまったが――俺はその動きを止めた。
「あーうー? なんだよー、しんたろー?」
襟を掴んでしまったことでシャツが首に引っ掛かったのか、グーラはほんの少し苦しそうに首元を手でさすりながら、俺に対し口を尖らせた。その眉間には、珍しく皺が寄っている。
「そんな恰好で、行けるわけないだろ。服を着替えるのが先だ」
「きがえー? グーラ、このままでいーぞー?」
「お前がよくても俺が困るんだよ。そんな恰好で出ていかれて、あらぬ疑いをかけられたら堪ったもんじゃない」
ただでさえ最近、世間はそういうのにウルサイからな。と、グーラには言ったところで分からないであろうことを口にしつつ、俺はグーラの手を引き、部屋へと入った。
さて……着がえとは言ったものの、こいつに一体何を着せればいいのか。当然のこと、女の子の服なんて持ってないしな。
「あー……とりあえず、これでいいか?」
俺はタンスから白のパーカーとジーンズを取り出すと、これに着がえろという言葉を添えて、それをグーラに手渡した。
「あーうー。めんどくせー」
そう言いながらも、グーラはいそいそと今着ているTシャツを脱ぎ始める。
もちろん、俺はすかさずグーラに背を向けた。いくらガキかつ人間じゃないとはいえ、女の子の着がえをマジマジと見るわけにはいかないからな。
「しんたろー、着たぞー」
その言葉で、俺は再びグーラに目をやった。
まぁ、正直予想通りではあったが……パーカーとジーンズに身を包んだグーラは、これまた見事なまでに不恰好であった。
当たり前と言えば当たり前なのだが、全体的にサイズが合ってない。まずパーカーの袖からは手が出ておらず、異様なまでにダボッとしていて、襟からは肩が――普通に着れば見えるはずのない範囲まで露出されている。さらにジーンズもずり落ちて、まるで歌舞伎やら能やらで役者が穿いている、引きずるタイプの袴のようだ。
これは、どう考えても人前に出るような恰好じゃないよな……。
「あーうー。これならげーむせんたー行けるかー?」
「いや、ちょっと待て。……そうだなぁ……」
さすがにこのままではおかしいので、少し手を加えることにしよう。
とりあえず、ずり落ちるジーンズだが――これは普通にベルトを使えばいいだろう。それでもって裾を折り曲げて……。パーカーは――手の施しようがないな。まぁ、ゆったりファッションということで大丈夫だろう、多分。肩が見えるのはセクシー要素と言うことで。……こんな細い身体にセクシーを感じる奴がいるのかは疑問だけどな。
――結果、ただ単にベルトを通して裾を曲げただけの手直しとなってしまったわけだが……まぁ、もういいだろう。
要は、ユニ○ロなりシマ○ラなりに行って服を買い、そのままそこで買った衣料品をこいつ着させればいいのだ。今グーラが着ているのは、それまでの繋ぎにすぎない。気にしたら負けだ。……うん、これで行こう。
「じゃあ行くか、グーラ」
「おー。やっとかー、まったくー」
俺の気苦労も知らずに、グーラはそのままパタパタと玄関に向かって部屋を飛び出していった。
……あ。そういえば、こいつの靴もないな。……仕方ない。適当にサンダルでも履かせよう。
第三幕
まず衣料品店に行って、グーラの服を一通り揃える。そしてそれを着せたままで、こいつが行きたがっていたゲームセンターに向かう。これが俺の、当初考えていた計画であった。
しかし俺のこの計画は、この鬼娘によって、いとも簡単に捻じ曲げられてしまった。
「ふくー? そんなのいらねー。それよりげーむせんたーげーむせんたーげーむせんたーげーむせんたー!」
市街へと向かうバスの中、耳元でずぅっとその単語を叫ばれ続けたのである。うるさくて堪らない上に周りからの視線も痛く、俺はとうとう最初にゲーセンに向かうとその場で約束してしまった。
こうして俺は、このわがまま鬼娘を、けったいな仮装のままでゲーセンデビューさせることになってしまったのだ。
はぁ……。つい溜め息が漏れる。何だかすでに疲れた。
「おーおー! これがげーむせんたーかー! でけー!」
俺達がやって来たのは、市内で最大規模のアミューズメント施設だ。中にはゲームセンターだけではなく、ボウリングやカラオケ、スポーツ施設もある。まぁ、グーラが知ったら面倒だろうから、このことは黙っているがな。
「ほら、そんな入り口で突っ立てないで、さっさと入るぞ」
俺はグーラの手――というかパーカーの袖――を掴むと、それを引っ張って、グーラをアミューズメント施設内に引き入れた。
するとその直後――
「おー! すげー! ぴかぴかー!! きらきらー!!」
施設内の煌びやかな室内照明に、グーラはそのどこを見ているのか分からないような目を、これでもかと言わんばかりにかっ開いて、輝かせた。こんなものでここまで驚く奴も珍しい。
「しんたろー、すげーなー! ぴかきらー!」
「まったく……何だよ、ぴかきらって……」
他者の目なんかこれっぽっちも気にせずに大声を発するグーラに溜め息をつき、俺はそのまま彼女をゲームセンターのエリアにまで引っ張っていく。
ゲームセンターには、お馴染みのゲーム――格闘ゲームやシューティングゲーム、コインゲーム等々――が多種多様に立ち並んでいた。しかし平日の昼間ということもあって客はまばらで、それ故にグーラの独特すぎるファッションは余計に目立っているように見えた。
「おー! おー! すげー! すげー!」
グーラは平坦な口調ながらも興奮した様子ではしゃぐと、いきなり俺の手を離れ、そのままダッと走りだした。もちろん俺は、やれやれと溜め息を漏らした後に、歩いてそれを追いかける。
すると少し行った所で、グーラはふと立ち止まった。
グーラが立ち止まったのは、少し大き目のクレーンゲームの前だった。
一回二百円のそれの中には、赤いリボンを付けた可愛らしい猫のヌイグルミが五、六体入っていた。その大きさは四、五十センチほどあり、体重はリンゴ三つ分である。
そのヌイグルミを、グーラは目を輝かせながら、クレーンゲームのケースに手を押し当てて、食い入るようにして見つめていた。
それにしても、ヌイグルミが欲しいとは……。変な奴だけど、やっぱり女の子なんだな、こいつも。
「あーうー。うまそー……」
前言撤回。こいつはただの変な奴だ。
「あーうー。しんたろー、これやりてー」
「……出来るのか、グーラ?」
「てれびでやってたの見たー」
グーラにせがまれてポケットから財布を取り出すと、俺はそこからさらに二百円を取り出し、グーラに渡してやった。
二枚の銀色に光る硬貨を手にしたグーラは、
「おー。これがにひゃくえんかー」と感心したように呟きを漏らし、それをゲーム機に投入した。
チャラララーというゲームの開始音と共にクレーンを操作するためのボタンが発光したのは、その直後のことであった。
「おー、すげー!」
ここに来てから何十回と繰り返したその言葉。そしてグーラは、えいっと、目の前のボタンを押した。
結果は……まぁ、言わなくてもわかるだろう。
「あーうー……ねこー……」
ケースにべったりと手を付けて、かなり無念そうに中のヌイグルミを見つめるグーラ。そんなグーラをしばらく見ていた俺は、いつの間にか小さく溜め息をつきつつ、財布からもう二百円を取り出していた。
「グーラ、こういうのはコツがいるんだよ」
言いながら、ゲーム機に硬貨を投入する。チャラララーと、先程と同じ音が機械から流れた。
俺はひとつのヌイグルミに狙いを定めて、ボタンを押し、クレーンを動かした。
「この配置ならここを狙って……ほら」
次の瞬間、俺が狙いを付けたヌイグルミはクレーンによって浮かせられると、そのまますぐ横にある穴に転がるようにして落ち、景品取り出し口に姿を現したのであった。
「おー! しんたろーすげー!!」
グーラはヌイグルミが落ちたのを見ると、そう言ってパチパチ――正確にはパーカーの袖同士がぶつかってバフバフ――と、俺に向けて何度も手を叩いた。
一方、俺は一度しゃがんでヌイグルミを取り出すと、それを未だ拍手を繰り返しているグーラに、ポンっと渡してやった。
「……あーうー?」
グーラは、一体何が起こったのか分からないとった風に数回目をぱちくりさせると、自分の手にあるヌイグルミと俺とを交互に見て、再び口を開いた。
「これ、グーラにくれるのかー?」
「あぁ。大切にしろよ」
「あーうー……」
次の瞬間――俺が大切にしろと言った直後にも関わらず――グーラはいきなりヌイグルミの耳の部分に、ガブリと噛みつきやがった。そしてそのまま、しゃぶるようにして唇をもごもごと動かす。
それから少しして、ようやくグーラはヌイグルミから口を離した。
「あーうー。まじー……」
「ったく……当たり前だ。それはただの布と綿なんだからな」
まったくお前は……。猫と見れば、何でも口に入れるのか。
するとその時、グーラはふと、珍しく俺に笑顔を向けた。もっとも笑顔と言っても、口の端を若干上げただけで、目は相変わらずどこを見ているのか分からないけどな。ぎこちない笑顔、という感じだ。
「あーうー。でも、ありがとー、しんたろー」
「……どういたしまして」
グーラはヌイグルミが食えないものだと分かると、落とさないように、両腕でキュッと抱きしめた。
……こうして見ると、可愛らしい外国人の女の子って感じなんだがな……。まさかこいつが猫を貪り食う少女――しかも人間じゃない――だなんて、誰が想像できるだろうか。
「じゃあ、次はどうする? 他に何かやってみたいゲームあるのか?」
「あーうー。しんたろー、おしっこー」
「……お手洗い、な」
ぽりぽりと軽く頭を掻くと、俺はグーラを連れて、トイレを探し求めて歩き出した。
少し歩いたところでトイレを発見したグーラは、俺にヌイグルミを預け、一目散に女子トイレに駆け込んでいった。
一方、俺は急に喉の渇きを感じ、ヌイグルミを片手に持ったまま、トイレの横にある自販機の前に立った。どうやらここの飲み物は、観光地のそれと同じで、どれも割高なようである。……どれにしようかな。
「……あれ? ……お、小野塚……くん?」
二百円を投入してペットボトルのお茶を購入したところに、その声はした。ちょうど俺の真後ろからだ。
「木崎さん?」
そこにいたのは、少し前に学校で別れたばかりの木崎さんだった。ハンカチを手にしているところを見ると、お手洗いから出てきたところだろうか。
「お、小野塚くん……な、何でここに……?」
ゲームセンター内の薄暗さでわかりくいが、木崎さんは頬を若干紅潮させ、俺にそう尋ねた。前から薄々思ってはいたが、どうやらこの人は少々人見知りするタイプのようである。
「いや、ちょっと知り合いと遊びに……。木崎さんは?」
「わ、私は、ゼミのみんなと……」
あぁ、講義が終わった時に言っていたやつか。たしかに、ここは大人数で遊びに来るには最適な場所だからな。
と、その時、
「しんたろー!」
一際大きな声と共に、グーラがトイレから戻って来た。寄ってきながら、手をぶんぶんと振り回し、辺り構わず手についた水滴を払っている。
まったく……こいつにもハンカチを持たせておくんだったな。持たせたところで、こいつが使うのかは分からんけど。
「えっと……お、小野塚くん……こ、この子は……?」
木崎さんは、俺の横に来たグーラを何とも不思議そうな目で見つめている。本当のことを言っても信じてくれるとは思えないし……適当に誤魔化すか。
「あー……親戚……そう、親戚の子だよ。グーラって言うんだ」
「そ、そうなんだ……。えと……はじめまして、グーラちゃん」
「あーうー。だれだー、お前―?」
「こらっ、グーラ。またそういう口の利き方して……」
「あ……いいよ、小野塚くん。私は木崎悠美。小野塚くんの同級生だよ」
木崎さんは言いながら、少し膝を曲げて、グーラと目線の高さを合わせた。
「グーラちゃんは……えっと……外国の出身……それともハーフなのかな?」
「はーふー? んーん、グーラはしょくじ……」
「ぐ、グーラ! ほら、ちゃんとヌイグルミは自分で持て!」
今、グーラがいらんことを言おうとしたので、俺は咄嗟にグーラにヌイグルミを押しつけ、二人の会話に割って入った。
……さすがに今のは不自然だっただろうか。木崎さんが不思議そうな目で、今度は俺を見つめている。
「あの……そう、外国! グーラの父親は、ショク……何たらっていうヨーロッパの小さな国の出身なんだよ」
「そ……そうなんだ……」
木崎さんは二、三度まばたきをすると、曲げていた膝を伸ばした。
……なんとか誤魔化せた……かな?
木崎さんは少し不思議そうな顔をしてはいるが、どうやらグーラがヨーロッパとのハーフだということは信じてくれたようである。……まぁ普通に考えて、これでグーラが鬼だということが分かる奴がいれば、そいつの頭の方がどうかしてるがな。
「あ、あの……ところで、お、小野塚くん……。あの……せっかく会ったんだし……その……い、一緒に遊ばない……かな? ぐ、グーラちゃんも一緒に……。み、みんなもいいって言うと思うし……」
俺が誤魔化せたことに安堵の息をついてると、木崎さんは少し俯き加減になりながら、不意にそう言った。いつかの時のように、体の前で組んだ指をもじもじとさせている。
「一緒に、か……。嬉しいんだけど、俺達この後、服を見に行こうかなって思ってて……」
「ふ、服? ど、どこ行くの?」
「いや、適当に――ユニ○ロとかにでも行こうかなって……」
「だ、だったら、私も……。その……ちょうど用事あったし……」
「え? 木崎さんも?」
「あ、あの……えっと……う、うん」
木崎さんは少し顔を赤くしたまま、コクコクと何度も首を振ってみせた。
……つい、首振り人形みたいだなぁ、と思ってしまった自分がいる。
しかし木崎さんも一緒に、か……。さて、どうしよう? あまりグーラと他の人を一緒にしたくはないんだが……。でも、木崎さんはグーラのことを普通のハーフだと思ってるから、グーラが変なことを言っても、ただの世間知らず、もしくは変な子としか思わない……か? まぁ、まず鬼であることはバレないだろう。……よく考えたら、グーラが鬼だとバレても、別にそこまで困ることはないんだよな、多分。
それより、いっそのこと木崎さんに選んでもらうか、グーラの服を? 俺じゃ分からないからな、女の子の服なんて……。……うん……せっかくだし、そうしてもらおうかな……。
「じゃあ、木崎さん、一緒に行ってもらえるかな? できれば、行った先でグーラの服を選んでやってほしいんだけど……。こいつ、服のことに無頓着だからさ」
「う……うん、うん! わ、私で良ければ喜んで選ぶよ!」
木崎さんは嬉しそうに顔をパッと輝かせながら、次はぶんぶんと首を激しく縦に振った。
……申し訳ない、また首振り人形を思い出してしまった。
「まぁでも、せっかく会ったんだし、もう少しここで遊んでから……で、いいよね?」
「う、うん……! だ、大丈夫だよ」
「それじゃあ、グーラ……あれ? グーラ?」
……これは、どういうことだ? さっきまでそこにいたはずのグーラの姿が、忽然と消えている。辺りをぐるりと見回しても、どこにもいない。
「グーラちゃん……? さっきまでいたのに……?」
木崎さんも辺りをキョロキョロと見回してくれている。しかし、どうやらここから見える位置にはいないらしい。
「あいつ……勝手にどこか行きやがって……」
はぁ、と深く溜め息をついて、俺は自身の後頭部をぽりぽりと掻いた。
普通の友達とかなら、別にゲーセン内で急に姿が見えなくなっても心配はしないんだが……今消えたのは、グーラだからな。正直、不安で仕方がない。他の人に迷惑かけてないといいけど……。
「あの……悪いんだけどさ、木崎さん。一緒に、グーラを捜してくれないかな?」
「あ、う、うん。もちろん……! そ、それじゃあ、私、あっち捜すね」
「じゃ、俺はこっちを……。ホントありがとうね、木崎さん」
「あ、いや、そんな……ど、どういたしまして……」
段々と語尾が小さくなっていく『どういたしまして』を言うと、木崎さんは慌てるようにして踵を返し、この場から走り去って行った。
さて、俺もグーラを捜しに行くか。まったく……世話のかかる鬼娘だ。
俺はもう一度溜め息をつくと、今しがた買ったお茶を少しだけ口に含み、木崎さんが行ったのとは逆の方に向かって歩き出した。
どれほど歩き回っただろうか――。ゲームセンター内だけでなく、他のフロアにまで捜しに行ってみたというのに、未だにグーラは欠片も発見できないでいた。まったく、どこに行ったのか……。
そういえば、木崎さんはどうしたろう? もしかして、彼女が既にグーラを見つけてくれているかもしれないな。
「お、小野塚くーん!」
噂をすれば何とやら。聞き覚えのある声が聞こえて後ろに振り返ると、木崎さんが息を切らしながら、こちらに向かって走ってきていた。何故かその手には、俺がグーラに渡したのと同じヌイグルミを持っている。
「や、やっと……見つけた……」
木崎さんは俺のすぐ傍までやって来ると、自身の膝に片手をつきながら、肩で息をした。
「どうしたの? グーラ、見つかった?」
「う……ううん……。でも、これを見つけて……」
そう言って、木崎さんは俺に、その手のヌイグルミを差し出した。俺はそれを受け取ると、おもむろにその耳の部分を触った。……他の部分とは違い、ここだけ少し湿ったようにフニャフニャしているようだ。
「……間違いない、グーラのだ。これ、どこで?」
「い、入口の所……」
「ってことは……あいつ、外に出たのか? まったく世話の焼ける……」
俺は小さく溜め息をつくと、ヌイグルミが落ちていたという入り口に向かって歩き出した。
それにしても、今日はよく溜め息の出る日である。今日だけで、かなりの幸せが逃げてしまったな。
「お、小野塚くん……グーラちゃん、大丈夫かな……?」
まだ少し息を荒くしたままの木崎さんが、俺の横を歩きながら言った。
「そんな心配しなくても、ただ外に出ただけだよ、きっと。それより木崎さん、つらいなら無理してついて来なくても……」
「わ、私は大丈夫……。でも、心配するなって言っても……最近、この辺りって危ない人達がいるって話があるし……」
「危ない人達?」
俺の聞き返しに、「うん……」と不安そうに小さく頷くと、木崎さんは言葉を続けた。
「な、なんか……中学生の女の子が、この近くで誘拐されそうになったんだって……。犯人は黒い車に乗った、四人組の男の人らしいんだけど……」
「……まさか、グーラがそいつらに……ってこと?」
「わ、わからないけど……可能性は……ないこともないかな……って……」
そう消え入りそうな声で言うと、木崎さんは軽く俯いた。
……グーラが誘拐、か……。あり得ない……とは、一概に言いきれないな。なんせグーラのことだし……猫でもチラつかせれば、あっさりと知らない奴にもついて行ってしまいそうだ。でも……まさか、な……。
気が付くと、頭で考えていたこととは裏腹に、俺の足は歩くスピードを速めていた。少しなりとも、グーラのことが心配になってきてしまったのだろうか、この足は。
そしてしばらく歩いたところで、俺達は建物の外に出た。
真上から注がれる日光は、室内にいた俺にはとても眩しく――俺は日の光を遮るように手で傘を作ると、若干目を細めて、辺りを見回した。
平日の昼間ということもあって、アミューズメント施設前の駐車場には車が少なく、見晴らしは良かった。しかし、どうやらここから見える範囲には、グーラはいないようである。
「まったく、あの鬼娘……一体どこに……?」
時間的にそんな遠くに行ったとは思えないが、外に出たとなると、行先は無限大に広がってしまう。もしバスにでも乗ってしまっていたら――考えただけでも頭が痛くなる。そうでなくても、変な輩が出没しているという話だし……。
「お、小野塚くん……」
「とりあえず、ここの裏手とか周辺を捜してみよう。多分、そんなに遠くには……」
その時、
「……ん?」
小さくて聞こえにくかったものの――どこからか、聞き覚えのある間の抜けたフレーズが、俺の耳に入って来た。
それがどこから聞こえてきたのかと、俺はその場で、再び辺りを見回す。
「……小野塚くん? ど、どうしたの?」
別の場所を捜そうと言っていた俺が、いきなりその場でキョロキョロとし出したことを不思議に思ったのか――木崎さんは俺の顔を覗き込むようにして、尋ねてきた。
それに対し、俺は顔をあちらこちらに向けたまま、返事をする。
「いや……今、グーラの声が……」
「グーラちゃんの……? わ、私は聞こえなかったけど……」
「でも、確かに今――」
聞こえたんだ。と、俺が言葉にしようとしたその瞬間、次はグーラの声ではなく、荒々しい男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「お、小野塚くん……! い、今の……!?」
今度のは、どうやら木崎さんにも聞こえたらしい。俺は木崎さんに落ち着いてと声をかけながら、怒鳴り声のした方に目をやった。
アミューズメント施設の建物のすぐ横にある、立体駐車場。怒鳴り声は、その二階部分――もしくは三階か?――から、聞こえてきたようであった。
「木崎さんはここにいて」
「あ……お、小野塚くん……待っ……!」
俺は木崎さんにヌイグルミを預けると、立体駐車場を目指して足を進めた。
駐車場の二階へと至るための少し急勾配な坂道を走って登り、登り切った所ですかさず辺りに目を凝らす。
その時、そこで目に入った光景は、俺がしていた予想の中でも最悪な状況と一致していた。
駐車場の一角。車はそれほどなく、パッと目につくだけでも二、三台しか駐車されていない。そしてそこに――その周りを四人のガラの悪そうな男達に囲まれた――グーラがいた。さらにそのすぐ近くには黒いバンが停車しており、一見、男達がグーラを車中に連れ込もうとしている最中にも見える。
「あーうー。しんたろー、いたー」
こんな状況でも、グーラはいつもと変わらない平坦な喋り方で、俺の名前を呼んだ。憶測だが、おそらく彼女自身は、自分が置かれたこの現状をよく理解してないんだろう。
「グーラ、早く逃げろ!」
「あーうー? にげろー?」
グーラはその顔に若干の疑問符を浮かべながらも、男達の元を離れ、俺のいる所にまで来ようと歩き出した。しかしその直後、男達の中でも特に恰幅のいい奴に腕を引き寄せられ――もう片方の手で、その華奢な肩をグッと捕まえられてしまったのであった。
「おっと、逃がすかよ」
恰幅のいい男は、グーラを行かせまいとしながら、小さく二ヤリと笑う。
「ぐっ……グーラを放せ!」
俺はそれだけを喉から絞り出すと、なんとかグーラを取り戻そうと、勢いだけで恰幅のいい男に向かって駆け出した。しかし、すぐさま他の三人に立ち塞がれ、俺はその直前でピタッと足を止めてしまった。
こういう時に、そのまま走りぬけてグーラを取り戻せればカッコいいのだろうが……。俺はむしろそれとは逆に、段々と迫ってくる三人の男達に押され、徐々に徐々にと後ずさりをしていた。
この三人は、俺をどうする気なのだろう? ――なんて分かり切ったことを、ついつい頭の片隅で考えてしまう。
辺りに俺たち以外の人影はない。何か武器になりそうなものもなければ、俺は殴り合いの喧嘩なんかしたことがない。したことがないから分からんが、多分――いや、確実に弱いだろう。
……くそっ。なんだか息をするのも苦しい。口の中が異様に乾燥して、舌が貼りつく……。
でも……このまま大人しくやられるのは御免だ。
小さく深呼吸をしながら、俺はそこでようやく後ろに下がるのをやめた。そして深呼吸を何度も繰り返したまま、ゆっくりと手をギュッと握り――拳を作った。
運動と呼べるようなことは一切やっていない俺だが……グーラを逃がすことくらいはしてみせる。それが出来なくても、せめてこの騒ぎを大きくすれば……。
そう思いながら、足に力を込め、歯を食いしばる。
と、その時――不意に後方から足音が聞こえ、俺は思わず音のした方に目を向けた。
そこにいたのは――
「お、お……お、小野塚……くん……」
木崎さんはヌイグルミを両手で抱えるようにして持ち、今にも泣き出してしまいそうな震えた声でそう呟いた。一瞬見ただけでも、肩がわなないているのが見て取れる。
木崎さん……さっき建物の前で待ってるよう言ったのに……。彼女には悪いが、俺は心の中で小さく舌打ちをした。
……いや、待て。これは、逆にチャンスなんじゃないか?
目の前にいる三人の男達は、どいつも突如現れた木崎さんに意識が行っている。何かしらの行動を起こすなら、今が最高の好機だ。
「う……うおぉぉおお!」
次の瞬間、俺は三人の間を抜け、グーラを押さえつけている恰幅のいい男目掛けて全速力で駆けだした。
このままあの男に体当たりをかまし、その手をグーラから放させる。その後はみんなで全力で走り、建物の中にでも逃げてしまえば――ガッ!?
いきなり喉に衝撃が走ったかと思うと、俺は力いっぱいに後ろに引かれ、その場で尻もちをついた。どうやら後ろから思い切り襟を掴まれたらしく――そして、俺の勇気を出した急襲は、無念にも失敗に終わったらしい。
「お、小野づ……きゃあぁああッ!?」
木崎さんの悲鳴が聞こえたので後ろにチラッと目をやると――木崎さんは、先程まで俺の前にいた男のひとりに支えられるようにして何とか立っているというような状況で――そのぐったりとして目をつぶっている様子から、どうやら気を失ってしまっているようであった。
絶体絶命。そんな言葉が頭の中に思い浮かんだ。
グーラはどう見ても強そうな恰幅のいい男に捕らえられ――木崎さんもまた、気絶した状態で男に捕まっている。そして俺は、地面に座ってしまっている状態で、残りの二人に囲まれている。これを絶体絶命と言わずして、何と言うだろうか。
「く……くそっ!」
半ばヤケクソに、俺は襟を掴む男の手を振り払って、前に出ようと立ち上がった。しかしすぐさま俺を取り囲むもう一人の男に行く手を遮られ、前に出ることも後ろに引くことも出来なくなってしまう。
「活きがってんじゃねぇぞ、おらッ!」
そしてとうとう、前に立ち塞がる男の拳が、俺の頬をとらえた。
「あぐっ……!?」
ゴッという鈍い音と共に、俺の体はよろめきながら後ろに吹き飛ぶ。だが、そこで足が縺れて倒れそうになったところを、後ろにいた男にそのまま羽交い締めにされてしまった。
さらにそこに前の男の蹴りが、俺の腹を貫く。続けて、再び顔に一撃。
そこで羽交い締めが解かれたかと思えば、そのまま後ろの男から勢いよく跳び蹴りをくらい、俺は地面に転がった。
「いっづぁ……ぅッ……」
今までに感じたことのないような容赦のない連続した痛みに、俺は唸り声を上げながら小さく身をよじった。しかし、これくらいで男達の猛攻が終わるはずもなく――二人はさらに、何の抵抗もせずに地面でのたうつ俺に対し、踏む、蹴るといった行動を繰り返した。
体中至る所が果てしなく痛い。まるで無限に続く長い坂を、ずっと転がり続けているかのようである。そしてこの痛みから出来るだけ逃れるためなのか、気が付けば俺は団子虫のように体を丸め、この嵐が収まるのをただジッと耐えて待っているという状態になっていた。
もはや、グーラと木崎さんを連れて一緒に逃げるなど――不可能だった。
だが、その刹那――
「ぐぁあッ!?」
駐車場に、断末魔の悲鳴とも取れるような大きな叫び声が響いた。それから程無くして、俺を襲っていた嵐は不意に、そして急激に収束した。
何が起こったのか分からなかった。ただ、何か風向きが変わったのを感じ、俺は恐る恐る顔を上げた。そして目の前の光景を見た時、俺は思わず自分の目を疑った。
グーラを拘束していた恰幅のいい男が悶絶するように倒れ――その傍らで、グーラが男を見下ろすように立っていた。
「……グーラ……?」
それは、確かにグーラだった。しかし、何かがいつもと――先程と違う。
こいつは本当にグーラなのか……?
そう思った矢先、俺はいつものグーラと――このグーラの違いに、ハッと気が付いた。
顔つき……というか、目が違うのだ。いつもの――どこを見ているのか分からないような目ではない。このグーラは――傍から見ていて――ハッキリとどこに目を向けているのかが、見て取れた。そのせいで自然と、表情がいつものポアーッとしたものではなくなっているのである。
そんな焦点の合った目が、スーッと、俺の周りにいる二人の男を捉えた。
次の瞬間、もの凄い速さで、グーラが男達に飛びかかった。突然のことに狼狽している男達を尻目に、グーラはその腹を、胸を目掛けて拳を振るう。
そして殴られた男達二人は――グーラのパンチを受けた箇所から小気味よくも不吉な音を立てて、何の抵抗もせずまま地面に転がり、そのままピクリとも動かなくなった。
「グーラ……?」
俺は目を見開いて、その名をポツンと呟いた。しかし異様な喉の渇きのせいで掠れた声しか出ず――すぐ近くに立っているにも関わらず、俺の声は彼女に届いてはいないようであった。
そんな折、俺の耳に、また別の叫び声が飛び込んできた。
「う……うあぁああっ! く、来るなぁ! この女がどうなってもいいのか!?」
見ると、木崎さんを捕まえていた男がナイフを取り出し、それを有ろう事か木崎さんの首元に突き立てていた。その顔は恐怖で歪んでおり、ナイフを持った手も微かにプルプルと震えている。どうやら完全なパニック状態にあるようで――木崎さんを人質に取られてしまった以上、こちらはどんな行動であろうとも勝手に取ることが出来なくなってしまった。
しかし、グーラは怯まなかった。いやむしろ、怯むどころか男に向かって行ってしまったのである。まるで、木崎さんのことなど知ったことではないという風に……。
「うぁ……わぁあぁぁぁあああぁあッ!!」
男の、ナイフを持った方の手が動く。そして木崎さんの細い首に、刃先が掛かった。
その直後、グーラの手がナイフを押さえ、もう片方の手で男の顔面を打ち貫いた。男はそのまま後方に吹き飛び――木崎さんは、その場で膝をつき、バタッと倒れた。
「木崎さん!」
俺はまだ痛みの残る体を何とか起き上がらせると、急いで木崎さんのもとに駆け寄った。
木崎さんは首に、本当に僅かな切り傷が出来てしまっているものの、それ以外に目立った外傷はない。まだ気を失ったままではあるが……とにかく、無事で良かった……。
木崎さんの無事を確認した俺は、ホッと、胸を撫で下ろした。
だが、まだ事は終わっていなかった。俺達を蹂躙した憎き四人組を全員ぶっ飛ばしたというのに、グーラの様子が未だおかしいままなのだ。
グーラは俺たちには気も留めず、今しがた殴りつけた男にゆっくりと近づくと――倒れこんでいる男の傍らでしゃがみ込み、その服をおもむろに捲りあげた。そして露出した男の腹部に目の焦点を合わせると、犬歯の発達した口を大きく開き、獲物目掛けて一気に――
「やめろッ、グーラ!!」
気が付くと、俺はそう口にしていた。そしてその途端に、グーラの動きがピタッと止まったのである。
「……あーうー」
いつもの間の抜けた言葉。次の瞬間にこちらを向いたグーラの目は、先程までとは違い、どこを見ているのかが分からなかった。
「あーうー。しんたろー、だいじょーぶかー?」
相変わらずの抑揚のない喋り方で、グーラは俺と木崎さんの元に駆け寄って来た。さっきまでのが全て嘘かのように、いつものグーラである。
「……グーラ、お前……?」
「あーうー?」
その時、不意に木崎さんの体がピクッと動いた。そのままゆっくりと目を開き、木崎さんは何回かまばたきを繰り返す。
「木崎さん、大丈夫!?」
「んっ……小野塚……くん? わ、私……あっ!」
何があったのかを思い出したのか――木崎さんはハッと目を見開くと、慌てた様子で上半身を起き上がらせた。しかし辺りの惨状を見た途端に、呆然として再び目をぱちくりとさせた。
「お、小野塚くん……い、一体何が……?」
「あ、いや……その……」
……駄目だ。俺自身、何が起こったのかよく理解していないというのに、木崎さんを誤魔化す言葉なんて思いつかない。えっと……何て言えば……。
「と……とにかく、この場を離れよう、木崎さん。あいつらも目を覚ますかもしれないし、いつまでもここにいるのは……」
「え? あ……う、うん……そうだね……」
意外にもこの苦し紛れで出た言葉が、功を奏した。俺はその場で立ち上がると、木崎さんに手を差し伸べた。続けて、木崎さんはその俺の手を使い、立ち上がる。
「い……つっ……」
「だ、大丈夫、小野塚くん? も、もしかして怪我してるんじゃ……!? び、病院……!」
「いや、そこまでじゃないよ……大丈夫。それより早く行こう、木崎さん。……ほら、グーラも行くぞ」
「あーうー」
そのフレーズを聞くと、俺はボーッと突っ立っているグーラの手を取った。
……普通の……少し小さな女の子の手だ。この手が、さっき……いや、今は、考えるのはやめよう。
そして、俺達はそのまま立体駐車場を後にし、一度アミューズメント施設の建物へと向かった。
第四幕
「あんな怖い目に遭わせちゃって……本当、ごめんね……」
建物の中に逃げ込んでから、俺は木崎さんに向けてそう言葉を放った。グーラのせいでこんなことに巻き込んでしまったのだから、本当に申し訳ない……。
しかしそんな俺に対し、木崎さんは、
「き、気にしないで……。あの時、小野塚くんに待ってるよう言われたのに、勝手に追いかけちゃった私が悪いんだよ……。そ、それより小野塚くん……怪我は大丈夫……なの?」と、俺を非難するどころか、優しい言葉で俺の体を気にかけてくれた。
心の中でとは言え、駐車場で彼女に対し舌打ちをしてしまった自分が恥ずかしい。
「あぁ、怪我は大したことないよ。でも、さすがに服は、また今度かな」
「あ……うん……そうだよね。し、仕方ない……よね」
木崎さんは何やらガッカリした様子で、少し顔を下に向けた。
「木崎さんも何か買うものがあったみたいだけど、今日はまっすぐ帰った方がいいよ。……あ、なんだったら俺が家まで送るよ」
「え、そんな……。じ、じゃあ……あ、いやでも……。……う、ううん、私は大丈夫だよ、小野塚くん。わ、私はゼミのみんなと帰るから……と、というか! お、小野塚くんこそ、私達と……」
「いや、俺の方は大丈夫。それに、みんなに説明するのも面倒だし……」
「そ、そう……? む、無理……してないよね……?」
「大丈夫だって。心配性だな、木崎さんは」
俺は自分の胸を軽く叩いて、元気であることをアピールした。正直に言うと、叩いた瞬間にズキッとした痛みが走ったのだが……それを隠して、なんとか口元に小さく笑みを浮かべる。
「それより木崎さん、みんなと帰るなら、早く戻った方がいいんじゃない? あんまり長く俺達といると、みんな心配するんじゃないかな?」
「う……うん……」
そう言って小さく頷くと、木崎さんは俺たちに背を向けて、ゲームセンターへと向かっていた。しかし、その途中でふと振り返ると――
「ま、また学校でね……お、小野塚くん」
「……うん、また」
俺は軽く手を振って、木崎さんがゲームセンターに消えていくのを見送った。……若干、手首がズキズキとしたが――なんとか顔には出さずに済んだようだ。
「あーうー。ゆーみ行っちゃったなー」
猫のヌイグルミを抱きかかえながら、グーラは俺の横で呟いた。
思えば、こいつのせいでトラブルに遭ったんだよな……。でも、それから抜け出せたのも、こいつのお陰なわけで……。駄目だ、よく分かんなくなってくる。
そもそも、あれは何だったんだろう? いつもボーッとしているグーラがいきなり豹変したかと思えば、とてつもない力であの男達を一掃して……。そして最後の、アレ――まるであの時の様子は……鬼……。
「喰人鬼……か」
俺はもしかしたら、想像している以上のとんでもない奴と共同生活を始めてしまったのかもしれない。少なくとも、今までの生活にはもう戻れない気がする。これから一体、俺は……いや、やめよう。
もう疲れた……このことについて考えるのは、とりあえず後回しだ。今はとにかく……早く帰って横になりたい。
「帰るか、グーラ」
「あーうー。帰るのかー、しんたろー?」
「あぁ。途中で、ちょっとスーパーにでも寄ってな。……今日はソーセージじゃなくて、奮発して牛肉でも買ってやるよ」
「ぎゅーにくー? 何だ、それー? うめーのかー?」
「あぁ、超美味いぞ」
「おぉー! ぎゅーにく、ぎゅーにくー!」
「ったく……食い意地はってるな。……もう、ひとりで好き勝手に行くなよ?」
「あーうー!」
そう言って、手をヌイグルミごとグルグルと回して喜びを表現するグーラは、傍から見れば、ただの変な恰好の元気な女の子だった。
これを見て、一体誰が、こいつのことを鬼だと思うだろうか。……普通に思わないだろうな、俺以外は……。
そんなことを考えながら、俺はグーラと共に建物を出て、スーパーに向かって歩き出した。
さて……今日の晩は、牛肉で何作ってやろうかな?